9、罪の扉―鐘の音は誰がために
まだ朝と言うにも早い時間帯に病院を抜け出した私は、朝焼けとまだ残っていた夜風に満たされた中を歩いていた。目立つ入院着を即刻、駅の『その他のゴミ』へと押し込んだ私の今の服装は、黒いワンピースに黒い帽子――帽子は麦わらではなく深めのニット帽である所や、彼女との身長差で太腿の露出度が高い事などから、彼女が着るのとでは印象が随分違ってしまっているけれど――そう、蜜のモノだった。数年前から偽名で借りている貸し倉庫にそれしかなかったからなのだが、今の私の心情にはなかなか似合った衣飾だろう。
幽霊に頼んで得た情報が書かれた紙を自販機横のペットボトル用のゴミ箱へ捨てて、スポーツバックからケータイを取り出し、切っていた電源を入れ直す。アドレス帳の『警察関係者』にカテゴリされているのは、『桜花可奈』『梶川総次郎』そして『新米池田悠志』。すでにこの世に居ない彼を除いた二人の名前をしばらく眺めて、梶川さんへと通電した。
数コール後、繋がったケータイから発せられたのは彼の大声だった。
「今どこに居るんだ⁉ 病院を抜け出すなんて……何度もかけ直したんだぞ! 無茶をし過ぎだ、いいか早く戻っ――」
「梶川さん、犯人が分かりました」
私はそんな彼の心からの心配を遮って要件を切り出した。
「時間もないし面倒臭いんでさっさと説明しますから、テキトーに聞き流してください。えーと、そうですね。……この事件が誰がやったか(フーダニット)というのは前に話しましたよね? ハート事件の二番煎じ故に、ハート事件や白桃シロップ説と切り離して考えるのは難しい。まぁ警察の特捜はそれで私達を疑ってるわけですが、それに関して私達が幾ら反論しても仕様が無い話なんで置いておきます。初めて私がこの事件に遭遇したのは二人目の殺人だったわけですが、一人目が会う約束した人物だと知って、私はまず自分が狙われていると思いました。白桃シロップ説に則って考えれば、私に冤罪をかける動機があるのは広一君側の人間です。それで調べてみたら彼の祖母はすでに亡くなっていて、近しい人間も見当たらない。候補者がいないのでは話になりませんから、次に私は被害者遺族の可能性を探ってみました。けれどそもそも被害者側からすれば最も憎いのは蜜ですから、私の周りで殺人を起こす理由がないですよね。事件の状況がそぐわないんじゃあどうしようもない。そう考えると、そもそも凶器が見つかっていないこの連続殺人は冤罪を目的にしているのかすら判断できない事に気がつきました。広一君側だとしても犯人候補も挙がらないし、冤罪が目的だと断定もできない。被害者側なら目的自体が分からない……。だから、せめて事件が終わって犯人の目的がはっきりしない限り推理はできないと思ってました。ところが蜜が捕まって事件が決着しても、推理材料が揃わない事は変わらなかったんです。最初狙いは蜜だと思った。警察署でも言いましたけど、連続殺人は永山基準と裁判員制度を利用して蜜を死刑にするためだと。けれど冷静に考えてみれば、その場合犯人は被害者関係者という事になります。さっきも言った通り蜜を殺したいならそんなモノ持ち出さないでも直接殺せばいい。死刑にするために六人殺すなんてナンセンスですよね。それでも犯人は連続殺人というリスクを負ってまで蜜を死罪で殺そうとした。犯人にとって最もベストな復讐がこの状況だとするなら、犯人の狙いは私か私達二人という事になります。それはつまり犯人が広一君側の人間である可能性が高いという事で――結局、最初に否定した結論に戻ってきてしまう。そのせいでマグカップが一つ犠牲になりました」
「は?」
