-バーニングブレイズ-
辰実涼介はとある土曜の午前10時15分、とある楽器店の前にいた。待ち合わせ予定の10時を遅れたら、相手に何を言われるか分かったものではないと感じていた彼は約束の15分前から店の前に到着しており、すなわちかれこれ30分が経過しているのである。来るはずの相手、遊馬紗夜と如月綾音の両名は共に現れる気配すらない。
「いったい、どういうつもりだ」
涼介は一人悪態を吐く。紗夜にも綾音にも先ほどから携帯で電話してみるが、紗夜の方はコールするものの出ず、綾音にいたっては電源すら入っていないらしい。
そもそも先日、半ば無理やりに彼らの撮影担当を引き受けさせられた涼介。あの場では多少の抵抗をしたものの、あれやこれやで言いくるめられ、挙句の果てには「どうせ、日雇いで食い繋いでるだけでしょ」だの、「彼女もいないんだし、あの車もあたしたちなら有効に活用できるよ」と、なんで知っているのか分からないプライベート情報でトドメを刺される始末。紗夜だけでなく、助けてくれるかとちょっと期待していた綾音さえも「ちょうど気軽に使える奴隷が欲しかったの」と、ストレートで容赦のない極めて毒性の強い追い打ちを放った。しかし、正直なところ彼女たちのライブは大したものであった。涼介が撮影担当になって後、彼は何度か唐突に彼女らに呼び出され路上ライブに同行した(させられた)。始まるまではいつもの調子なのだが、プロの意識なのかパフォーマンスが始まると、それまでの悪役ぶりが嘘のようにアーティストになる。デビューはしておらず、路上でもライブハウスでも実力ほど脚光を浴びてはいない彼女たち。故に、ライブでの撮影はそこそこ大事なのであると言う。
(だったらもっとちゃんとしたやつスカウトすりゃいいのに)
撮影についての説教を受けるたびに涼介はそう思っていた。しかし涼介は涼介で気付いていないのである。自分のいとこの子どもの撮影を何度も頼まれているうちに、被写体が最も輝く撮り方を体得してしまっていたことを。そして、知らないながらも、それが表現としてアーティストである紗夜たちの関心を引いてしまったことを。
「ちゃんと来てるね」
ぐるぐると考えている最中、待っていた人物の一人、遊馬紗夜が皮肉と共に現れた。時間は10時28分だった。
「ずいぶんと重役出勤だな」
涼介側に分がある為、紗夜の皮肉にやや強気に返す涼介。遅くなった理由をしおらしく話すのかと思ったのだが、紗夜の方はしれっといつもの調子でこう言った。
「時間通りよ。10時なのは辰実だけ」
「なっ! …まさかお前、わざと!」
「そういうもんよ」
「くっ(やられた。そういや時間の連絡は後からで、コイツから直接電話だった)…、でも如月さんはまだだぞ?」
待ち合わせ時刻そのものを偽って伝えられていたことに憤りを覚える涼介。しかし、正しい時間で来た紗夜はまぁいいとして、もう一人は未だ連絡さえなしである。
「何言ってんの。綾音はとっくにもう着いてるから」
「は?」
「そうニブいと、知能指数を疑うね」
「んぐっ。失礼なヤツ。でもいないじゃないか」
辺りを見回して涼介は抗議する。
「ここ、綾音が住み込みで働いてる楽器店だから」
紗夜が〈荒牧楽器店〉と書かれた看板を顎で指して呆れたように涼介に言った。
「!? そういやそんなこと言ってた気も」
紗夜は涼介と同じアパートに住んでいるが、綾音の方はそのアパートの近くの楽器店で住み込みだということを聞いたのを思い出す涼介。ここがそうなのである。
「なーんにも関係ない楽器屋を待ち合わせ場所になんてしないし」
「そ、そんなの分からないだろ? ってことは、如月さんはもう中にいるってことか」
「はーい、よくで・き・ま・ち・た。入るよ~」
