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8、苦悩―百合姫し想いに無理祟り

 夏の日差しがどれほど強かろうと夜の暗闇に呑みこまれるように――頭に血が昇ってハイになっていたテンションは、蜜の居ない事務所に帰ってきた瞬間に冷めてしまった。

 雪崩を起こしたファイルの山、消しては書き、書き足しては消しを繰り返した結果、随分と汚れてしまったホワイトボード、押しピンの刺しすぎで脆くなった箇所からボロボロと崩れ出したコルクボード。相変わらず汚い部屋。洗わないまま二人で増やし続けたテーブルのカップ。局所、極端に整頓された資料と散乱した資料の対比。二人が過ごしてきた、名残。

 光源のない中、ガラス越しに外の光を青白く反射する、床に散らばった資料の中に、蜜が紙切りした人食いパンダを見つけた時、それはピークに達し、扉を閉めたところで足から崩れてへたり込む。眩暈がして瞑った目を、こじ開けて立ち上がろうとすれば、今度は吐き気。

 うまく力の入らない身体で床の紙に滑りながらも、何とかソファーにまで辿りついて深く横たわった。

 ポストイットとボールペンを取って、『白桃シロップ説』『遺留品なし』『手口同じ』『凶器なし』『広一側』『被害者側』……と今思いつく限りのキーワードを書いて左手に貼っていく。

 ……まずは状況を整理しよう。

 今回の事件はハート事件の二番煎じ。

 手口も同じ、遺留品なしという状況も同じ。よって犯人と事件を直接結び付ける証拠は出てきていない。

 死体が嫌がらせのように私の周りで見つかった事から見て、白桃シロップ説を信じ私達に復讐心を抱いた人物による犯行ではないかと考えられる。

『遺留品なし』『手口同じ』の付箋をソファーの背もたれに貼り替えて、『ハート事件の模倣 →  ハート事件の因縁』と書いたモノを加え、それら三つの横に左手の『白桃シロップ説』をラベル代わりに貼り付けた。

 さて……この場合、犯人は内山広一の周辺人物かハート事件の被害者遺族の二つ。ただし広一の関係者は考えうる限りいない。その判断と共に『広一側』と書いたポストイットを握り潰して捨てる。――けれど、犯行現場に凶器を残す意思が見られない事から、私自身に罪を着せようとしているとも考えにくく、犯人の目的がはっきりしなかった。

 それが事件最中(さなか)の推理だったが、事件が六件目池田悠志の死亡と蜜の逮捕という結末を迎えた今、新たに私の周りで殺したのはカモフラージュで犯人の真の目的は蜜という情報が付け加えられる。

 これで凶器が残されていないという矛盾は解消された。元々私が目当てではなかったのだから、連続殺人であると証明するためにも凶器は持ち帰ったのだろう。

『凶器なし』の付箋を新たに書いた『→ 蜜に連続殺人の罪を着せるために回収』と一緒に、さっきと同じくソファーに貼った。

 とすると、実は被害者側の犯行……という事になるのだろうか? ハート事件最後の騒動を考えれば、白桃シロップ説は蜜が主犯だと考えられるはずだ。娘を殺した真犯人蜜に復讐。動機の筋は通っている。

 ……いや、それではやっぱり六人も殺すリスクについて説明できていない。犯人は蜜だけではなく私にも恨みがないとおかしい。犯人を隠匿した私に対する恨み? 蜜が冤罪を掛けられ、死罰を受けるという状況を作り出す事で二人への復讐に? ……まてまてまてまてまて…………それなら蜜をただ殺せばいいだけだ。蜜に復讐するにしても直接殺せばいいし、蜜を私から取り上げたいのならそれこそ言わずもがな。永山基準を持ち出して連続殺人という危険を冒す必要はないし、娘を殺された立場で無関係な人物を生贄にするという抵抗がかかるだろう行為に手を染める必要性はそれこそ皆無になる。

『私?』『蜜?』、二つの付箋を睨みつける。

 そもそも六人も殺しておいて蜜を法で裁かせようとするのはおかしい。被害者側の立場ならやはり蜜に直接手を下すだろう。

 それでも迂回して蜜を陥れたのは、やっぱり私の方が狙いだったから?

