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第7話(開戦間際・開戦)-〜1941.12.08-

 幹を切る、とは言ったもののその成果は全く見えてこなかった。それどころか、幹に影響を与えるような枝葉にすら到達することは難しかった。

 何しろ、民主国家になり平和に緩んだこちら側の日本とは全く違う、戦争を控えた軍事国家なのだ。こちら側の人間は、自由に行動することは当然、人物によっては会うことすら難しかった。たとえ会えたとしても、まずこのような荒唐無稽な話を信じさせることがまた難しかった。

 それは、たとえ、こちらに来たことがあるある程度理解を得られた人物を帯同してても殆ど変わらなかった。特別高等警察、いわゆる特高に捕縛されそうになることも度々だった。

 一方で、こちら側の物資を届けることもかなりの苦労を伴った。民生品の方はまだ道筋がつけられないこともなかったが、こと軍事になるとその難易度はいきなりグンっと上がった。

 とにかく、変わらないのだ。

 理解しているはずなのに、何も変わっていかない。

 これには、こちら側の人間は、頭を悩ませた。

 

 世界の情勢は、史実通りどんどん悪化していた。

 3月8日、野村駐米大使とハル国務長官との日米交渉が開始された。もちろん、史実のとおり、米側はこの交渉を受け入れるつもりはなかった。

 4月13日、日ソ中立条約が、これもまた史実通り成立し、軍部はこれで後顧の憂いがなくなったと喜び勇んだ。

 1941年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可され、史実通り28日には実施された。

 これを受けたアメリカの対日石油全面輸出禁止も8月1日に実行された。

 その後も、世界は何ら変わることなく史実通りに事が運んでいき、11月26日、ついにハル・ノートが向こう側日本に突きつけられた。これは、回避を諦めた以上仕方がないことだった。

 これほどまでに史実が変わらないことに不安を覚えるものもいた。


 しかし、開戦を目前に控えてようやく変わり始めたものもあった。

 軍事面では相変わらずその変化は実効的な面ではほとんど実を結ばなかったが、開戦前の10月に海上護衛部隊の創設になんとかこぎつけることができた。史実で同様の部隊、海上護衛総隊が設立されたのが1943年6月だということを思えば格段の進捗だったと言える。

 もちろん、当初は全く受け入れられる素地はなかった。

 しかし、以下のような条件をつけることで渋々受け入れることを受諾させたのだった。

1)資源資材の一切は、こちら側から送り込むものとする

2)海上護衛部隊の運用に関して海軍の要請を最大限尊重する

3)海上護衛隊の司令官は、これを海軍から受け入れる

 一度、認めさせてしまえばことは動き出す。

 海軍も、輸送船に護衛を付けたほうがいいだろうぐらいには理解を示していた。しかし、米軍は贅沢の軍隊であり潜水艦に閉じ込められてはるばる太平洋を渡ってきて輸送船ごときを沈めるなどという事態は到底起こりえない、そんな精神力はない、という考えが過半を占めていたからだ。そうであれば、貴重な正面戦力に影響が出かねない商船護衛など到底必要性が認められない、という帰結だった。

 だが、一切、戦時に移行しようという日本の資源・資材を一切使わずにそういった無駄な後方用の機材が揃うならまんざらでもない、そういう落とし所だった。

 それに、海上護衛部隊司令官というポストが増えるのも受け入れに寄与した。

 正面部隊の花形職でなくとも1つの部隊の司令官というポストができるのは創設を認めてもらう上で非常に好都合に働いた。そして、いったんそのポストに付いたものはその既得権を守ろうとするし、権力の拡大を図ろうとする。つまり、こちら側の強力な味方になるということだった。


 それに、この護衛部隊が装備すべき艦船は既に数年前からこちら側では量産が始まっていた。タイプ2016型護衛艦である。後に950トン型と呼ばれる海上護衛部隊の標準型の護衛艦だった。イージス艦の予算を一部振り替える形で予算を獲得したこのタイプは1940年の終わりの段階で12隻が取得されていた。要目は以下の通り。

全長80m、排水量950t

武装は12cm単装砲2基、20mm連装機銃2基、533mm3連装魚雷発射管1基

速力最大20ノット、航続力7000海里

小型垂直離着陸機1機

というものだった。

 後に海軍が、建造する海防艦と比べても大きな差はないように見えたが、装備するソフト面も含め、その性能は隔絶していた。対水上レーダーや対空レーダー、ソナーを装備しているのはもちろん、12cm砲もレーダーと連動しており対艦ミサイルの迎撃でさえ可能な最新式のものだった。もっとも、オーバーキルにならないように発砲速度は毎分40発に抑えられている。それでも、当時の駆逐艦レベルなら射撃管制システムも含めるとどんなタイプでも圧倒できた。魚雷は、自発装填が可能な対潜対艦魚雷となっており、装填済みのものも含めて15本が搭載されている。小型垂直離着陸機、オートジャイロは120kg対潜爆弾2発を搭載し、90分の哨戒が可能となっていた。

 こちら側で半完成状態になったものを向こう側で完成させる手法が取られ開戦時までに8隻が就航、訓練に入った。

 また、海軍次期発動機開発支援に参入することが認められた。実際には、既に2000馬力級発動機の開発に成功しており月産1000基を量産することができる体制も整っていたが空技廠や、中島といった既存の発動機研究に口を挟むのではなく、あくまで予備的位置で開発を行うというものだった。


 他にも工業インフラ部分では規格の統一や、部品の共用化が随分と進んでいた。また、土木技術においても従来の人力に頼るものから機械化が進んだ。これらは、開戦を回避させるという目的で言うなら何ら寄与しない施策だったが国力の基礎を固めるという点では大いに役立つ施策だった。

 軍人を相手にするのと違って民生を中心にする場合、もちろん許可を得るという点では生半可な努力では達成できなかったが、受け入れは良かった。また、その実効自体も肌で感じられるものが多かっただけに一度受け入れられると急速に広まっていった。

 これは後に、軍用技術に反映させることが期待できた。

 最も早くから更に受け入れが進んだのは医療分野だった。受け入れ側のインテリジェンスが高かったことも相まってこの分野は、予想以上に円滑にことが運んだ。特に結核を含む感染症の治療が可能になったことは向こう側の医療関係者を感動させ、一気にこちら側の有力な賛同者となった。特に結核における死亡者数はこの戦前戦中の期間に限っても40万人を超えていたからそれを阻止できたということは医療によって間接的に国力の維持を可能にさせたと言えた。その結果、後年のマラリア予防に対する受け入れが飛躍的に進むことになった。


 そして、ついに12月8日を迎えることとなった。

 史実は、ほとんど変わることなくコタバルへの上陸から開始された日本軍の開戦初日の攻撃は、真珠湾奇襲攻撃を持って完了した。

 しかし、この日唯一にして最大の改変が奇跡的に成功していた。

 宣戦布告の手交である。

 史実では、種々様々な不幸から手交が攻撃後という不名誉な開戦となったが、この太平洋戦争においては、それを回避することができた。これは10年に渡る向こう側の外務省への地道な働きかけが実を結んだ結果だった。

 もちろん、このことがどんな重みを持つかを知るものは今のところこちら側にも向こう側にもいなかった。


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