「(ムカッ)わかったよ」
二人は楽器店の正面入り口から中へと入った。そこは壁面に管楽器や弦楽器がぶら下げられ、ピアノやエレクトーン、キーボードなども陳列された一種独特の空間で、そこまで広さはないものの音楽が好きな者にとってはあれこれと目移りするのではないかと思われる場所だった。
「ほぇ~」
涼介が感嘆の声を漏らした。そもそも楽器店やピアノ店に縁のなかった涼介。ピアノやギターやヴァイオリンなど名前は勿論知っていたが実物を見る機会はそうないのだった。しかもこれほどたくさんこれほど近くで。
「いらっしゃい。紗夜ちゃん。えっと、あなたが辰実さんね?」
楽器を見ていると、店内にいた一人の女の人が二人に気付いて話しかけた。
「こんにちは、薫さん」
紗夜が一歩前に出て言った。涼介もそれに続いて自己紹介を入れる。
「こんにちは、辰実涼介です」
「荒牧薫です。よろしくね」
彼女はこの荒牧楽器店の店主で、涼介や紗夜より5,6才ほど年上だった。同じ店内の別室にて音楽教室も開いており、紗夜と涼介が来たのは、その手伝いを頼まれている綾音を手伝うためだった。
「今日と明日、お願いしますね」
薫は笑顔で涼介に向かって会釈する。
「……はいっ! あの……不束者ですが…えっと」
涼介は彼女の微笑に思春期の少年の様にドギマギとし、視線を合わせることもままならず、喋りも制御できない。鼓動が早くなり、体温も若干上がり、表情が緩んでいることははっきりと自覚できる。そして、刺すような別の視線に気付く。
「中学生か、あんた」
「うぐ」
彼が薫に抱いた感情をあっさり見抜かれ、赤面する涼介。
「薫さん、いくらフリーだからってこんな奴の接近を許したら、誤解から過ちまであっという間だよ」
紗夜が涼介を指さしながら呆れた。
「え~、ちょっと紗夜ちゃん、初対面の人にいきなり恋人いない歴7年なんて漏らさないでよ~」
「いや、それは言ってない」
「あら?」
綺麗でおしとやか、結婚して子どもがいてもいいくらいの美人なのに現在恋人さえいないという薫に、涼介はもはや完全に虜となった。すると店の奥から新たな人影が現れる。
「音楽と子どもが好き過ぎて、イキ遅れちゃったんですよね」
そう言って入ってきたのは如月綾音だった。
「綾音ちゃん、そういうことを真顔で言わないで」
「揃ったんなら始めましょう、打ち合わせ」
薫の嘆きにはノーリアクションで、綾音は皆に提案する。「あ、私、お茶入れてくるから、先にお願い」と、薫がその場を後にしたので、紗夜と涼介は綾音に連れられて別室の方へ移動した。
「どれくらい、住み込みで働いてるんだ?」
部屋に着きさっさと着席したほかの二人とは別に、涼介が室内を歩き見回しながら言った。床は絨毯で壁は防音のパネル、グランドピアノが置いてあり、譜面台などが並ぶ。小学校や中学校にある音楽室のような部屋だった。
「4年くらい」
「へぇー、ここの生徒だったとか?」
「…計算」
ボソリと言うと、綾音はいつものフリスクを取り出してカシャカシャと手に出した。
「え?」
「ここはね、薫さんが初めて始めた店なんだよ。もちろんレッスン教室も。ここの生徒は主に小学生から中学生と高校生」
見かねたように紗夜が割って入る。
「それで?」
「ちょっとは脳みそ使いなよ。綾音がそんな年齢の時に薫さんが先生やってるわけないでしょ」
「なるほど」
「綾音、こいつまだ寝ぼけてるみたいだから、それ10粒くらい流し込んであげたら?」
綾音のフリスクを指して言う紗夜。さすがに彼女のフリスクの強烈さは熟知している。
「いや、ごめん。それだけは勘弁」
