-不思議な、拍手喝采-
木市直己が経営する飲食店”アプローズ”は、夕方のピークタイムを迎えていた。今日は、週に2,3度を予定している室内ステージでのパフォーマンスの日でもあった。
「大丈夫だって言ってたじゃない?」
木市に向かって若い娘が突っかかる。遊馬紗夜。彼女は今日、出演を依頼していたアーティストの一人。後ろでは相棒の如月綾音が機材の準備をしていた。
「こっちも急のことでね。しょうがないんだ」
「今いる人から回せないの?」
「今日はお客さんも多くてね。ホールもキッチンももっと手が欲しいくらいなんだ。勘弁してくれ」
現在彼らがもめているのはこれから行われるパフォーマンスについて、出演者の要望を叶えられる予定だったものが、できなくなったということだった。家族連れやカップルで賑わっている客席は、また一人新たな来店を許していた。今日はステージがあるということで、やはりいつもより気持ちピークが前倒しで、全体的な客数も多い。そんな中で、彼ら出演者を撮影する人員を割けというのは、いささか無理な相談なのである。
「にしたって予定してた担当が来られなくなったくらいで」
「いいだろう? 君たちも普段の路上やライブハウスではそこまでしないんだから」
「あのねぇ、あたしらは今日やろうと思ってた路上の予定を蹴ってここにいるわけ。それはこっちなら撮影が頼めるって話だったから。そこんとこわかってよね!」
よほど撮影することにこだわりがあるのか、段々と熱がこもってくる紗夜。相棒は相変わらずキーボードとスピーカーの調整に集中している。
「三脚とかどこかに固定するとかじゃダメなのかい?」
もっともな提案を示す木市。しかし、これは反論が来ることが木市には分かっていた。そもそも今日来る予定だったアルバイトの一人はメディア系の専門学校に通う学生で、素人が撮るよりはそれはもう立派な仕上がりになるに違いなかったのだ。
「ダメね。ズームやアングルはあらかじめこっちの指示で変えてほしいし、途中でお客さんの方も映してほしいから」
普通のバイトでもいいというようなことを言っていたから賭けてみた木市だったが、やはりそういうところは譲れないらしい。こうなると客から引き抜くなどと言いかねない。木市は先手を取って言った。
「そうは言ってもスタッフから人手を割けないのはどうしようもないし、ましてお客様からなんてことは不可能だ。今日はファミリーやカップルも多いしね」
「…なんで、ファミリーやカップルが多いとダメなわけ?」
「(ほら、やっぱり考えてた)そりゃ、折角連れ立って来てくれているのに、一人引っこ抜くわけにはいかないに決まっているじゃないか!」
先手を打てたことに内心ホッとしながらも、これ以上は言わさんぞとばかりに語尾を強めてみる木市。しかし言い終わった瞬間、彼は既に罠にかかっていることを気づいてしまった。紗夜の口元がニヤと緩んだのだ。
「だったら、一人で来てる輩ならいいわけだ」
メニューを持った店員に案内され、席に着いた辰実涼介はポケットから財布と携帯を取り出すと二つを重ねてテーブルに置いた。「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」と、笑顔で言う店員に「はい」と頷いて、涼介はメニューより先に置いたばかりの携帯を見た。
(やっぱ、もう充電切れそうになってるな)
スマートフォンの体力のなさにため息を漏らし画面をタッチする涼介。今日の仕事は朝の8時スタートの夕方6時半上がり。現場から車で30分少々走って、多少なり家に近いこの飲食店でゆるりと夕食を済まそうということであった。
(明日の仕事は…、入ってないか)
登録している派遣会社のサイトにログインし、自分の予定表を確認する涼介。遅くとも前日の夕方には翌日の仕事の情報が更新され、今くらいの時間には直に電話が入るはずである。携帯を置き、今度はメニューを開いて料理の写真を眺める涼介。さして迷うことなく注文を決めると、店員を呼んだ。
「この、ミートソースのスパゲッティ。サラダセットで」
「ミートソースボローニャ風、サラダセットがお一つですね? かしこまりました」
店員は復唱するとメニューを下げ厨房の方へと戻っていった。
(よく聞くけどボローニャってなんだろ?)
