序
江戸の夜は暗いものである。
月のない夜はなおさらだが、今宵のように晴れた満月の夜でもやはり暗い。
店が多い通りなどはまだ良いが、そこから一筋入った裏道などはもう、暗くて暗くて提灯がないと足元もおぼつかない。
だが、それゆえにわざわざ裏道を通る者はいる。身元を詮索されたくない者や、そもそも家や宿がない者。
「お兄さん、おひとり?」
そして、裏の世界に生きる者。
髪をあまり整えていない、無宿者らしい男に声をかけたのは、いかにも夜鷹らしい色っぽい女だった。被った布の奥から覗く目元が、潤んでいるのが分かる。
ただ、満月の光がそこまで照らすことができるのか、男には分からない。
「姉ちゃん、こんなところで客取りか? 縄張りとかはいいのかよ」
「仕方ないじゃないの。ここんとこ、河原じゃお客が取れなくてねえ」
「ああ、『血吸妖』の話か」
「そうそう。おかげであたいたち、おまんまの食い上げよ」
男にまとわりつきながら、女は肩をすくめて愚痴をこぼす。それは最近、この界隈で聞かれる殺し、であろう話であった。
数日に一人、人気のない道で死ぬ者が出ている。その骸は前の日まで生きていたにしては干からびかさついている、という。そこから、人々は『血吸妖』と呼んでいた。
特に河原で斬られた者が多いことから、夜に川のそばを歩く者はほとんどいなくなっている。その辺りを縄張りとする夜鷹であれば、たしかに商売上がったりであろう。
「それでねえ、お兄さん」
自分にしなだれかかる夜鷹の体温が低いことには、男は気づいている。月にかかる雲さえない、しんしんと冷える夜だ。客を探して外を歩いていたのだろうと、さすがに気の毒にはなった。それに、最近女の肌にはありついていないから。
「構わねえけどよ、道端でやる気じゃねえだろうな?」
「安心してちょうだいな」
「んぐっ!?」
首に腕を回してきた夜鷹の唇が、血のように赤い。一瞬それに目を奪われて、男は己の口を布で塞がれたことに気づくのが遅れた。覆われただけならばまだしも、口の中にぐにゅりと押し込まれて息が苦しくなったというのに。
「むぐ、ぐう」
「うふふ。すぐに終わるから」
耳元でささやかれる声とともにぷすり、と首筋に何かが刺さる音がして。
「おまんまは、ここででもいただけるもの」
とても嬉しそうな女の声を耳にしながら、男は意識を失った。
永遠に。