 ハート事件、広一君の現行犯逮捕。あの時教室には二人しかいなかった。広一君が犯人じゃないとなれば殺人犯は蜜。私はそれを隠した従犯者という扱いになる。さっきも思った事ではあるけれど、それならば被害者遺族側の復讐なら蜜に重きを置くはずだ。

 考えてみれば、私達二人に復讐したいのなら、二人で居る時に死体と凶器を放り込めばいい。事件と私達の関係を匂わしたり、カモフラージュのために私の周りで事件を起こすまでもない。

 悠志君が被害者になった事件……。蜜が男性恐怖症という事は虐待での裁判を調べればすぐに分かる。それでも犯人があそこで殺人に踏み切ったのは、蜜のガードの高さからとしか説明できない。この事務所はセキュリティーが堅い。ハート事件と言わず多く人々に恨まれて生きているのは、分かり切っているのでそれぐらいはちゃんとしている。現にこの事件は初めの殺人から一ヶ月以上という長い期間が過ぎている。最初から蜜に罪を着せるつもりだったなら痺れを切らして当然。シンデレラドームで一度失敗してるだけに、あの時を逃せば次の機会が何時来るのか分かったものじゃなかった。その焦りからいささか強行的な行為に出たとするなら、そこまでして蜜への冤罪に拘っていたというのなら、間接的に真の狙いは私という事になる?

『私?』の付箋をソファーに貼って、『真の標的?』と付け加えた。

 けれど、そこまでして私の方を狙う理由が被害者側にはない。蜜を冤罪で殺させる事が復讐として最高の形となるのは広一君側の人間だ。

 だけれど、犯人像が広一君の関係者という推理は、広一君に遺族も親しい親類も存在しないという事実の前に破綻している。

 だからこそ推理は一ヶ月も進展せず、蜜が捕まるという結果を招いたのだ。

 広一君の周辺人物はいない。消去法によって残るのは被害者側。その推理が今、広一君の関係者という答えを導き出している――………………振り出しじゃないか。

 腹の上、くしゃくしゃに丸められていた付箋を広げると『広一側』の文字。

 もう使う事もないだろうと握りつぶされたそれは、再利用できないほどぐちゃぐちゃだった。

 それじゃあ、駄目なのに。

 無造作に捨てたボロボロの選択肢をもう一度拾うという、時間を費やしただけの行為に焦りが限界に達する。

「っ、れじゃ駄目なのに!」

 同じ所を意味もなくぐるぐると回っている。そんな自分の有様に苛立ってテーブルを拳槌で叩いた。

「結局! 振り出し!」

 もう一度。今度は先の一撃で揺れた置きっぱなしコップが倒れた。取っ手部分がストッパーになって、転がり落ちずに机上に留まったそれを払い飛ばす。

 割れる音を聞きながら行動とは裏腹に妙に冷めた思考が、そのヤツ当たりに下らないと酷評を下す。コップが勿体ない、片付ける時間も勿体ない、と。

 のろのろと身体を起こして、柄が付いたままになっている破片を拾い上げた。片付ける気にもなれず、足も根が生えたように動かせない。無意識に破片を左手首に持っていっていた。

 冷たい手、そこに血が通っているのか、嫌に実感がない。

 目に映るその手が私のモノでないのなら、私はどこに居るのだろう? 自分がどこに居るのかも分からないという、あまりも不安定な感覚に襲われて、身体がぐらぐらと揺れているような錯覚すら覚える。

 駄目だ、不安に呑まれるな。今は……今はそんな時間はないんだから!

