棺担ぐ少年
燦々と陽ざし降り注ぐ良く晴れた日の朝。
芽吹きの季節を迎えたヒノキ山を、気持ちの良い春風が吹き抜けて行く。
山頂に揺れるは大きな檜。その根元には一人の少女。
「うひゃー、良い風、良い風! これは絶好の冒険日和ね!」
年頃とは思えない放埓な伸びをしながら、少女は遥か遠くを眺める。その視線の先、ふもとの辺りに小さな街を見つけると、少女はにぃっと微笑した。
「うっふっふっふ、見つけたわ! 私の始まりの街! そう――大冒険者・コムギ様のね!」
と、堂々たる啖呵を切って見せたところで、ぐー、とお腹の鳴る音がした。涼しげにそよぐ木の葉が、さわさわと笑い声を上げる。
少女はくすっとはにかむと、むしろ楽しげに呟いた。
「まずは腹ごしらえかしら!」
――――……
――……
『暴れ牡牛亭』――威勢の良い亭主と肉料理が評判の、アルコの街唯一の酒場。小規模な街だけにさほど広くはないが、石造りの店内は顔なじみの笑顔と亭主のがなり声でいつも活気にあふれている。
春の陽気が降り注ぐこの日、そんな『暴れ牡牛亭』は普段よりも少しだけ騒がしくなっていた。
「いい加減にしろい! この食い逃げ野郎!」
「何よ、お客に向かってその態度は!?」
「客を名乗るなら食った分の金を払えっての! 16000飛んで3マルク、きっちりな!」
などと言い争っているのは、肥えた腹に窮屈そうなエプロンを巻いた大柄の亭主と、パンやらハムやらといった大量の食糧を両腕に抱えた少女――コムギだ。
傍らのテーブル上には、食べ終えた後の皿が小山と見紛うほどに重ねられている。驚くべきことに、すべてコムギが一人で平らげてしまったのだ。……もっとも、亭主を仰天させたのは、その底無しの胃袋ではなく、一文も持っていない癖に一人大食い大会を開いた肝の太さであったのだが。
「だから、ちゃんと払うって言ってるじゃない! ……出世払いで!」
「出世払いだあ? んなもん信用できるわけねーだろが!」
「なんですって!? このコムギ様が食い逃げなんてちんけな真似をするとでも言いたいの!?」
「してるじゃねーか、今、まさに!!! いいか嬢ちゃん、どこの田舎から出てきたのかしらねえが、『食ったら払う』ってのがルールなんだよ! 出世払いはきかねえの!」
「わははは! もっとやれえ!」
酒場にはつきものの食い逃げ騒動。常連客たちは恰好の酒の肴ができたと大喜びだ。
「ないものはないの! 情けぐらいかけてくれたっていいじゃない! 私は未来の大冒険者コムギ様よ?! 世界中のダンジョン片っ端から攻略してお金持ちになるんだから!」
「情けを乞うならまずその手に持った料理をはなしやがれ! 説得力が欠片もねーんだよ!」
両手に抱えた食糧に矛先が向かうと、コムギは横取りを警戒するかのように余計両腕に力を込めた。
「これはお持ち帰り用に買ったやつ! 誰にも触らせないわっ!」
「だーかーらー、お前さん金もねえのに買うも糞もねえだろ!」
「だいたいね、こんなおいしそうな匂いさせてる方がいけないのよ! パクッ……ほら、こんなにおいしい!」
「あっ! てめえ、また喰ったな!」
「ええそうよ! 喰った、喰いましたっ! 食べ物食べてなーにが悪いんですかぁ?」
「こんのぉ……開き直りやがった! ふてえやろうだ!」
「ふ、太いですって!? レディに向かってなんてこと言うのよ! 喧嘩売ってんの?!! 上等じゃない、表に出なさい!」
「あーもう、ちくしょう! なんで食い逃げ犯に逆切れされなきゃなんねえんだよお……」
「いいぞー! やれやれー!」
腕まくりを始めるコムギ、絶望の表情で頭を抱える店主、囃し立てる周囲の客たち。『暴れ牡牛亭』の夜はやかましくも穏やかにすぎていく。しかし、そんな温かい喧噪を凍り付かせる異物は、音もなく『暴れ牡牛亭』の軒先に近づいていた。
