刺客
「――アンヘル様、お見事でございます」
ぐにゃりと融解した赤い扉を前に、筆頭代は賛辞の言葉を述べた。
地表ルートを進んでいたアンヘルは、今まさに島の中心に立つ小型ドームの扉を破ったところだった。無論、目的はただ一つ。すべてのオーパーツを統べると言われる『イヴの心臓』。それがこの島の中央にあるはずなのだ。
だが、侵入したドームは空っぽだった。『イヴの心臓』どころか、釘の一本すら落ちていない。
慎重に中央まで進み出たアンヘルは、訝しげに周囲を見回す。
(誰かに先を越された……? それとも、情報自体が間違って――)
と思案しかけたその時、足元がかくんと揺れる。そして次の瞬間には、床全体が丸ごと降下し始めた。
(なるほど、このドームすべてが大きな昇降機、というわけね)
そこからおよそ数十秒、アンヘルと棺屋たちを乗せた巨大リフトはかなりの速度で下降を続け――唐突に止まった。
壁面に現れた扉が開く。その先に続いていたのは、長い長い通路。大きさはナギたちと歩いたものと同じだが、およそ百メートル間隔で十字路が設けられている。どうやら、碁盤の目のような形で縦横に無数の通路が走っているらしい。
アンヘルは束の間ためらう。
道案内がいない今、これだけ広大な地下施設の探索は困難を極めるだろう。
だが、彼女はすぐに思い直した。どちらにせよ、自分に選択肢はない。『イヴの心臓』を入手し家に帰るか、さもなくば死だ。それが最終的に同じ意味を持つのだとしても、今は進むより他にない。そのために、あの二人と決別したのだから。
アンヘルは意を決して進み始めた。
(長丁場になりそうね……)
鏡写しかと錯覚するほどに均質な回廊。
迷わないよう壁に目印をつけながら、アンヘルは一歩一歩進んでいく。変化の全くない旅路では、時間の感覚さえ狂ってしまいそう。……だが既に、思わぬ異変は彼女の背後まで迫って来ていた。
コツン――と、どこか遠くで響く微かな物音。
「誰……っ!?」
アンヘルはハッとして振り返る。音のした位置から考えて棺屋たちではない。即座に一つ前の十字路まで引き返して確かめるが、どの方向にも音源となりそうなものは見当たらなかった。
(気のせい……?)
ただでさえ疲労がたまっている上に、これだけ視覚的に単調な景色が続いているのだ。聴覚が過敏になっていても不思議ではない。
一抹の疑念を抱えながらも、再び踵を返すアンヘル。彼女が視界の左端に人影をとらえたのは、まさにその時だった。
(やっぱり、誰かいる――!)
アンヘルは反射的に左手の通路へ振り返る。だが、廊下は相変わらずの空虚さで満ちていた。背後にいた棺屋たちの反応からしても、彼らは何も見ていない様子。
けれど、もう気のせいにすることはできなかった。アンヘルは左手に折れると、廊下を突き進む。そして次の十字路まで来た時、彼女の眼は再び人影らしきものをとらえた。今度は右手側の通路の奥。一瞬で詳しくはわからなかったが、誰かが走っていく後姿に見えた。
やはりそうだ。アンヘルはそちらに向かって駆けながら、思い当たる人物の名前を呼ぶ。
「アニマ……アニマなの?!」
しかし返事はない。それでも角を曲がる度、アンヘルの視界の端で確かに誰かが動いている。
「ねえ、コムギ……?!」
気づけばアンヘルは、目印をつけることも忘れて走っていた。
そうして幾つもの回廊を駆け抜け、曲がり角を進んだ先、彼女の眼前には一つの扉が聳え立っていた。かなり大きくて頑丈そうだが、壊れているらしく半開きのまま沈黙している。
アンヘルは寸刻のためらいの後、そっと中へ体を滑り込ませた。
(ここは……生産施設……?)
幾筋もの流れる床と、その上を往く数々の部品。分厚い複合装甲に、多関節を備えた脚、部屋の奥に流れているのは、真っ赤な目玉にしか見えない複合センサー。いずれも見覚えのあるパーツばかり。扉の内側は自律機構兵の生産工場だったのだ。
あの凶悪兵器が産まれる場所、興味を惹かれる光景ではある。ただ、今の彼女にはより優先すべき事柄があった。
「アニマ……コムギ……?」
流れ往く大小様々な部品を避けながら、アンヘルはなおも追いかけていた人影を探す。
けれど答える声はなく、広い工場内ではコンベアの稼働する音が木霊するだけ。
見間違いだったのだろうか……?