涼介はごく小さな疑問を頭に浮かべつつ、店内を見回した。その日の仕事の派遣先にもよるため家までのルートが同じではない彼。ここ"アプローズ"へはこの日が2回目の来店である。家族連れや男女のカップル、若者のグループなどが多いものの、一人客も1席か2席。いわゆるファミレスではないが、なんとなく居心地がいいのかもしれない。
(トイレあっちだったかな?)
前回来た時の記憶を頼りに手洗いに立つ涼介。目的の場所のそばにはステージのような一角が見えた。スタンドマイクやスピーカー、キーボードなどが設置されていた。
(ライブか何かするのかな。そういや、外に案内があったっけ?)
トイレから出てきた涼介がステージの横を通った時だった。
「あの、今日は一人でここに来てますよね?」
唐突にそして、時間が惜しい様子を滲み出させて一人の女が立っていた。
その女、遊馬紗夜がしたのは必要最低限の質問のみであった。彼女にとってこれはあくまで確認。この青年の、席に着いてからの注文の様子やトイレへ立つところまでを分析した結果、紗夜は彼が一人で来て一人で食べて、そしてそのまま帰宅すると踏んだのである。当の彼、辰実涼介はいきなり見ず知らずの女にこんな風に質問される経験は勿論ない。故に当然ながらリアクションのパターンが得られずキョトンとした。そして出た言葉は、
「…はぁ。何か?」
無意識に相手に合わせてか、素が出たのかこれまた初対面の人間に対してやや丁寧さの欠けるものであった。しかしそんなことは意に介さず、紗夜はニヤリと笑って続ける。
「でしょう? だと思った。ちょっと手伝ってほしいことがあって、こっち来て」
と、紗夜は涼介の手首を掴んで引っ張った。
「ちょ、なんだ? ってか誰だよ?(年は近そうだけど、知り合いじゃない)」
展開も意図も読めずに素から抜け出せない涼介。
「いや~よかった。おあつらえ向きなのがいて。どーせご飯食べた後も、帰って一人で寂しいことやるだけなんでしょ。だったらほらついて来て」
「は? いや、意味わからんから!(ってか何さらっと失礼なこと言ってるんだ)」
結局何も理由を聞けず、悲鳴に似た叫びは店内の喧騒に掻き消され、涼介と紗夜はステージの裏手へ。そこで店長の木市と機材の調整を終えた綾音とが合流する。
「連れてきたよ」
「ご苦労様」
「いや、まずいよ紗夜ちゃん、これは」
紗夜の言葉に綾音、木市と続く。木市は連れて来られた涼介を申し訳なさそうに見つめた。すると涼介は察することができた。ここにいる人たちの中で、おそらくちゃんと話ができるのはこの人だけだと。
「あ、あの。いったいどういうことなんでしょう?」
二人の女子に比べて一回り近く年上であることは分かるので、涼介の言葉遣いも幾分か一般的なコミュニケーションの要領を取り戻していた。
「すみませんねぇ、お客さん。あ、私、店長の木市と言います。ご存知かと思いますが、今日のこの店ではライブステージの予定をしてまして。その出演者の方たちがね…。あの、お客さん、お名前は?」
「は、はい。(この人ももしや同類なのか?)辰実涼介と言いますけど…」
何か嫌な予感を覚えつつも名乗る涼介。そう、このまま席に返されるのならばただの一客である彼の名前を聞く必要などはないはずなのだ。
「あぁ、辰実さん。すいませんね。無理言ってしまって」
(あれ? ちょっとヤバい展開…?)
