序章-2
それからアルヴィンの少しだけ変わった日々が始まった。牢にいるのは変わらない。けれど、アルヴィンの生活にリズが増えた。毎日やって来て話をするリズのおかげで、憂鬱な日々はどこへやら。とても楽しくて、輝かしい時が続いた。
この日々は、国に戻った後も、死ぬまでずっと、アルヴィンの二つ目の宝物になった。
もし、リズと会わなければ……そう思うことは決してなかった。
アルヴィンがリズと出会って半年ほど経ったある日。その日も、いつもと変わらない日のはずだった。
「アルヴィン」
降ってきたリズの呼びかけに、アルヴィンは顔を上げた。
「リズ」
アルヴィンはリズの顔がよく見える位置に移動する。リズは降りてきて近くで話したいようだったが、アルヴィンがそれを拒否した。牢の中にいるのを見られたら、おしまいだから。……外から見られても同じことだけど、外にいるのなら、まだリズには逃げられる可能性があるから。
歩く度にジャラリ、と足枷が鳴るけれど、アルヴィンの表情は変わらない。足枷は彼の体を縛り付けることはできても、もう彼の心を縛ることはできなかった。
アルヴィンはいつもの位置で座り込んだ。少し顔を上げると、リズと目が合う。アルヴィンがじっとリズを見つめていると、彼女は笑った。とても美しい笑顔。その笑顔を見るのが、アルヴィンの密かな楽しみだった。
「じゃあ、アルヴィン、あなたの話を聞かせて?」
リズの言葉に頷いて、アルヴィンは話し始めた。話すのは、故郷にいた時のこと。例えばテーブルマナーの教師に仕掛けた悪戯や、いつもフードを被って顔を見せない歴史教師のフードを取ろうとしたこと。
これらを話すのには、理由があった。
──お互いを知っていきましょう?
そう、リズが言ったから。だから毎日、ぽつりぽつりと、二人は互いのことを交互に話した。夜のたった三十分しか話せないため、一晩のうちに語れることは少ないけれど、日を重ねるにつれ、互いのことをよく知るようになってきた。
アルヴィンは戦略を練るよりも実際に戦う方が得意だとか、リズは母である側妃のことが大事だとか。些細だけど、当人にはとても大切なことを知っていった。
今日アルヴィンが話したのは、馬術の訓練のことだった。
「僕は馬術が好きなんだ。よく無理を言って遠乗りに行ったし、例え皇子らしくなくても、自分の馬は自分で世話をした。僕の愛馬はユーフィットって言って、七歳の誕生日プレゼントで、陛下からいただいたんだ。その時からずっと一緒に育ってきたけれど……」
そこで、アルヴィンの口が止まった。口を開いては、何も言わずに閉じる。そんなことを繰り返していた。
リズは首を傾げる。けれど、アルヴィンは続きをあまり話したくない、ということは分かった。
「言いたくないのなら、言わなくていいのよ?」
「……ううん、言うよ」
そう言って、アルヴィンは大きく深呼吸をした後、ぽつり、と話し出した。
「……ユーフィットは、殺されたんだ。遠乗りに出てる時のことだった。いきなり襲われて……ユーフィットも、矢を射られて……倒れた。付き添いの兵士たちも頑張って僕を逃がそうとしたけど、ユーフィットが倒れたから逃げられなくって……。それで、気絶した後、目が覚めたらここだった」
思い沈黙が満ちる。アルヴィンは顔を上げてリズを見た。……顔を伏せているため表情は分からないけれど、肩が震えていた。何を思っているのだろう? とても、不安だった。もし、リズが自国を馬鹿にされたと怒ったら……それを受け入れよう。そう思った。けれど……。
(離れるのは……嫌だな)
「……あなたは、悪くないわ」
ぽたり、と降ってきた声。まるで泣いているよう。けれども、顔を上げたリズの瞳に浮かぶのは、涙ではなく怒りだった。
「悪いのは、あなたを売った人たちよ」
リズは立ち上がって、くるりと踵を返した。
「……そろそろ戻るわ。おやすみ、アルヴィン。また明日」
感情を押し殺した声に、アルヴィンは少しだけ嬉しくなった。彼女が自分のために怒ってくれている。それがたまらなく嬉しかった。
「……うん、おやすみ。また明日」
返事はなかった。アルヴィンはリズの足音に耳を澄ませる。
……足音が止まって、「ひどい」というリズの声が聞こえた。
△▼△
翌晩。いつもの時間にリズは現れた。だけど、その表情は浮かない。
「どうしたの?」
「……何でもないわ」
そう言って、リズは笑顔を浮かべた。だけど、いつもよりぎこちない。
アルヴィンは首を傾げて、リズに元気のない理由を尋ねようとした。
しかし、その前にリズが口を開く。
「……今日は、私の話ね」
ぽつり、とした声に、アルヴィンは胸が締め付けられた。何で? 分からない。けど、胸が痛い。
そんなアルヴィンに気づかないまま、リズは話し始めた。今日の話は、母と自身のこと。
「私の母様が側妃だっていうのは、前に話したよね?」
アルヴィンが頷こうとしたとき、リズはまた口を開いた。
(……どうしたんだろう?)