冷静さ取り戻し始めたアンヘルは、ようやくその可能性に思い当たる。だがそれでも諦めきれなかった彼女は、無意識のうちに一つの名前を呟いた。
「……ナギ……」
その瞬間――
「――は~~あ~~い~~!」
少年の繊細な声とは似ても似つかない不快なだみ声が、アンヘルの耳元で返事をした。
「っ! 誰――ッ!」
全身にはしる悪寒。――咄嗟に振り返ったアンヘルの腹部を、強烈な衝撃が襲った。
「あ、ぅぐ……」
瞼の裏で火花が散る。あまりの激痛に、アンヘルはその場で膝をついた。
「あーらやだ、お腹に一発いれただけでいっちゃうの?」
頭上から再び響くだみ声。涙に霞む視界で見上げると、そこに立っていたのは筋骨隆々の大男。だが、身に纏った着衣は口調と同じく女のそれである。
「んもー、若い女ってこれだから嫌よね~」
倒錯的に過ぎるセンスは理解不能だし、したいとも思わない。しかし、異様な格好はともかくとして、この大男の職業だけはすぐにわかった。
「刺客……!」
「んせーかーい! 麗しき殺し屋・ミラルダ様よ~ん!」
変態的装いの襲撃者は、厚化粧まみれの顔で不敵に笑った。
「っていうかさ~、あんた警戒心薄すぎじゃな~い? もう何度も同業者退けてるって聞いたから期待してたんだけど、あ~んな単純な誘いにあ~んなあっさりついてきちゃうなんて~」
ミラルダの挑発に、アンヘルは黙って唇を噛む。
全くその通りだ。自分からあの三人と決別しておいて、いざ再会の可能性を目の当たりにしたら一も二もなくすがりつく。その結果がこの様。情けなさすぎて腹が立つ。
アンヘルは心の底から、敵の嘲笑に同意した。
「ほんと、その通りね。だから……期待に沿えるよう頑張るわ」
言うが早いか、アンヘルは蹲った体勢から大きく飛び退いた。腹部の鈍痛を堪えながら、ミラルダに向けて手をかざす。一秒の数百分の一の速度で展開する数多の光球。そして、彼女の持つ手札の中で最速の魔術を起動した。
「《シャル・シュネルフ》――!」
「あら、はやーい! でもね――」
放たれる閃光のあまりの速さに、ミラルダは動くことすらできない。……否、最初から動こうとさえしていなかった。
「――それ、無理だから」
刹那、アンヘルの全身に強烈な痛みが走る。打撃、ではない。その痛みはまるで、白熱した無数の矢尻に突き刺されたような感触――
信じられないことにアンヘルは、自らが放ったはずの光魔術に全身を撃たれていたのだ。
「なん、で……?!」
身をもって体感した不可解な現象。アンヘルは動揺しながらも、更に後退して距離を取る。
そんなアンヘルを見下ろすミラルダは、あーあ、とがっかりしたように吐息をついた。
「残念、まだ動けるのね。あんた、ちゃんと殺す気で撃ちなさいよね。甘ちゃんね~、ほんと。ヤる気があったなら、今頃楽になれてたのに」
と、くどくど喋りながら、ミラルダは無防備に距離を詰めてくる。アンヘルは負傷した体で後退しながらも、必死で思考を巡らせた。
廊下で見せられたおぼろげな幻影、真後ろに立たれても気付けなかった透明化、そして完全な光魔術の反射……これまでの情報から推測される可能性は――
「まさか、あなた……!」
「あらあ、気づいちゃった~? ――そうよ、アタシはあんたと同じ特異魔力保持者。それも、『鏡』のね」
鏡像による幻覚、光を屈折させることによる迷彩、それらすべての根幹となる光の反射特性。限りなく近い属性を持つアンヘルだからこそ、すぐに理解できた。眼前の暗殺者が、自分にとって無二の天敵であることも含めて。
「いやー、アタシが言うのもなんだけどさあ? 光と鏡、だなんて相性最悪すぎて可哀想になっちゃうわ。ほーんと。これ無理ゲーってやつよね~。御愁傷様」
「……相性最悪だからこそ、お爺様が選んだんでしょ」
光の反射特性――光精霊術の使い手であるアンヘルの処分役として、これ以上の適任はない。ホーエンツォラード家の財力とコネクションを駆使して、どこぞの国から呼び寄せたのだろう。
けれど、アンヘルとてそう簡単に殺されてやるつもりなどなかった。
