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ねこはうち

  1


 2月3日。翌日は立春とはいうものの、まだまだ冬の寒さが厳しい時期である。

 だがこの日は、澄み切った青空が広がり、降り注ぐ日差しは、冷たい空気を暖める。

 そんな昼下がり、若い男女が歩調を合わせながら、閑静な住宅地を歩いている。

 某神社の節分祭からの帰り道、女が手にする鞄の中には袋豆がつまっている。

 男の名はYukihira、女はReikaという。


 ある家の前に差し掛かったとき、Yukihiraは思わず足を止めた。Reikaも。

 盆栽、鉢植がことごとく荒らされ、地面には土等がぶちまけられているのだ。

 何事かと辺りを見回し、Yukihiraは怪しい物音を聴いた。

 連続した低音、それが唸り声と気付くのに、さほど時間はかからなかった。

 家屋と家屋の間の、狭く薄暗い路地に当事者達を見つけた。

 背を向けている白毛の猫、その奥には2匹の薄汚い猫が互いに睨み合い、威嚇しあっていた。全身の毛を逆立て、尻尾は天を衝くが如く高々と伸び、爪を剥き、牙を剥き、頭を低くして今にも飛び掛らんとするのは、二人の手前にいて背を向ける白猫だ。

 白猫に敵対する2匹の野良は、二人に気付いていながら隙を見せられないのだろう、体勢を変える気配はない。

 Yukihiraは懐から、神社で受け取った袋豆を取り出し、中の大豆を2、3粒、猫の間の空間に投げつけた。

 3匹は一斉にYukihiraを見上げた。次の瞬間、2匹はその隙を衝いて脱兎の如く逃げる。白猫はすぐに前を向き直ったが、後を追おうとはしなかった。

 逃げた2匹は、足を止め、振り返る。怪しく光る目とYukihiraの目が合う。気味が悪い程の輝きに、Yukihiraは眉をひそめる。だがそれも束の間、2匹は角を曲がり視界から消えた。それでもYukihiraの脳裏には、禍々しい光が焼きついて離れなかった。

 野良が2匹消え、白猫も向きを変える。Yukihiraの脇を通り過ぎ、Reikaを横合いからチラリと見遣る。首を傾げるような動作一つ、道路を挟んで向かいの家の茂みに消えた。