「出演者の方を、あ、この二人ね、パフォーマンス中撮影する予定だったんですけど、それ用に頼んでいたここのバイトの子が急に来られなくなってしまってねぇ。それでその」
「それで、君に頼もうということなんだよ、辰実くぅん!」
困ったような笑顔を向ける木市店長に続いて、しれっと言い放つ紗夜。そして涼介は悟ったのである。第一印象で感じた唯一の良民(木市店長)も含めて、彼らの意思はほぼ固まっており、逃げ場などないのだということを。
「それじゃ僕は仕事に戻るから、よろしく頼むよ」
尚も来店客が増え続ける状況の中、木市店長は一つの問題解決を心から喜んでいるようで、そのまま厨房の方へ小走りで行ってしまった。
「はい。これ」
脳内の整理がつかずポカンと突っ立っている涼介の前に、紗夜が立っていた。手にはハンディカメラが握られ、それは涼介の方へと向いている。
「え?」
「『え?』じゃなくて、これ。ビデオカメラ。後で、曲順とか立ち位置とか教えるから、使い方確認しといて」
「そんないきなり!」
「あーはいはい。綾音ぇ? コレ説明書あったっけ?」
涼介の元から離れていこうと振り返りかかっていたのをまた戻し、首だけ綾音の方へ向けて紗夜は面倒くさそうに聞く。
「ないよ。あんたがいつもすぐ捨てるから」
綾音は、小さなケースから丸い白い粒を2,3粒掌に取り出して口に放りながら、抑揚なく言った。
「そーだっけ? まぁ見なくてもこんなもんは使えるからね。というわけで、なんとかやって辰実」
紗夜はひらひら手を振って、数分前に会ったばかりの人間を呼び捨てにすると、綾音の方へ歩き出す。
「ズームだけできりゃいいよ。後は指示通りにあたしらとお客さんを撮るだけだから」
「……」
「最近のヤツは、手ブレ補正もしっかりしてるから~。頼んだよ」
涼介はしばし固まる。自分の置かれている状況を整理することが必要だった。しかし数秒と経たぬ内にハッとする。このまま注文した料理もそっちのけでバックれてやればいい。しかし少し周りを見渡して気付く。このステージ裏は意外と視界がいい。こそこそと逃げようもんなら彼女たちのどちらかに感づかれることはまず必至。そうかと言って、本番中彼女らの指示通りに撮影ができず、映像がいまいちだったら、また何かしらの仕打ちが待っている気がした。彼は意外とそんな勘が働くのである。だいたいこうなるんじゃないかと思った悪いことは、違わずそのようになってきた経験を持っていた。ましてや彼女たちは初対面の人間をこうも強引に働かせるような奴らだ。少なからず胸騒ぎを感じるは然りである。涼介はおとなしく、カメラの機能を確認することにした。
「おとなしくやってるね。彼」
キーボードの鍵盤をゆっくりたたきながら、綾音が紗夜に呟いた。
「ん~。あぁ」
「なんで彼? 他にもいるにはいたでしょ? 一人の客」
「タイミングと、あと今後の展望を見て? かね?」
「今後の展望? もしかしてホントに初対面じゃなかったり? 木市さんに『知人が来てる』って言ったのはデマカセだと思ってたけど」
店長木市が一般客の涼介を彼女たちの助っ人として受け入れたのには理由があった。紗夜が、店に来ているお一人様の中に知り合いがいるからその人に協力してもらうように頼む、と言ったからなのである。たとえ一人客でもお客様を引き抜けないと言った店長だったが、たまたま来ていたとはいえ紗夜の知人ということで、協力が頼めるならと了承したのである。
「あ~それはホント。面識なんてないよ。でも、顔は知ってる。向こうはどうか知らないけどね」
面識はないのに顔を知っている。と意味ありげな言葉に一瞬当惑する綾音。よくは分からないが、紗夜の思わせぶりな言い方や頭の回転の速さは昔からよく知っているので、あまり言及しない。
「そう」
綾音は手を止め、涼介の方へと近づいて行った。彼はハンディカメラのディスプレイをパタパタと動かしたり、モニターを見てズームを確かめたりしている。
「どう? 使えそうです?」
綾音は初めて涼介に話しかける。