「いえ、こっちの話です。……ともあれ、もし広一君の関係者の誰かだと見当がつけば最初からこうも悩まなかったわけですからこの推理は破綻しちゃってます。というか、どれだけ動機から推理したところで、分かるのは広一君側か被害者側かという事だけなのだと、そこでやっと気がつきました。誰か(フーダニット)ではなく何故か(ホワイダニット)がこの事件の主題だった……。梶川さん、ハート事件を経験した刑事として率直な意見を教えてください。白桃シロップ説を聞かされた時どう思いました?」
「そうだな……その内容を聞いて確かに筋は通っていたし一理あるとは思ったが、それで実際花壇の土まで掘り返した結果は何もなし。結局は往生際の悪い犯人の戯言だったんだと……」
「そう、私達の潔白は一応大捜索で証明されてるはずなんですよ。彼が自殺したからこそ白桃シロップ説は信憑性を持ったわけで、それでさらにマスコミに騒がれはしましたけど、それってつまり大捜索の現状をよく知らないからこそでしょう? 完璧を期した登下校ネットワークが非難されたように、実情を知っていればでない意見なんです。『とにかくどうにかして血を持ち運んだ容器を隠し通す事ができた』という前提があって白桃シロップ説が成り立つわけですから。徹底した捜索がなされた事に疑いを持てて初めて白桃シロップ説信じられる。事件の近くに居た人間ほど白桃シロップ説からは遠いんです。白桃シロップ説を信じるためには部外者である必要があり、けれど、実名報道なんてされなかった私達の名前を知るためには関係者である必要がある。何より広一君側にしろ被害者側にしろその関係者は事件についてもかなり近い位置にいたはずなんです。広一君の主張を信じただろう彼の遺族は当然大捜索について粗を探そうと必死だったでしょうし、被害者の関係者は娘を殺した犯人がすでに見つかった状態です。大捜索で私達が白であると分かって、わざわざその結果を疑うかどうか……。だとすれば彼らは最も白桃シロップ説から遠い人間だ。踊らされましたよ。自分達は疑われて当たり前とばかり私は考えて、誰の復讐かという点にばかり目が行っていた。けれど、問題はどうして私達を疑えたかだったんです。今回の事件を起こすに当たって犯人は白桃シロップを信じられるほどには大捜索については知らず、けれど私達の名前を知れるほど当事者に近い人間であり、なおかつそれで殺人という手段を取る程度に私達を恨んでいる人物という事になる。ここに犯人の目的から推理した『犯人は広一君側ではないか』という結果を重ねてみれば、被害者側遺族の犯行は難しいという点で二つの推理は一致します。今度はちゃんとより細かい条件がありますし、矛盾した条件故に見落としがあった可能性も考えられる。そう思って思い出し直してみたんですよ。そしたら、見つかりました。だったら最初っから気づけよって話ですが、こればっかりは悩みに悩んだからこそ分かった答えです。事件の渦中に居た私自身が白桃シロップ説なんていう幻に散々翻弄された一人だったのだと自覚してやっと、答えが見えてきた」
「内山、広一か」
「ええ。あの時の出来事を目の前で見ていたくせに、大捜索の時には隔離されていた彼。白桃シロップ説を唱えた本人。これほど分かり易い答えもないのに、『死人に口なし』なんて自分で言って自分で騙されました」
「彼が誰かに訴えていた……?」
「内容は『大捜索には穴があったはずだ』とかそんな感じだったと思います。手紙か弁護士の道元さん伝いなのかは分かりませんが、大捜索の情報が抜けた事件の概要と白桃シロップ説を本人から聞いた人間が居たとすれば、白桃シロップ説を信じるでしょうね。もちろんその場合、その人物本人は事件の外に居て、かつ現行犯で逮捕された彼の言葉に耳を傾けるほどには、彼の弔い合戦をやるほどには、彼と親密な関係を持っている人間という事になりますが……居たんですよ、そんな人物が。クラスメートとして彼と知り合いで、そうでありながら事件に関わらなかったという稀有な立ち位置に居て、唯一広一君だけが学校との繋がりだった故に彼に信頼を寄せていて――そして何より、私から蜜を取り上げたがっているだろう人物」