「私たちも、行きましょう」

 白猫が消えた先を見つめているYukihira。Reikaは右肩に寄り添って言った。

「ああ」

 そう言いながらも、何か後ろ髪を引かれる思いがして、Yukihiraはもう一度振り返った。

 しかし、そこには何もない。何もいない。

 ただ不気味な闇があった。



  2


 その夜、夕飯を終えて居間でくつろぐYukihiraとReikaの住居を訪ねる者があった。

「すいませんが、一晩泊めていただけませんでしょうか」

 Reikaが玄関を開けると、女性が開口一番に告げた。彼女は20代後半程か。そしてまだ幼い、6歳程の少女を伴っている。

 突然の申し出にもかかわらず、Reikaは笑顔で応えた。

「うちの人に訊いてみますので、お待ち下さいね」

 振り返り、居間へ向かうその背中を、少女は真剣な眼差しで見つめていた。


 Yukihiraは今朝、神社でいただいた豆をつまみに、晩酌中である。

 Reikaは正面に座って、ありのままを伝えた。

「どうしましょう、か。Reikaはどうなの? いいって言ったら、泊めてあげようと思ってる?」

「はい」

 彼女の表情にも、声にも、迷いはなかった。それで、Yukihiraは納得した。

「いいよ。泊めてあげよぉ」

 彼は、Reikaが見る目がある人物だと分かっていた。


 親子は居間に案内され、Yukihiraの前に正座し、一礼した。

「この度は、突然のことにもかかわらず、ありがとうございます」

 顔を上げた女性の表情は、穏やかなものであった。彼女は続けて、名を名乗った。母親の方はMiyu、娘はRikaという。

 Yukihiraは一応、理由を尋ねた。しかし、

「それは、言えません」

 と、Miyuは答えたのである。

 その後の沈黙を破ったのは、Rikaであった。

「猫好きなの?」

 彼女は無邪気な笑顔で尋ねた。その言動に、YukihiraとMiyuは戸惑う。

「え、ああ、好きだよ。けど、どうして?」

「だって、ほら。ここには猫さんがいっぱい!」

 確かに、戸棚や箪笥の上には小さな猫の置物が飾られている。だが、それはいっぱいという程多くはない。彼女にとってはいっぱいなのだろう。

「好きなら、飼ってるの?」

「いや、飼ってないよ」

「じゃあ、飼ってた?」

「うん。子どもの頃、飼ってたよ」

 Rikaは次から次へ、Yukihiraに質問をぶつける。

「その猫さんは、どこに行ったの?」

 その質問の一つ一つが、彼の心にチクリ、チクリと突き刺さる。

「その猫さんは、死んじゃったんだ」

「どうして?」

 Miyuは血相を変えるが、何も言わない。

 Rikaはくりくりの目で、Yukihiraの目を覗いている。

 Reikaは彼の傍らに静かに控える。

「ちゃんと、世話ができなかったから」

 重い口を開き、Yukihiraは心情を吐露した。

 Miyuが困惑の表情のまま顔を上げると、悲しそうな彼の表情が、その目に飛び込んだ。

「悲しかった?」

 Rikaは心配そうに、Yukihiraの顔を覗き込む。彼は顔の力を抜き、言った。

「いや。悪いことしたなぁって思ったよ。そして、自分は無力で、情けないなぁって」

 3人は黙って聴いている。Rikaも、もう問いかけようという気配はない。

 だが、Yukihiraの口は、続けて言葉を発していた。せきを切って、それまで内に秘めてきた思いがあふれた。

「だから、思ったんだ。簡単な気持ちで、好きだからって、生き物を飼うべきじゃない。虫とか、魚の時は、そうは思わなかったのにね。そして、Myuはどう思っているのか。恨んでいるんじゃないか。こんな俺が、猫が好きなんて言う資格ないんじゃないかって思うんだ」

「でも……」

 それまで静観していたReikaが口を開いた。

「Yukihiraさんが、子どもの頃の話なのでしょ。それなら、あなた一人が責任を感じる必要ないと思います」

 Reikaは言いながらお猪口ちょこを手渡し、徳利とっくりを持ち上げる。Yukihiraは右手で受け取り、注がれた酒を口に運ぶ。

「そう言われると楽だね。でも、そう思っちゃいけないような気がして。そうじゃないと、誰も彼女を、Myuを供養してあげられないんじゃないかなって」

「忘れないことが、供養ということですか」

 Reikaが酒をぎ、Yukihiraはそうだと言って、飲み干す。

 Miyuは落ち着かない様子で、その表情はとても複雑なものである。

「おじさんは、Myuのことが大好きなのね。Rika、もっと聞きたい。思い出が聞きたいな」

 Rikaは再び、無邪気な笑顔を振りまく。

 Yukihiraはお猪口を置き、腕を組んだ。

「思い出か。いろいろあるね」

 彼は目を瞑った。



  3


「Myuは、暗い灰色の毛をした雌猫で、尻尾が曲がっていたんだ。幼い頃に骨折してね。

 外を二人で走り回ったり、抱いたり、くしをかけたり、猫じゃらしで遊んだり、身体を持ち上げて2足歩行させようとしたこともあったな。

 ある時、尻尾を踏んでしまったことがあって、謝ろうと近寄ると、逃げて行ってしまって。あれは本当に悲しかった。完全に嫌われたと思って、こっちも泣きそうな気分だった。あの時の俺を見る目は、敵を見る目だったな。

 またある時、旅から帰ってくるとMyuがぐったりしてたんだ。ただ事じゃないと思って医者に診てもらったら、もう少し遅かったら危なかったなんて言われたよ。退院してから、食前に薬を飲ませないといけなくて、手を引っ掻かれながら飲ませたんだ。お前のためだ、って。そんな時ぐらいは、俺も一生懸命世話したもんだ。

 それから、子どもも生まれたよ。最初は11匹生まれたんだったかな。最終的に成長していったのは3匹。どんどん死んでいくんだよね。一週間で8匹。猫の出産ていうのは、そういうものらしいけど。嬉しさ半分、悲しさ半分て感じだね。

 そしてついに、ある日いなくなった。後で見つけたんだけど、出産した箱の中で亡くなってたんだ。なんか、感動した。生と死を象徴しているというか、一つのものなのかと感じたりして。

 喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、生命いのちの尊さも、いろいろなことを教えてもらったんだな。感謝してるよ……そうか、感謝か……」