紗夜の言葉に綾音がフリスクを差し出しかけたので、涼介は即答した。2,3粒でしばらく喉のヒリヒリが止まらなかったのだ。10もいったらただでは済まない。
「お待たせ、どうぞ~」
お茶を入れに行った薫がお盆を持って現れた。そのお盆には湯呑みが4つ。
(…ホントにお茶なんだ)
涼介が心の中でツッコミを入れる中、紗夜と綾音は特に疑う様子もなく湯呑みを受け取る。涼介も席について、一緒に持ってこられたバケット入りのお茶菓子(煎餅やチョコレートなど多種多様)も受け取った。
4人は明日の本番を控えた荒牧音楽教室発表会について、曲順や伴奏の担当、記録撮影の段取りなどを決めていった。前回までは、教室に通う生徒の保護者が、代わる代わるそのような役回りを分担していたのだが、今回から初の試みとして保護者は完全にお客様としていてもらおうという計らいになった。そこで人手不足の解消として、紗夜、そしてカメラ担当として採用になったばかりの涼介にもお呼びがかかったということだった。
「それじゃ、撮影の方は辰実くんにお願いしちゃっていいってことね」
薫が念を押すようにまとめた。
「はいっ! 任せてください! 薫さん!」
涼介はこの上なく張り切って言った。好きな人物の前で気合が入るのはなかなかに子どもっぽい態度であることは彼も承知していたが、とにかく熱意を伝えることは悪いことではないと思い込んだ。
「そしたらこの辺で、ちょっと一旦お開きでもいいかな? これからまた教室なの」
薫が部屋の時計を見ながら言った。時刻はちょうど正午を過ぎたあたりである。
「薫さん、お昼は?」
「適当に済ますわ。綾音ちゃん達は悪いけどこれで何か外で食べてきてもらえる?」
綾音が昼食の心配をして薫に尋ねると、薫は財布から5千円札を出して手渡した。
「え、…薫さん?」
「ホントは何か作ってあげられたらよかったんだけど、その子の練習どうしてもやっときたいの。続きはその後するから、食事が済んだら、お店の方でくつろいでいて」
綾音がお金を受け取ると、3人は「そういうことなら」と、笑顔で見送る薫を残して、外食に出ることとなった。
綾音の話では近くによく行く食事のできる喫茶店があるようで、特に食べたいものも思い付かなかった3人はそこに決め、10分ほどの道のりを歩いていった。
「どんな子なのかな? そのレッスンしに来る子」
喫茶店に着き、料理が来るのを待つ間、涼介がおもむろに呟いた。
「……、辰実は年上でも年下でも、なんでもござれと来たもんだ」
紗夜が携帯を弄る手を止め頬杖をついて呟き返す。
「別に、そういうんじゃない。それに女の子って決まってるわけじゃないだろ」
「どうだか?」
「椋山あやめ。中学生の女の子」
「え?」
涼介と紗夜の問答に、綾音が店に置いてあった雑誌を捲りながら言った。
「綾音、知ってる子?」
「あそこに来てる生徒なら、だいたいの顔と名前は一致してる」
「ま、そりゃそうか」
「それで? 何か特別なのか?」
「特別と言えば特別かな。才能はあると思う。でも…」
「でも?」
「紗夜ほどじゃないけど、プライドが高い」
「それは、どういうことかな~綾音さん?」
「悪口じゃないんだけど(一応)」
「その子のレッスン、1回2時間だから、食べ終わって戻れば、様子はわかるはず」
その時、ちょうど店員が料理を運んできた。いの一番にそれに気づいた綾音は、そのまま雑誌を閉じる。紗夜が「ふ~ん」と、相槌。そしてまた考え込むように携帯を見始める。涼介は一旦その話題は打ち切りなのだと悟り食事に専念することにした。
喫茶店での昼食を終え、3人は楽器店へと戻ってきた。先ほど打ち合わせをしていた部屋では薫と件の中学生椋山あやめがレッスンの真っ最中だった。彼女が習っているのはピアノである。3人は店舗側の隣室からその様子を覗き見た。防音室の為音はぼんやりとしか聞こえないが、中学生にしては難しめの曲をやっているのはよくわかり、指の動きや全身の表現など、見た目以上に熟練である。
