彼女の現実
それからおよそ一時間後。
どうにか二機の自律機構兵を巻き、空中回廊地帯を抜けたアンヘルは、再び四角い通路を歩いていた。未だ辺りは真っ暗だが、光精霊術が使えるアンヘルにとっては問題ない。けれど、視界とは裏腹に心は暗く沈んだまま。先ほどからずっと、気づけばはぐれた二人の心配ばかりしている。こんなに他人が気になるなど、生まれて初めての経験だった。
そんな折、アンヘルは通路の脇に小部屋を見つけた。しかも、仄かではあるが中から微光が漏れ出ている。
(ここは……)
入ってみると、そこは倉庫のようなだだっ広い空間だった。
アンヘルは少しだけ光球を弱め、光源を探す。すると、四角い部屋の一角に、一部だけ天井の照明パネルが生きている部分を見つけた。それと同時にアンヘルは身構える。天井パネルの下に、あるものを見つけたからだ。
完全装備の自律機構兵――ちかちかと不安げに瞬く照明の元、それは孤独にたたずんでいた。
(動かない……壊れてる……?)
一度は警戒態勢に入ったアンヘルは、ふうと肩の力を抜く。それからふと好奇心が湧いた。こんなに間近で自律機構兵を観察するのは初めてかも知れない。
アンヘルはそっと埃を被った機械に手を伸ばし――その冷たさにハッとした。
まるで氷だ。
肌を突き通し心臓まで侵蝕してくる冷気。それは否応なく死者の体温を想起させる。人間の命令で戦わされ、弔われることもなく屍を晒す、何の意味もない傀儡の生。アンヘルにはそれが、自分の骸に見えて仕方がなかった。
いつか感じた頬の温もりは、とうに消えてなくなった。まるで短い夢から覚めたかのように、自分が本当に居るべき場所を思い出す。それは決して、あの二人の側などではない。好意にすがってここまで来たが、はぐれてしまった今、いっそこのまま――
「――その子、もう死んじゃってますね~」
突然、背後から声がした。
「ひゃあっ!?」
咄嗟のことで、思わず変な声が出る。恥ずかしそうに顔を赤らめてから、アンヘルは声の主を振り返った。
「アニマ!? なんでここに?!」
「えへへ~、いけそうだったので~、登場してみました~」
現れたアニマは、いつも通りにこにこ笑う。
「私よりも~、アンヘルさんはどうしてここに~? 先へ進まないんですか~? お二人共、すぐ先で待ってますよ~?」
「……だからここにいるの。私はやっぱり、二人と違うから」
アンヘルは意味深に目を伏せるが、アニマにはあまり上手く伝わらなかったらしい。
「遺伝子的に別個体である皆さんが違うのは~、ごくごく当然のことだと思いますよ~」
「そ、そうじゃなくて……」
アンヘルは今一度、自律機構兵の冷たい装甲を撫でた。
「私は……これと同じなの。命令されるがままに動いて、自分で停止することもできない。止まる時は、壊れるその瞬間だけ。自律機構兵と同じ、お爺様の命令に従うだけの傀儡」
「え~? そうは見えませんでしたよ~?」
「それは……あなたたちと一緒だったからよ。でも、ずっと甘えてはいられないわ。私は命を狙われている。このまま行動を共にすれば、二人に迷惑がかかってしまう」
「お二人は気にしないと思いますけど~?」
「……私が気にするわ」
アンヘルははっきり断言する。こうして他者を気にかけること自体が大きな変化である事実に、本人だけが気づいていなかった。
「……私には、二人といる資格なんてないもの。本当の私は、ただの人形。今は……そう、今はただ――」
アンヘルは二人に出会ってからのことを思い出す。彼らとはたった一日、この地下施設を一緒に歩いただけ。長い時間を過ごしたわけでもなければ、特別な何かをしたわけでもない。
それでも彼女にとって、ホーエンツォラード家の淑女としてではなく、ただの‘アンヘル’として誰かと共に歩けたその時間はかけがえのないもの。例えるならば、そう、それは――
「――夢を、見ていただけ」
壊れかけの少女は、消え入りそうな瞳でそう呟いた。
「……あのですね~、アンヘルさん。機械は――」
と、少女に向けて口を開くアニマ。
だが言いかけた何かは、入口から流れ込む冷たい声によってかき消された。
「――アンヘル様、こちらにおいででしたか」
瞬間、アンヘルの表情が凍りつく。
「遅くなって申し訳ありません。……ですが、ようやく見つけました」
影のようにぬらりと現れたのは、不気味な仮面をつけた棺屋集団だった。
「おや? そちらの方は?」
筆頭代の虚ろな仮面がアニマへ向く。アンヘルはほんのわずかなためらいの後、答えた。
「……関係ないわ」
「そうでございますか。それならば結構です」
筆頭代は疑いもせずに頷く。……というより、最初からどうでも良かったのだろう。
「では参りましょう。高貴なるホーエンツォラード家のために。『イヴの心臓』の元へ」
促されるがまま踏み出しかけて、アンヘルはちくりと刺す胸の疼きに気が付いた。
『後で合流しよう』――そこにはまだ、少年の言葉がつかえている。そして胸の痛みは同時に、少年の背中をも彼女に思い出させた。
コムギを助けに暗い虚空へ身を投じた少年の姿。驚嘆や恐怖はもちろん感じた。コムギが助けられた瞬間には安堵もした。けれど同時に、少女は確かにあの時、コムギのことを‘羨ましい’と思ったのだ。
――もし、自分が危機に陥ったとしたら、少年はああして飛び込んできてくれるだろうか?
(……馬鹿馬鹿しい)
アンヘルはくだらない夢想を振り払った。
仲間になったような錯覚も、淡く火照った頬の熱も、疼くような嫉妬でさえ、本来は傀儡である自分が持ってはならぬもの。甘い夢の時間は、もう終わり。
そう、棺屋の声はいつだって彼女を現実に引き戻す。凍えるような現実に。
「――わかったわ。行きましょう」
その眼に浮かぶのは、島に来た時と同じ冷たい諦念の色。アンヘルはアニマが引き止める前に棺屋を伴って歩き出す。毅然とした少女の表情に、言葉を掛ける余地はない。
けれど少女は、最期にすれ違う刹那、消え入りそうな声で囁いた。
「……ごめんね。あなたの遺骨探し、手伝ってあげられなくて。でも……二人にも伝えて。――楽しかったよ」
アニマはただ、遠ざかっていく孤独な背中を見つめるしかなかった。