真贋
「――ボクは、もう、一つだって奪われたくないんだよ!!!」
レンカの懐から取り出される、小さな蒼い宝石。
《告死の青》――強力な呪いを秘めた破壊の魔具にして、レンカがダーラルエルヴィアから与えられていた最後の切り札。それが今、レンカの手の内で嬉々として傀呪を受け入れたかと思うと、高々と宙空へ放り投げられた。
「コムギ――ッ!」
瞬間、踵を返したナギは、咄嗟にコムギの元へ駆け寄る。
そして、自分ごと黒衣で包み込んだ直後――《告死の青》が大爆発を起こした。
天井、壁、床……あらゆる障壁が吹き飛ぶほどの甚大な破滅の暴風。床の崩落に巻き込まれ、あらゆるものが重力に従い落下する。
そして、音と衝撃の坩堝と化す数秒が過ぎ去った後、静まり返った瓦礫の合間に、ナギとコムギの姿があった。傀呪により強化された外套は、鉄壁の鎧となって二人を守りきったのだ。
ただ、ナギの顔に安堵の色はなかった。
その理由は、瓦礫の隙間に散らばるガラス容器の欠片。それは、紛れもなく複製体を収容していた培養槽のもの。――そう、《告死の青》が巻き起こした爆発の余波は、二階層分の床を貫き破壊した。すなわち、地下五階に居たナギたちは今、ダーラルエルヴィアの隠し研究室に落下してきていたのだ。
そしてナギは、すぐに最も恐れていた光景を目の当たりにすることとなる。
砂埃の収まった後、ナギが見たのは、複製体の培養槽を前にして絶句するレンカの姿だった。
「ナギ……キミは……全部、知ってたんだね……」
少女はナギの方を見ようともしないまま、呆然と呟く。
二つ並んだ容器に浮かぶ死体と複製。すべてを悟るには、それで十分だった。
「レンカ、落ち着いて……それは、その……」
ナギはどうにか取り繕おうとする。だが、決定的な事実を前にした少女に対して、かける言葉など見つかるはずがなかった。
「いいんだ、ナギ。……ごめんね、ボクはずっと勘違いしていた。キミの優しさに気付けなかった……」
恐ろしいほどの静かさで、少女は滔々(とうとう)と言葉を接ぐ。
「でも、今、ようやくわかったよ……」
そしてようやく少女が振り向いた時、ナギは怖気立つほどの戦慄を覚えた。
「キミの傀呪が特別強いんじゃない……ボクの傀呪が弱すぎるんだね。……だってボクは――ただの贋作だったんだから」
少女の瞳に涙はない。
けれどその奥底に、ナギは砕け散った心の欠片を見た気がしたのだ。
「レンカ……」
「あはは……違うよ、ナギ。ボクはレンカじゃない。‘泥の中に咲く花’なんかじゃなかったんだ。ボクはただの泥。たまたま花の形をしていただけの紛い物だよ。……はは……なら、ボクは一体、誰なんだろうね――?」
記憶を持たぬ少女にとって、‘レンカ’という名前は唯一の過去とのつながりであり、自己を定義する基盤そのものだった。
けれど、それが今、跡形もなく崩れ去った。このままでは、少女の自我がもたない。
「……レンカ、一緒にここを出よう」
とにかく今は、この場から少女を引き離すのが急務。
そう判断したナギは、少女に声をかける。だが、返答はなかった。少女は呆然と床にへたりこんだまま動こうとしない。
「……レンカ!」
ならば力づくでも、と腕を掴もうとしたその時、背後からコムギの叫び声が聞こえた。
振り返れば、そこには隠し扉から現れた十数人の衛兵たち。この惨状に驚きもせず、まるで人形のようにナギたちへ向かって襲い掛かる。
咄嗟に応戦する中で、ナギはすぐに気が付いた。
通路を巡回していた信者あがりの衛兵たちとは明らかに違う。鍛え上げられた肉体と、訓練された身のこなし。そして何より、眼にまるで生気がない。恐らくはこれが、ダーラルエルヴィアの言っていた世界をとるための武器の一つ。洗脳した高名な冒険者の複製体なのだろう。あらかじめ植え込まれていた命令の通り、予期せぬ侵入者を狩るために現れたのだ。
「くっ……!」
ナギはいらだたしげに舌打ちする。
続々と数を増す複製体。コムギを守りながらでも、今のところはナギの敵ではない。が、更にレンカを抱えて、となると強行突破は格段に難しくなる。そして何よりナギが恐れたのは、ここで足止めされることで、ダーラルエルヴィア本人がこの場に現れることだった。
