第11話(ミッドウェイの教訓)-〜1942.06.05;〜1943.01.01-
艦橋は沈鬱としていた
既に、ミドウェイ攻略は中止が発令されていた。
開戦以来破竹の勢いで連勝を続けていた南雲機動部隊は、多くの艦載機ととも参加空母すべてを失って敗走していた。戦果は、敵正規空母2隻撃沈、1隻撃破との報告を受けていたが、山本はそれが十中八九正確でないと知っていた。
ほとんど全て向こう側の歴史どおり進んだ以上、正確な戦果は、撃沈1隻撃破1隻のはずだった。さらに、重巡洋艦三隈を喪失するに至って山本は、一層押し黙った。
それを見た幕僚の多くは山本が、自決するのではないかと恐れたが、山本がほとんど黙して喋らなかったのは、作戦の開始から天候や通信状況、戦闘の推移に至るまで事前に知らされていた史実とほぼ同じ経過をたどったからだ。史実と違ったのは、二航戦司令官山口少将と飛龍艦長加来大佐、蒼龍艦長柳本大佐らが、山本長官の厳命により沈みゆく各空母から脱出し生還したことだった。加賀艦長の岡田大佐のみは、史実通り艦橋傍にあったガソリン給油車への直撃弾による大爆発で戦死してしまったが、開戦以来機動部隊とともに戦い、今回の敗戦も含めた戦訓を得てきた貴重な指揮官を死なせずに済んだことは朗報だった。
そして、知らされていることが今後も起こっていくのなら今日起こった悲劇などどれほどのこともない悲劇が今後綿々と続いていくのだ。それは、断じて避けねばならない。
特に、本土が空襲にさらされるなど、許してはいけないのだ。
呉へ向かう連合艦隊から山口らとともに榛名に移乗した山本は、連合艦隊本体から分離し横須賀へと向かった。
横須賀に到着した山本らは休むまもなく作戦検討室へと向かった。
到着するやいなや山本らは早速にも高岳ら向こう側の責任者との面会を求めた。
「山口さんを…」
入室してきた面々を見てまず高岳が驚いた口調で言った。
「だが、他の事象においては貴方方の言うとおりの結末を迎えた。申し訳なかった」
「いえ」
高岳は、静かに答えた。「それで我々にはなにかお手伝いできることはあるのでしょうか?」
「いえ、ありません」
山本も静かに応えた。高岳は、面食らった。この期に及んでも日本は変わらないのか?と。
しかし、続いた山本の言葉は高岳の予想したものではなかった。
「できるのは、我々が貴方方の言葉を真摯に受け止めることです。我々は、ひとりひとりはそのことを理解しているにも関わらず、受け入れることができなかった。だが、今回のこの敗戦で目を覚ますことができた、少なくともここにいる我々においては」
山本は、同席している海軍の面々を見て言った。
「まずは、海上護衛隊を実戦投入させる手はずを整えた。発動機に関しても空技廠、三菱中島は難しいがまずは川西から導入することができるだろう。その他の協力についても謹んで受け入れさせてもらえればと思う」
高岳は、大きく頷いた。
せっかく、こちら側で完成させた護衛艦も無駄に横須賀の泊地で係留されているだけだったのだ。発動機も、現場の技術者を欣喜させただけにとどまっていた。それらがようやく日の目を見ることになるのだ。もちろん、すぐにその効果が見えてくるわけではないが。
「あと、生きて戻られた方から詳細をひとり残らず聞き取りなさってください。一体、現場で何が起きていたのか、何が良くて何が悪かったのか、それを纏めることでなにか解ってくることがあると思います」
高岳は、真摯に訴えた。
「心して取り組もう」
山本は、静かに応えた。
史実では、箝口令が引かれて十分な戦訓とはならなかった事が問題だったと言われる。そこが少しでも是正されれば得られることがなにかあるはずだった。
そうして、改めて向こう側からこちら側へと移行する技術や兵器についての説明がなされた。そうしたことの打ち合わせが粛々と進められ、今後の進め方についても合意が取りまとめられた。
その会議の最後、山本は言った。
「近々、陛下に拝謁してもらうことになるだろう」
