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雨と傘とつないだ手

作者: 桜田ちひろ

 宮村団地は、錆びれた駅前商店街の少し外れたところにある。

 駅のロータリーを出て、そのまま直進すると道路の両側に色々な商店が広がる。シャツターを開けているお店は指折りで数えきれるほどしかない。二年ほど前はじまった駅前再開発事業のあおりを受けて、この辺一体の商店はほとんどお店を閉じてしまった。

 商店街の中程、レコード屋と散髪屋の間に車では入れない細い路地がある。この道を真っ直ぐ行くと橙色の工事中と書かれたフェンスが二つ並んで道を塞いでいる。ご丁寧に「立入り禁止」という札まで掛けてある。だけどこのフェンスは足を掛ければ誰でも簡単に乗り越えることができる。ここ以外のルートは全て高い壁のようなフェンスで覆われているため、この先へ行くにはここを通る以外に道はない。

 そこから先に進むと、くたびれた団地の裏に出る。そこに人の気配はない。壁の色はすっかり褪せていて、窓ガラスも汚れているものや、割れているものがほとんどだ。窓枠ごとごっそり抜かれているのというのも少なくない。その団地を抜けると開けた土地に出る。

 土地の真ん中に立ってみると色んなことに気付くだろう。たとえば、そこは駐車場や広場に使われていただろうということ。そこを囲むようにして同じ建物が三棟建っているということ。そして、さっき通ってきた棟のエントランスの周りに、いくつかの花束が置かれていたということ。まだ真新しいものもあれば、すっかり枯れているものもある。

 ここが宮村団地。そして裏に出た建物がその二号棟だ。

「自殺の名所」と言えば、このあたりの人はみんなわかってくれる。


 1


 ここに足を踏み入れるようになって一週間。学校が終わったあと、あたしは毎日ここに来ている。来たところで特に何ができるというわけでもない。ただ階段に座って、ぼーっとして、その辺を歩いたりする。ここに来るとなぜだか落ち着く。なんというか、上手く息ができるのだ。だから今日もこうして細い路地を抜け、フェンスを乗り越え、ここまでやってきた。吹き抜けのエントランスは思っていたより風通しがよく、涼しかった。あたしはひんやりとした壁に背中を預けて、古ぼけた各部屋の郵便受けをぼうっと見つめていた。

 宮村団地はいわゆる廃墟だ。建物自体が相当古いものだったのでずいぶん前に取り壊しが決まったのだけれど、会社のごたごたで結局作業は中止になった。それから長い間放置されてきたのだけれど、その間に何人もの自殺者が出たそうだ。ここ最近、駅前再開発事業が持ち上がりもう一度この団地の取り壊しがはじまったのだけれど、いざ始まると、事故が相次ぎ、けが人が出てしまう。そして三ヶ月ほど前、初の死者を出してしまった。それから取り壊しの作業は凍結したままだ。

 あたしは壁から身を起こして、そばの階段に腰を下ろした。視界にエントランスの入り口が映り込む。いくつかの花束も見える。今、あたしがいるこの建物の屋上から何人かの人が飛び降りて、亡くなった。噂によるその中には隣の中学の生徒もいたらしい。いじめを苦に飛び降りたそうだ。あたしはいじめにあったことがないから、その人の気持ちをわかってあげられないけれど、でも、最後までひとりぼっちだったんだろうなと思う。その気持ちなら、あたしにもちょっとはわかってあげられると思う。

 視界を近くの壁に移した。そこにはたくさんの落書きが、いろんな色で書かれている。「死んではダメ」「もう一度、思いとどまって」「死んだって何の解決にもならない」「あなたを必要としてくれる人は絶対にいる」そんなような落書きだ。中には電話番号を書いているものもあった。「どうしても死にたいならここへ電話して。君はひとりじゃないよ」と書かれている。どこへ繋がるのか少し興味があったから、かけてみようと思ってカバンに手を入れてみたけれど、携帯を家に置いてきたことを思い出した。携帯はあたしにとって、必需品なんかじゃない。