「あ、えっと」
「如月綾音。一応、彼女の相棒。あれは遊馬紗夜」
「如月さん…。まぁ一応撮るだけなら。この手のカメラは親戚で集まった時なんかにちょくちょく使わされてたから」
「親戚と撮影?」
「最近いとこに子どもが生まれて、その記録を何時間も…」
「へぇ。…生まれたばかりならなんでも可愛いからね」
「はぁ(意外と毒舌だ、この人)…、なんでこっちに?」
リハーサルなどはもういいのか? と聞く涼介。さっきから横目に見ているがあまり音を出している様子もない。
「えぇ、もう5分もすれば始まる。あ、いる?」
綾音は先ほど口に放りこんでいたもの=フリスクを出して返事。4,5粒を自らの口に運ぶと、涼介にも勧めた。
「あ、どうも。…イッ!?」
「それじゃ、よろしく」
綾音は言うと平然として紗夜の方へ戻っていく。しかし涼介はその言葉に答えるどころではなかった。口に入れた綾音のフリスク2粒。そのこれまでに味わったことのない凄まじく強烈な刺激に、舌が燃えそうになっていた。
(なんてメンソールのキツいヤツを食ってんだ)
舌に載せておくことはできずすぐさま噛み砕いて刺激に耐えつつ、涼介は綾音の方を見た。そして、飲み込んでしばらく経っても未だスースーする口を覆いつつ、彼はアーティスト二人のいるステージそばに寄った。ここでのパフォーマンスは基本、ステージでの衣装などはなく、出てきて演奏して歌うという簡単なショーである。涼介は彼女たちの歌う楽曲の名前を聞かされた後、紗夜から「曲のサビにきたらズーム」、「間奏の時は綾音を映してから客」、「クライマックスはやや引きで」、などと素人にしてはこだわられているカメラワークの指示を細々と受け、そして配置についた。
「えー、本日はアプローズにお越しいただきありがとうございます。只今より本日のステージを始めさせていただきたいと思います」
店長のアナウンスと共に店内の照明が若干落とされる。話を続ける客、ステージの方を注目する客、それまでと変わらず食事を進める客、と様々だが、ここには決まったルールはない。演奏される音楽も、客の食事や会話を大きく妨げないものというのが、ここのステージの出演条件の一つである。いわゆる高級レストランなどで披露されるピアノ演奏や弦楽演奏のような感覚でアーティストを招いているということだ。
そして演奏はすぐに始まった。スポットライトなどが当てられているわけではなく、涼介はそれまで店長に向けていたカメラを慌てて紗夜達に向け直した。
(アーティストの紹介なんかはないんだな)
綾音のキーボードからしっとりと曲が開始される。キーボードの音質がピアノ調のクラシックな雰囲気のある音に設定されているせいか、店内に落ち付いた雰囲気を作り出していった。すると紗夜が綾音に一瞬目を合わせ頷いて、歌い出しに入った。
『自分はいつから生まれてて 心はいつからこうしてる?』
ゆったりとした落ち着きのあるバラードが紗夜の口元から紡がれ、マイクを通して店内へと響く。その彼女の歌声に、予想以上のものを感じとった客たちから、次々に歓声と拍手が起こる。そう、一般人を対象にしたカラオケ大会でプロ並みの歌唱力の穴馬が現れたような。
『いつも繋がろうとしてないと あっという間に引き離されて
それでも握ってるしかできないの』
涼介はカメラのモニターも見ずにポカンとした。先ほど自分を無理やりに引き回し、ろくに理由も離さず自分を撮影係にした乱暴な印象からは想像できないような、繊細で透き通る歌声。表情さえも先ほどまでの見下すような目つきとは打って変わって、完全に歌詞と意思疎通したアーティストのそれであった。そんなギャップを補正する間もなく、曲はメロディからサビへと入っていく。涼介はハッと彼女の指示を思い出し、ディスプレイを覗きつつズーム操作に慌てる。
『頼らないんだって決めてても 困った時ほどそこにいる
これじゃ関係 釣り合わないよ そんなあたしに あなたは言った
ともだちって そんな難しいものじゃないんだって』
