柩鬼の秘術
けたたましい警報音が鳴り響く地下回廊。
その中を堂々と駆け抜けるのは、ナギとコムギ。看守室に乗り込み棺を奪い返した二人は、地上を目指してひたすら走っていた。
「止まれ、止ま――」
「くそ、もっと増援を――」
各所に置かれた守衛室から次々飛び出してくる衛兵たち。
けれど、二人を捕えるどころか足止めすることすらできていない。擦れ違い様に放たれる優しい手刀の一撃で、ことりことりと昏倒していく。
そんな二人がピタリと足を止めたのは、五階まで昇ったところでのことだった。
「……できれば、君には会いたくなかった――」
廊下の中ほどに設けられている開けた踊場。そこに立ちはだかっていたのは、既に臨戦態勢となった黒髪灼眼の少女だった。
「――レンカ」
「そうかい? ボクはムスタファ様から聞かされていたよ。キミが脱獄してくるかも知れないって。もしそうなったら、是非キミと話がしたいと思って待っていたんだ。……まさか、女連れだとは思わなかったけどね」
レンカの言葉はあくまで穏やか。けれど、そこには静かな怒りが籠められていた。
「ムスタファ様はキミを責めるなと言った。けれど、ボクにはどうしても理解出来ない。なぜここから逃げる必要があるんだい?! どうして一族のみんなを見捨てるような真似をするんだ?! ボクたちの家族だろう?! なんでムスタファ様に逆らおうとするんだ、ナギ?!」
「待って、レンカ! これには事情があって……」
「ごめんなさい、コムギさん。ボクは今、ナギに聞いているんです」
「でも……!」
なおも食い下がろうとしたコムギを、ナギは片手で制した。
「……ごめん、レンカ。今はまだ言えない。……お願いだから、そこを通して」
「……勝手だね。自分の事情は言わず、自分の都合だけを押し通そうとするなんて。家族を捨てる理由を、話してすらくれないのか。――やっと、ボクも一つだけ取り戻せたと思ったのに」
陽炎の如く立ち上る、少女の静かな怒り。だがそれ以上に傷付いていることが、ナギたちにはわかっていた。
明確な出自を持たぬ少女にとって、過去を証明してくれるナギという存在は、何よりも重い意味を持つ。レンカは今、そんな唯一の同胞に裏切られたと思っているのだ。
そんな少女の胸中が理解できてしまうだけに、ナギの心もまたじくじくと痛むのだった。
「レンカ、君とは戦いたくないよ……」
「……ボクもだよ」
言葉とは裏腹に、レンカは腰の双剣を抜く。魔力がびりびりと空間を震わせた。
「既に一度はついた勝負だ。ボクはね、結果のわかっている戦いは嫌いなんだよ」
その言葉に、ナギは小さく呟いて、同じようにナイフを抜いた。
「……僕もだよ」
そして二度目となる戦端が開かれた。
先手を打ったのはレンカ。傀呪を纏った《滴り殖える黄金の環》により強化された身体能力に物を言わせ、瞬時にナギの背後へ回り込む。
戦いを長引かせるつもりはなかった。裏切られた怒りはあるけれど、それでも、今存命している唯一の同類であるナギを無暗に傷つけたくはなかったのだ。
(入った――!)
確信する一瞬。放った上段蹴りは、完全にナギの死角を突いている。前回の戦闘経験から言って、間違いなく通るはずの一撃――だが、レンカの体に響いたのは、少年の頭部を捉えた手応えではなく、腹部を打たれた衝撃だった。
防がれるでもなく、躱されるでもなく、完全なカウンターを喰らったのだ。
(っ!? 読まれた――?)
そうとしか考えられない。レンカは動揺を押し隠し、体勢を立て直そうとする。が、呼吸をするよりも速く、ナギの二撃目三撃目が飛んで来た。
もはや反撃を考えるどころではない。繰り出される鋭い攻め手を凌ぐだけで精一杯だ。そこでようやくレンカは気づいた。読みを当てられてだけだと思った最初のカウンター。あれは単に、後から合わせられただけ。今、自分とナギとの間にあるのは、それほどまでの実力差だということに。
(なん、で――?)