「《シャル・ドローエン》!」
ミラルダを取り囲むように散開する光球。その一つ一つが全く異なる軌道を描いて旋回を始めたかと思うと、次々に光線を吐き出す。が……
「だ~か~ら~、無駄って言ってんでしょ? 全身をかるーく魔力で覆うだけで、あんたの攻撃なんかひとっつも通らないのよん」
オートでの全方位反射……光魔術以外使えないアンヘルにとって、それは死の宣告に等しかった。もしも反射のために動作や時間が必要だったなら、それがどんなに僅かなものであろうと隙を突いてみせる自信がある。だが、突く隙自体が存在しないのであれば、もはやどんな抵抗も無意味。そしてアンヘルには、打開の一手を探す猶予すら与えられていなかった。
「は~い、そんじゃあそろそろ、アタシのターンねっ」
言うが早いか、ミラルダは纏わりつく光球を蹴散らし、瞬く間にアンヘルとの間合いをゼロにする。そして、にんまりと笑って告げた。
「あっ、そーだ。先に言っとくけど、遊び殺すのがアタシのポリシーだから。……楽に死ねるなんて思わないでね?」
瞬間、ミラルダの膝蹴りがアンヘルの腹部を穿つ。予期していた威力を遥かに凌駕する衝撃に、アンヘルの唇から苦悶の声が漏れた。だがそれでも膝を折ることなく睨み返す少女を見て、ミラルダは喜悦の表情を浮かべる。
「あら生意気な眼するじゃない! 本当ならその綺麗なお顔をぐちゃぐちゃにしてやりたいんだけどね……顔は傷つけちゃ駄目って命令なのよ。良かったじゃない。あんたの葬式のことまで考えてくれてるみたいで。まっ、その代わり、隠れる部分になら何してもいいんだけどねっ!」
言葉通り、そこからは執拗に顔から下を狙った猛攻が始まった。武器も魔術も用いない、素手による殴打。だというのに、一撃一撃が鉄球を叩きつけられたかのように重い。アンヘルの力では抵抗できるはずもなく、散発的な魔術による反撃もことごとく弾かれてしまう。それは戦闘とも呼べない一方的な暴行――
そしてついに、アンヘルは地べたに倒れ伏した。
「……はーあ、なーんか手応えなさすぎて虚しくなっちゃったわ。そろそろ終わりにしよっか?」
ぼろぼろの体を引き摺り、地べたを這う少女を見下ろして、ミラルダはふうと溜め息をつく。
だがそのか細い首に手を伸ばしかけたところで、ふと背後を振り返った。
「……っていうか、本当に手出さないのね、あんたら」
そう問いかけた先にいるのは、ずらりと並んだ棺屋たち。常人ならば眼を背けてしまうようなひどい暴行も、微動だにせず見守っていたのだ。アンヘルの死をただじっと待つだけの彼らは、衰弱した獲物の傍らに佇むハゲタカのようだった。
「どうぞお気になさらず。我々は棺屋。遺体を回収するだけの存在でございます。生きている方には、何が起ころうと干渉はいたしませんので」
「ふうん、あっそ。……いけすかない奴らね。キモチワルイ」
不快感を隠しもせずにそう言うと、ミラルダは再び地べたのアンヘルに向き直った。
「これ、真面目な話なんだけどね、アンタには結構同情してんのよ。こんなわけわかんない島で、こんな奴らに囲まれて死ぬなんて、んまー、可哀想! それもこれもみーんな、特異能力者に生まれたせいよね。アタシもさあ、この特異魔力のお陰でそれは紆余曲折あったわけよ。だからわかるの。不憫よねえ、哀れよねえ、ほんと同情しちゃう。……ま、普通に殺すんだけどさあ」
這い付くばって逃げるアンヘルの後をのんびりと追いながら、ミラルダはぺらぺらと喋る。
「でも考えようによってはいいのかもね。ここで死ねばもう辛いことないわよ? あんたどうせ、家の操り人形のまま一生終える予定だったんでしょ? 単なる精霊の依代ってだけの人生なんて、最初っから生きてないのと同じじゃない」
殺し屋のその言葉に、アンヘルは唇を噛んだ。それは自分がずっと、心の底で思っていたことだったから。
「っていうか、あんたも本当はこういう結末を望んでたんじゃないの?」
ミラルダはさらに言葉を接ぐ。