曲はサビの盛り上がりと余韻を残しつつ、楽器演奏の綾音がメインとなる間奏へ。涼介は綾音へとズームを伸ばす。彼女の方は涼介に話しかけてきた時と同様で、冷静で表情もあまり変化はないようだった。しかし、そのしなやかな指先で打たれた鍵盤が奏でる旋律は、コンクールなどで優に上位に食い込めると思えるほどだ。歌の合間だが、客たちのほとんどが拍手を送る。涼介はその様子も映像に残すことができた。
(なんなんだ…この2人)
涼介は初めて耳にする彼女たちの歌声と演奏に聞き入りつつ、心の赴くままにカメラを向けた。演奏開始前に指示されたズームの場所やアングル変更も忘れ、感じるままに彼女たちを撮影するのだった。
「いやぁ~。みんなお疲れ様」
休憩を含め50分ほどとなったパフォーマンスタイムは、オリジナル曲・コピー曲合計して十曲近く披露され最後は大きな歓声と拍手のもと無事終わりを告げた。出番を終えた二人の出演者と店長、そして涼介はステージの裏で集まっていた。
「店長も、ありがとう」
紗夜が店長から渡されたドリンクをゴクリとやって返事。綾音、涼介も店長からそれぞれドリンクを受け取ると頭を下げた。
「一時はどうなるかと思ったけど、よかったよ」
「そうそうそれ。辰実、どう? ちゃんと撮れたんでしょうね?」
紗夜がカップを向けて涼介に詰め寄った。相変わらずの名字呼び捨てだ。
「と、とりあえず、撮れてはいるはずだけど…」
涼介はカメラを紗夜に手渡す。やはり彼が予想した通り、誰でもできるとか言いながらそこそこのクオリティーを求めていた。危なかった、と言いたいところだが、結局のところは彼女が満足するかどうかなので、その辺は開けてみての何とヤラだ。
「あっそう、どれ…」
「あ、あの俺は…」
出演者二人の不思議なほどのクオリティの高さから、途中から我を忘れて撮っていたこともあって、でき云々に全く自信がない涼介。早々に立ち去りたいもののそれを言い出す度胸は持ち合わせていなかった。すると、思いの外紗夜の方から、
「あー、もういいよ。んじゃお疲れ」
ということだった。木市店長が「そりゃあんまりじゃないかい?」と言ってくれていたが、むしろここでおさらばする方が気持ちははるかに軽かった。綾音がまたフリスクを口に放り込んで涼介に向き、(いる?)という表情をしたが、苦笑いでごまかしつつ首を振る。そしてすぐさま「お疲れしたっ」と言うとそそくさとその場を後にした。
「あっ! 辰実さん、注文のミートソースとサラダ、席の方に用意してるから、ゆっくり食べていってください」
背中から聞こえた木市店長のその言葉通り、涼介が座っていた席には湯気の立つボローニャ風ミートソースとサラダ、そして店長の気遣いか、デザートらしき果物の一皿が並んでいた。
(ゆっくりって言われてもな)
のんびりしているとまた絡まれるかもしれないと感じた涼介は、サラダを一気にかき込み、スパゲッティをあっという間にすすり飲む。デザートに手を付けようか迷ったが、折角の心意気を無下にできないと、完食した。口をモグモグしながら伝票を掴み、レジに行って早々と会計を済ませると、逃げるようにして車で家路を急ぐのであった。
ステージの片付けが終わった紗夜と綾音は、アプローズのスタッフ休憩室にいた。だいぶ狭いがテレビが置いてあり、ここで涼介の撮った映像を確認しているのだ。店はもうすぐ閉店時間を迎えようとしている。そこへあらかた閉店作業を終えた木市店長が現れた。
「そろそろ、ここも片づけたいんだけど…、あぁ、ステージのビデオ見てるのかい?」
「……」
「……」
2人して画面に見入っており、木市の言葉に返事はない。やや怪訝な表情になりつつも木市はテレビに近寄る。
「ほー、なかなかよく撮れているじゃないか。紗夜ちゃんの知り合いにこんな人材がいたとはねぇ」
カメラの性能のおかげもありピンボケはなく、曲に合わせたカメラワークがストレスなく繋がっている。途中演者をズームで撮るあたりも寄り過ぎず遠過ぎず、紗夜たちだけならず木市店長も興味を持った。