レンカの顔に浮かぶ苦悶と疑問。先の戦いでは、確かにこちらが圧倒していたはず。だというのに、今では傀呪すら使っていないナギの動きについていくのがやっと。
理由はわからない。けれど、近接戦での不利を潔く認めたレンカは、一度大きく距離を取ると、両手に携えた魔剣を振るった。
「ヴリトラハンの牙よ、汝の威をここに示せ――!」
瞬間、顕現する業火と迅雷。レンカは更に傀呪を込めると、黒濁した雷火の渦を解き放つ。ただし、広範囲に展開した破壊の波には、あえて一箇所だけ逃げ場を残しておいた。
炎と雷を避けたその隙に、一撃で昏倒させるためだ。魔剣の力はいわば陽動。傷つけずにナギを捕えようと思えば、手はこのぐらいしかない。
だが、彼女の予想に反して、ナギは一歩も動かなかった。その代わり、手にした二本のナイフを火打ち石のように擦り合わせる。
刹那生まれる小さな火花――それは瞬きの後には消えてしまう儚い光。だが、傀呪を持つ少年にとって、その微かな火種は大いなる厄災を引き起こすのに十分すぎた。
ナギの傀呪が火花に流れ込んだ瞬間、空間そのものが爆発したかと見紛うほどの勢いで火花が膨れ上がる。
宵闇よりもなお深い漆黒の業炎。レンカの生み出した雷火の渦とは、桁違いの禍々しさだ。渦巻く雷鳴と共に災禍を撒き散らす二つの呪いは、互いに互いを喰らい尽くし――あっけなく消滅した。
特一級の魔法剣が放つ魔法と、ただのちっぽけな火花。同じ傀呪を係数として用いているはずなのに、一体なぜ、それが相殺などという結果になるのか――?
「……なんで、どうしてだ?!」
驚愕と焦燥から、気づけばレンカは叫んでいた。
「柩鬼の一族同士の戦闘では、扱う道具の強さが勝負を決めるはずだ! ボクの武器の方が強いはずなのに、なぜ……!? キミの傀呪はそれほどまでに特別なのか?!!」
「違う……そうじゃないんだ、レンカ……! お願いだから、もう止まって!」
ナギは必死で訴えかける。けれど動揺しきったレンカに、その言葉は届かなかった。
「……だとしても、ボクは負けるわけにはいかない……! ムスタファ様の力を借りて、取り返すんだ! ボクの家族を……ボクの過去を……ボクの本当の居場所を!」
無傷で捕える、などという考えは、もはやレンカの頭に残ってはいなかった。
眼前の少年は、一族の蘇生を阻む敵。殺す気で排除しなければならない。たとえ、どんな代償を払おうとも。
レンカは己が持つすべての傀呪を、余さず全装備に流し込んだ。
「はああああ――!!!」
断末魔にも似た怪音を立てながら、歪な黒い呪詛が少女の全身に広がる。武器のキャパシティを越えて溢れ出た傀呪が、自身の肉体をも蝕んでいるのだ。
気が遠くなるほどの激痛。内臓を刺すほどの惨苦。あまりの負荷に全身は軋み、半ば暴走した魔剣の炎は自身の肌さえ無差別に焦がしている。だが、それだけの代償と引き換えに得た力は、先ほどまでとは次元が違った。
「くっ……!」
ナギの表情が苦しげに歪んだ。防御を顧みない半狂乱の攻勢に、ナギは守りの一手を余儀なくされる。
ただ、ナギにははっきりとわかっていた。こんな捨て身の攻撃など、長くは続かない。傀呪を暴走させた状態では、いかに強力な魔術品といえど一分ともたずに自壊する。すなわち、後一分、それだけ堪えていれば、自動的に勝ちが確定するのだ。
けれど、‘一分待つ’のでは遅かった。
それはナギの防御がもたないから、ではない。専守防衛に徹するのであれば、ナギは丸一日だって持ちこたえることができる。
時間がないのは、レンカの肉体。不完全な柩鬼の体では、暴走した傀呪の力に耐えられないのだ。ナギの見立てでは、もって三十秒。武器が壊れるより先に、レンカ自身が致命的な損傷を負うことになる。
だからこそ、ナギには今すぐにレンカを止めなければならなかった。たとえそれが、少女の心を壊すリスクを孕んでいたとしても。
ナギはとうとう、覚悟を決めた。
「――ごめんね……レンカ」
少年の手が、そっと自身の左胸に触れる。