カラン、と新たな客の来訪を告げる鈴の音。反射的に入口へ視線を遣った亭主の表情が、一瞬にして凍りつく。それは他の客たちも同じだった。酔いの回った赤ら顔が次々に険しくなり、不自然な沈黙が波紋のように店中へ広がっていく。
明らかな異変に気付いたコムギは、吸い寄せられるように来訪者へと目を向けた。
宵闇色をした繊細な黒髪と、燃えるような真紅の双眸。仄かに朱の差した頬には、未だあどけなさが残っている。――入口に立っていたのは、ぶかぶかの黒い外套に身を包んだ一人の少年。一見すれば、赤い瞳が特徴的なだけの普通の子供。しかし、彼が背中に負ったある物は、この場においてひどく異質であった。
それは一つの箱。五角形を縦に引き延ばしたような独特の形状をしたその物体は、誰もが知っていて、誰もまだ利用したことがなく、そして、すべての人間が生涯ただ一度だけ、最後の瞬間に身を預けることになると決まっている箱。――すなわち、棺。
少年に担われた巨大な黒棺は、彼の小柄な体躯と相まって毒々しいまでの異彩を放っていた。
「……野菜か果物を売ってください」
棺を担いだ不吉な少年は、変声期特有のややハスキーな声で言う。
だが、亭主は顔をこわばらせたまま首を横に振った。そこに浮かぶ表情は、明確な嫌悪と僅かばかりの恐怖、だろうか。
「悪いがあんたに食わせてやれるものはねえ。帰ってくれ」
「……お願いします。お金ならあります」
少年の懐から取り出されたのは、ずっしりと重そうな皮袋。けれど亭主の答えは変わらない。
「いいから出てってくれ! あんたに居られちゃ客が逃げちまうんだ!」
「……わかりました」
少年は目を伏せたまま、静かに踵を返した。その背に投げかけられる視線の中に、哀れみがないわけではない。けれど静観する客達の顔には、憐憫を塗りつぶすほどの生理的嫌悪の色が浮かんでいる。故に、少年を引き止めようとする者など誰一人としていない。――まるで空気の読めていない、とある少女を除いて。
「ちょっと待ったあ!」
凍りついたような静寂を打ち破り、コムギの声が響いた。
「ねえ、そこのあんた! お金、貸してくれない? 私、今、ちょっと困ってるのよ」
「なっ、じょ、嬢ちゃん!? 一体何言って……!?」
「うるさいわね、私はこの子に話してるの! ……ねえ、いいでしょ? 後で絶対に返すから、ね?」
亭主の静止を振り切っての、なりふり構わぬタカリ行為。誰もがその図太い神経に驚愕すると共に、固唾をのんで少年の反応を伺う。
棺を担いだ不気味な少年はただ沈黙してコムギを見る。それから少しの逡巡の後に懐へ手を伸ばして――
「やたっ! ありがと!」
――皆がおそるおそる見守る中、先ほどの皮袋を取り出してコムギに手渡したのだった。
「はい、お会計。もちろんこのお持ち帰り分も含めてね。これでいいんでしょ?」
「お、おめえ……」
金貨の詰まった袋をドヤ顔で差し出すコムギに対して、肝を冷やしたといった様子の亭主は何か言いたげに口ごもる。だが、言いたいことがありすぎて逆に言葉が見つからなかったのか、結局唇を引き結んだまま釣り銭を持ってくるだけであった。
「へへ、御馳走様でした。……はい、おつり……って……あれ?」
お持ち帰りの料理を抱えたまま器用に釣り銭を受け取ると、コムギはくるりと少年に向き直る。だがそこに、少年の姿はもう無かった。
「んもー、せっかちね。お金の価値って奴を教えてあげなきゃ」
やれやれと首を振って出口へ向かうコムギ。そんな彼女の背中を、店主の声が引き止めた。
「おい、嬢ちゃん」
「なによ、もうお会計は済んだでしょ。まだ文句あんの?」
「そうじゃねえよ……その、なんだ、悪いことは言わねえから、アレと関わるのはやめときな」
そう一言だけ警告すると、亭主は再び上がり始めた注文の声に対応するため、いそいそとその場を離れる。
コムギは微かな疑問を抱きながらも、少年の姿を求めて昼下がりの街へ駆け出した。