1章-2
リズは豪奢な……けれども他の王女たちに比べると見窄らしいドレスで、即位式に参列していた。
厳かな空気が大広間に満ちる。皆の視線が集まる先では、王太子が膝をついて、司祭から洗礼の言葉を与えられていた。
……儀式も終盤に差し掛かったころ。
「次期国王となり、このアドゥリス王国をあるべき姿に戻すことを誓いますか?」
瞬間、ザワッと大広間が揺れた。誰も彼もが視線を王太子から外し、困惑したように互いを見合う。
実際、皆が混乱していた。幾度となく繰り返された国王の即位式。だが、この司祭の文言は初めてだった。
リズは瞳を不安げに揺らした。……何だか、嫌な予感。
大広間に元の静寂が満ちた頃、王太子が言う。
「誓います」
リズはきゅっ、とドレスの裾を握った。
アドゥリス王国のあるべき姿。……もしかすると、もしかするかもしれない。
(……これが、ただの被害妄想になりますように……)
けれども、そうはならなかった。
儀式が終わり、王太子……国王が立ち上がって参列者たちを見回した。即位式に参列する権利を得るのは、自国の王族、貴族のみ。他国の者はその晩に行われる夜会にしか参加できなかった。
だからこそ、無茶が許される。他国の者がいないから、醜聞沙汰になりそうなこともできた。
「ここ数年、隣国マクリガーテ帝国が戦支度をしているとの噂がある」
国王が口を開いた。
ピン、と糸が張り詰めたような緊張感。僅かな衣擦れの音さえ響いてしまいそうな中で、リズは異母兄と目が合ったような気がした。
「おそらく、近々戦が起こるだろう。その原因は、父……前国王にある」
再びザワッと揺れる大広間。前国王は賢王と言われていたし、何しろ情に厚い方で、下々の意見も取り入れていた。そのため、今でも貴賎問わず支持が厚い方である。
そんな前国王を否定するのは、多くの支持を失うことを示していた。
何故、国王陛下はこんなことをしたのか。囁かれる推論。国王はそれを何もせず、ただ見つめていた。
……しばらくして辺りが落ち着きを取り戻すと、国王は話し出した。若干、顔色が悪いように見える。
「実はつい先日、前国王宛てにマクリガーテ帝国からの密書が届いていたことが判明した。そこには、あることをせねば開戦をする、と書かれていたようだ。それは──」
皆が次の国王の発言を少しも聞き逃さないよう、耳を澄ませていた。
そんな中で、リズは一人青ざめていた。
(まさか……そんな…………)
……有り得なくはなかった。それに思い至らなかったのは、きっと、信じたくなかったからだろう。
国王はそっと目を伏せた。
「それは、アドゥリス王国第三王女リズを向こうにやることだった」
大広間中の視線がリズに刺さる。よろめきそうになるのを耐えるので、精一杯だった。
「前国王はそれを拒否したため、マクリガーテ帝国との開戦が決まった。今から返答を変えても、マクリガーテ帝国が開戦を避けることは、もはやないだろう。……だから、私は命じる」
リズは青い顔で国王を見つめた。国王の顔には、一切の感情が見えない。……いや、少しだけ眉が寄ってるような……。
「第三王女リズ、そなたに此度の責任を取る機会を与えよう。……明朝、兵五千と共にマクリガーテ帝国との国境へ向かえ。補佐にはクレスウェル将軍を付けよう」
「将軍を……」
ぽつり、と誰かが言った。将軍は軍の長。そんな地位の高い人を戦場へ。実質上の左遷だった。
リズはゆっくり口を開いた。
「……承知、致しました」
震えそうな声を無理矢理抑えて言うと、大広間に喧騒が満ちた。
開戦が決まったのだ。戦支度で慌ただしくなる。皆が今後のことを相談しあっていた。
