二人のプロローグ
翌日明朝。草木でさえもまだ甘い微睡を貪っている頃。
アルコの街の正門に、ナギの姿があった。
見送る者のいない、一人きりの旅立ち。少年にとってはいつものこと。
――だがこの日の朝は、いつもと少しだけ違っていた。
「……うーん、もう食べられにゃい……」
正門脇の木陰から聞こえてくる、世にも間抜けな声。嫌な予感を抑えつつ眼を向ければ、案の定、べたな寝言を口走りながら眠りこけている少女の姿が。涎まで垂らしているその少女から急いで視線を逸らすと、ナギは無言のままいそいそと歩き始める。だが……
「……むにゅむにゅ……んあっ!? いっけね、寝込んじゃった……って、あっ、ナギ! あんた早起きなのね~、張ってた甲斐があったってものね」
幸か不幸か、折よく目を覚ましたコムギは、大あくびしながら起き上がった。
「まっ、宿代なかっただけなんだけどね」
そしてそのまま、さも当然の如く後ろを歩き始めるコムギ。関わり合いになりたくないとばかりに無視を決め込んでいたナギも、これにはたまらず振り返るしかなかった。
「……なにしてるの?」
「なにって、なによ、御挨拶ね! お金返さなきゃいけないし。あんたが行くならついてくしかないでしょ?」
「そんなの、別にいいよ。最初から返ってくるなんて思ってないから」
「ちょっと! 馬鹿にするんじゃないわよ! 私を誰だと思ってるの? 未来の大冒険者コムギ様よ! 倍にして返してやるんだから!」
「絶対無理だと思うけど……」
ナギはぼそりと呟く。
「だいたい、僕がどこへ行くかわかってるの?」
「ううん、知らない。教えて?」
悪びれもなくしれっと言ってのけるコムギ。
「……北東にあるアールムの街だよ。棺屋を探している人がいるらしいから」
仕方なく溜め息混じりに教えてやれば……
「あら、丁度いい! 昨日宿屋を出る時にね、旅の人から聞いたの。この先に珍しいダンジョンが現れるらしいって。でもアールムがどこにあるのかわからなくて困ってたのよね~」
などと喜ぶ有り様。計画性も何もあったものではない。
「だいたいね、保護者もなしにうろついちゃ駄目でしょ? 危ないわ」
「危ないって……僕の方がコムギより強いと思うけど……」
あくまでお姉さんぶるコムギの態度にむっときたのか、ナギは微かに唇をすぼめる。
「……あと、子供じゃないってば」
「いーや、腕っぷしなんて関係ないわ。どんなに喧嘩が強くたって、あんたはまだ十六にもなってないおこちゃまなの」
「でも……」
なおも食い下がろうとすると、コムギは大声を上げてその言葉を遮った。
「あーもー、うるさい!」
そしてナギの方へ手を伸ばすと、むにゅっとその頬をつねる。
「こんなぷにぷにほっぺしてる間は子供なの! わかった!?」
「いふぁい、いふぁい、放してよ……」
「だから、私が保護者になったげる。これでもがきんちょの面倒見るのは慣れてるんだから。どーんと任せなさいって!」
コムギは豪快に笑って、わしゃわしゃとナギの頭を撫でた。ナギは乱された髪の隙間から恨めしげにコムギを睨む。だが、舌先まで出かけた反論を飲み込むと、そのまま俯いてしまった。
「……僕といても、いいことなんてないよ」
小さな呟きが、ナギの口から零れた。
冒険者の遺体回収――それはすなわち、冒険者が命を落とすほどの危険な場所へ、自ら赴くことを意味する。わざわざ死地のみを選んで飛び込むなど、自殺志願者と変わらない。そうまでして得られる対価は、遺族や周囲からの嫌悪の眼。到底割に合った仕事ではない。生半可な気持ちで関われば、この世のあらゆる汚濁を見ることになる。――ナギの言葉は、口下手な少年にとって最大限の警告に他ならない。
けれど、そんな精一杯の誠意をコムギは一切の迷いなく斬り捨てた。
「じゃあこう言えばいいかしら――『道が同じだけだよ』」
いつかの意趣返しだ、とばかりにコムギは渾身のしたり顔を浮かべる。巻き込みたくない、というナギの気遣いなどまるでわかっていないようだ。
強引、横暴、身勝手、我が儘……
コムギを罵倒する言葉はいくらでも頭に浮かぶのに、彼女の屈託のない笑顔を見ていると、どうしても言葉が出なくて――
「……勝手にすれば」
――ナギはつんとそっぽを向いた。その口元がほんの微かに、だがちょっとだけ嬉しそうに緩んで見えたのは、柔らかな春の日差しが見せた錯覚だったのかも知れない。
こうして、棺屋の少年と冒険者を目指す少女の、奇妙な旅が幕を開けた。