「実はね、母様は『星の一族』なの」
ひゅ、とアルヴィンは息を呑んだ。
『星の一族』は、世界各地に散らばる謎の多い一族だ。分かっているのは、星を読んで未来を予測することと、決して表舞台に出てこないこと。それだけ。
そんな一族の一人がアドゥリス王国の側妃……。
「といっても、勘当されてるけどね。……だけどそれは機密事項で、知ってるのは父様とか国の重鎮たちくらい。だから私は平民の側妃の娘って思われてるわ」
アルヴィンはぽかん、とリズを見つめていた。何しろ、今まで話してきたのは互いのプライベート。国の重要機密に関しては互いに避けてきた。なのに彼女は、国でも最高機密であろうことを話した。敵国の皇子に。
だけど、アルヴィンにはある確信があった。
(多分、あまり元気がないことに、関係あることなんだ……)
実際、そうだった。
「……だから、私も半分だけ『星の一族』の血を引いてて、……星を読んで、未来も母様ほどじゃないけど、分かるの。それで……」
リズは黙りこくった。昨夜のように、重たい沈黙が二人の間に降りる。
アルヴィンは俯く彼女を見て、今すぐ抱きしめたくなる。だけど、二人の距離は遠いままで……それは不可能だった。
すっ、と息を吸う音が静寂を裂く。それと共に、リズが顔を上げた。瞳には覚悟と、その後ろに不安が漂っていた。
「……私は、あなたがここに来ることを知っていたの。そう、星が告げたから。……正直、初めてそれを知ったとき、どうでも良かったわ。だって、私の世界にあなたはいなかったもの。だけど……」
リズは一旦、言葉を区切った。そして息を大きく吸い込み、口を開く。そうでもしないと、言えないようだった。
「私の世界の外にも、世界が続いているんだって、あなたと会って知れたわ。……ありがとう、アルヴィン」
はっきりとした言葉。だけどどこか不安定さが感じられて、アルヴィンは気がかりだった。
──抱きしめて、隣に立って、……彼女を守りたい。そんな思いがアルヴィンの心の内に生まれる。
けれど、二人の間には明確な差があった。王女と囚人。アドゥリス王国の王女と、敵国のマクリガーテ帝国の皇子。けして、隣に立つことはできない。
(だけど、だけどっ!)
暴風雨のように、感情が荒れる。どうにかしたかった。どうにかして、彼女の隣に立ちたい。守りたい。
……ふと、アルヴィンの心中にある考えが現れた。けれど、それを実行に移すのは憚られた。だってそれは、リズの日常を壊すことだから。だけど……。
(これしか、ない。僕が彼女の隣に立つには、これしか……)
「アルヴィン?」
不安げなリズの声に、アルヴィンは現実に引き戻された。まずは、そう、彼女に伝えなきゃ……。
「リズ、下りてきてくれる?」
その言葉に、リズはゆっくりと頷いて、ロープを垂らしてから降りてきた。
アルヴィンは降りてきた彼女の傍に立って、瞳を見つめた。深い青の瞳は、不安げに揺れている。それが堪らなく愛おしくて、アルヴィンはそっと口付けを落とした。
ぴくり、と跳ねるリズの体。数秒の後、アルヴィンは顔を離して、自らの右耳に手をやった。しゃらり、と揺れる黒と青の耳環。……まるで、僕らみたい。
「これ、あげる」
そう言って、アルヴィンはリズの右耳に耳環を付けた。一つ目の宝物。それをリズにあげた。
リズは驚いた表情でアルヴィンを見た。彼女に、この耳環が大切なものだと話したことがあったからだろう。
アルヴィンはクスリ、と笑って、リズを抱きしめた。
「だから、待ってて。迎えに来るから」
「どういうこと……?」
リズの問いかけに、アルヴィンは何も返事をしなかった。ただ、笑顔でリズを見つめていた。
翌日の夕刻、リズは兵たちによって凶悪な犯罪者が逃げ出したことを知った。
「言えなかった……」
ぽつり、とリズの口から公開の言葉が零れ落ちる。小さく、後悔に満ちた声は、聞く者に悲哀の感情を抱かせた。
「ごめんなさい、アルヴィン。私、知ってたの。あなたが──……」
そう言って、リズは顔を覆った。申し訳なくて、辛くて、悲しくて、……彼が哀れだった。