「よくよく考えたらプライドが高いだけじゃ問題ってことはないよな? っていうかそこそこ実力があったら当然と言えば当然だ」
椋山あやめの様子を見て涼介が確認をとる様に呟いた。すると、彼女の指の動きが止まりそれと共に、扉から漏れ出ていたピアノの旋律もピタッと止む。そして彼女はジャーンっと両手全てを鍵盤に押し付けて、憤りを露わにしたのである。
「あーダメっ! どうして、あたしいつもここで」
悲しみというよりは悔しさを全面に出し、まだ幼さの残る声が教室に響く。
「確かにちょっとテンポが乱れたけど、先生は気にならなかったな。そのまま続けてもよかったよ」
苛立つあやめに薫が近寄って優しく言った。
「何度練習しても、ここで合わなくなっちゃうんです。たまにうまくいっても次の小節でどこかミスする。こんなの全然ダメなんです!」
そう反論するとあやめはまたメトロノームのテンポをとり、最初から弾き始める。薫は少し困ったように笑う。そしてピアノから少し離れ、あやめの弾く様子をまた見つめた。
「練習だからあれでいい。でも、あんな感じで本番でも止めて、そのまま終わらせちゃうの」
綾音が二人のやり取りに視線を向けたまま言った。
「完璧にいってる時は何にも問題なく、学年別のコンクールだって何度か優勝してる。普通は多少ミスしても本番中は誤魔化して弾くんだけど、どうも負けたと思っちゃうみたい」
「そうなんだ」
綾音の言葉に大した返事もできず、涼介は扉の向こうの中学生を見続ける。紗夜は隣で不機嫌そうに腕を組んでいた。すると扉の向こうの薫が3人に気付いたのか、ふと時計を見た。気付けば生徒が来てからもう2時間半近くが過ぎていた。
「今日はそろそろ終わりにしましょうか? 曲自体はもう一通り弾けるわけだし」
薫は、また先ほどと同じところでミスをして考え込んでいるあやめに言った。あまり根を詰め過ぎるのもよくないわ、と付け加えて扉の向こうで待っていた綾音たちを呼んだ。
「明日ね、お手伝いをしてくれる人たちなの」
「こんにちは」
薫が3人を紹介し涼介が挨拶を言った。ぞろぞろと入ってきた大人たちを見て少々驚いた様子を見せるあやめだが、軽く会釈すると帰る準備を始める。言葉少なに打ち合わせ用のテーブルを準備する綾音たち。しかしそんな中涼介は、片づけを続けるあやめの方を深刻な表情で見ており、そして何か意を決した様子で彼女に近づいて行った。
「あやめちゃ…いや、椋山さん?」
中学生の女の子に照れながら声をかける涼介。
「…なんですか?」
さも鬱陶しくたかる虫を見るかのようにあやめが涼介を見上げた。
「あ、あの、明日発表会で撮影を担当する辰実です。えっとよろしく」
「はぁ」
「あの、ピアノ上手だね」
「幼稚園からやってるんです。これくらいは普通です」
「はー、なるほど(即答!?)」
「帰って練習しないとなんで、いいですか?」
楽譜などを入れた手提げかばんを持って鋭い視線を涼介に投げるあやめ。
「あ、そうだね。ごめん。あのさ、間違ったり何かに負けたりって悪いことじゃないと思うんだ。だから、その、悔しいだろうけど前に…」
「失礼ですけど、あなたに分からないと思います」
「え、いや、まぁそう…だね、うん」
「ちょっと、あやめちゃん」
興奮気味のあやめを見て二人の間に入る薫。テーブルの傍の綾音はじっと様子を見ており、紗夜は席に座り肘をついてそっぽを向いていた。
「すみません、失礼します。薫先生。ありがとうございました」
「え、あぁ、また明日ね」