「……コムギ、一旦ここを離れよう」
レンカのことは気がかりだが、ここで自分たちが捕まってしまえば、ダーラルエルヴィアの計略を王都に伝えられる者がいなくなってしまう。――苦渋の決断の末に、ナギは一時撤退を選択する。
けれどその判断に、コムギは大きく待ったをかけた。
「一分! 一分待って!」
「コムギ――?」
言うが早いか、コムギは返答も待たず駆け出す。彼女の目指す先にいたのは、呆然と座り込んだままの少女。
そしてその傍らに跪くと、コムギは耳元で叫んだ。
「名前!」
「……え……?」
突然の大声と意味不明な一言に、少女は思わず反応する。
コムギはにこりと微笑むと、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「名前、教えて! ……私はね、コムギっていうの。意味はそのまんまよ。いつだってパンをお腹一杯食べられますように、って名前なの。私、すっごく気に入ってるのよ!」
改めて言われずとも、コムギの名前など王都で会った時に聞いている。お互いに自己紹介をしあったのだから当然だ。
だが、少女はそこで気づいた。自分には今、名乗るべき名前がない。あの時とはもう違うことを。
「……ボクには、名前なんて……」
だが、沈鬱な少女の言葉も、コムギはあっさり受け流した。
「あら、そうなの。……なら、新しく考えなきゃね!」
「か、考える……? 一体、キミは何を言って……?」
飛躍した発言に、少女は目を丸くする。まるで理解が追い付かない。
コムギはそんな少女の様子を気にも留めず、さらりと言い切るのだった。
「だーかーら、次会う時までに、名前、考えといて。ぶっちゃけ私、そのレンカって子のことなーんにも知らないし。だからあなたがレンカじゃなかったとしても、正直、だから何? って感じ。だって、初対面の相手のことを知らないのなんて、当たり前のことでしょ? でもね、それでもあなたが自分のことを偽物だったって思うなら、今度は自分で名前を考えなさいよ。とびきり素敵なやつをね! そしたら、私ともう一度、「初めまして」の握手をしましょう?」
限られた時間の中、コムギが伝えられたのはそこまでだった。
約束の一分を数えたナギは、コムギを抱きかかえて逃走を謀る。複製体たちもその後を追い、めちゃくちゃになった研究室に残されたのは少女だけとなった。
静まりかえった室内。それ以上に、少女の胸に穿たれた空洞は虚ろ。自我の拠り所を奪われた彼女の心は、悲しいほどに脆い。ただ、その空虚な穴の片隅に、今聞いたコムギの言葉が木霊していた。
名前を、自分で考える――
けれど考えがまとまるより先に、彼女の背後に近づく者がいた。
「――レンカよ」
聞き慣れたその声に、少女ははっと振り返る。
現れたのは他でもない、ダーラルエルヴィア本人であった。
「何やら騒がしいな」
弾かれたように立ち上がった少女は、すぐに主の膝元へ身を投げ出す。
「も、申し訳ありません! しゅ、囚人たちに逃げられました!」
その報告を受けた老人は柔和に微笑むと、「そのようだな」とだけ言った。この隠し研究室については、一言も口にしようとはしない。
だから、少女はおずおずと自分から尋ねた。
「あ、あの……ムスタファ様、この部屋は……一体……?」
少女は最後に残った一縷の希望に縋り付いたのだ。
もしかしたら、自分だけは特別かも知れない。自分だけは、こんな生産施設ではなく、本当に蘇生して貰えたのかも知れない。ダーラルエルヴィアにたった一言「お前は本物だ」と言ってさえ貰えれば、きっと自分は救われる。そう思っていた。
けれど老人は、否とも応とも言わなかった。
「ここは複製体の製造施設だよ」
老人はただ聞かれたことに答えるだけ。少女については何も口にしない。
「あの、ボクは……ボクも、ここで……?」
少女は勇気を振り絞って尋ねる。
だが老人は、返答の代わりに問いかけた。
「あの子とは戦ったのかね?」
「……な、ナギのことですか……? は、はい……」