「あたしたちもちょっと驚いてたとこ」
「素人にしては、だけど」
感心した木市に紗夜、綾音が続く。二人はちょっとした掘り出し物を見つけた心持であった。視線を画面から木市に向け直す。
「そうね。金払って雇うほどでは全くない」
「こりゃ、手厳しい。さっき渡した君たちの出演料には、一応彼の分も入ってるんだ。ちゃんと届けてくれよ?」
「だったら、別途配達料がいるね」
「おいおい、くすねるつもりだったのか」
「デザートサービスしたんでしょ? ってまぁ冗談よ」
「大した額でもないのにネコババしたって意味ないもんね」
「君たちは…」
金にがめつい紗夜に歯に衣着せない綾音。木市店長はガクッと膝を着きそうになりつつも、気を取り直し笑顔を作って続けた。
「そろそろ閉めるんだ。いいかな?」
「えぇ、今日はありがとう」
紗夜がビデオを止め、テレビを消して言った。綾音が続いて頭を下げる。
「こちらこそだよ。元ここのバイトだった君がこんな形でちょくちょく来てくれるのは、なんとも感慨深い」
「はーいはい。綾音、行こう」
「んー」
紗夜の後に続いて、フリスクをまた2,3粒口に入れた綾音が休憩室を出る。木市店長はサッと室内を見回しチェックをすると電気を消した。
涼介は自宅アパートの前にある駐車場の指定箇所に車を停め、荷物を手に外に出た。キーレスでピッとドアをロックすると、トボトボと自分の部屋に向いて歩く。ここは、2階建て各階3部屋ずつのアパート。エトランジュSと命名された建物は、築年数が10年未満と比較的新しく、駐車場付きで家賃もそこそこだった。ここに来てしばらく経つが、住人とは隣の人と極稀に挨拶を交わす程度で、今どき表札もないためどんな人間が住んでいるのかはよく知らない。
涼介は部屋に入ると電気を点けてソファに横になった。
(なんか、疲れた)
そのままテレビをつけるとUHFの夜のニュースが映っている。適当にザッピングしつつボーっと画面を見る涼介。日中は体を使った労働、その後の飲食店での無慈悲で強引な女とのやりとり、そして撮影という神経を使うことをやったせいか、流れてくるテレビの内容はほとんど入ってこない。普段はこうやって適当な番組を見つけ携帯ゲームをするのが常だったのだが、今日の久しぶりに感じるどうしようもない眠気には、端から勝てる気などなかった。
(そういや…、充電も…しないと…)
適度に抑揚のあるニュースキャスターの喋りに涼介は不思議な心地よさを感じ、そして携帯を握ったまま眠りに落ちた。
それは最初ボンヤリとして、テレビから出る音なのか、現実にこの場に響いているのか判別できなかった。テレビの番組はニュースではなく深夜の通販を流している。結構な時間寝てしまっていたと気付いた涼介は、点けっぱなしだった電灯の明るさに目を細めつつ体を起こした。そしてちゃんと布団で寝ていなかった時によくある口の中の気持ち悪い感じが、涼介の意識を夢うつつから戻していく。そこからようやく耳の感覚が現実にかえった。
「っ!!」
ドンドンという振動と重低音。また時折漏れるメロディ。何を言っているのかは分からないが、明らかな発声。これは紛れもない騒音だった。
「なんだ?!」
立ち上がり、思わず口に出す涼介。天井からはたまに、ドスンという子どもが暴れまわるような音もする。これまで住んでいてこんなことはあっただろうか。しかしそんなことを思い出している間もなく、涼介のイライラゲージは瞬間的に上昇した。それは先だって、撮影担当として問答無用で使われた理不尽を思い出したことも相乗効果として影響していたが、涼介は今までの自分からは想像できないほど俊敏に玄関に向かい、サンダルを履き、そしてアパートの二階への階段を駆け上がった。
天井から響いてくるということは、涼介の真上の階の住人なのだ。迷わず涼介は203号室の前に立った。そしてインターホンを鳴らす。しかし、出ない。もう一度鳴らす。やっぱり出ない。
(自分トコの音量で気付かないのか!)