あやめは駆け足気味に扉に向かうと、素早く靴を履いて教室を出て行ってしまった。人生で失敗など死ぬほどあるのだ。完璧を求める気持ちは分かるが、適度な諦めというのも肝心だ。涼介はそれを少しでもあの年若いピアニストに伝えたかったのだが、彼が思うほど簡単ではなかったようである。
「辰実さん…あの」
様子を見ていた綾音が近寄ってきて言った。
「うん?」
「中途半端な助言なら、しない方がましよ」
綾音の言葉は涼介の心にグッサリと突き刺さった。本当に何か刺さってるんじゃないかと思うほど胸の奥がズキンとし、そして彼は後悔した。当然のことを当たり前に偉そうに言っただけ。ただの自己満足。自分が本気の努力はおろか真剣な勝負などもしてこなかったためか、さっきの椋山あやめが抱いているような感情が分からない。そんな羞恥心に苛まれ涼介はその後の打ち合わせも実が入らなかった。話し合いの内容が彼の担当する撮影部分とあまり関係なかったこともあって、紗夜からは何度も「ぼんやりするな」と釘を刺され、「はいはい、どこに落としたんだろうね」と脳みそを探される有様。しかし考えはまとまらなかった。
涼介が戦力外ながらも、午前中にやり切れなかった決め事も決まり、タイムスケジュールも組み終わり、手作りのプログラム表を作り終えたところで、外はそろそろ日が沈もうという頃になった。打ち合わせはようやく終わりを告げ、紗夜たち4人は楽器店の玄関口まで出てきていた。
「それじゃ、明日お願いね」
薫がそう言って手を振る。途中まで送ると言ってくれた綾音と共に楽器店を後にした。真っ赤な夕日を向こうに見ながら、涼介と紗夜の住むアパートへ向かう3人。道すがら明日使うビデオカメラは誰のを使うのかということになる。楽器店にもあるが紗夜が持っているものの方が最新型できれいに撮れるのでそっちにしようなどと女子二人の間で決まっていくのをよそに、涼介には頭から離れないことがあった。午後からの打ち合わせの前に、気まずい感じであしらわれてしまった例の中学生の女の子のことがやはり気になっていたのである。
「んじゃレンタル料にしよう。音の方はどうせ店のでとるんでしょ? 明日の出演料はいらないからカメラのレンタル料よろしく」
紗夜が綾音にそう言っているのが聞こえたもののこれといった反応を示さない涼介。相変わらずの金の亡者っぷりに辟易としながら、ふと道の反対側にある公園を見た。するとブランコに一人揺られるという夕方の公園にありがちなシチュエーションで、見覚えのある姿がそこにあったのである。
「あれ? あの子じゃない?」
涼介は思わず口に出していた。さらにはご丁寧に指差して綾音たちの視線を向けさせる。ゆらゆら揺れていたのは、昼過ぎに音楽教室で分かれたはずの椋山あやめであった。彼女が教室から帰ってから大分経っていたが、一度家に帰った様子でもなさそうである。3人はしばし観察し、そして多少の議論の末、彼女に接触してみることを決めた。
「練習じゃぁなかったのかい?」
最初にあやめにそう話しかけたのは紗夜だった。その斜め後ろで涼介と綾音が見守る。声を掛けようと提案した言い出しっぺは勿論涼介だったが、彼は先ほど教室にて玉砕している手前話しかけづらかったようで、音楽を実際にやっている二人の方がいいということになっていた。似たような件で一度彼女と話したことがあるらしい綾音が辞退を表明した為、涼介が晩飯をおごるという条件でこういう結果になった。
「!? あぁ、薫先生の…。ほっといてよ」
3人を見て若干に驚きを露わにするも、あやめはすぐまた前を見つめた。彼女のこの態度に、もともと話しかけること自体乗り気でなかった紗夜は明らかにムッとした様子になった。