 そんなことを考えているうちに、ぽつぽつと雨が降ってきた。雨はみるみるうちに勢いを増していって、あっという間に大雨へと姿を変える。生憎、傘は持っていない。あたしは出口の近くまで行って、外に向かって左手を差し出した。雨が当たる。痛い。しばらくそこで草原と化した元駐車場に雨が降り注ぐ様子を見ていた。向かいに見える三号棟が霞んで見えて、それが廃墟をより幻想的にさせているように思えた。そこからあたしは右に左に辺りを見渡した。遠くの方は雨で見えなくなっていた。

 ふと、何か妙なものが視界に移りこんだような気がして、思わずそれを探してしまう。それはある程度手前の方にあった。そしてそれは「もの」ではなかった。小さい、茶色い生き物。あたしは実物を見たことがなかったので、一瞬目を疑ってしまったけれど、それは紛れもないきつねだった。

 きつねとは雨に濡れて生きていく生き物なのだろうか。そんなことをふと考えた。でも考えたところで、あたしはきつねに対して何にも知らないんだから、考えたってしょうがなかった。あたしはそこからしばらくきつねの様子を見ていたけれど、動く様子は一向にない。きつねはこっちを向いている。よく見るとあたしを見ているんじゃないかとも思ったけれど、それはきっと考えすぎなのだろう。

 近づいて逃げるんならそれでいいか、と思った。気付いたときにはあたしの体は雨に濡れていた。あたしはきつねを抱えて、走った


 エントランスできつねを放して、あたしは階段に座ってぼうっとしていた。きつねがどこかへ行く様子はない。結局、あたしが帰るまできつねはそこを動かなかった。ずっとお互いを見ているわけではなかったけれど、よく目が合った気がする。

 階段の上の方に傘が落ちていた。骨が何本か折れていたけれど、それでもまだ使えそうだった。雨はまだやみそうにない。だから、あたしはその傘をさして家に帰った。


 2


 翌日の宮村団地はいつもと少し違って見えた。水滴や水溜りが陽の光に反射してあたりが光って見える。

 あたしは昨日見つけた傘を手に提げて、二号棟のエントランスに入った。階段を上って拾った場所に傘を戻した。「ありがとうございました」と心の中で呟いた。

 それから階段に荷物を下ろして段差に腰掛ける。しばらくぼうっとしていると外で何やら物音がした。それは何かが落ちたと言うより、誰か歩いているような音だ。宮村団地は自殺の名所と同時に心霊スポットとしても周辺では有名だから、昼間から肝試しをしているような人がいるかもしれない。それこそ科学では証明できないような何かがいるのかもしれない。あたしはエントランスから顔を出して音のする方へ視線を移した。

 甚平を着た男の子が、花の前で手を合わせていた。

 あたしはそのようすに少しの間、目を奪われてしまう。

 男の子があたしに気付いた。ふと、目が合った。

「……花、あげてたのって君なの?」

 少し声を張って、あたしは男の子にそう聞いた。

 男の子は首を横に振る。

「亡くなった人の関係者?」

 男の子はもう一度、首を横に振った。

「ここへはよく来るの?」

 やや間があって、今度は首を縦に振った。

 一連の動作にあたしは違和感を覚えた。すると、男の子は左足を引きずりながら、あたしの方へ近づいてくる。そうして甚平の小さなポケットからメモ帳を取り出して、あたしに見せた。バランスの取れた丁寧な字で、こう書いてあった。

 ――オレは失声症で声が出ません。それに、左足が不自由です。

 

 二号棟の階段に男の子と並んで座った。カバンに入っていた飴玉を男の子にあげると、ふっくらと笑ってくれた。男の子があたしの肩を叩く。そして目の前にメモを差し出す。

 ――名前は?