一息吐いて、私は断言した。
「犯人は南城和樹です。彼しかいない」
ですが、と私は続ける。
「彼が犯人という証拠はどこにもない。この推理にしたって私が主張しているだけで根拠があるわけでもないですし、目的を果たした以上彼が動く事はもうないでしょう。蜜が捕まった今、わざわざ捨てるリスクを負わないでしょうから、おそらくホテルで侵入する際に使った従業員服はまだ彼が持っているとは思いますが、私の根拠薄弱な推理では警察は家宅捜索の令状を取ってはくれない」
そこで一拍おいてから、私は話を変えた。ここからが本題だ。
「……ところで梶川さん、シャーロック・ホームズの犯罪歴って知ってますか?」
「何?」
「証拠隠滅に偽証教唆、犯人隠避、窃盗、さらには殺人……そして不法侵入。これが、かの有名な名探偵に伝わる由緒正しいホームズ式解決法です」
「ま、待て! まさか」
「広一君は引き籠り。事件が終わった以上は外には滅多に出ないでしょうし、私にそれを待つ時間はありません。平和的な解決が図れない以上、残る手段は一つ」
「止めるんだ! 早まっ」
制止の言葉を最後まで聞かずに通話を切る。ケータイをそのままアスファルトに落として踏みつけた。何度も踏み潰し粉々に砕け散ったのを確認して顔を上げる。
見据える先にあるのは、二件目の殺人現場、そして私にとって今回の事件が始まったボロアパート。容疑者の潜伏先。
警察署や病院からここまでは五分はかかる。
大して機嫌がいいわけでもないけれど、鼻歌混じりにスポーツバックを探る。
取り出したのはスタンガン。
幽霊が言うには五〇〇万ボルトぐらい出るようにちょっと改造してあるらしいけれど、なぁに大丈夫、問題ない。
「さぁて――解決編の始まりだ」
夏とはいえ、まだ日が始まって間もないこの頃合い、ノースリーブのワンピースでは肌が少し寒い。夕焼けほどではないにしろ、斜に射し込む陽の光に長く伸びる自分の影が、ずり落ちかけていたスポーツバッグを掛け直すのを何ともなしに眺めて、私はアパートの敷地に足を踏み入れた。
赤茶色く錆びた鉄製の螺旋階段、補修跡がむしろボロく見える壁の罅。一ヶ月前と変わらない、寂れた印象。それでも狭い室内に収まりきれずに漏れ出した生活感が、洗濯ばさみやハンガーで吊り下がり、あるいは鉢から生えている。
軋む階段。もの哀しげにそれが泣くのは間違いなく、私の心境からだろう。
鼻歌は『私とワルツを』を奏で続け、二回目となる二階の廊下、頼りないほど薄い床を踏み締めて204号室の前で立ち止まった。
ここが幽霊に頼んで調べてもらった彼の住居。ドアを開ける必要もなく間取りはすでに分かっている。中央に折りたたみテーブル、左の壁にまずは水槽があって、その奥にパソコンが、反対側の壁にベッドが、それぞれ設置されているらしい。幽霊が実際に視たのだから間違いはないんだろう。
心積もりのために瞳を閉じて、部屋の様子をイメージする。
勝負は五分間。失敗は許されない。
長い息と共に迷いも雑念も吐き出して、――躊躇なく、思い切り蹴りつけた。
響く音色はまるで鐘。
錆びて脆くなっていた蝶番はネジを飛ばして寿命を終わらせ、ドアは部屋の中へと倒れる。
その音と、差し込んだ朝の光に驚いて、振り向いた和樹君と目が合った。
パソコンの前に座るその姿は、記憶の姿と変わらず、細い体躯。大人しく、小さく、内気だった彼は熱帯魚が好きで、よくその話をしてくれた。