涼介はインターホンを押しながら、扉の方も強めにドンドンと叩いてみた。普段そんなに積極的でない彼がここまでしているという事実に彼自身胸の奥で戸惑いつつも、ここまできたらこのアパートの全住人のために戦ってやるという英雄的な気持ちさえ湧き上がっていた。未だに扉の向こうから響く大音量は鳴り止む様子もない。
「ちょっと! いいかげんに…」
涼介がとうとう口で言いかけた時、ガチャっとドアが開いた。
「あー、すいませんね。もうちょっとだから辛抱して…。ありゃ」
出てきたのは女だった。それも会ったことのある。それもごく最近。
「き、如月さん!?」
「へー、カメラ担当さん。あ、なるほどぉ」
如月綾音は飲食店アプローズで会ったまんまの格好で、例の強烈フリスクを片手に涼介の様子を眺めた。
「だーから、出なくていいって言ったでしょ」
部屋の奥からはこれまた女の叫ぶ声。それもさっき同様、ごく最近に聞き覚えのある声だった。すると奥の女、遊馬紗夜はスピーカーのスイッチを切り、面倒くさそうに立ちあがって、玄関口の方へ歩いていく。
「とりあえず、近所の迷惑だから。入っていいよ」
スウェット姿の紗夜は、玄関までは来ず、姿だけ見せるとまた奥へと戻る。
(お、お前がそれを言うかっ!)
まるで涼介の方が住民の敵だとでも言うが如くふてぶてしい態度の紗夜に、ゲージを振り切っている怒りの収めどころが見えず、わなわなと震える涼介。奥への道を空けながら綾音が「んじゃ、どうぞ」と入室を促す。彼女の手から白い小さな粒が2,3個口の中に飛び込むのを横目に見ながら、涼介は無言でサンダルを脱ぐ。そしてドアを閉めた綾音の後に続いた。
「これだと、また動かさなきゃいけないね。綾音?」
涼介が部屋に入ると、雑然としたリビングで紗夜が大きな安楽椅子を目の前にしていた。床の細々した散らかり品を足で払いのけると、綾音をそばに呼ぶ紗夜。するとその椅子を二人で両手に抱え、勢いをつけて持ち上げる。そしてそのまま部屋の角の方向へ…投げた。
「バっ…!」
涼介が叫声を上げる間もなく、ドスンという音と共に安楽椅子が元の場所から60cmほど移動する。すると紗夜と綾音はまたそれを両手で持ち上げ、投げる。同じくして振動が響く。
「ったく、普段一人仕様にしてると、客が来る度面倒だねぇ」
パンパンと手を叩きながらしみじみと呟く紗夜を見て、涼介は自分の部屋での激しい天井の響きはこれだと確信した。つまり涼介の住む103号室の上の階は、飲食店アプローズでライブをしていた遊馬紗夜の住居であったということなのだ。
「こういうことだったのね。紗夜」
巨大な椅子を放り投げ終えた後、その方法には異を唱えず綾音が納得の声を漏らす。
「一度寝たら起きないタイプだと思ってたんだけどねぇ。当てが外れたよ」
「ちょ、どういうことだ! だいたいこんな夜中にガンガン音鳴らして家具放り投げてたら迷惑に決まってるだろうがっ。俺が言いに来なかったらっ!」
ようやく文句の捌け口を得られて勢いづく涼介。どう考えたって紗夜の行動は近所とのトラブル要因で、涼介は正義の使者なのである。
「ここの隣っ!」
「え?」
紗夜が涼介の続く言葉を遮る。
「202号室、一人暮らしの溝口さんは昨日から出張だよ」
「へ?」
「その真下の部屋の佐々木さん一家はおとといから家族旅行に出てて、帰りは明日の晩。201号室の栗原さんは普段から日中家にいて夜に仕事に出る。101号室の橋本さんとこは今いるだろうけど、あたしの部屋とは一番遠い。この程度の音量と振動は届かないんだよ」
「……」