 と、書かれている。

 あたしがそのようすを怪訝そうに見ていると男の子は思い出したように、メモに名前を書きだした。

 ――オレは千尋。

 自分を指差して男の子はあたしにメモを見せた。「名字は?」と聞くと、メモに「田村」と付け加えてまたあたしに見せた。あたしは試しに「田村くん」と呼んでみると田村くんはまたメモに何かを書いてあたしに見せた。

 ――千尋でいい。

 男の子のことを名前で呼んだことがないからちょっと戸惑ったけれど、それでも一度「千尋」と口に出してしまえば、思ったよりどうってことはなかった。千尋はまたふっくらと嬉しそうに笑った。

「あたしは祐希」

 そう言った後で「秋元祐希」と言うフルネームを名乗った。そして最後に「あたしも祐希でいいから」と言葉を付け足す。秋元の性にはまだ当分慣れそうにないので、名前で呼び合うのは考えてみればあたしにとって都合のいいことだった。

「何歳? 小学生だよね?」

 千尋は首を横に振る。そしてメモ帳に文字を書く。

 ――十四。中二。

 驚いた。あたしと同い年だ。

「学校は?」

 ――ムコ中。

 そして、隣の中学だ。

 それからしばらく、声と文字のたわいもない会話が続いた。何をするのが好きなのか、とか、勉強大変じゃない? とか、そんなこと。

 気付けば空にはうっすらと月が昇っていて、徐々にあたりが暗くなっていた。駐車場の真ん中に立っている街灯が淡い光を放つ。宮村団地にはとうに電気が送られてないはずなのに、なぜかあの街灯は毎夜白い光を放つのだ。

 それを合図にあたしと千尋は団地を後にした。細い道を進んで、フェンスを乗り越えて商店街に出たところで別れた。あたしは千尋の姿が見えなくなるまで手を振っていた。千尋が駅の眩しい光に飲み込まれる前に叫んだ。

「ねぇ! 明日も来る?」

 首を縦に振ったのが、はっきり見えた。


 玄関に入るや否や、リビングからお母さんが飛び出してきた。

「ちょっと、こんな時間までどこ行ってたのよ! 心配したんだから!」

 お母さんはあたしの肩を強く掴んで怒鳴る。すると亮太さんも出てきて「まぁまぁ、年頃なんだから多めに見てやりなよ」とお母さんを諭す。

「そうやって甘やかしてるからいけないのよ!」

 声のボリュームが更に上がる。

「別に何か危ないことに足を突っ込んでるわけじゃないんだし、いいじゃないか。何が良くて何が悪いかぐらいは祐希ちゃんだってちゃんとわかってるよ」

「でも……」

 お母さんはそこから何も言わなくなった。そして亮太さんはあたしに「な?」と話をふる。あたしは「まぁ」とか「そうですね」とか適当に首を縦に振って、小さな声で呟いた。そうすると亮太さんは「でも僕も加奈子さんも心配してたのは本当だから、遅くなるなら連絡ぐらい欲しかった」とあたしに言った。亮太さんの言葉は真っ直ぐで、正しくて、いつだってやわらかい。だからこそ、何も言えない。

「加奈子さんも怒鳴ってばっかりだと体に響くよ。もう加奈子さんだけの体じゃないんだから」

 途端、あたしの体は無意識に動いた。靴を脱いで一目散に部屋に駆け込み、鍵を閉める。「祐希ちゃん!」と亮太さんがドアの向こうで叫んでいた。

 あたしはドアにもたれかかって深呼吸をした。ほんの一瞬の出来事だったのにあたしはひどく疲れてしまった。体以上に頭が重たい。

 あたしは両手で思い切り頭を掻いた。なんだかむしゃくしゃする。頭の中に何かがあるような気がする。その何かが何なのか、全く見当もつかないのだけれど。あたしの体はそのまま崩れるようにして、床に落ちた。

 今年の四月からこの街に転校した。

 性が「秋元」に変わったのはその少し前だ。お母さんはお父さんが癌で亡くなってもお父さんの苗字を使い続けた。今思えば仕事上の名義の変更が面倒だったということもあったかもしれないけれど、それでもあたしはそれが嬉しかった。

