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第2章

 遠山さんにも夕飯を一緒にと誘ったが断られた。

「若葉ちゃんのメシがあるから」

 彼は森宮生花店の下宿人だが、父一人娘一人の森宮家にとっては、子供の頃に事故で亡くなった長男……森宮さんには息子であり、若葉ちゃんには兄のような存在でもある。

「誘うなら前もって言って」

「判った、今度からそうする」

 またねと手を振って別れ、ラジオと二人、ゆるい坂を靖国通りの方へと下り始めた。角の書店の通用口が見えて、私は「あそこで待ってたの?」と指差した。

「どうするの?会うなんて返事しちゃって。デートと同じじゃない、その気もないのに」

「みんなの前で断ったら恥かかすじゃない」

「………」

 私は口を開きかけ、呆れて絶句した。

 人前で手紙を渡すなら、そのくらいの覚悟は当然、と私は思うのだが。

「変に気をもたせる方が傷つけると思うけどな、私は」

「気をもたせてるかなあ。『話したいことがあるから会ってください』って言われて、話の出来る状況じゃなかっただけなのに」

「見ず知らずの人にそう言われて『はい聞きましょう』って態度は、十分気をもたせることになるの」

「だって……ね」

と呟いてラジオは軽く俯き、苦笑した。

「まだ手紙も読んでないし。ちゃんと返事しなくちゃと思って」

「………」

 思わず足を止めた。彼も立ち止まって振り返り、ふっと吐息をもらして微笑んだ。

 ───変なところで不器用なんだから。

 ラジオは人の心に人一倍敏感だ。だから先刻の彼女にもその場で断れなかったのだろう。だが敏感であることと、その場で断るべきか否かの判断とは別だ。

 駅の近くの居酒屋に腰を落ち着けた。注文を済ませておしぼりで手を拭きながら、そこまでに考えていた素朴な疑問をぶつけてみた。

「ラジ、女の子を好きになったことある?」

「あるよ。初恋は幼稚園の時」

「へえ…ませてたんだ」

 思わず笑うと、彼は目を細めて頷いた。思い出すように遠くを見るような目で言う。

「とっても可愛かったんだ。優しくて、だけど強い……」

と言葉を切って、にこっと笑った。

「宇宙の女刑事だったんだ」

「特撮ヒロインが初恋か!」

「ひどいなあ。僕、本気で宇宙刑事になりたかったんだよ」

 ラジオはそう言ってくすくすと笑った。

「そう言うミオさんは?」

「私?」と聞き返すと「うん」と頷いて彼は運ばれたソルティドッグのグラスを手にして、 塩のついた縁に軽く口をつけた。

「……うーん。あれがそうだったのかな。中学生の時。同じクラスの子で、ちょっといいなと思ってたくらいだったけど。グループの中で仲良くて、いろいろ話したり、そういうのがすっごく楽しかった。……まあ、告白できなくて『いい友達』で終わっちゃったけどね」

 話しながら、グラスに付いた水滴を指でつうっと撫でた。「淡い初恋ね」というラジオの答えに、身を竦めて小さく笑った。

 懐かしく、………優しく、淡く思い出される当時が、くすぐったかった。

 ───ちくりと胸が痛んだ。

 少しずつ、記憶は淡く優しくなってゆく。遠ざかってゆくように。

「うん、ほんとに……楽しいことだけじゃなかった筈なのに、もう、楽しかった気持ちしか思い出せないのね。懐かしい、な。子供だったなあって思っちゃう。何にも知らなくて……ちっちゃなことで悩んでたりして……それも今は笑えちゃうのね」