 構わず思い切り引けば、肌を走った赤い線から血が少しずつ滲み出てきた。一滴二滴と床に撥ね始めた辺りで動き始めた身体を再びソファーに戻した。

「蜜……」

 思わず呟いて自分の身体を強く抱きしめる。血が服に着くのも気にせずに、ソファーの端っこに小さく体育座り。身体が寒くて仕方ない。

 喪失感に抉れた胸の風穴。そこからくる冷えに耐えようと身を揺するも、効果は期待できそうにない。

 前に蜜が熱心に見ていた事を思い出して、手に取ったポータブルDVDレコーダーを再生すると、入っていたのは桐枝先生の結婚式だった。

 笑い声、笑顔、主役の二人がケーキに入刀している様子。

 それが彼女の憧れだと、今更ながら理解して――私はレコーダーを落とした。

「みつ……」

 蒼く暗い視界の中、ぼんやりと照らされる二人の過ごした日々の残骸。

 ここに蜜は居ない。もうすぐ、手の届かない所へと行ってしまうかもしれない。

 それを再び認識してしまって、乱れ落ち着きのない呼吸が、か細いの悲鳴のようにひぃひぃと漏れる。

 あぁ、息の出る音じゃなくて、本当に悲鳴なのかもしれない。

 そう思い至った時には、もはや悲鳴でしかない嗚咽が漏れ出して止まらなくなっていた。

 蜜も、蜜も泣いているだろう。

 彼女もこんなにも苦しくて、心細い想いをしているのだろうか?

 それを私が知る事は一生ない。人間ただでさえ、本当の意味で心通わす事などできはしないのだ。自分の感情すらをうまく理解できない彼女の心に私が触れる事があるわけがない。

 相手の気持ちを勝手に想像して感応する事を同情や共感と呼び、その相互作用の間に生まれるのモノを絆と呼ぶのなら、それすらできない私と蜜の間には何があるのだろう?

 ……分からない。

 けど、今私の胸にあるこの感情は、きっと後悔だ。

 こんな事になる前に、あの時と同じように抱きしめてやればよかったんだ……。

 心が触れ合わないのなら、せめて身体ぐらいは。

 それすらが今は遠い。

 深く沈み込む感情に、どれほど自分が蜜に依存しているのかを思い知らされる。

 そう、本当に依存してるのは私の方。同性愛者の私の方だ。

 カミングアウトした私にかけられたのは「微妙な年頃なだけだ、大丈夫。心配するな」という諭すような父親の台詞だった。

 所詮、そんなものだ。ある程度社会において認知度が高いといっても、異性愛が初期値(デフォルト)……標準という認識は変わっていない。

 生殖という生物学的見地からそれを多くの人々は疑いもしないが、それを言うなら同性愛・両性愛行動は人以外の動物一五〇〇種ほどで確認されているのだから別にその限りではなのだけど、多くの人間にしてみればそんなの興味のない事なのだろう。

 興味もないから調べはしない。調べないでもそれらを知っているのは耳に入ってくる情報からだ。それがまた大衆向けに調整されたりする情報で、当然最も万人受けしやすいモノで――そんな彼らが自分の得た知識だけで物事を判断するのが世論というやつなのだから、この社会は少数派(マイナー)にとってはなかなか、我が通しにくい造りをしている。法が作る人間に都合よく作られるように、大衆や民衆という聞こえのいい言葉は大衆に向けては聞こえがいいのだろう。

 無関心でいてくれるのならそれでもいいのに、不都合ばかりを寄こしてくれるんだから……時々、嫌になる。

 それを別に嘆くわけではないけれど、そんな社会で、そんな世界の中で、私は蜜と出会った。

 もうあるか分からない運命のような出会い。

 男に一欠片も興味が沸かない、女の子にしか魅力を感じない、そんな私が巡り会えた(ひと)

 そして、今では蜜以外なんて考えられないと言える唯一無二の人。

 手放したくない、かけがえのない存在。

 けれど蜜にとってはどうだったのだろう?

 別に同性愛者ではなかった、今もどうなのかは分からない、男性恐怖症の彼女は。

 私は、人間として欠けている蜜につけ込んでいるんじゃないのだろうか?