 亮太さんに初めて会ったのが、更に半年ほど前だ。それまでテレビの中でしか見たことがないような高そうなレストランで亮太さんを紹介された。

 亮太さんはお母さんより三つ年下で誰でも知っているような一流企業に勤めるサラリーマンだった。会社のことはよくわからないけれど、それなりの地位も名誉もある。そしてお父さんが亡くなったのと同じ年に奥さんを事故で亡くしていた。

「はじめまして。秋元亮太と言います」最初にそう言った。今でもよく覚えている。そのときから亮太さんの言葉は真っ直ぐでやわらかかった。そしてそのときからあたしの声は小さな呟きに変わったのだ。

 それから再婚の話はトントン拍子に進んでいった。あたしは何に対しても一切反対しなかった。今となっては信じられないことだけれど、その頃は何に対しても笑って首を縦に振れていたのだ。

 コンコンとドアを叩く音が聞こえる。ドアが揺れる感触が背中を伝ってきた。

「お母さんもう寝たから」

 亮太さんの声はやっぱり真っ直ぐでやわらかい。

「ここ、開けてくれないか? 話したいことがたくさんある」

 あたしは何も言わず、ただ黙っている。亮太さんはその後しばらくドアの前で話をしていたけれど、あたしの耳には何も入ってこなかった。入れなかったという方がしっくりくるのかもしれない。

 再婚に踏み切った決定的な理由はお母さんの妊娠だった。いわゆる、できちゃった結婚。どこへ行っても息苦しいと思いはじめたのはそれからだ。


 3


 千尋はいつもあたしより先にいて、手を合わせている。

 ここ何週間のうちに、声と文字の会話にも慣れた。千尋は思ったことが顔に出るから、あたしの言葉に対してどう思っているのかはだいたい想像がつくし、はっきりとした言葉は少し待てばわかる。あたしは一生懸命言葉を書き綴る千尋の姿が好きだった。

 あと、千尋はお菓子が好きだ。宮村団地に行くとき、近くのスーパーで特売のお菓子を買っていくのだけれど、千尋はそれをご馳走のように食べる。ビスケットを買っていったときは食べカスをつけて頬張っていた。それだけ美味しそうに食べてくれればお菓子もさぞかし幸せだろう。

「千尋は手を合わせるためにここに来てるの?」

 チョコレートが間に挟んであるビスケットを食べている千尋にそう聞いた。そしてメモを出してペンを走らせる。

 ――それだけじゃないけどね

 だけじゃない理由を考えていると、またメモを突きつけられた。

 ――祐希はなんでここにいるの?

 少なくともお互いここに来る理由を考えていたのかもしれない。こんな廃墟にひとりで来るなんて、普通に考えればどうかしている。

「……ここだと、息ができるから」

 そう言って、あたしは深く息をした。

 家のことだけがここに来る理由ではないけれど、あたしはそのことを千尋に話した。

 クラスメイトには言えないことも、千尋の前だと不思議と言葉になる。それは宮村団地という場所のせいか、田村千尋という人のせいなのかはわからないけれど。

 どこまで話したのかは忘れたけれど、自分のことを話しているうちにだんだん胸が熱くなって、涙があふれた。

 今の状況を受け入れられない自分に腹が立った。亮太さんの言うことを認めたくない自分に腹が立った。再婚を選んだお母さんを許すことのできない自分もまだ、いる。でもお母さんの選んだことは間違ってなんかいない。その方が経済的にも豊かになるし、何より二人はお互いのことを好きでいる。亮太さんはあたしのことも、本当の娘みたいに大切に思ってくれている。亮太さんに何の落ち度もないこともよくわかる。でもわからなくちゃと思えば思うほど、それを認めたくない自分も出てきて、それがどっちも同じくらい本当のあたしだから、余計にわからなくなる。