 笑いに溜息が混じった。

 ラジオが軽くグラスを回して、塩を舐めて一口飲む。指先でわずかにグラスの塩を拭い取ると、私に指先を見せて「塩」と言った。

 ………何だ、唐突に。わからないまま「うん」と頷いた。

 微笑むラジオの指先が、すうっと私の前に伸びて来て───唇に触れた。

 びっくりした。「……な……何?」と尋ねる間も、彼の人差指が唇から離れない。

「舐めてみて」

「えっ?」

「いいから」

 ………不可解な奴。首を傾げ、目をそらして舌の先でラジオの指先の塩を舐めた。

「……しょっぱい」

「うん」

 にっこりと笑って彼は頷き、手を離した。

 注文した肴がテーブルに置かれる間、私から目をそらして、俯いて飲んでいた。そうして静かにグラスを置くと、彼は大きな目をこちらに向けた。

「おまじない」

 微笑を浮かべてそう言った。「何の?」と訊いても、ふふと笑うだけだった。細めた目に宿る光が滲んで見えた。

「……ラジ」

「ん?」と答えながら箸を割る。

「今、……好きな人いるの?」

 私の質問に彼は「ふっ」とふいて俯いて声もなく笑った。と、テーブルに肘を突き、横目でどこかを見て「んー」と言う口元に組んだ両手をあてた。

「この前、別れちゃったんだ」

「えっ」

 そいつはまずいことを訊いてしまった。

 けれどラジオは微笑んだまま、目を閉じた。長いまつげが合わさって目の中の光が見えなくなった。くすっと笑う。

「近づき過ぎると駄目みたい」

「………」

 ───まだ。好きなんだろうな。

 彼の答え方からしてそう思われた。………何も言えなくなってしまった。

 こんな時、私には何も言えない。

 ラジオがゆっくりと目を開けた。組んでいた手を解いて、人差指でグラスの縁を撫でる。指先に付いた塩を見つめ、ふと私を目だけで見ると───その指先を舐めた。

 そうか、彼は………人の心が判り過ぎるから。

 微笑む彼に私も笑みを返した。胸が痛い時のおまじない。

 ………塩にどんな効果があるのか。殺菌作用か?

 胸の痛みを消すみたいに。

 私は、おいしそうに冷や奴を食べるラジオを見た。

 甘えん坊。ちょっと不器用。………少しずつわかってきた、素顔の彼。

 ロマンチスト。変わり者。




 部屋に帰ってパソコンを起動する間にお茶をいれた。今日はシャワーで済まそう……と、知らず溜息が出る。メールが届いていた。

 『兄のパソコンにもだいぶ慣れました。』という一文に、ふっと笑いが洩れた。すぐに返事を送った。

 ───いつのまにか、私も慣れている。

 シャワーを浴びて髪を乾かし、ベッドにもぐり込む。俯せて毛布を頭の上までひっぱった。その声が鮮やかに聞こえてきそうだった。


 ≪もし海音がうさぎになったら、おいで≫


「ならないよ」

 声に出した。───大丈夫、悲しみも少しずつ遠くなっていったから。

 過ぎた時が、優しく思い出される。けれどそれが消えてしまわないように。

 毛布から顔を出すと、枕元のフレグランスのボトルがカーテン越しの外の明かりにうっすらと浮かび上がっていた。その一つを手に取って、腕を伸ばして空中にシュッと噴いた。

 香りが降りてくる。すうっと涼しく、ほの甘く。深い息を一つして、目を閉じた。





 季節の先へと急ぐ仕事。今、私が手がけているのはクリスマス商品のカタログの制作だ。外に出れば蝉が鳴いてるっつーの、などと胸の内でぶつくさ言いながら額に汗して外回り。クリスマスのパーティー会場という設定に見合う場所を探して歩き回り、撮影の許可を得た後は、雑貨のページの撮影に使う小道具の材料を買いに行く。

 そういえば、梢子さんのいる双月堂がすぐそこだ。絵の具はそこで買おう……と駅ビルのガラス戸を押した。突然の冷気。クーラーが効いている。気持ちいいと思ったのも束の間、「さむっ」とひとりごちた。

 双月堂には梢子さんと野宮君の二人がいた。客の姿はなく、レジの脇で何か話している。その雰囲気があたたかかった。クーラーはがんがんに効いてるけど。二人の邪魔をしないように、静かに絵の具を選んで、レジに持って行く時に「こんにちは」と声をかけた。

「あ、ミオさん。ありがとうございます」

 ふんわりと微笑む梢子さん。いつ見ても可愛い。といっても会うのは二度目だ。つられてふにゃりと笑ってしまう。赤い髪によく似合うパープルのカーディガンに目を遣って「ここ寒いね」と私が言うと、野宮君が「秋物買わせるためですよ」と答え、絵の具を袋に入れながら尋ねた。