「……ぅえ」

 むせる声。

「っぐ、あぅ……」

 震える手。

 それを、止めるためにもう一度コップの破片を手首にやる。

「ッ!」

 二度目の自傷についた二つ目の赤い線、そして血でべたつく手の平。

 手から滑り落ちた鋭利な破片の破砕音に、視界に映るその非日常的な光景が現実だと思い知らされる。

 鋭い痛みと痒みに思考は停止した。

 そうだ、リセットとしろ。今必要なのは落ち込む事ではなくて事件の推理だ。

 血で(ぬめ)った手ではポストイットは使えない。ペン共々放り捨て、ソファーに貼られた全てを払い除けた。

 もう一度始めの始めから考えてみよう。

 さっきと同じ推理素材だけでは同じ結果になるだけ。別の要素が要る。

 加えるとすれば、動機の前提としてあったはずの、白桃シロップ説が真相と考えるに至った経緯だろう。

 裁判員制度が五年という月日に関係してくるのなら、『今になって(タイミング)』については考えなくてもいい。問題はあくまで『どうやって』かだ。

『犯人には見えない』。広一君の弁護人だった道元さん、あるいは悠志君が言った言葉を素直に受け止めるのならば、客観的に自らを見るように努めてきた私は、客観的に見過ぎて自分達がどう映っているのかを逸していたのかもしれない。

 となると尚の事、何かしらそれを覆すほどのきっかけがあったと考えるべきなのだろうか?

 五年前の十月三十一日。ハート事件、魔のハロウィン。

 すでに擦り切れて記憶が曖昧だけれど、再びあの時を振り返ろう。

 テーブルに載っていた園川中の卒業アルバムを引き寄せる。

 三年生のクラス割で載っている顔写真から二年時の顔ぶれを拾い上げながら、巻末近くに添えられた文集へ。2‐1、それがあの事件の日々を過ごした私達のクラス。

 広一君はまだクラスの中心で、蜜がひたすら学校生活を寝て過ごし、私は両親との仲が冷えていた頃。周りには弟に向かって愛を叫ぶショタ女を筆頭に、ロクでもない最高な連中がいた。

 蘇り始めた記憶に集中すべくアルバムを置いて目を閉じる。

 ハート事件は九月と十月。夏休みが明けてダラダラと一ヶ月が過ぎた辺り。

 あれは私が蜜に想いを伝えた後で、「女装して出直しなさい」和樹君の告白の後でもあったはずだ。それで彼が引き籠って、広一君が見舞いに行ってほしいと頼んできたのだから、それは間違いない。

 その後は大した事は起こらず、九月二十一日に子猫を隠し飼いしていた美々ちゃんが殺される事で事件は始まった。

 被害者は西浅中学生。その当初は、近場での殺人に少なからず衝撃は受けたとはいえ、クラスでの話の肥やしになる程度でのショックでしかなく、十月十一日に第二の被害者が出るまで事件自体が忘れかけられ、目下大衆の興味は被害者ではなく子猫に向けられていた。

 またも西浅中。ネットに挙げられた犯行手口をクラスの男子が噂していたのを聞いてケータイを開いた覚えがある。その頃は私も単なる興味でその事件を傍観していた。

 十月十八日、園川中学生が被害者になり、西浅中女児連続殺人事件は浅越市女児連続殺人事件と認識が改められ、どれほど近くで起きていようと他人事のつもりだった我が校の我がクラスメートも笑えなくなる。開かれた集会の帰り、雰囲気はお通夜。誰もが口を閉ざし、これからどうなるのか、あるいはどうするのかを、完全に非日常と変わってしまった親同伴の帰り道に考えていた事だろう。

 殺害現場がトイレだった第四の殺人、報道と混乱のピーク。

 そして、問題の三十一日がやってきた。赤い白昼夢の始まりを告げる第五の殺人。

 思い出すのは思いの外赤く染まったアスファルトと、ここ数日の集団登校で知り合った朋子ちゃんが絶命しているというやけに現実味を欠いた感覚。

「朋子ちゃん遅いね」

 彼女の友達だった裕子ちゃんの台詞に、彼女の登校経路の曲がり道を覗いた私は赤に沈む藍の制服を捉え、ただ息すら忘れてそれに近づいた。それが本当に朋子ちゃんで、本当に死んでいて、本当に殺されているのか。目の前に見える光景が現実なのかそれすらあやふやで、心と身体とが離れてしまって感覚も感情も滲んでるような気すらした。胸を押さえながらしゃがみ込んで、その現実を受け止めた私が立ち上がった時、それは後ろからやってきた。