 話の最後はもう言葉にならなくて、自分でも何を言っているのかわからなかった。

 あたしが涙を流している間、千尋はずっと手を握ってくれていた。


 家に帰る頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。携帯はいつも通り家に置いたままだったので、今日も怒鳴られるのを覚悟で家の扉を開いた。あたしは「ただいま」を言わずに敷居を跨ぐ。すると、いつもと様子が違うことに気付いた。お母さんの靴がない。すると奥から亮太さんが出てきた。

「話がある」

 そう言った亮太さんの声は、いつもより穏やかだった。それでもやっぱりやわらかくて、あたしはどうしても好きになれなかった。

 リビングにあるまだ真新しいテーブルを挟んで座った。この家に越してきたときに買った、茶色い木目調のテーブルだ。いつもはお母さんの座る席に亮太さんが座る。

「夕方、加奈子さんが倒れた」

 あたしは思わず「えっ」と声を上げてしまう。

「学校にも連絡入れたんだけど、下校した後だった」

 あたしが言葉に詰まっていると亮太さんは「心配ないよ。軽い貧血だった。お腹の子も大丈夫だから。でも念のため今日だけ入院するってさ」と言葉を続ける。

「加奈子さん、祐希ちゃんのことすごく心配してる。私のせいだからごめん、って毎日僕に謝るんだ」

 あたしは黙ったまま、何も言わない。視界は膝にそろえた手だけを捉えている。

「祐希ちゃんはどう思ってるの?」

 しばらく間があって「何が?」と小さく呟く。

「加奈子さんのこととか、僕のこととか、お腹の中の子とか。あと学校のこととか、友達のこととか、勉強のこととか……こんな遅くまで何してるかとか……僕はまだ、祐希っやんの色んなことを知らないから」

 あたしは下を向いたまま、何も言わない。

 普通の人ならそろそろ怒鳴るよな、と思う。だけど亮太さんは全く怒鳴るようすもなく、普段どおりに言葉を繋ぐ。まるで諭すように、優しくやわらかく。

「僕は祐希ちゃんのこともっと知りたいんだよ」

「……お母さんに聞けばいいじゃないですか」

「祐希ちゃんから聞かないと意味がない」

「誰から聞いたって同じです」

「違う。祐希ちゃんの思ってることは祐希ちゃんにしかわからない」

「何言ってるんですか?」

「祐希ちゃんの気持ちを言葉にできるのは、祐希ちゃんだけだ」

 こうして話しているのも、だんだんキツくなってきた。決定的なきっかけは忘れたけれど、気付いたらあたしは勢いよく立ち上がって、両手で思い切り机を叩いていた。

「そんなの、知らないっ!」

 そうして勢いよくその場から逃げだす。あたしを止めようとする亮太さんの手を振りほどいて、走った。靴を手で持って、ドアに手をかける。玄関の鍵は開いていた。

 最初からそうだ。全部全部、悪いのはあたしだ。


 4


 落ち着ける場所は結局ここしかなかった。

 最初は駅前の繁華街に行ったのだけれど、なんだか怖そうな人がたくさんいて、とても長い時間いれそうになかった。だからといって、こんな夜に「自殺の名所」と呼ばれるところにひとりでいる方がまだマシだなんて思う方がどうかしてるよね、と思うと自分が馬鹿みたいに思えて、笑ってやりたくなった。

 近くのコンビニで小型の懐中電灯を買ってここまで来た。あたしは放課後と同じように階段に座ってぼうっと前を眺めていた。なんでだろう、自分でもびっくりするほど、怖くない。

 あたしはおもむろに右手を真っ直ぐ伸ばして、その手を見つめた。そしてここで自殺した人たちのことを考えた。もう生きていてもしょうがないと思ったのか、自分という人間を辞めたいと思ったのか、化けて復讐でもしてやろうと思ったのか、自殺しようと決心させた理由はよくわからない。けれど、どうしようもなく消えてしまいたいという気持ちはよくわかる。

 そんなことをぼうっと考えていると、ふいに思いついたことがあって、立ち上がった。あたしはこの身一つでゆっくり階段を上っていった。階段を一段踏みしめるごとに、足音がよく響いた。耳に入る音は延々と泣き続ける虫の音とあたしの足音だけだ。各階に見える部屋の扉はもうすっかり錆びていた。