「どうだった? 本気の彼との戦いは?」
「……ぜ、前回とはまるで違う、すさまじい力でした。ボクも全力で応戦して、一時は互角にまでもっていったはずなのですが……ナギは、その、自分の心臓に傀呪を流し込んで、それで突然強く……あれが一体何だったのか、ボクにはよく……」
と、聞かれるがまま先ほどの戦いを思い返す。すると、老人は心底愉快そうに笑い始めた。
「そうか、なるほど、やはりあの少年はその域にまで……ふふふ、やはり彼は、私の片腕として必要な逸材だ」
声を抑えられないとでも言うように、喉の奥でくつくつと笑う老夫。ここまで上機嫌な主の姿を、少女は初めて目にした。
「レンカよ、彼が何をしたのかわかるか? ただ傀呪を己の肉体に流し込んだのではないぞ。彼はな――傀呪によって傀呪そのものを強化したのだ」
「傀呪で、傀呪を……?!」
「そうだ。己が身を呪い、命を削って敵を討つ呪詛の円環。理論上、その強化の環に上限はない。それ故に、加減を間違えれば肉体が呪いに耐えきれずに自壊する。そうでなくとも、自分の心臓に傀呪を打ち込む反動は計り知れぬ。……だが、本物の柩鬼の一族ならば可能なのだよ」
「そんなカラクリが……」
ナギの力の根源を知った少女は、ひれ伏すように請うた。
「も、もう一度、もう一度機会をください! こ、今回は言い付けを守れませんでしたが、やり方は理解しました! これでボクも、ナギと同じ力を使うことができます――」
必死で主に縋り付く少女。名前すら喪失した彼女にとって、ダーラルエルヴィアの道具であることが、唯一残された存在理由。だから彼女は、何より「役立たず」と捨てられることを恐れたのだ。
「だから、きっとまだ、ボクはムスタファ様のお役に……!」
「――いいや、無理だな」
けれど、ダーラルエルヴィアの答えは冷徹だった。
「言ったはずだぞ。……『本物の柩鬼の一族ならば』、と」
「そ、それは、どういう意味で……?!」
「お前がそんなことをすれば、加減する間もなく確実にその場で死ぬということだ。――複製体のお前ではな」
「そん、な……」
少女はもう言葉を口にすることもできなかった。彼女が心酔してきた老人は、少女の生涯そのものを否定する真実を、ほんの片手間に伝えたのだ。
そしてダーラルエルヴィアは、絶望する少女に向けて言い放った。
「何を驚くことがある? 所詮お前は贋作。本物には勝てぬ。ただそれだけのことではないか」
それは、侮蔑でも叱咤でもなかった。当たり前のことを当たり前のように言っているだけの口調。それもそのはずだ。太陽が明るいことを誰が誇るか。夜が暗いことに誰が激怒するか。偽物が本物よりも優れることなど有り得ない。それは単純にして絶対の真理なのだった。
「レンカよ、もはやお前に役目はない。どこへなりとも去るがよい」
「どうか、どうか捨てないでください……! ボクにできることなら、なんでもやります! だから、どうか……!」
すがりつく少女の手を、ダーラルエルヴィアは冷ややかに払いのけた。まるで興味がないとでも言わんばかりに。
「安心しなさい。お前を捨てるわけではないよ」
「ほ、本当、ですか……?!」
「ああ、無論だ。計画を遂行した暁には、約束通り柩鬼の一族みなを蘇生させよう。その時に、もう一度お前を造ってやるさ」
「……は? な、何を言って――?」
「新たな世界に生まれた新たなレンカは、必ずや幸福な生涯を遂げることだろう。お前の望み通り、家族の皆とな。どうだ? レンカ。嘆くことなど何もないだろう? お前はきちんと救われるのだよ」
口先だけの誤魔化しなどではない。老人は本気でそう言っている。――少女は男の瞳の奥に逆巻く狂気を見た。
「……ボクは、一体……」
ふらふらと立ちあがって、少女は虚ろな足取りで去って行く。まるで抜け殻。糸の切れた操り人形だ。
ダーラルエルヴィアは、そんな少女の背中に一瞥もくれることなかった。いや、これまでもずっとそうだった。彼の見ているものは常に一つ。――娘と笑う未来だけ。
故に、老人はただ、遠くを見つめて微笑むのだった。
「……さあ、そろそろ次の工程へ移ろうか」