「う、ぁ」

 嘘、と言おうとして失敗したらしい声、駆ける足音に振りかえれば、裕子ちゃん。

「ぅうぅああああ! 朋……ちゃん! 朋子ちゃぁああああ!」

 駆け寄ろうとする彼女を迎え撃って、私は彼女の目を咄嗟に右手で塞いだ。それでも首を振って身体を前へ前へ押し出そうする彼女の足を、強引に折り曲げて地面に座り込ませる。

 胸に彼女の顔を押しつけ、今度こそ叫んだ。

「先生! 早く!」

 必死の抵抗に私の身体はそう持たない。朋子ちゃんの親友らしきこの子が彼女の死体を直視する前に、早く来てと助けを乞う。向かってくる駆け音に怒鳴り声。それらをかき消えんばかりの嗚咽と悲鳴とを私は肩越しに聞き続けた。

 ショックを受けた生徒達をそのままにしておくわけもいかず、警察と学校と朋子ちゃんの保護者に連絡した後、担当の教師は私達を学校まで連れていき、後で聴取がある事を私に告げた後、疲れきった顔をして去っていった。

 新たに入ったその情報にクラスが呆然となる中、私は泣いて崩れそうになっていた彼女をより近しいクラスメートに引き渡した。それから鼻水や涙でぐちゃぐちゃになったブレザーを伸ばして、酷く乾いた喉を潤そうと私は自販機に向かったのだった。

 苺ミルクを購入してクラスに帰ってみれば蜜や広一君も登校していて、他の同級生が登校するのを待っていた。教室を見渡せば来ているのはだいたい三分の一くらい。まだまだ登校完了まで時間がありそうだ。蜜らの居るグループに入れてもらうと、話している内容はやはりというか今朝の件だった。