 四階から屋上に上がる階段の入り口には鉄格子のような扉があったけれど、特に施錠されている様子はなく簡単に開いた。

 屋上に出るとわずかながら雨が降っているのがわかった。屋上は意外にも柵やフェンスなどといった障害物はなく、決心さえあれば誰でも飛び降りれるようになっていた。あたしはそこから真っ直ぐ足を進める。一歩一歩、床を踏みしめるように。そうして建物の端に着くと、段差に足をかけて下を見下ろした。思った以上に高い。

 雨はみるみるうちに勢いをましていく。あたしの髪を濡らし、服を濡らし、体を濡らす。

 いろんなことが頭をよぎった。

 お父さんが死んだこと、亮太さんが家に来たこと、お母さんが再婚したこと、名字が変わってクラスメイトの目が変わったこと、お腹の中に子どもがいることを伝えられたこと、この街に引っ越してきたこと、宮村団地のことを聞いたこと――。

 そうやって、あたしは闇に飲み込まれていくような気持ちになる。

 ――千尋に会ったこと。

瞬間、あたしは我に返った。

すぐさま踵を返したけれど同時に体重が勢いよく後ろに持っていかれた。

体が宙に浮いていることに気付いたのはその次の瞬間だった。


 細い視界に映ったのは見覚えのある場所だった。

 どこだっけ? と、まだはっきりしない記憶を辿ると、宮村団地の屋上、ということに気付く。ん? 宮村団地の屋上? それってさっきまであたしいたところだったはずだ。なんでいたんだろう? 確か亮太さんと話してそれからあたしが家を飛び出して、それからここに来た。それからあたしは屋上にのぼって……。

 はっ、と上体を起こした。

 目の前には、いつもみたいに甚平を着ている千尋がいた。傘を差して、中腰であたしの目を覗き込んでいる。

「大丈夫?」

「……うん」

 とりあえず、そう答えた。まだ雨が降っていた。あたしの体が雨に打たれていないのは千尋が傘を差してくれているおかげだ。

「こんな時間に来るんだもん。びっくりしたよ」

 そう言って、いつもみたいにふっくら笑う。千尋の声は高くて……って。

 言葉が詰まった。あたしは溢れそうになる感情を整理して、狭くなった喉に言葉を通す。

「千尋……喋ってる……っていうか、なに、それ……」

 あたしはそれに向かっておもむろに指を指した。

 千尋の頭には茶色い獣の耳がぴょこんと生えていて、腰の後ろからはふさふさした尻尾が見えた。

 千尋はもう一度、ふっくら笑う。

「ごめん。オレ、本当は人間じゃないんだ」

 そう言って耳やしっぽをちょこちょこ動かす。

「あのとき、祐希が抱えてくれたきつねだよ」


 エントランスから続く階段に、並んで座った。意識はある程度回復したはずなんだけれど、千尋の耳と尻尾のせいで自分の意識がまだフワフワしているように感じる。耳と尻尾に触らせてもらった。どっちも触るとくすぐったそうにするし、しっかり引っ付いていて取れそうにない。それに千尋はあたしがきつねを抱えたときの状況の事細かに説明してくれたのだ。あたしでしか知り得ないことをたくさん知っていた。だから、認めたくないんだけど、千尋は本当に、あのときのきつねなんだろう。

「なんで声出ないなんて嘘ついたの?」

「嘘じゃないよ。完全に人の姿になると声が出せなくなるの」

 一つのことに集中すると一つのことができなくなるというように、千尋の場合は耳や尻尾を隠すのに意識を集中しすぎて声が出せないらしい。声を出してしまうと、今みたく耳と尻尾が出てしまう。