「だから、周囲の方々が眉寄せて怒りの四つ角浮かばせるのは、あたしが室内でガヤガヤすることより、破竹の勢いで殴りこんできて人ん家のドアを開けっ広げるあんたってこと」
動かしたばかりの安楽椅子にどっかと座り、紗夜は堂々と言い放った。
「でも、俺だって…住人だ」
涼介の知らないアパートの住人達の情報を詳しく並べる紗夜に、多少怯みつつ何とか正論を絞り出す。
「だから、あたしの当てが外れたの」
「知ってたのか? 俺があんたの下の階に住んでるって」
「当然。音楽やるなら近所のこと考えるのは常識ってもんね。ねぇ綾音?」
「私は防音設備のある楽器屋兼音楽教室に住み込みだから、気にしない」
既にクッションに腰掛け携帯を弄っている綾音が、手を止めず答える。
「あっそ。それでどうする? このまま朝まで騒音問題についてディベートでもする?」
紗夜は皮肉たっぷりに涼介に言った。涼介は愚行を暴かれ絶望した犯人のようにその場に膝からへたり込んだ。近隣住民の平和のためにここぞとばかりに立ち上がった気弱な青年がアパートの英雄になることはなく、この戦いは静かに終わりを告げたのだ。
「それで、紗夜。例のは渡すの?」
存在感が何割か薄くなった涼介を尻目に綾音が聞いた。
「まさか今日の今日にこうなるとは予想してなかったから。2,3日放って接点できなかったら酒代の足しにでもしようと思ってたんだけど」
「…例の?」
俯いて自分を顧みていた涼介が紗夜と綾音の方を向いた。すると紗夜が茶色い封筒を一通差し出している。
「今日の、ギャラよ」
「へ?」
「店長が無理言って手伝ってもらったあんたの分、出演料を足してくれたってこと」
「…出演料貰ってるのか?」
「当然でしょ? じゃなかったらあんなトコでやんないし」
「安いけど。その上機材はちゃっちいし」
綾音がフリスクを噛みながら付け足した。
「渡したからね。それと、今度あの店行って店長になんか言われても、あたしたちはもともと知り合いってことにしてあるから、ボロ出さないでよ」
「知り合い?」
「そうでも言わないと、君に今日撮影してもらうことはできなかったわけ」
綾音のこの一言を聞き、店での木市店長の態度を思い出した涼介は合点がいった。自分はたまたま店にいた知人ということにされていたということだ。
「まぁ、今後も頼むからそのうちそんなこと気にする必要もなくなるけど」
「は……はい?」
涼介は素っ頓狂な声を上げた。横で綾音がまたフリスクを口に放り込み、そして続けざま彼の肩に手を置くと何の感情も込めることなく言った。
「よかったね。両手に花、ア~ンド副業ゲットで」
辰実涼介、遊馬紗夜と如月綾音の音楽活動の撮影担当兼雑用係として採用。本日の給料620円+善意のデザート。
終わり
ブログの方でこまぎれにアップしていたものをこちらでまとめさせていただきました。続きのお話はブログにありますが、そちらもやっぱりこまぎれなのでまたまとめで出せればと思います。
せっかくなので設定や今話の裏話的なことを少し。
ライブをしていた飲食店の名前アプローズですが、サブタイトルにあります「拍手喝采」という意味です。ステージ演奏を売りにしている木市店長のネーミング…と思われます。
劇中の歌詞は「ともだち」というタイトルを付けています。曲はついてないし2番もない、そのあたりは読者様のご想像となってます。
涼介や紗夜が住んでいるアパートの名前エトランジュSはフランス語か何かの意味で「奇妙な」という感じ。住人がみんな何かしらの変人という…、Sは雰囲気で付けました。どこか1室が筆者の部屋になってます。ちなみに涼介が乗る車はトヨタのハイブリットコンパクトカー:アクアで筆者と同じです。
この度は読んでいただきありがとうございました。