 Yukihiraは現実に返る。

「忘れないのは、戒めではなく、Myuに対しての感謝の気持ちなのですね」

 Reikaが彼の気持ちを代弁した。Yukihiraの理屈に包まれていた本質とは、自分を、ある意味で育ててくれた、飼い猫Myuへの感謝であった。

 彼は自らの記憶を掘り起こし、自分の気持ちと向き合い、自問自答を果たした。

 Rikaは少し驚いたような表情から、再び笑顔に戻る。

「いい話だね」

 Yukihiraは口元を緩める。少し照れているようだ。

 Reikaは優しい笑みを浮かべている。

 そしてMiyuは、かすかに優しい表情になった。

 一つのちゃぶ台を囲み、和やかな雰囲気が広がる。

 だがそれはひと時の、ほんのひと時の出会いに過ぎず、別れの時は目前に迫っていた。



  4


 夜も更けた頃、突然、ドーンという轟音と、地響きが襲った。

 Yukihiraは何事かと、窓から外を覗くが、異常はない。

 ドンドンドン

 今度は続けて3回。明らかな異常である。

 ただ事ではないと、Yukihiraは玄関へ向かう。3人もそれに追随する。

 玄関から外をうかがう彼らに、信じられない光景が目に飛び込んだ。

 周りの家屋よりも高い、巨大な化け物が2匹、突進してきたのである。

 だが2匹は何かにぶつかって弾かれる。まるで、そこに見えない壁でもあるかのようだ。その壁への突進が、轟音と地響きの原因だったのである。

 Yukihiraは唖然として立ち尽くした。

 MiyuはRikaを見遣る。少女は顔を上げ、二人の目が合った。Miyuは一つうなずき、外へ飛び出していった。

 初めは、Yukihiraも何がなんだか分からなかった。

 俊敏な動きで地を駆け、化け物に迫ると高々と飛び上がり、その顔面を蹴り上げた。あごにきたのか、化け物1匹はぐらりと地面に崩れ落ちる。

 続けてもう一方にも同様に立ち向かったが、今度は猫パンチでMiyuが弾き飛ばされた。彼女はYukihira宅の壁に叩き付けられた。

 雲間から、月が顔を出す。月光に照らされる化け物の正体は、化け猫だった。

 猫が喧嘩している時によく聞かれる、低い唸り声が辺りに響き渡る。

 地面に倒れたMiyuを見て、駆け寄ろうとするYukihiraを、Rikaが制する。

 小さな背中にもかかわらず、Yukihiraは圧倒され動きが取れない。

「心配せずとも良い。化け猫は結界内には立ち入れぬ」

 Yukihiraは少女の変貌に驚いたが、後ろからではその表情は分からなかった。

 視線を上げると、Miyuの姿は既になく、その場所には一匹の猫が横たわる。

 Yukihiraはその姿を凝視した。見覚えのある顔、毛並み、そしてほぼ直角に曲がって生えている尻尾。

 彼は名を呼んだ。

「Myu」

 その声に、耳をぴくりと動かして、ゆっくりと起き上がる。

「さっさと片付けてしまえ」

 どこから取り出したのか、Rikaは手にしたお札を投げる。それらは一直線に化け猫の身体に張り付く。

 札の効力か、化け猫の動きが鈍る。

 Myuは四足で駆け、猛然と突進する。躍動するその身体は、Yukihiraの記憶に残る、Myuの姿そのものだ。

 勢いに乗り、跳躍した彼女は牙を剥き、化け猫の首筋に突き刺さったと思ったときには既に、引き裂いていた。

 大きな化け猫が大地に転がり、小さな猫はくるりと回って着地した。



  5


 2匹の化け猫は普通の大きさに戻る。それらは、YukihiraとReikaが今朝見かけた、白猫と対峙していた野良猫だった。

「じゃぁ、今朝の白猫は」

 Yukihiraが尋ねると、Rikaは振り返ってコクリと頷いた。

「今朝は、助かりましたぞ」

 Rikaは全く異質の笑顔をYukihiraに向けた。それを見たYukihiraは、自分よりもはるかに長い年月を、この少女が生きているのだろうと思った。

 彼女は、わけあって日中は猫の姿になってしまうが、邪悪なモノを祓って各地を巡っているという。

「あれは、以前浮遊していたのを私の式神としたのだ」

 Rikaは外を向き、Yukihiraもその方向を見遣った。驚いたことに、猫Myuの姿が半分透けている。

「使役するのは一度のみ。この世に留まるわけにはいかぬ」

「そんな!」

 Yukihiraの思いもむなしく、Myuの姿は既にない。

 ガックリと崩れそうになる身体を、Reikaが支えた。

「では、私はこれで失礼するとしよう」

 仕事を終え、立ち去ろうとするRikaの背を、Yukihiraは呼び止める。

「Rikaさん。Myuは許してくれたでしょうか」

「さあ……」

 二人の間に沈黙が流れる。

 Rikaは背を向けたまま、こう続けた。

「だが、御仏みほとけは、この世に遺した者を常に見護っておる。生前が、人に非ずとものぅ」

 それから彼女は思い出したように振り返り、ReikaとYukihiraに一礼して姿を消した。

 辺りは何事もなかったように静まり返っている。すべては幻であったかの如く。

「Yukihiraさん。許すとか、許さないとか、そんなことはいいじゃありませんか。私たちは、死者の霊に逢い、Yukihiraさんは自分の口で、思いを伝えました。これ以上何かを望むのは、贅沢というものでしょう」

 彼女はいつものように、しかしより優しく、彼に語りかけた。

 死者は決して、生き返らない。黄泉帰りはしない。

 死ぬは最期。魂魄の抜け殻たる肉体は、石の如く堅固に。しかしそれはやがて腐敗し、朽ちる。

 もう二度と、現世で会い、語らい、そして再び別れを告げることはない。

 悔いて、嘆いて、いざ謝ろうとしても応えは返らず。できることは祈ることのみ。

「祈りましょう、毎年2月3日は。豆を撒き、福と共に招きましょう。彼女を」

 Reikaの慈愛がYukihiraを包み込む。


 見上げる星空、満点の星々。人々の撒く、豆の数程に多く。

 また月は、亡き彼猫のまなこの如く、夜空に輝き、残した男子を見守りけるかな。


  完


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