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第1章

 地下鉄の駅から靖国通りに出る。路面から立ち昇る昼の熱気と、どこからか吹いてきた涼風が混ざり合う。晩夏の夕暮れには、見えない何かが交差する。早足で横断歩道を渡った。

 立ち並ぶ大型書店の一つに入る。エスカレーターで三階まで。美術書を扱うフロアで、私は友人の姿を探した。一階の混雑に比べ、ここは客の姿も疎らだ。……いた。奥から脚立を抱えて出て来たところだった。片手に持っているのはポスターらしい。

 彼───ラジオは赤いTシャツとベージュのコットンパンツに濃紺のエプロンをした格好で、その色彩は遠くからでも鮮やかに目を引いた。

 ───『北天』みたいだ………

 私は一枚の絵画を思い出した。彼がふとこちらを向いて私に気づき、微笑んだ。立ち止まっていた私も笑みを返した。エスカレーターで上がってきた制服の女の子が私を追い越していく。私は彼に声をかけようと、女の子の後に続いて書架の間を歩いた。

「すみません、ちょっとおききしたいんですが…」

「はい」

 ラジオが愛想良く微笑んだ。制服の女の子が先に声をかけたのだ。彼女の後ろを歩いていた私は、なりゆきで彼女の後ろに立つことになった。接客が終わるのを待とうと思い、少し離れて傍らの雑誌の表紙に目を遣った。

「……あの、お名前教えてもらえますか?」

 はあ?

 横目で見ると、制服の女の子は耳を真っ赤に染めて恥ずかしそうに俯いていた。こちらからでは顔は見えない。ラジオは脚立を足元に下ろして答えた。

「逢坂です」

「あの、アルバイトの方ですよね」

「ええ、そうです」

 丸い黄色のバッヂをつけた、店名のロゴ入りエプロン姿は客には見えない。

「学生さんですか」

「はい」

 一浪一留しているけどね。

「私、こちらによく来るんです。それで…」

「いつもご利用ありがとうございます」

 店員の態度を崩さないラジオに、「それで」と言いながら鞄を探っていた彼女の手が止まった。鞄に手を入れたまま、ゆっくりと顔を上げてラジオを見上げる。彼は微笑で彼女を真っ直ぐに見つめ返した。

 さらさらした髪の隙間から覗く、睫毛の長い黒目がちの大きな目。やや丸顔の輪郭。ともすると女の子にも見られそうな幼い顔立ちを引き締める太い眉がアンバランスだ。こうして斜め横から見ると、耳たぶ近くにある右頬のほくろもご愛敬。フレームなしの眼鏡のレンズの向こうで、真っ黒の瞳が柔らかく光っている。

 彼女は意を決したように鞄から手を出した。桜色の封筒を「これ読んでください」と彼に差し出す。彼が目を丸くして「ああ、はい」と受け取った途端に、彼女は何も言わずに駆け出して奥の階段を降りて行った。

 それを見送って振り返ると、ラジオは苦笑して私を見ていた。

「…私、あーゆーの少女漫画の中だけのことかと思ってた」

「そう?」と封筒をエプロンのポケットに入れる。

「どうするの、それ」

「不幸の手紙だったらどうしよう」

「不幸の手紙を手渡すかい」

「…ふふっ。困っちゃったな」

 とてもそうは見えませんが。

「ミオさんはこれを買いに来たんでしょう?」

と、彼は傍らの棚から美術雑誌を抜き出した。私は「多分」と答えて受け取った。雑誌の名前が思い出せなくて困っていたのだ。彼が言うなら間違いないだろう。表紙を開いて目次を見た。『空木秀二の世界』とあるのを確かめて、「サンキュ。また後でね」と別れてレジに向かった。

 書店を出てすぐの角を曲がり、ゆるやかな坂をのぼってゆく。それだけで靖国通りの喧噪は遠くなり、蝉の声が大きく聞こえ始めた。坂道を三分の二ほど歩いた所に、森宮生花店はある。

 おそらく私が生まれる前に建てられた、古い家屋。暖色の明かりが柔らかい。生花を収めたショーケースの蛍光灯の白い光だけがやけに眩しくて、そこからひんやりした空気が流れて来そうだった。私は店の横にある、地下への狭い階段を降りた。

 コーヒーの香りにふっと笑みがこぼれる。階段を降りた所にはガラスをはめ込んだドアがあり、小さな額が目の高さに下がっている。

 『六角屋』。

 ノブの壊れたドアを引いて足を踏み入れると、そこは細長い廊下になっている。六角屋は喫茶店だが、ちょっとした美術館のようでもある。右手の壁に正方形の小さな額が三枚掛けられた廊下を進む。左手奥には、いつも開け放たれているもう一つのドア。そこから………

