1章-4
パーン、と明るい音色が青空に響き渡る。それと共に王宮の門が開き、兵たちが出てきた。
ゆっくりと、見せつけるかのように行進する歩兵。しばらくすると騎兵が、そして彼らに守られるように一台の大きな馬車が出てきた。王家の紋章が縫い付けられた幕を垂らして、馬車はゆったりと進む。
リズは初めての馬車に興奮していた。今まで王宮から出たことないから、馬車に乗るのも初めて。窓から街を見て、たまに目の合った人々に手を振る。人々はみな一様に暗い表情を浮かべていた。
かつてから開戦の噂はあったが、ここに来て王女の出陣。開戦の可能性が濃厚になったことは言わずもながら。きっと、不安でたまらないのだろう。
「王女様……」
「なに?」
目の合った幼子に手を振りながら、リズは反対側に座ったウィルフに問いかけた。幼子はしばらくぼうっとリズを見つめていたが、母親に連れられてその場を離れる。
「せめて、クレスウェル将軍に同席を……」
「将軍は先頭で兵を率いなきゃいけないって言ってるでしょ? そんなに私と二人っきりは嫌?」
「嫌ではないですが……その、だからこそ問題が……」
顔を赤らめながらウィルフはもごもごと口を動かした。リズはウィルフの様子を不思議がった。
リズ自身も、王女が異性と二人きり、という状況が好ましくないのは分かっている。しかし、幾ら人がいようとも、その者たちが共犯者ならば意味がない。元々それほど周囲に注目されないのも相まって、リズはそういうことを気にしないようになっていた。
それはウィルフも分かっていた。それにもかかわらず二人きりになるのを嫌がるのは、誰か人がいないと自らの理性が耐えきれないからで……そんなこと、言えるわけがない。
結局泣き寝入りするしかなかった。
一軍はそのままゆっくりと進み、王都を出たところで外に待機していた兵たちと合流した。
王都は王宮を頂点にして、大通りが幾つも伸びている。先程はその大通りの一つを下ってきたのだが、大通りには店が多く並び、人も多くいる。そのため、あまり多くの兵が大通りを下ると、その分邪魔になるのだ。
「これが、王都の外……」
リズは目をキラキラさせて馬車の外を眺めていた。風に揺れる草木に、遠くに見える獣や民家。初めて見る景色が、そこには広がっていた。
「見たことないんですか?」
「……ええ。母様はずっと王都にとどまって、離宮とかにも行かなかったし……。その後は、あなたも知る通りよ」
そういえば、とリズは思い出す。母は私が王都の外に行きたい、と言ったとき、いつも悲しげな表情で「ごめんね」と言っていた。何か、外に出れない理由があったのだろうか?
「……僕は側妃様のことはあまり知りませんが、噂で聞くよりも、その……大人しい方だったんですね」
その言葉に、リズは笑みを浮かべた。けれども、どこか寂しげ。
ウィルフは側妃のことを話題にしたことを後悔した。リズの様子が少し悲しげだったからと言って、側妃様のことはいけない。余計悲しませるだけだ。
「……母様はね、本当すごい方だったわ」
ぽつり、とリズが呟いた。
「綺麗で、優しくて、努力家で、自分から行動して、……平民なのに侍女にも負けなくて、いつの間にか侍女が全員従ってたそうよ」
「父様が言ってたわ」と付け加える。それを聞いたのは四年前。母が死んで一日中泣き明かしていた頃。目元を赤くした父が突然部屋にやって来て、母の思い出話をした。その中にあった話の一つだった。
……それと共に、あの日のことも思い出す。母の亡くなった日。その日、生まれて初めて、リズは……。
「……どうやら、噂は正しかったようですね」
ウィルフが笑顔で言った。
「僕ら平民の元にも、側妃様のそのようなエピソードは噂で流れてきました。猫を助けるために木登りをなさったことや、使用人たちに日頃のお礼として菓子をお配りになったことなど。僕らはそれを聞いて、側妃様にとても親しみを覚えてました。……素晴らしい方だったんですね」
ウィルフのその言葉にリズは目を丸くして、……微笑んだ。どこか毅然とした笑み。
「もちろん。私の母様だもの」
そして、あの日のことは頭の隅に追いやった。
一軍の目的地はマクリガーテ帝国の近くにある、国境砦の一つ。アドゥリス王国とマクリガーテ帝国の国境には幾つかの山脈があるため、まともに侵攻する場合、経路は限られる。その幾つかの経路があるうち、最も王都に近く、最も侵攻される危険性の高い地域の付近に作られた砦だった。
国境砦までにかかる日数はおおよそ三週間。大半が野宿となる。
「ということで申し訳ありませんが、王女殿下には馬車で眠ってもらうことになります」
初日の宿営地に到着した際、クレスウェル将軍が馬車の中で言った。
「分かってるわ。だけど、皆テントを張って、そこで寝るのでしょう? 私だけ馬車っていうのは……」
──何だか、申し訳ない。
眉を下げるリズを見て、クレスウェル将軍は安心させるように言った。
「大丈夫ですよ。テントも慣れれば快適なものですし、むしろ馬車は馬車でそれほど広くないですから……」
王女の乗る馬車とはいえ軍用。移動を早くするために普段王族の乗る馬車よりも小さい。他の軍用馬車との違いは、座席がふわふわかどうかだろう。
つまりは、馬車で寝るというのもそれほど快適ではない。特に、王族のリズにとっては。
「別にいいわ。馬車って初めてだもの」
初日の夜はそう、ワクワクしていた。
けれども、日数が経つにつれてリズの顔色は悪くなっていく。
「王女様……? だ、大丈夫ですか……?」
「……これが大丈夫そうに見える?」
リズが青い顔で言った。いかにも具合が悪そう。
ウィルフは苦笑いするしかなかった。
「まさか、馬車がこんなに気持ち悪くなるものだなんて……」
「……おそらく、文字を目で追っているからですよ……」
ぶつくさと手元の書類を見ながら言うリズを見て、ウィルフは呟いた。実際、初日は一切酔うことがなかったのだから、そうだろうと思われる。
リズの手元の書類には、様々な兵法が書かれていた。各隊に何人の兵がいるのか、という基礎的なことから、籠城戦などでの注意事項や戦い方まで。全て、クレスウェル将軍の手書きだった。
「それにしても、その量を一晩で書き上げるとは、凄いですよね」
リズの手元を眺めて、ウィルフが言った。
クレスウェル将軍が書類を書き上げたのは、野営一日目の晩。昼間に戦闘で軍を指揮し、夜間に兵を指揮する際の重要事項を全て書類に簡潔に記した。
「本当ね。……将軍の努力が無駄にならないよう、私も頑張って覚えるわ」
そう言って、リズは再び黙って書類に目を落とす。
青く、真剣な表情。ウィルフはふと、リズがとても危うい存在に思えて、つい、口にしてしまった。
「……そんなに頑張らなくてもいいんじゃないですか?」
リズの視線が書類からウィルフへと移る。それは滅多に見ない、冷たい色を帯びた瞳。
「……すみません」
「分かっているのなら、いいわ」
ウィルフがただ単にリズの体調を心配して、というのは分かっていた。けれど、許せないこともある。
──頑張らなくていいのよ、私の可愛いリズ。あなたは私が守るから。
母によく言われていた言葉。リズはその通りにして……結局母を失った。そして、何もできないままのリズだけが取り残された。
だからリズはその言葉が嫌いだった。頑張らなくていい、とは庇護される対象であれ、ということ。それでまた、母のように手のひらから零れ落ちてほしくないから。
その後、馬車には終始リズの書類をめくる音だけが響いていた。