「ミオさんも絵を描かれるんですか」

「ううん、それは撮影に使うの。…ちょっと工作など」

「工作?」

「うん。商品を絵みたいに見せようと思って、額を作って色を塗ろうかなーなんて。そういうの作るのは好きよ」

「へえ」と野宮君は頷いて微笑んだ。

「絵は見る専門。あ、この前の『空木秀二の世界』も行ったの。自分が見たかっただけなんだけど、仕事の撮影に会場をお借りしてしまった」

 言いながら照れくさくて笑うと、美術館で撮影があったことを聞いていたらしく、二人は「あ、あれミオさんだったんだ」と頷き合った。

「どうでしたか」

「…うん、私は素人だから難しいことはわからないんだけど…」

 私をまっすぐに見る梢子さんの視線を感じながら目をそらした。

 梢子さんは、空木秀二の忘れ形見だ。

 ───空木秀二はかなしいひとだ、そう思ったことを言えない。

「『木霊』…ね、最初に見た時、怖い印象を持ったし、モデルの子もそう言っていたんだけど…。他の絵を見た後に、もう一度『木霊』を見て…」と、考えながらゆっくりと話した。……幻想的な風景の中に、人を描き続けた空木秀二。

「人の孤独や悲しみを思いやって描いたのかなーって……そう考えると、怖いように見える『木霊』って、空木秀二の優しさの表現なんじゃないかと思ったの」

「………」

「あ、直感で言ってるだけだからね」

 二人に黙って見つめられて、恥ずかしくなって慌てて付け足した。梢子さんがふっと微笑んだ。

「逢坂さんと同じことを言う」

「……仁史君と?」

「ああ、『左回りのリトル』を見てそう言ってたね」

 野宮君の言葉に、梢子さんは頷いた。私は「『左回りのリトル』?」と尋ねながら、美術館で買った画集の絵の一つ一つを必死に思い出していた。どれだっけ……

「未完成で、発表されてないんですよ」と野宮君は『左回りのリトル』について詳しく説明してくれた。

 空木秀二は昨年の六月、『左回りのリトル』を製作中だったが、外出先で交通事故を起こして亡くなった。遺された彼の作品は彼の友人でもあった画廊オーナーの守屋一氏(美術館で「どこかで聞いた名だ」と思ったのは間違いではなかった)が全て買い取った。梢子さんの後見人として遺産を管理する空木の兄が、絵を嫌っていたという。守屋氏の手元にあった『水からの飛翔』と、未完成の『左回りのリトル』だけが梢子さんの物となった。

 そうして、『左回りのリトル』は現在、梢子さんの部屋にあり……≪破滅的≫という印象を抱いていた彼女に、ラジオは「この絵に空木秀二の優しさを感じた」と言った、というのである。

 ───空木秀二の優しさ………

「僕には最初判らなかったんですよ」と野宮君が苦笑する。

「次に逢坂君と会った時に、彼が『木霊』について論じて」

 ラジオが論じたのか。さぞかし多弁だったろう。

 店の入口でポストカードを選んでいた客がこちらに向かって来て、会話は中断した。私は買い物は済んだのだからこれを潮に辞そうと思い、レジから少し離れて客が会計を済ませるのを待った。

「お邪魔しちゃってごめんなさい、また来ますね」

「ミオさん」

 無口で、前に会った時も今もあまり口を挟まなかった梢子さんが私を呼び止めた。

「美術館で撮影したっていう写真、見たい」

「ああ、うん。…住所を教えてもらえればカタログ送るけど」

 販売促進のためではない。

 梢子さんはレジの脇のペンを取り、メモ用紙に住所を書こうとして「あ、そうだ」と顔を上げた。

「うちに来てください」

「え?」

「父の絵を見てください」

「………え?」

 シャレではない。本当に驚いた。

「いいの?私なんて、知り合って間もないのに」

 梢子さんは少し考えて「逢坂さんと一緒なら」と答えた。

「双月堂に入社した時、父のことをいろいろ言われた。受賞歴とか、作品の評価とか。でも父という人のことを言ってくれた人はいなかった。……だから」

「だから空は、ミオさんに見てほしいのか」

 野宮君が、黙り込んだ彼女の言葉を引き継いだ。

「この前話したことも……ミオさんは聞いてくれたしね」

 彼のその言葉に、梢子さんは澄んだ目を私に向けた。

 父親譲りの───人の心の中の絵を映す眼。

 そのことは口に出さずに頷いて、「お言葉に甘えて」と『左回りのリトル』を見せてもらうことにした。


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