 視界いっぱいに飛び込んで来る濃紺に、鮮やかな赤い点が一つ。

 目に滲むような光と影の描き出す、暗い夜空に回る星と巨大な雪の結晶が私を迎える。

「よう、パソコ」

 ついでに遠山さんも私を迎えた。

 ………ついで、ってことはないか。

 カウンターの中の遠山さんは、色褪せたブルーのTシャツに黒のエプロン。彼は六角屋のマスターなのである。

 遠山さんは私がカウンター席に着くより先にお冷やのグラスを置いて、葡萄模様のカップを棚から手に取った。私専用のカップ。ちょっと気分がいいのだけれど。

「今日は暑かったからアイスコーヒーがいいな」

「贅沢言うな」

 これだもの。

 私は、この六角屋の客ではないということになっている。それなら一体何なのか。

 店主の友達。

 そんなところだろう。遠山さんは私より八つも年上だが(考えてみれば喫茶店の経営者としてはかなり若い)、彼の人柄に惹かれてこの店に通っているというのもまた事実だ。繊細さを覗かせる端整な顔立ちに似合わず、口は悪いが気取りがない。「切りに行く暇がない」と伸ばしている長髪を首の後ろで束ね、「買い物に行く暇もない」とヨレヨレのTシャツを着ているが、今日のように五組あるテーブル席が全部客で埋まっているというのが奇跡的というくらい、この店は大抵暇である。

 遠山さんはドリッパーにペーパーフィルターをセットしながら、カウンターの上の本屋の紙袋に目を留めた。

「ラジんとこ行って来たの?」

 ラジオも六角屋の常連客だ。無論、客扱いはされていない。

 そもそも私がラジオと出逢ったのもこの店である。

「うん。ほら、この前の『空木秀二の世界』が載るって言ってた……」

と私は雑誌を紙袋からひっぱり出した。

「別に俺に見せなくてもいいよ。行って来てんだし」

「私が見るの」

「あ、そ」

 私は「遠山さんだって買ったんでしょう」と言いながらページを繰った。お湯を注がれたコーヒーの泡が、ふくふくふく、と膨らんでいるのが視界の端に見えた。

 ………いい匂い。

 『空木秀二の世界』の見出しに手を止める。

 ───空木秀二。

 彼は数々の幻想的な絵を描いた画家である。私が『空木秀二の世界』の会期中に訪れたのと同じ、美術館での展示の様子と、幾つかの代表作の写真が掲載されていた。

 昨年の夏に事故で亡くなったと聞いているが……

 私は椅子の背もたれに肘を載せて後ろを振り返った。

 壁の腰板の上、一面に描かれているのは………濃紺の夜空に重なる透き通った雪の結晶。そしてその中央に赤い北極星と、その周囲を巡る星々。

 『北天』。

 空木秀二の知られざる名画だ。

 私が六角屋に足繁く通うのは、この絵がここにあるからでもある。

 カラカラと乾いた音がして、私はカウンターに向き直った。ドリッパーは私のカップではなく、コーヒーサーバーにセットされていた。遠山さんは氷水を張ったボウルにサーバーを入れ、無愛想に「時間かかるぞ」と言った。

「ふふ」

「気持ちの悪い笑い方すんな」

 何を言ったって遠山さんは優しいのだ。私は頬を緩めて、また雑誌に目を落とした。

 背中に、『北天』という空木秀二の眼差しを感じながら。

 客が一組、また一組と店を出ていった。コーヒーが冷える頃には、客は私だけになった。……客じゃないけど。遠山さんがコーヒーをグラスに注ぎ、そーっとミルクを浮かべる。

「氷、入れないんだ」

「美的だろ?」

 カウンターを挟んで、二人で横からグラスを覗き込んだ。黒と白の層。ストローを差すのが躊躇われる。遠山さんの得意げな笑顔が目の前にあった。私は「えい」と思いきってストローを差し、ぐるぐるとかき混ぜた。

 回転しながら、ミルクの白がじわりじわりと広がってゆく。

 ………何だろう。不思議な感じがする。

 私は、もっとよく見ようとグラスに顔を近づけた。ミルクの粒がコーヒーの中を回っているのが見える。グラスの向こうに、遠山さんの真顔があった。

「……二人とも何やってるの?」

 くすくす笑いの声。顔だけで横を向くと、ラジオが鞄を足元に置いて私の隣の椅子を引いて座った。

「何かね、ミルクが面白かったから」

「ふうん?」

「もうこんな時間なんだ」と私は腕時計を見た。ラジオのバイト先の書店が閉店したということだ。遠山さんが店の外の看板を片づけに出て行く。ラジオは眼鏡を外すと、「ふーん」となさけない声を出してカウンターに突っ伏した。