「やぁ……和樹君」
明かりが点いていない室内、部屋の光源はパソコンの明かりと専用の台に載った水槽の照明だけ。一瞥すれば、六〇センチメートルの水に満たされた箱庭の中、華やかに飾り付けられた水草の間を、熱帯魚が外の世界の事など知りもせずに悠々と泳いでいる。
「お久し振り」
――付き合ってください。
サバサバした性格が、その格好良さが好きだからと、そう彼が言ったのはもう五年も前の事になる。
五年――その月日を彼がどう過ごしていたのかも、どう思って過ごしてきたのかも私には分からない。
あるのは彼が引き籠った原因は私であるという事実で、分かるのは私が自分の振る舞いに誰かが傷つく事を想像できないような救いようのない人間であるという結論だけ。
そんな私を好いてくれた人間に、私は自分が言った言葉さえ覚えてはいなかった。「あなた、人を傷つけないよう本当気を付けた方がいいわよ」……か。幽霊の言う通りだ。
本当、私って奴は罪深くてロクでなしで人でなしで………………それなのに、それでもまだ、蜜だけは失くないと思っている。
「こ……」
ガタタンと、オフィスチェアを倒して立ち上がった彼は、その手に封筒を持っていた。
握りしめ過ぎて、皺の寄った柄付きの封筒、それを突き出して何か言おうとする彼。
「こ、こここ」
それを遮って、
「いーよ、何も言わなくても」
私は彼の行動に合わせるようにして手のスタンガンを向けた。
扉を蹴り破った時点で、私の行為は触法してる。初めから話し合いなどという選択肢は用意していない。
それに、自分の愚かさはもう嫌というほど理解したから。
悪いのは全部私で、私がもう少し人の心に機敏であればこんな事にはならなかったと理解しているから。
だから、今更、言葉を交わさなくたっていい。
これで終わりにしよう、何もかも。
ハート事件の二番煎じ、そして告白の二番煎じ。
一度振ってもう一度、私は君を振って蜜を取る。
けれどせめて、あの日々の焼き増しというのなら、今度はちゃんとしよう。
電源が押され、生じた電極の間を駆け抜ける青白い光と威嚇音。
「う、うわぁあああぁあああぁああ!」
交渉不可を知らせる音に、彼は叫びながらキーボード脇に置いてあったマグカップを投げてきた。大振りな投射、軌道は容易く読める。聞こえる陶器の断末魔を背にし、臆することなく前に踏み出した私が距離を詰めるより先に、彼の手はテーブルの皿に乗っていたフォークを掴んだ。
腰が引けたまま、突きつけられる食器に威嚇効果などありはしない。
左肩に掛けたスポーツバックをわざと肩滑りさせてベルトを掴むと、そのまま左手で振るう。震える手、ロクに力が入らぬままに掴まれたフォークは弾き飛んだ。
けれど、次の一手、突き出したスタンガンをすり抜けて伸ばされた彼の両手に、手首が掴まれた。
舌打ち。
鞄で殴るが、近すぎて肩掛けの長いベルトを介してでは力がうまく伝わらない。手段変更、鞄の中のモノを引っ掴んで顔を殴りつける。わざわざ物で殴る必要がないような猛殴打を顔面に食らわせ、文字通り必死の彼を何とか離させたものの、執念深く掴まれていたスタンガンが床に落ちてしまった。
彼に拾わせるわけにはいかない。
散々顔を殴ったソレを投げつけて目を晦ましにし、しゃがもうとした私の腰に今度は抱きついてきた。細いとはいえ、男性の体重を掛けられて耐えれるほど私の足腰は強くない。
堪らず背中から倒れる、その前に、横にあった水槽の淵に手が届いた。
水と土とで重量を持った水槽と言えど、二人分の体重を支えきれず、倒れ込む私の手に引かれ台を滑った箱庭は、先に倒れ馬乗りになった彼とされた私に、上から大量の水を撒き散らした。