「あぁ、白藤。ジュース? 勝手に教室から出るのは感心しないぞ」

 そう言ってくる広一君に「勘弁してよ結構疲れてるんだから」と返して、刺したストローを咥える。甘ったるい液体に口内が満たされた。

「はぁ、気を張るのは疲れるわよね。……あの子は?」

「早瀬が保健室に連れていった。親御さんがもうすぐ来るってさ。ブレザー、大丈夫か?」

「ん? あぁ、別にいいよ。気にしない」

「白桃はそういうとこ男らしいよな」

 と実がいってくれるが、その言葉は彼女にこそ……いや、弟の前ではその限りではないか。

「神経が図太いだけよ。大雑把なの」

「だったら疲れもしないだろ?」

 にやにやとやらしい顔で言われて、さっき言った自分の台詞を思い返した。あーはいはい参りました。両手を上げて降参の意を表す。確かに図太くはなかったか。

 手を下してストローの先を口で遊ばせていると、蜜がじっと紙パックを見つめていた。

「いる?」

 訊くと、彼女は大げさに首を振った。

「んーん」

 そんな彼女の様子に癒されつつ、飲み干してしまおうと残りを吸い出したタイミングで彼女は続けて呟いた。

「気になっただけ。牛乳に血が混ざったら苺ミルクみたいな色になるのかなって」

 嚥下する前だった苺ミルクは、その一言で噴き出されて正面に居た広一君に降りかかった。

「うわっ!」

「っぱ、ごめん! ちょっ、大丈夫⁉」

 慌ててブレザーの涙やらを拭いたまま、畳まずにポケットに押し込んでいたハンカチを取り出す。水滴を落とすように拭いて、ブレザーの中にも手を突っ込んだ。

「な、中に入ってない?」

「いやいや大丈夫だって! くすぐったいから止めてくれ!」

 酷く拒絶されてハンカチをポケットに戻した。本人が大丈夫というのなら良いのだけれど、乾いた時に粘つかないか不安だ。

「全く、シロップもいきなり変な事言わない! 俺らだからいいけど、他で言ったら怒られるぞ?」

 実に咎められて蜜が素直に謝った辺りで、私はベタつく手を洗いに彼女達から離れた。

 蜜の台詞から跳ね上がりっぱなしだった心臓の鼓動が元通りに戻る頃、お通夜なりに賑わい出した教室に校内放送が流れた。体育館で集会、各自担任教師に従って行動する事。そうして教師の先導で体育館に着いた私は、舞台上の教壇に第三の被害者が出た際に置かれた花瓶の花が、大分萎びてしまっているのを見つけた。やがてその花が枯れ果てる時分には事件についても、今感じているこの感情すらも忘れ去るのだろうとそんな事を思う最中、啜り声を聞いて隣に座る早瀬さんが泣いているのに気がつき、彼女にハンカチを渡そうとして、布地に付いた赤い染みに手は硬直した。

「え……? だって、ぇ? 自分の服を拭いた時には………………まさ、か」

 立ち上がって確認するも、広一君も蜜も居ない。その事実に駆けだして体育館を後にした私を、後ろから誰かが追う足音と引き留める声が聞こえる。それらを無視して目指すのは2‐1の教室。中年教師と大差をつけてスライドドアを引っ掴んだ私の目に飛び込んできたのは、今朝以上に赤い世界だった。

 喧噪の中、視界が何度も回っては、身体が生温い感触に浸る事数十秒、身体を血だらけにしながら彼と組み合っていた私を引き剥がす教師の腕。広一君の否定と私達を貶す台詞を聞きながら私と彼は取り押さえられた。

 その後、広一君とは別の部屋に隔離されて蜜と二人で教師に話を訊かれ、さらにその後にやってきた刑事に引き続き聴取された。

 そうだ。そうしている内に外から別の刑事が入ってきて、広一君の主張を考慮して大捜索をする旨を伝えてきたのだ。

 ほぼ強制の荷物の科捜研送りに同意させられて、それどころかの全校生徒の荷物検査という大捜索の開始。後で聞かされた事だけれど、隔離された広一君や私と蜜を除いた生徒には、体育館で『犯人逮捕とそれに伴っての捜査』という名目で合意を取ったらしい。

 生徒一人一人の荷物を本人立ち会いの下、筆箱の中から絵の具や書道セット、ロッカーの辞書の中まで開けられて調べられたという。一クラスずつ行ったその検査は膨大な時間をかけて終了し、その間に行われた校舎周辺の捜索でも目ぼしい物は見つけられず、広一君は正式に逮捕という形になった。

 その時点でやっと解放された私と蜜はクラスメートと合流してその様子を知らされ辟易、それだけでも勘弁なのに、犯人である広一君はともかく、私達まで拘束されての捜査に突っ込まれて事情を話さざるを得なくなり……そう、それからアレだ。

 ついに帰るという段階になって、刑事の一人が私と蜜に言ったのだ。

「これで誤魔化せた思うなよ」

 吐き捨てるようなその言葉に反応したのは(みのり)で、いきなり座っていた机の上から降りると、そいつの腹に重いの一発。呻く彼に「根拠薄弱なてめぇの妄信を無責任に吐いてんじゃねぇよ」とドスの利いた声で吐き捨てた。あんたの方が男らしいじゃないかと思ったのをよく覚えている。

 何にせよ、その刑事……今はもう警察には居ないけれど、そいつの台詞が白桃シロップ説という疑惑を象徴しているのは確かだろう。

 広一君のシャツに染み込んでいた血にしても、現行犯逮捕時の主張にしても筋の通った説ではあった。少なくとも羽虫の見込み捜査よりは何倍かマシな意見であった事は間違いない。

 そしてそこで問題になってくるのは、その説において広一君は罪をなすりつけられた被害者で私達が加害者という関係が成り立つ事だ。人間、加害者より被害者を擁護したくなるのが世の理で、例え彼の主張にそれを裏付ける証拠がなかろうが、その元刑事のような事を思ったり無責任にも実際口に出す人物は出てくる。

 それ故の名探偵だったのだけど、それが自意識過剰な反応だったのだろか?