「このままなら悲劇のヒロインで死ねるものね。『敵わない運命に翻弄される可哀想なアタシ。ぜーんぶ不幸な家に生まれたせい』ってね。そうでしょ、メンヘラこじらせたお嬢さん? ……アタシに言わせりゃ、甘ったれだけどねぇ」
その通りだ。アンヘルは自答する。
できないことの理由を、やらないことの原因を、すべて自分じゃないもののせいにしてきた。本当にこんな生き方しかないのか。そう自問することすら避け、生きることから逃げ続けた結果が、今だ。自業自得と言う他ないではないか。
アンヘルの背中が、とうとう堅い壁についた。
「んじゃ、そろそろ……んん?」
ミラルダは追い詰めた獲物を前にぺろりと舌なめずりをし、ふと眉根をひそめた。
「……なあにあんた、もしかして……震えてんの?」
聞こえているのかいないのか、アンヘルは何も答えず、壁にすがりついてどうにか立ち上がる。その足は確かに震えていた。
そう、彼女は怖がっていた。自分でも信じられないほどに、死が恐ろしかった。
それはきっと、一人きりだったら知らないで済んだ恐怖。自分を人形だと言い聞かせていたのは、死への怖れを克服する彼女なりの手段だったのだ。最初から諦めていれば、もしもその時が訪れても辛くはない、と。
だが彼女は知ってしまった。他人と心を交わす温もりを。そして思ってしまった。もっと生きていたいと。
それは傀儡だった少女が初めて願った、たった一つの我が儘。
生きて、また、あの三人に――
ふらついていたはずのアンヘルが、一歩、前へ踏み込む。負傷した足が悲鳴を上げた。だが倒れることはない。そこにはまだ、いつか少年に手当された時の感触が残っているから。
そしてアンヘルは、全身全霊を籠めて右脚を蹴り上げた。完全に虚を突いた渾身のハイキック。不意の一撃は防ぐ間もなく殺し屋の側頭部をとらえる。驚愕の表情を浮かべたまま、ミラルダの巨体がぐらりと傾いで――
「――な~んちゃってっ☆」
殺し屋の眼がぎらりと輝いた。
「……! そんな――ぐっ……」
ミラルダの大きな掌が、動揺するアンヘルの首を鷲掴みにする。そして苦悶に歪んだ少女の顔をぐいと覗き込むと、口の端が裂けるほどに大きく笑った。
「いいわいいわいいわあ! ただのメンヘラお嬢ちゃんかと思ってたけど、意外と根性あるじゃない! お陰でアタシ、すっごく楽しくなっちゃったわあ! お人形とやったってイマイチ昂らないのよ! やるならやっぱ、生身の人間に限るものねえ!?」
ぞっとするほど醜悪な笑顔を浮かべ、ミラルダは少女のか細い首を締め上げる。
「あ、ぐ……」
「苦しい? 苦しいわよねえ?」
万力のような力を緩めることなく、ミラルダの愉悦に満ちた独り言は続く。
「でもあんたがイケナイのよ? アタシをこんなに興奮させたから。悪い女ね~」
アンヘルのつまさきが宙に浮いた。気道は完全に潰されている。あまりの腕力に、窒息より先に首の骨が折れてしまいそうなほど。
「ああ、骨の軋む音って何度聞いてもたまんないわねえ。……あっそうだ、ねえさっきアニマだとかコムギだとか叫んでたけど、それなあに、お友達? 最後に呼んでたナギってのは彼氏か何か? いいわねー、青春ねえ~! ……でも、助けになんかこないのよ! あんたも知ってるでしょ? 現実ってのは非情なの!」
そして嘲りの表情を浮かべるミラルダは、不気味な声マネを始めた。
「ほら、呼んでみなさいよ! 『アニマ~、助けて~』って!」
アンヘルの指が必死でミラルダの手の甲を掻く。だが首を絞める力はまるで緩まない。
「ほら、泣きわめきなさいよ! 『コムギ、助けて~』って!!」
食い込んだ爪で皮膚が破れ、アンヘルの首から朱い血が零れる。
「ほうら、祈りなさいよ!! 『ナギー、助けて~』ってさあああああああ!!!」
獲物の命を摘み取るこの時が、ミラルダにとって何よりの至福。法悦の絶頂に至ったミラルダは、ヒステリックな叫び声をあげて最後の力を込める――
だが、少女の意識がついに途切れようとしたその瞬間、ミラルダの側頭部――まさに先ほどアンヘルが狙ったその場所に、強烈な一蹴がめり込んだ。