「ねぇ、知ってるかい? ブランコってのは男女の性行為を象徴しているんだよ」
「はぁ?」
「ちょっ、遊馬っ! 中学生の子に何言い出すんだ!」
唐突にとんでもない話題を持ちかける紗夜に、思わず後ろから割って入ろうとする涼介。
「今どきの子なら、意味くらい分かるだろ? 大人がわざわざ話に来てやってるんだ。ヤリながら聞くたぁいったいどういう神経なんだろうねぇ」
「…おねぇさん、音楽やってる人でしょ? の割にずいぶん下品ですね」
あやめは足だけで漕いでいたブランコを止め、立ち上がって紗夜に向いた。
「因果な商売ってやつ? 言葉とシンボルは歌作りには欠かせないけど、綺麗なもんばっかりじゃないってね」
「……」
「言いたいのはそんなことじゃあないんだよ。あんたの知らないことはこの世にごまんとあるってこと。自分の世界だけで満足を得ようとしてるんじゃないよ」
具体的なことは一切提示せず、紗夜は続けた。きっとあやめなら何のことなのかはわかると心のどこかで確信していた。そして彼女の思惑通りあやめもそれを理解した上で紗夜に立てついた。
「誰だって負けたくないでしょ? 失敗したくないでしょ? あたしはそれに妥協してないだけ」
「もっと物事大きく見れば? 失敗して負けた時、そこで止まってたら、そこでお終いよ」
「そのまま…、満足しないまま最後までやったって、意味ない」
「意味はあるね。自分が失敗だって決めるまでは、成功するまでの過程の一つでしかないんだから。完璧を目指すなら、自分の矛盾に山ほど向き合って然りよ」
そこまで言った紗夜をあやめがグッと歯を食いしばり睨み付けている。年齢差はあるものの真剣な女同士のぶつかり合いに、涼介はドキドキしながら目を見張った。
「…だって、みんな簡単に言うんだもん。続ければよかったのにって。あたしは、全部真剣に弾いてるのに。弾きたいのに」
先ほどまでの勢いはなくあやめが漏らす。すると綾音が紗夜の横に出て言った。
「ごまかすのが嫌な気持ちは分かる。でも、簡単にやってるようで、あれだって凡人には難しいことなんだよ」
そして、綾音はブランコのポールに寄りかかって置いてあったあやめのかばんを手にすると、彼女に近づいた。
「練習するんでしょ? 帰ろうか。家まで送るわ」
無言のまま、綾音から手提げかばんを引っ掴むとあやめは歩き出した。涼介と紗夜の方を向いて「それじゃ、また明日」と言った綾音は、涼介がそれに無言で頷くのと、紗夜が「えぇ」と返したのを受けて、あやめを追って公園を出て行ったのだった。
発表会当日の荒牧楽器店音楽教室は大変に賑やかな状況であった。まず、発表する当事者たちの大半を占める血気盛んな小学生たち。中学生と高校生は合わせてようやく彼らと近しい人数になるが、携帯で記念撮影をし合うなどの盛り上がり。その上、彼らの保護者である。皆自慢の息子娘の晴れ舞台を興奮気味で待っている。撮影係の涼介が持つハンディカメラなどよりは断然高級ハイレベルな代物を手に、ステージを凝視する父親などは、もうアイドルを追いかけるカメラ小僧の域であった。
「どうよ、首尾は」
保護者たちのひしめく観客席の真ん中で、三脚にカメラをセットしている涼介に紗夜が言った。
「マイクは別で正解だな」
「ああ。今回は向けるのステージだけだからね。綾音曰く、それ以外のカメラワークはいつもの感じでいいそうよ」
「了解。そっちは司会進行だったか?」
「ボーカルにMCやらせるなんて贅沢な先生だよ」
「ははっ。…なぁ、昨日はありがとな」
「なにさ、今更」
「いや、なんとなくな」