ガラスの割れる音、そして降りかかる破片。砂利が雪崩れてその後に続く。
濡れて滑ってもがいて、破片に身を切りながら身をよじる。
更なる激痛。思えばお腹の手術創はまだ傷だったか。
湿った土の匂い。跳ねるエンゼルフィッシュに撥ねる水滴。
命が瑞々しく跳ね回る騒がしさ。
ガンガンという外からの音もがそれに混じる。
全てが、目まぐるしい。
彼の両手が私の首を捉え、締まる気道と息苦しさに顔が歪む。
しっかり嵌った手を外すのは不可能と理解して、私は右手を床に転がるスタンガンに伸ばした。
「あ、ぅ……が、ぃぎ」
端が黒ずみ始めた視界と、匂いも痛みも苦しみさえもが混沌とするぐちゃぐちゃの思考の中、指が物に触れる感覚。
外れて部屋の中へ倒れ込んだ鉄の戸を踏む足音と、手が握りしめる固い感触。
「白藤さん!」
そんな、野太い声が聞こえるのと、私の手が彼の胸へ伸びていくのとはほぼ同時。
――ジュガッガガッガガガガガ、ガ、ガ、ガーガガッガガガガガ、ガ
酷く耳障りな音を聞いたのを最後に、私の意識は再び暗闇へと落ちていった。
♯
………………――南城和樹は死んだ。
無断で病院を抜け出し、身体中に裂傷を作った上に、不衛生な水を被り、挙句は手術創を開くという快挙を成し遂げ、病室に監禁される事になった私が、その情報を知ったのは意識を飛ばして数日後、可奈さんからだった。
「水を被ってびちょびちょのところに、市販されている物の五倍は威力の高い電流を心臓に流されれば、まぁそうなるわよね」
前は幽霊が座っていた椅子に腰かけた彼女は悠志君の死と同様、大して何にも感じてない風にそう言って、風船ガムを膨らませてみせた。膨らませる事ができない私としては羨ましくはあるけれど、舌技は蜜に任せているから問題はない。うん、ないともさ。
「正当防衛、警部が証言してくれるってさ。だから問題は家宅侵入や違法物所持の方ね」
「そっちはまあ、優秀な弁護士雇ってあるし……できるだけ軽くしてもらいますよ。友達に同性愛者の弁護士がいるんで」
しばらく裁判所通いかと思うと少し気が滅入るけれど、それ相応のモノを得たから後悔はない。
「そうそう、例のホテルの作業服、非番のロッカーからなくなってた一着が彼の部屋から見つかったって。で、調べたら彼の毛髪やら何やらが裏地から検出。彼が触れたのは間違いないってのが鑑識の見解」
「そう」
「でも、ま、それだけじゃ証拠して薄い。証拠偽造自体はできるしね。警察としてもあなた達を一度疑った手前、そう簡単に間違いでしたとは言えない。だから本命はこっち」
言って彼女はスーツの内ポケットから証拠袋を取り出した。中に入っているのはヨレヨレの封筒。和樹君の持っていた物だ。
「中身はこれ。警察に届けられる事のなかった告発文……てトコかな」
もう一つ取り出した袋には三つ折り目のついたA4用紙が入っていた。
「……『ハート連続殺人事件の犯人は桜川蜜と白藤桃。内山広一は無実、彼にはアリバイがある』、ですか」
「紙、かなり古くてね。それと封筒。この柄のはね二〇〇八年十一月に廃版してる。おいそれと用意できるものじゃない。彼の指紋がベタベタ検出されたわ。たぶん、何度も開けては閉じてを繰り返してたんでしょうね」
「それで羽虫も落ちましたか」
「えぇ、蚊だけにね。ついでに警察庁からも落ちるらしいわよ? 解雇処分だって。何でもお上さんに無断録音の件がバレたとか。……どっから漏れたんだろうね?」
「あの部屋、声が漏れやすかったからねぇ」
「と言っても警部以外近くには居なかったってよ? それに仮にも警察が証拠なしでそれを信じるわけないでしょう?」
……ま、レコーダーが壊れたって、データまで消えるわけじゃないし?