 実がしてくれた行動を思い出してみると、道元さんや悠志君の台詞を一概に個人の心証と切り捨てるべきとは言えない。

 私は白桃シロップ説が広一君や被害者の関係者に伝わった結果が今回の事件と考えていた。が、思えば大捜索を直に体験した生徒はその徹底した捜索ぶり何より知っているはずだ。悪魔の証明。犯人かどうかは証拠品一つで証明できても、犯人でないかは幾ら証拠が見つからなくても証明できない。見落としがあったかもしれないというの疑惑は常に付きまとう。けれどそれは実際にその様子を知らない第三者だからこその意見なのだろうか?

 何時間も拘束されたり、自分の荷物をひっくり返されたりした学生達が白桃シロップ説に傾倒するのは無理があるのかもしれない。

 そう仮定するのならもう一つ引っかかる事がある。

 そんな彼らが誰かにその事を訊かれたら、まず自分が体験した荷物検査について話のではないだろうか? 良くはないが自分の経験した非現実染みた体験談だ。嬉々として話すだろう事は想像に難くない。ただ、その内容は自分達がどんな検査をされたかに始終するという事も見当がつく。さぞ大仰に語ってくれるだろうし、その徹底ぶりを証言してくれるだろう。それが例え遺族に渡ったところで、プラスになってもマイナスにはならないと考えるべきだったのか。

 情報の伝達というモノに良いイメージがないだけに、その考えはなかったが、そう考えれば犯人は少なくともクラスメートや他の生徒から手に入れた情報から白桃シロップ説に至ったとは考えにくい。

 それに、何かしら情報を手に入れたとしても、その情報が信じるに足るという確信はどこから来たのかというのも問題点の一つだろう。特に被害者側の場合はよっぽどの信憑性がなければきっかけになり得ない。

 それが説明できなければ推理として成り立たない。

 情報とその信憑性。その二つを満たす何かが〝あった〟のかあるいは〝渡った〟のか、ともかく犯人が手にした。それが二番煎じ事件の動機の根底にあるべき要素だ。

 モノが何かはとりあえず置いておこう。

 とりあえず情報源だ。学校内の生徒からではないとすると、ハロウィンの騒動を犯人が知ったのはマスコミや紙面の情報からという事になる。

 ソファーから立ちあがって、当時のスクラップ帳を床から拾い上げた。

 新聞社や出版社ごとに分けてハート事件の記事を切り抜いてあるそれは、私ではなく蜜の仕事だ。綺麗に整理された資料に蜜の存在が見え隠れして胸が痛い。

 固まりつつある血がボロボロと記事にかかるのを鬱陶しく思いながら、ページを捲っていく。

 読み摘まんでいくのは犯人逮捕直後から数日の間に載せられた記事。『女児連続殺人犯逮捕。犯人は中学二年生』、『現行犯逮捕で容疑を否認』。この新聞社はわざわざ図まで載せて白桃シロップ説を解説している。『浅越市連続通り魔ついに逮捕』、『容疑否認と大捜索に一つの説』、『大捜索で全校生徒五時間拘束』……、どれもこれも書き方に多少の違いがあれど、書いてある事は同じだ。要は現行犯で広一君逮捕、警察大捜査、何故捜査されたのかという流れで記事が書かれている。そりゃ、十三歳から十五歳の学生を五時間も拘束すれば説明は免れないだろうし、それを説明するには広一君の主張を話す必要が出てくるのだから、そうなって当然ではあるのだけれど、これだけ遠まわしとはいえ自分達の疑惑を書かれればマスコミアレルギーにもなるというものだ。

 五年前、嫌々ながらも記事だけは集め続けたあの日々を思い出すと今度は胃が痛む。

 それを誤魔化すようにページを更に捲ると、一ヶ所空白になっているスペースを見つけた。手で触れば糊で貼った後が残っている。扱いやすいように剥がせるタイプのスティックのりで接着してあったので、剥がれる事自体はおかしくはないのだけれど、ならここの記事は……と考えてその答えを思い出した。