普段より着飾った衣装を楽しそうに見せ合う生徒たちを見ながら、涼介は昨日の紗夜があやめに言った言葉を思い出していた。彼らはあんな年からもう戦って、才能と向き合っているのだ。自分はあの年代の頃どうしていたかと、再び昨日の自らの無念を思い返す。
「さ~て。将来の音楽家たちのために、無償で働きますか」
紗夜は、相変わらずの一言でキレイに涼介のセンチメントをぶち壊すと自分の持ち場へと戻っていく。程なくすると、薫が生徒たちを集め今日の段取りを簡単に説明。紗夜の司会進行のもと、薫によって開会宣言がなされ発表会がスタートした。
「では最初の発表は、ヴァイオリン瑠東夏樹くん、ピアノ伴奏お母さんです」
小学校低学年の男の子が母親と共に演奏位置に現れお辞儀する。緊張した様子の少年が楽器を構え、お母さんの伴奏がスタート。曲目は誰もがよく知る『キラキラ星』だった。その後も発表者は次々と入れ替わり、途中先生である薫が伴奏に入ったり、綾音が発表者と同じ楽器を持って加わって二重奏にしたりと、順調に発表会は進行していった。
「続いて~、ピアノ、椋山あやめさんです」
紗夜の進行が、あやめの出番を告げた。
他の生徒たち同様、ドレスチックな衣装を身にまとったあやめは落ち着いた様子でピアノの横に立つ。そして一礼して着席。同年代の子どもたちはもとより、小学生たちもその堂々とした振る舞いにじっとその姿を見つめた。そして彼女の指が鍵盤をたたく。曲はショパン、『雨だれ』の前奏曲。緩やかに紡がれる旋律が、曲の感情を徐々に露わにしていく。序盤は完璧だった。昨日もやったよく間違える箇所がちょうど真ん中あたりだった為、そこまでの練習量は言わずもがなである。
(ここからだ)
あやめは気持ちを落ち着ける。もちろん暗譜は完璧だが、楽譜に今一度目を通す。するとどうだろうか。練習であんなに納得いかなかった節がスムーズに流れるように繋がったのだ。本番のバカヂカラのようなものかもしれないが、あやめは心臓がドキドキするのを感じながら次の譜面へと向かう。しかし異変が起こった。
(あれ…、何? この感じ)
あやめはとてつもない不安感に駆られていた。曲前半と後半の練習の差。それが今になって動揺を生み、指が、手が、ぎこちない。そうして、あやめの小指が楽譜とは違う鍵盤を押していた。
(!)
頭の中で時間が止まる。昨日紗夜に言われた言葉が蘇る。
(『ブランコってのは男女の性行為を象徴してるんだよ』…ってあれ? こんなことじゃない)
半ばパニックになりかけるあやめ。
(やばい。…止まっちゃう)
あやめの指は完全に静止していた。1秒、2秒、沈黙が時を刻む。あぁやっぱり自分は続けられないんだと、心が情けない感情に押しつぶされそうになった時、
「がんばれっ。おねーちゃん!」
観客席から幼い女の子の声がした。あやめの知らない子。おそらく生徒の誰かの妹かなにかだ。しかしあやめの気持ちはたったその一言で不思議と切り替わった。そして凍り付いていた指が、また動き出したのである。曲はまだ終わっていない。発表が終わったわけでもないのに、観客たちからはなぜだか拍手が始まっていた。
(これが……、知らなかったことか)
あやめは鍵盤を打つたび心が震えるのを感じながら、曲の最後へと誘われていった。
あやめの演奏を挟んで、発表会は休憩時間となっていた。残すところは高校生の発表が二人。紗夜と綾音と涼介は休憩中に振舞われたクッキーを摘まみながら、会場の様子を眺めていた。
「よかったな。あの子」
涼介が、向こう側で笑顔で話すあやめを見て言った。
「なに? おとーさんの気持ちになっちゃった?」
「茶化すなよ」
「…ダメよ。あの子まだ中学生なんだから」
ザラッとフリスクを口に流し込んで綾音。
「如月さん、飛躍しすぎて訳わかんないよ」