高岳をはじめ、こちら側の全員が言葉をなくした。ずっと望んできたことだったがそれが叶うことなどないだろうと諦めかけていたからだった。
陛下に拝謁するということは、必ず成し遂げねばならないことだったが、やはり特別なことだった。
もちろん、高岳だけではなく、こちら側のことを理解してくれている陸海軍、政治家の面々が一堂に会して拝謁するため、上奏する言葉も慎重を期せねばならなかった。これには、こちら側の皇室学者の力を借りた。何しろ、向こう側では天皇はあくまでも現人神なのだ。こちら側に理解を示す軍人政治家が多く集まっているとはいえ言葉選びに失敗があったときに何が起こるかはわからない。
これには、一週間以上があてられた。
拝謁と内奏は、3時間にも及んだ。
その間、陛下はほとんど言葉を発することはなかった。時に目を閉じ、また時に深く嘆息され、深く頷かれた。
このことについて、高岳は制動装置にようやく足がかかった、と表現した。
実際、このあと、幾度も御前会議が開かれることになるのだが、目に見えて何かが変わる、ということは殆どなかった。
だが、確実に変わり始めた。
ガダルカナルには、川口支隊までは上陸したが、第2師団が上陸することはなかった。だが、第2師団が投入されなかった代わりに自衛隊のもと新設された陸軍特殊部隊が、投入された。これは、自衛隊の教官のもとに錬成されたゲリラ戦専門の部隊だった。潜水艦によって上陸を果たした特殊部隊は一木支隊や川口支隊の生き残りで戦える兵士を吸収しながらガダルカナルの米軍を苦しめていくことになる。
海上護衛隊は、まずはその戦果を印象づける作戦から始める事になった。日本近海の哨戒である。特に威力を発揮したのは夜間対潜哨戒だった。この時期の潜水艦は、潜水艦というよりは可潜艦といった性格が強かった。敵がいない限りは浮上航行するのが普通だった。つまり、敵と邂逅する可能性が低い海域や夜間は浮上航行するのが常だった。対潜護衛艦は、その夜間浮上中の米軍潜水艦をレーダー探知し、主に砲撃で沈めていった。
敵部隊の偵察や主力艦攻撃の任に当たっていた潜水艦部隊の作戦目標が、敵補給線の寸断・通商破壊戦へと変わった。また、現在主力となっている伊号潜水艦ではその任務を果たすのに最適ではなく、新たにその任に当てるためにハ号潜水艦が計画され建造されることが決定された。これは史実のハ号潜水艦ではなく、こちら側の技術を導入しての通商破壊戦専用とも言える潜水艦だった。
新型発動機『騰11型』は、歓喜を持って川西の技術者に受け入れられた。癖がなく整備性に優れ故障自体も少ない『騰11型』は、まさに川西の技術者が求めていた発動機だった。これに加えて、こちら側から機体の設計を誘導・示唆する形で予め解っていた問題点を改良するという作業を行った。
これら種々のすぐには効果の見えない改革が始まってまもなく、全世界が驚くべき戦略変換がなされた。対中停戦である。これは、いわゆる御聖断による戦略の変更だった。
1943年1月1日、なんの前触れもなく、一方的に宣言がなされ、日本軍は一斉に満州・香港、関東州を除く中国本土から部隊を引き上げた。もちろん、大陸に展開していた部隊を引き上げるということは一朝一夕でできることではなく、その混乱も相当なものだったが1943年夏までには、中国大陸で実戦経験を積んだ戦力が満州へ再配置されたり国内へと戻ることになった。
これは、一方的な停戦であり、中国はこれを受け入れないとしたが、仇敵を失った中国はその後国民党と共産党軍が覇権を巡って内戦状態へと移行していくことになる。
また、大陸の兵力を引き上げたことによって生じた余力により、予備役招集や闇雲な国民招集を行わずに済んだ。また、一部師団では退役も行われた。このことは、国内生産に寄与していくことになる。
そして、このことはアメリカ軍の戦略にも大きな影響を与えることとなった。中国全土に散らばっていた兵力が、全て太平洋戦線に振り向けることが可能になったということだからだ。