「そのお上って警視監の事なんだけどさ、知ってる? 最近娘さんが結婚したんだそうよ」
「へぇ……それはおめでとうございます」
「若い娘さんでそりゃあもう格好良くて警察庁でも有望な旦那さんをゲットしたらしいんだけど、仕事は続けてるらしいよ? 大学の先生」
あーはいはい、参りましたよ。
「困難に直面した時、身を助くモノは芸でもお金でも権力でも単位でもなくて――人間関係よ」
「……単位?」
「こっちの話。彼は出世ばかりに目がいってその辺を見失ってたのかもね」
「そうね。助けてくれるお友達が居ないお陰で、あの人色々と責任取らされるってさ。見込み捜査はともかく、それで大学生一人追い詰めて犯罪に走らせたのはまずかった。それが娘さんの新婚旅行をタダでプロデュースした恩人だっていうんだから、人間感情としても許し難いわよね。何よりその原因が警察側にあるとはっきりしちゃってる上に、証拠まで握られてちゃ誤魔化しようがない。それにほら、最近さマスコミに警察散々叩かれてたでしょう? 悪評が溢れ出してただでさえ悪かった警察全体の信用はガタ落ち。雛人形みたいに厄を押し付けられたみたいよ」
「蚊取り線香にやられましたか」
「どっちかって言うと殺虫剤ね。速効で決まったらしいし。それだけでもお気の毒って感じなのに、さらに奥さんの方にやたら腕のいい女弁護士がついたんだって。なんでも同性愛者の。娘さんの親権は奥さんに行くんでしょうね」
「そりゃ職を失った人間に子供まで養う余裕があるとは思えませんしね」
そもそも蜜を泣かせておいて赦されるとでも?
小汚い指なんかじゃとても気が済まない。
私の愛しき人を泣かせた代償は彼のこれからの人生全てだ。
今後彼が就職しようとする度、その先々で彼の不祥事が噂になっても私は驚かない。
えぇ、全く驚かないのです。
希望の光が一筋も届かないような惨めな人生が彼には用意されている。
「泣きっ面に蜂、虎口を逃れて竜穴に入る、弱り目に祟り目……まぁ自業自得だけど。ところでさ、そのマスコミ攻撃(、、)、二件目の殺人が起こってから始まったわよね?」
……全く、分かってて訊くんだから人が悪い。
「……裕子ちゃん」
「うん? あ、一人目の被害者の事?」
「彼女、勉強熱心な文学少女でしてね? ハート事件の時から犯罪や警察に関心を持ったらしくて、前に頼まれたのよ、警察の不祥事を題材にした小説を書きたいから調べてくれないかって。女の子にそう頼まれちゃ私としては全力で調べるしかないでしょ? 本当は彼女が殺された日渡すはずだったんだけどね。結局渡せなくなっちゃってどうしようかと思ってたんだけど、有効活用できてよかった」
「警察に睨まれるわよ?」
「警察に信用がないのは初めっからよ。むしろ今回の件は見せかけだけでも誠意を見せて不祥事を認める事で、警察に自浄作用があると示すチャンスになる。蜜を助けられて私は満足、警察もう信用を回復できて満足。両勝ち(Win-Win)、でしょ?」
もちろんその警察の中に、猪俣元警視正は入っていないけれど。
「わっるい娘だなぁ。あぁ、ちなみに私も勝ったから三人勝ち(Wim-Win-Win)よ。本庁の方からお呼びがかかったの。蹴ったけどね。でもまぁ、警部になるのに時間はかからないわ」
「わっるい警官だなぁ。梶川さんに伝えてよ、ご愁傷様って。あっ、あと娘さんはきっと誇りに思ってくれてるって」
「余計へこむと思うけどねぇ。ま、伝えてみるわ。これから合流するし」
彼女はそう言って立ち上がった。