賑やかな会場の隅でバカなことを言っていると、椋山あやめがトトッと小走りにやってきた。「やぁ、よかったよ」と、言いかける涼介よりも先に、あやめが3人に向かって「あのっ!」と叫んだ。キョトンとする3人を構うことなくあやめが続ける。
「き、昨日は…その、すみませんでしたっ!」
あやめが深々と頭を下げ言った。涼介はほんのりと笑顔、紗夜は「はいはい」と顔を背ける。そして綾音は近づいて、「お疲れ様」と言った。
「おねーさん達の演奏も楽しみにしてるからね」
ウィンクしながらそう言うと、あやめは自分の友人たちのいる方へ戻っていった。
「生意気言って」
「そっくりよ、数年前の紗夜に」
「うるさいっ。ってか数年前って何? あたしはあんな頃とっくの昔に卒業して…」
「へぇ~」
「二人ともやめろって。もうすぐ出番なんだろ? あ、薫さんがあっちで呼んでるぞ?」
休憩時間は間もなく終わり。3人は発表会の後半のため定位置へと戻った。その後も生徒たちの発表は滞りなく進んだ。年少者たちとは一味違う高校生のヴァイオリン演奏とピアノ演奏は、あやめの演奏に続いてちょっとした感動を分かち合うほどとなった。そしてラスト。現役路上パフォーマーの紗夜と綾音がステージへと並んだ。
「えーそれでは、続いて、遊馬紗夜さんと如月綾音さんによるゲスト演奏です」
司会を薫に変わり、紹介を受ける紗夜たち。紗夜はマイクを手に、綾音はキーボードの前にスタンバイ。紗夜がマイクを口元に寄せ言った。
「それじゃ! いきます! 『バーニングブレイズ』ゥッ!」
紗夜の掛け声とともに綾音のキーボードが音を奏でる。前奏からもアップテンポの力強い楽曲であることが伺える。
『失敗は成功の元なんていうけど それは成功できての話でしょ?
試行錯誤で心も折れて それでもやってる 結果を信じて
夢ってなんだ 努力ってどうやるんだ 悔しいけれど 負けは負け』
涼介はビデオのモニター越しに彼女たちを見つめた。そしてなぜだか少しさびしく思った。彼女たちと薫さん、そして生徒たちは音楽を通して、何かは分からないが繋がっている。自分がそこに直に入っていけないことに、画面を通してでしか彼女たちと関わり合いが持てない気がしたことに、悔しさを感じた。
『でも待っていな 次は負けない ここは引けない時なんだ
ヤケクソなんかになるものか クールな情熱ぶつけてやるから
あたしがあたしを越えるとこ 燃え尽きたって見せてやる!』
しかし、それでもいいのだ。伝えていけばいい。自分は彼らを知っている。涼介にとって、それで十分だと思えた。
『今自分がやらないと 明日の自分は頼れない
自分磨いて擦り減って 心がどこかすさんでも
Live strong 強く生きるって決めたんだ』
彼女たちの演奏が終わると、教室中に拍手が響き渡った。
終わり
前話-不思議な、拍手喝采-の後の話です。
こちらもブログの方でこまぎれにアップしていたものを多少の修正の上まとめさせていただきました。
歯に衣着せない紗夜節を盛り込みたいというのがあって、当時このストーリーを思いついたように記憶しています。なので紗夜があやめと話すブランコのシーンは思い入れがあったり。
発表会であやめが演奏を止めてしまったシーン、幼い女の子の声援で復活するというところがありますが、カレイドスターというアニメの第1話でそのようなシーンを見て印象的だったのを覚えています。間違いなくそのシーンの影響ですね。
今回新しく登場した楽器店の店主・荒牧薫は次話でも登場します。
この次の話でブログにアップしているストーリーは全部なのですが、このシリーズは続きを書きたい気持ちが強いです。歌詞が作れたら…ですが。
今回も読んでいただきありがとうございました。