「きつねってみんな化けるもんなの?」

「大体はそうだよ。きつねには生活しにくい世の中だからね」

 それから「人ってオレたちのこと考えてくれてるの?」と言われた。あたしは「わからない」としか答えられなかった。

「オレさ、上手く人に化けられないきつねなんだ」

 きつねが人に化けるのはそれほど難しくないらしい。だから人に化けることができるようになれば、みんな人の社会へ出て行くのだという。千尋の仲間もみんな、人に化けることを選んだ。だけど千尋だけ、上手く人に化けることができなかった。そのときはどうやっても耳と尻尾が残ってしまって、とても人前には出られなかったらしい。だからひとりになってしまった今も、ここに住んでいるのだそうだ。

「ちょっと前にね、耳と尻尾が隠せるようになったんだ。でも今度は声が出なかった。それもなかなか治らなくてさ、もう声が出なくてもいいかなって思ったんだ」

 あたしがこくんと頷くと千尋は「人間ってそういう人にも優しいんでしょ?」と言葉を付け足す。

「……声が出ないまま人前に出なかったのはなんで?」

「思ってることを声にしたくなったから」

 そう言った後、千尋の体から光が溢れた。光は体からどんどん出て、ちぎれて、消えていく。緑とも黄色ともつかない、淡い光が、暗いエントランスに満ちていく。

「あれ? 思ってたより早いな」

「なに? どうしたの、千尋?」

 思わずあたしは千尋の肩を掴んだ。

「祐希の記憶から消えるの。オレがきつねだってバレたし、人に使うべきじゃない力を使っちゃったから」

「どういうこと? ちゃんと説明してよ!」

 そう言っている間にも千尋の体からはどんどん光が出て行く。それと同時に体が少しずつ薄くなっているのがわかった。

「わかりやすくいうと魔法みたいなものだよ。本当はきつねが自分の身を守るときのために使うものだから、人のために使うなんて言語道断なんだけど、さっき祐希が飛び降りたときに使っちゃった」

 思い出した。確かにあたしは、あの場所から足を滑らせた。でもあたしはこうして生きている。それが千尋のいう力の証拠なのだろう。

「なにそれ、勝手だって! あたしなんか、死んだってよかったのに!」

 胸に色んな感情が溜まって、溢れる。胸が苦しい。息が出来ない。

 途端、体がぐいと引き寄せられた。千尋の匂いと、声の近さと細い腕の感触で気付いた。千尋があたしをぎゅっとしてくれている。

「そんなこと言っちゃダメだよ。祐希がいなくなったら悲しむ人いっぱいいるから」

 涙は溢れる。言いたいことはあるけれど、それが何だか自分でもよくわからなくなっていた。

「オレが一番言いたかったこと、言うね」

 千尋はあたしの肩に顔を乗せた。

「好きだよ、祐希」

 あたしはもう何がなんだかわからなくなって、どうすればいいのか見当がつかなくて、それでもとにかく何かしなきゃと思って、気付いたら千尋を抱きしめていた。

 千尋の体からは依然として光が漏れていたけれど、それでもまだ、感触ははっきり残っている。

「千尋……千尋……」

 もっと他に言うことはあるはずなのに、あたしの口からはそれしか出ない。どんな感情も、口から出ると千尋の名前を呼ぶことしか出来なかった。

「大丈夫だって、死ぬわけじゃないんだから。いつになるかわからないけれど、また会いに来るよ。そのときまた、仲良くなってね」

 手のひらに感じる感覚が淡くなっていく。なんだか重さが消えていくようだ。

 あたしにだって言いたいことはたくさんある。ただ口から言葉がでないだけなんだ。

気持ちは、言葉にすれば伝わる。しなきゃ伝わらない。

あたしには言いたいことがある。本当に大切な気持ちだから、言葉にしなきゃだめなんだ。

 瞬間、亮太さんの顔が頭を過ぎった。確かに、あたしは悪い。でも悪いのは状況を受け容れないあたしじゃなくて、思ってることを言わなかったあたしなのかもしれない。

 次の瞬間、言葉と心が繋がった。

「ありがとう」

 手のひらにはもう、何の感触も残っていなかった。

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