「……そこの桃」
私は幽霊が置いていった箱を指す。
「悠志君に供えてあげて。私は食べれないし」
「了ー解」
白桃一つを片手に可奈さんは病室のドアをスライドさせた。
その先の廊下に屈強な看護師が佇んでいるのが見えた。
いや、もう逃げ出さないしさ。せめて女性を指名させてほしいんだけど。
逃げられそうにない鉄壁の姿が扉に遮られていき、――けれど完全に消え去る前にドアは再び開かれた。
「あぁそうだ」
扉の隙間から顔を覗かせたのは可奈さん。
「あなたはどう思う? さっきの手紙の『アリバイがある』ってやつ。幾ら彼にとって内山広一が唯一の交流であったとしても、その言葉をそのまま鵜呑みしたと思う? 内山広一は彼にプリントを持って行っていた。ハート事件最後の二人は彼の犯行だとしても、残り四件の内どれかとその訪問時刻が重なっていたとしたら? 凶器を家庭課室から持ち出して元に戻すという事は、別の人間がそれを持ち出す可能性があるという事よね。もし彼が前の四件を起こした犯人と同じ学校で同じ包丁を持ち出すなんて奇跡が起きていたとしたら――」
どういう事になるんだろうね?
彼女は最後に意味ありげにそう言い残して今度こそ去っていった。
「馬鹿ですよね、あなたって」
開口一番、若奥様はばっさり私を切り捨てた。
「馬鹿ですよ馬鹿、馬鹿過ぎます馬鹿が歩いてるような馬鹿ですね」
「教え子にそこまで言いますか」
「これは授業で散々からかわれた仕返しです。ファンタジー論の授業も終わって大学ではもう接点もないでしょうし」
「なら仕方ありませんね。そう言えば後期の授業、先生は相対性心理学をやるらしいじゃないですか。楽しみにしてます」
「ちょっ、恐ろしい事言わないでくださよぉ」
そんな楽しい掛け合いの後、彼女は自分で切った桃を美味しそうに頬張る。
そういう可愛らしい仕草が大学での人気の秘密なんだろう。人妻になったというのに、私とは違った意味で罪作りな人だ。
私も私で見舞いの際に蜜に持って来てもらった携帯ゲーム機を弄り始めた。ゲーム機とは言っても中は全くの別物で、本体自身のシステムソフトウェアは抜いてパソコンのOSが突っ込まれている代物だ。よって入っているゲームは全てパソコン用で、始まるゲームもパソコン用のシューティングゲームである。
彼女が桃を丸々一つ分食べ終わり、私がステージ1のボスを倒した辺りで彼女は「そう言えば」と口を開いた。
「授業と言えば、例の小作文。何ですかアレ、官能小説かと思えば実はホラーだなんて。オカズにもなりませんでしたよ」
「それは悪……いやいや、私が悪いんですか?」
「悪いんです。何が読者を惹きつけるテクニックですか」
「ファンシーでファンタスティックとは言わずも、ミステリアスな物語が展開したでしょうよ」
「いやホラーでした。まぁ、ともかく、はい」鞄から私の走り書きのレポート用紙を取り出して、差し出しながら彼女は言った。「やり直し」
「えぇえ⁉ 授業とうに終わって夏休みなんですけど?」
「単位あげませんよ?」
「だから私理工学部なんですって」
「じゃあ、後期の私の授業受けさせません。定員漏れで弾いてみせます」
「それは困る」
私の趣味とお小遣いの収入源がなくなるじゃないか。
「だったら書き直してください」
「はいはい分かりましたよ。……あ、そうそう一つお願いがあるんですけど」
「はぁ……なんですか?」
「指輪買いたいんですよ、婚約指輪……いや結婚指輪なのかな? それで経験者の意見が訊きたくて――」