確かに脈打つ鼓動と、命の温かさ。
その輝きを掻き消すように、ナギは自らの心臓へ傀呪を流し込んだ。
ドクン、と大きく震える鼓動。ナギの全身を膨大な傀呪の奔流が駆け巡る。心臓が脈打つ度、無尽蔵に生み出される新たな傀呪は、一秒毎にその質と量を増し、ついにはナギの体内に留まることなく周囲へ拡散していく。
周りの空間が歪んで見えるほどの異常な密度の傀呪。
そんな災厄の塊を全身に纏ったまま、ナギは一歩、床を蹴った。
要した時間は、たった一瞬。レンカがその動作に気付いた時、少年は既に眼前にいた。
閃光の如きナイフの一閃を、レンカは咄嗟に魔剣で受け止める。けれど、それが‘防いだ’のではなく、‘防がされた’のだと理解した頃には、もう魔剣が砕け散った後だった。
「馬鹿な――!」
レンカは我が目を疑った。
超一級の魔剣が、ただのナイフに打ち破られた事実。到底信じられるものではない。だが、それが目の錯覚ではないことを、レンカは嫌でも思い知らされることになった。
右手首、首筋、左手首……反応すら許さぬ速度でナギが狙うのは、すべてレンカが魔術品を装備している箇所。短剣が唸る度に、伝説級の武装が次々と両断されていく。
「やめろ……やめてくれ……!」
悲痛な声をあげながら、砕け散った魔装に手を伸ばすレンカ。けれど、その指先は虚しく空を掻くだけ。
そして最後に、ナギは残った《ヴリトラハンの魔双剣》の片割れを真っ二つに引き裂いた。
傀呪とは道具があって初めて意味をなす力。レンカを傷つけずに無力化するには、媒介となる魔装を破壊するしかなかったのだ。
「……そうか、ナギ。やっぱりキミは、ボクから奪っていくんだね。家族を取り戻す、唯一の希望を……」
レンカは打ちひしがれたように膝をつく。傀呪は既に枯れ、肉体も限界を迎えたらしい。
武器すら持たぬ今の少女に出来るのは、俯いたままナギを呪うことだけだった。
「レンカ……」
ナギはおずおずと近づいて、その肩に触れようとする。たとえレンカのためを思ってのことだとしても、彼女を深く傷つけてしまったことに変わりはない。故に、今大切なのは、自分が味方であると伝えること。そうすれば、きっとレンカもわかってくれると、そう信じて。
けれど、ナギは一つだけ見落としていた。自分と少女とを隔てる、一筋の深い溝を。
「……キミはそれでいいよね。家族との記憶があるから。自分が誰だか、ちゃんと知ってるから。だから平気なんだろ? 家族が生き返らなくたって。だからボクのことも捨てるんだろ? 思い出はもう、十分持ってるからって」
言葉の端に籠る、どす黒い嫉妬と怨嗟。
近づきかけたナギの足が思わず止まる。
過去を持つ者と持たざる者との隔たりは、ナギが想像していたよりもずっと、レンカにとっては切実な命題だった。
「……でも、ボクは違う。家族の顔も、思い出も、暖かさも……ボクの中からは消えてしまった。……ボクには、何にもないんだよ! 空っぽなんだ! こんなの、不公平じゃないか! キミだけ全部終わったみたいな顔して! 家族の死を乗り越えようだなんて! 未来へ進もうだなんて! ねえ、教えておくれよ、ナギ! 乗り越えるべき過去を忘れてしまったボクは、どうやって先へ進めばいいんだ!?」
少女が胸中を吐露する度に、大気がびりびりとわななく。
だが、ナギには答えることができない。少女が抱える己の空白に対する恐怖を、ナギは知らないから。そう、生者と死者が言葉を交わすことができないのと同じ。ナギとレンカは、最初から歩み寄ることなど不可能だったのだ。
「そうさ、キミには決して理解できない! 死んだ家族を弔おうにも、顔すら思い浮かべられない不甲斐なさを! 一人だけ蘇ってしまった罪悪感を! 自分の名前の意味すら、他人に教えてもらうまで知らなかった、この孤独を!」
まずい――と、ナギが嫌な予感を覚えた次の瞬間、萎んでいたはずのレンカの傀呪が、激情と共に再び膨れ上がった。
「――ボクは、もう、一つだって奪われたくないんだよ!!!」