そんな中、リズは人一倍青ざめていた。戦場に行くことが決まったからだと思う者ばかりだったが、実際は違う。
(どうしてよ……アルヴィン……)
しゃらり、と揺れる耳環が、今ばかりは忌々しいものに思えた。
△▼△
その晩。リズは一人きりでバルコニーにいて、星空を見上げていた。夜会には参加せずに、星を読んでいたのだ。といっても、雲が星の光を妨げていたため、あまり読めない。
(きっと、母様なら読めるんでしょうけど……)
星を読む、という行為は、とても不思議なものだった。空をぼうっと見上げていれば、ふと、幾つかの星々が目につくのだ。それらを繋ぎ合わせて浮かび上がる図形を読み取る。
言葉で表せば簡単だが、これが本当に難しい。まず「幾つかの星々が目につく」ということ。母曰く、これは『星の一族』の血を引いてないと分からない、とか。
それが原因でか、リズは生粋の一族である母と比べて、あまり星を読めない。母は昼間でも星を読むことができたが、リズは夜でも、雲に空が覆われるともう無理だった。
夜風が木々を揺らし、月は星空のベッドで、雲をかけてぐっすりと眠っている。どこからかホゥ、ホゥ、というフクロウの鳴き声が聞こえてきた。
(……そういえば、あの日もこんな晩だったわ)
ゆっくりと、リズは瞼を下ろした。
確か、母が死んで、一人悲しんでいた夜。こんなふうに辺りは静かだけど、遠くから夜会の喧騒が風に乗って来て……。
──見つけた、リズ。
「王女様?」
リズは唐突に現実に引き戻された。バルコニーの下を見ると、寝間着姿のウィルフが。
「風邪、引いちゃいますよ」
ウィルフはいつも通りに……いや、いつも通りを装って言った。リズは即位式の後部屋にこもり、誰も入れなかったためよく分からないが、彼は平民のため即位式には参加できなかったものの、その際に下された命令は噂で聞いているはず。
リズはくしゃ、と顔を歪めた。ウィルフの優しさが胸に染みる。暖かくて、こそばゆくて、……申し訳なかった。
「……ウィルフ」
「はい?」
いつも通りの笑顔。
そういえば、こんなことも昔あった。リズが会いに行く度に、彼はいつも笑顔を浮かべていて……。
(ダメ。今は、ダメ)
今日はやけに昔のことを思い出してしまう。数時間後には、国境へと旅立つからかもしれない。おそらく戦争は始まるから、……ここに戻ってくる可能性は限りなく低い。
「王女様?」
ウィルフの心配そうな声に、リズは泣きたくなった。与えられる優しさを、温もりを、手放したくなかった。
けれども、そうは言ってられない。これから向かうのは国境であり、戦場だ。何ものも、命には代えられない。
だから──。
「……ウィルフ、あなたを私の侍従から外すわ」
ひゅっ、と息を呑む音がリズの耳に届いて、苦笑する。ああ、告げた内容は違うけれど、ここも昔と似ている。不思議な偶然だった。
対するウィルフは混乱の極みに達していた。リズの侍従になって、もうすぐで四年。解雇を言い渡されるなど、想像もしたことがなかった。
「どう、して、ですか……?」
思わず口から出た質問に、リズは答えなかった。ただただ、微笑を浮かべる。
「あなたは、もう要らないの」
こんな分かりやすい嘘で、彼が離れるとはリズも思ってない。だけど出立は明朝。つまり、残り数時間、彼を動揺させればいい。動揺させて、考えなくさせて、嘘に気づかせなければいい。
ウィルフの忠誠心を逆手に取った行動。胸が痛くて、熱かった。
「さようなら、ウィルフ」
最後の挨拶をして、リズはバルコニーから自室へ戻った。寝室のドアを開けて、ベッドに倒れ込む。
「ごめんなさい、ウィルフ」
……似たようなことが、昔もあった。ああ、何という奇妙な偶然だろう。リズは目を潤ませながら、皮肉げな笑みを浮かべた。