 ひょろん、と彼の頭に犬の耳が生えて、ぺたっと垂れた。

 頭から、丸めた背中へと視線を移すと、ふさふさした尻尾が床まで垂れて、ぷらんぷらんと揺れている。

 そんな感じがする、というだけで、実際に犬の耳や尻尾が生えたわけではない。ただ、こんな時のラジオは何となく子犬みたいなのだ。耳や尻尾が見えるような気がする。

 私は何気なく彼の眼鏡を手に取った。レンズを覗くと、度が入っていないことが判った。

「何かあったの?」

と訊ねると、彼はカウンターに頬をつけてこちらを向いた。目を閉じたまま言う。

「…さっきの子が通用口で待ってたんだ」

「え、閉店までずっと?」

「うん、手紙は帰ってから読もうと思ってたんだけど、『待ってます』っていう内容だったらしくて」

「…ああ、真面目そうだったもんね、あの子」

 本屋の美術書の売場でエプロン姿のラジを見初めるような子だもんな。

 長いこと本屋の裏手で、どきどきしながら待っていたのに違いない。

 看板の額とイーゼルを抱えて戻った遠山さんが私達を見て、何も言わずに彼のコーヒーの用意を始めた。

「…それで?あの子はどうしたの」

「ふみーん」

 カウンターに突っ伏したまま、ばふばふと尻尾を振る。私は「ははは」と低く笑い、遠山さんと目を合わせた。遠山さんも「ははは」と口の端で笑った。ラジオは頭だけを起こし、カウンターに組んだ両手の上に顎を載せた。

「今日はもう遅いから帰りなさい、って言ったら、『今度会ってください』って」

「それで?」

「通用口でそんなこと言われても困っちゃうよ僕」

 どこならいいのか。

「だってすぐ後ろに店の人だっていたし。また店に来られて言われても困るでしょう」

「まあ、ねえ。…それで、会うことにしたんだ」

「うん」と、ラジオは唇を噛んだ。

「で?今度はどんな子なんだ」

「それが聞いてよ、女子高生…。え?今度は、って前にもあったの?」

「こいつは満員電車で中年のオヤジに迫られたこともあるくらいだ」

「……それって痴漢……」

 私が言うと、ラジオはまた顔を伏せた。(人間の)耳まで赤くなっている。じっとしていたかと思うとふいに体を起こして「店では初めてだからね」と私を睨んだ。なぜ睨む。

 ───まあ、判らなくはない。

 彼女のような若い女の子が好きそうな顔立ちや優しげな雰囲気。人懐こい笑顔や穏やかな口調も、好かれるだろうと思う。

 何より、ラジオには人の目を引き付ける不思議な存在感がある。

 先刻、書店で目を引いたのも、赤いTシャツのせいだけではない。

 彼には熱心に話す時に手をパントマイムのように動かす癖があるのだが、背筋を伸ばしてすっと立つ姿や、ふわりと揺れるような軽い体の動きまでも………一挙手一投足のすべてが何かを表現するかのように見えるのだ。

 ………そう思っているのは私だけなのか、彼女のような人もいるからそうでもないのか、その辺りは不明だが。

 ラジオという呼び名も、そうした彼の個性を表している。

 逢坂仁史。

 彼は、自らを≪ラジオ≫と呼んでいる。

 ラジオは小さく溜息を吐くと、頭を私の肩に載せて目を閉じた。疲れているのだろう、と放っておく。オードトワレのラストノートがふんわりと、かすかに甘く香った。私は指先でそこに置かれたままの眼鏡のレンズの縁を突っついた。

 伊達眼鏡をかけるように、普段の彼は素顔を隠している。

 甘えん坊のポーズもその一つだと思っていたら、………本当に甘えん坊だった。

 六角屋でだけ───遠山さんと私の前でだけ、彼の素顔が覗く。

 それが何となく、危なっかしくて放っておけない弟みたいな感じだ。

「…ラジ、おなか空かない?ごはん食べに行こうか」

「うん」と答えるが動かない。

「早くしないと帰るの遅くなっちゃう」

「帰っちゃイヤ」

「甘えるなッ」

 頭を小突くと、彼の額がカウンターにごつんとぶつかった。


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