『光精霊術』
「――アンヘル様、間もなく到着となります」
棺屋筆頭代は、無機質な声でそう告げた。
ここはプロステルダム帝国南西に広がるアドラス海。潮騒の音と海鳥の歌とに囲まれた船上に、アンヘルの姿はあった。けれど、その瞳は相変わらず凪いでいる。場所が変わろうと、目的が変わろうと、彼女はただ、家名のために祖父の命令に従うだけ。感情の入り込む余地など、どこにあるというのか。
「どうぞ、下船の御準備を」
同じく陰気な死臭を漂わせたまま、棺屋筆頭代は繰り返す。言われるまでもなく、アンヘルの目には目的地である島影が映っていた。
フォレスタル島――アドラス海の洋上に浮かぶ巨大な孤島。上空から見ると正確な真円状をしているため、一部では人工的に作られた島だと噂する者もいるが、真偽は未だ明らかになっていない。ただ一つだけ確かなのは、この不思議な円形の孤島に‘第四旧世紀’と呼ばれる古代超科学文明の遺産が数多残されていることのみ。
「アンヘル様、接岸が完了いたしました」
再び筆頭代が告げた。アンヘルは無言のまま甲板を離れようとする。
そんな少女の眼に、海岸線の岩陰に上下する一隻の小舟が留まった。今にも沈んでしまいそうな、ちっぽけな船。彼女はふと、不思議に思う。一体どんな人間が、それに乗ってこの島にやってきたのだろうか。オーパーツ目当ての盗掘人だろうか。探険好きの冒険者だろうか。それとも――
だが彼女の胸に湧いた微かな興味は、筆頭代の声に儚く萎んでいった。
「アンヘル様、いかがなさいました?」
「……なんでもないわ」
筆頭代の声は、いつでも彼女を現実に引き戻す。死に向かって己の足で歩き続けなければならないという、凍えるような現実に。
そうして降り立った島は、鬱蒼とした森林に覆われていた。
けれど、一陣の風が運ぶのは、血の味にも似た錆の匂いだけ。
この島は生きているように見えて、実際はもう死んでいる。アンヘルはぼんやりとそう思って、小さく呟いた。
「……私と同じね」
そうしてアンヘルは歩み出す。古代の骸が未だ蠢く島へと。
だが、森へ一歩踏み入れた途端に咆哮が轟いた。つんざくような雄叫びが大気を揺らす。島からの手荒い歓迎は、アンヘルや棺屋たちが予想していたよりもずっと早く訪れたのだ。
獲物を狩ることのみに特化した強靭な巨体に、大剣ほどもある残忍な爪、そして頭部には特徴的な真紅の一本角――木々を薙ぎ倒しながら現れたのは、ベヒーモスと呼ばれる大型の魔獣。熟練の魔物ハンターが十人がかりでもてこずる危険種である。そんな獰猛極まる凶獣は、森に入ったばかりのアンヘル一行に牙を剥いた。
唸り声と共に繰り出される強烈な突進攻撃。一直線に棺屋の列へと突っ込んだベヒーモスは、逃げ遅れた一人に向けて巨大な角を振り上げる。哀れなその棺屋は軽々と弾き飛ばされ――ぐしゃり、という厭な音を立てて地面に叩きつけられた。幸い一命は取り留めたようだが、足の骨が折れたらしく呻くことしかできない。
魔獣の勝鬨が森中に響き渡る。大抵の獣ならば、この時点で仕留めた獲物をねぐらへ持ち帰るだろう。しかし、ベヒーモスという種は違う。一度狩りを始めたら、視界に入る獲物すべてを狩り尽くすまで決して後退しないのだ。
そして血に飢えた魔獣の眼が次にとらえたのは、なおも無表情を貫くアンヘルだった。
再び森中を震撼させる獰猛な雄叫び。ベヒーモスは醜歪な角を振りかざし、未だ微動だにしない少女へまっすぐに突進する。
そこで初めて、アンヘルが動いた。
「《エインシェルツ》」
呟くと同時に、少女の周囲に大小様々な光の球が現れた。その数、実に十三。
そっと真上へ手をかざしたアンヘルは、まるで楽団を束ねる指揮者の如く優雅にその手を振り下ろす。
「《シャル・アヴシャーツェン》」
次の瞬間、すべての光球が一斉に眩い光線を放った。
避ける暇もない神速の光弾。目視とほぼ同時に着弾した十三本の光線は、一瞬にしてベヒーモスの巨体に二十六の傷穴を穿ち、命の灯を軽々と消し去った。
『光精霊術』――宿主の魔力を喰らい、光子に酷似した異端魔力へと変換する光精霊。その担い手のみが使える特異魔法だ。それはアンヘルにとって忌むべき呪いであり、そして同時に、身を守るためのただ一つの武器でもあった。
「アンヘル様、お見事でございます」
筆頭代の世辞を聞き流し、アンヘルは魔獣の死骸を踏み越えて歩き出す。
負傷した棺屋は未だ地べたで呻いているが、アンヘルは元より、他の棺屋たちも手を貸そうとはしない。
不干渉――それが彼らの関係性を示す唯一の言葉。
少女は自らの葬列を引きつれて、冥府への坂道を下り始めた。