1章-3
明朝。出立のとき。
今日も今日とて、リズは簡素なドレス姿だった。派手に着飾る必要はない。色々言われるかもしれないが、侍女がついて来ないため、一人でも着れるものじゃないといけなかったのだ。
元々、リズに専属の侍女はいない。一時いたことはあったが、結局ほとんど働かなかったので外した。
王女の侍女となる者は箔を付けるために働く貴族令嬢。そのため、平民の血を引くと思われているリズは、侍女たちからすれば蔑みの対象だったのだ。
「王女殿下」
「久しぶりね、クレスウェル将軍」
出立準備を眺めていたリズの元に、クレスウェル将軍がやって来た。軍の長であるクレスウェル将軍は前国王に忠誠を誓った国の重鎮。リズの母のことも知っていた。
「王太子殿下が即位なさることで王妃派が台頭するかと思ってましたが……今回のことで、今後は司祭が国を動かすかもしれませんね。きっと、王妃殿下も悔しがっていることでしょう」
「……まぁ、そう、ね」
何となく、釈然としなかった。何故、国王は母である前王妃に従わず、司祭と手を組んだのだろうか? 今まで司祭は政治に関わってこなかったため、権力としては弱い。自らの基盤をちゃんとしたものにするには、前王妃の庇護を受ける他ないのに……。
(前国王を批判したこともだわ)
異母兄はいったい何を考えているのだろう? リズには分からなかった。
「そういえば、あの坊やはおらんので? いっつも王女殿下の後をついてましたが……」
クレスウェル将軍が言うのは、ウィルフのことだった。リズはそっと目を伏せる。少しばかり、昨夜のことを後悔していた。
(傷つけすぎたかもしれない……)
今でも、昨夜のウィルフの傷ついた顔が脳裏から離れない。めいいっぱい見開かれ、揺れる瞳に映るのは……絶望。彼のあれほど傷ついた顔は、初めて見た。
クレスウェル将軍は悲愴感漂わせるリズを見て、何やら察したよう。ポン、と軽く肩を叩いた。
「よくあることですよ。うちの女房もです。今では何も言わずに見送ってくれますが、交際中や結婚したばかりの頃、出動前夜はびーびー泣いて引き止めましたね」
……どうやら、彼はウィルフがリズを止めたと思っているようだった。実際は違う……と否定しかけたところで、リズはウィルフが昨夜は『いつも通り』だったことを思い出した。
(私に行って欲しくないから、いつも通りを装って振る舞ってたのかしら?)
回りくどい静止。臆病で、優しくて、子供っぽい彼らしかった。
リズが思わず微笑を浮かべると、クレスウェル将軍も少し安心したよう。ニカッ、と口角を上げて、ぐしゃり、とリズの頭を撫でた。……いささか力が強すぎたため、リズの頭はボサボサになってしまった。
「ちょっ、将軍!」
「とりあえず、笑えばいいのです。笑わなきゃ、判断を失敗して部下を殺してしまうかもやしれません」
泣くのは後からでいい。それがクレスウェル将軍の信念だった。
戦場では多くの兵が死ぬ。その度にいちいち泣いていては、頭がよく働かず、乗り越えることのできる困難でさえつまづいてしまう。死ぬはずのなかった部下を死なせてしまう。だから笑って気持ちを上向かせ、後でたっぷりと泣く。そう決めていた。
「……そうね」
リズは微笑んだまま、少し顔を俯けた。これから行くのは、近い未来に戦場になる場所。そのことを改めて思い知ったのだ。
カァン、カァン……と鐘の音が届く。出立まであと一時間。
「ああ、そうです」
クレスウェル将軍が口を開いた。リズは何事か、首を傾げる。
「私はあくまで補佐。総指揮はあなた様ですよ、リズ王女殿下。ですので、王女殿下には行軍中に幾つものことを覚えていただきます」
さぁ、と血の気が引く。確かに、国王は「クレスウェル将軍を補佐につける」と言ったが……。
クレスウェル将軍は感情を一切見せずに、笑顔を浮かべた。
「安心してください。王女殿下が間違った判断をなさろうとしたその時は、僭越ながら私が止めまさせていただきますので」
……それでも。それでも、リズの肩に数え切れないほどの命が乗ってることには変わりない。
すぅ、と指先が冷える。目の前が次第に暗くなり、リズは額を押さえた。
ふらついたリズを、細い腕が支えた。
「大丈夫ですか、王女様?」
その声は、絶対に聞けない、と思っていたもので……リズは慌てて足に力を込めた。……視界が少し暗いけど、大丈夫。
リズが振り返ると、そこにはウィルフがいた。何事もなかったかのように、まるでそこにいるのが当然かのように、ウィルフは景色に馴染んでいた。
リズはゆっくりと、唇を震わせた。
「何で……だって、昨夜……」
ウィルフはリズを安心させるかのように笑った。じんわりと胸が温かくなる。
「おう、坊や、来たのか! 王女殿下は来ないと思いなさっていたようだが……」
クレスウェル将軍がニコニコとしながら、ウィルフの背をバシバシと叩いた。ウィルフは相変わらず笑みを浮かべているが……さすがに痛いのか、少し眉が寄っていた。
「僕は、ずっと王女様と一緒ですよ。離れるわけがありません」
当たり前のように、サラリと言われた言葉。リズは嬉しくてたまらなかった。彼から注がれる優しさはとっても心地が良くて……だからこそ、申し訳なくなる。
ここから先は、常に命の危険がつきまとうのだ。
「だけど、あなたを危険に晒すわけには……」
「いいんです。むしろ、どんどん危険に晒してください。僕が危険になることで、あなた様の危険が減るのなら本望ですよ」
ウィルフはそう言って、震えていたリズの手を取った。そして、優しく手の甲を撫でる。
「……ありがとう、ウィルフ。だけど、自らの命を投げ捨てるようなことはしないでね」
リズは笑顔を浮かべた。
不安だった。怖かった。だけど、その気持ちはもうない。四年ほどずっと傍にいたウィルフが、今後も変わらずにいる。そのことに心が慰められた。
「では、王女殿下、そろそろ移動していただけますか? 出発にはまだ早いですが、早めに馬車に乗っていただけると何かとしやすいので」
タイミングを見計らって、クレスウェル将軍が言った。リズはそれに頷く。
移動しようとして……一旦立ち止まった。くるりと踵を返して、王宮を見上げる。
ずっと育ってきた王宮。大好きな母様やウィルフ、他の親しい者たちとの思い出も、……彼との思い出もある。
しゃらん、と右耳で耳環が揺れた。
(開戦……)
アルヴィンの国との戦。開戦の目的は幾つもあるだろうが、その中にリズの存在もあるのだろう。それは、あの即位式で察した。
(アルヴィン、私は確かに哀れかもしれない。この国には嫌な思い出もある。けど、……いい思い出もあるのよ。だから私は、この国にいる。この国を、──守る)
「王女様?」
突然王宮の方を見て立ち止まったリズに、ウィルフは声をかけた。少し、不安だった。まるで、このまま消えてしまいそうで……。
「……何でもないわ。行きましょう」
(きっと、きっと、……さようなら、アルヴィン)
そう心の中で呼びかけて、リズはアルヴィンとの思い出から目を背けた。
しゃらん、と耳環が寂しげな音を響かせた。