 確かコルクボードに留めて、それから一度手にとってそのまま床に。視線をボードから散らかった床を移すとそれらしい新聞記事が埋まりかけているのを見つけた。

 拾いあげて見出しを確認する。『警察、大捜索』、そうこれだ。けどまあ、内容は他の記事とあまり変わり映えしない。『現行犯で逮捕された園川中学校の男児(十四)が無実を主張、警察が全校生徒に対して荷物検査を行った事がわかった。これは、男児が犯行を行ったのは逮捕時同じ教室にいた女児(十四)と初めに教室に駆けつけた女児(十四)の二人であると主張したもので――………………………………………………………………………………女、児?

「――――ッ!」

 弾かれたように脇に挟んだスクラップを開く。乱暴に捲ってさっき自分が読んだ記事を読み直した。

 ………………!

 それを放り捨て、四つん這いになりながら今度は床の用紙の下に埋まっているだろうDVDディスクを探し出す。欲しいのはちょうど記事と同じ頃のマスコミ報道。片っ端からひっくり返して目当ての物を探し当てると、震える手でポータブルレコーダーに突っ込んで再生した。

 明かりが消えたままの暗い部屋に、液晶テレビの光が青みを帯びて浮かび上がった。

 当時の女子アナ、ハート事件の続報を知らせるテロップ、懐かしき我が中学校の校門が映り、映像を交えながらのアナウンス。

『浅越市の女児連続殺人事件の捜査で、警察が犯人逮捕後大がかりな捜索を行っていた件についての続報です。現行犯逮捕に関わらず生徒を巻き込んで行われた異例の大捜索に疑問を投げかける声もありましたが、その理由が明らかになりました。警察の発表によりますと、逮捕された男子生徒は容疑を否認、犯人は逮捕の際に同じ教室に居た女子と――』

 停止。それ以上の情報は要らない。

 もう一度、スクラップを引き寄せれば開いたままになったページの記事が目に入る。

『容疑者の主張はこうだ。現行犯逮捕時教室には同級生である女児Aと、既に死亡していた女児Bが居た事が確認されているが、その女児Aこそが女児Bを殺した犯人であるというもので――』

 女児、女子、女児……名前は出ていない!

 そうだ、考えれば分かる事じゃないか。犯人の名前は伏せられて、被害者の名前は公表される。未成年の将来を守るという建前がその差だというなら、犯人でもなく被害者でもない、容疑をかけられただけの私達の名前が出されるわけがない!

 でも、それじゃあ、犯人はどこから入手した事になる?

 同級生が知らない大人に件の女児が誰かなんて訊かれていれば、その事が私の耳に入るはずだ。

 園川中学に知り合いが居る他校の生徒? もしくは園川中学の保護者から?

 いや、それにしたって噂の内容はおそらく事件の詳細であって、私達の名前が興味の対象になるかは怪しいものだ。それが口伝い、あるいはメールの文面だとしても、悠志君の名前を私が一日経たない内にさっぱり忘れていたように、興味のない名前ほど覚えにくいものはないし、噂としてハート事件や白桃シロップ説が格好の標的であったとしても、大捜索に巻き込まれ、疑われるという立場を疑似体験した生徒がその渦中に居る私達の名前を出したりするだろうか? それにさっきも考えた事でもあるけれど、学生に事件について訊けば大捜索の様子もまた聞かされるだろう。疑いのきっかけになるのかも怪しい。

 かなり他人の倫理観や道徳心に頼った考えだが、今ままでの何もかもが懐疑的だった時よりは標的は絞れている。

 だとすると、犯人は私達の情報を知っていながら、大捜索とは縁遠かった人物という事になる。それはつまり、私達の事を知るためには近い立場であるという条件が要て、白桃シロップ説を信じるには大捜索について内情をよく知らない必要があるという事だ。

 矛盾している。が、条件としてはこれ以上ないほど限定されているし、何よりそんな例外的な条件を満たす存在に心当たりがあった。

 つい先ほどまでそれに踊らされ続けたが故の――あんまりにも実感の籠った心当たりが。

 誰よりこの事件を知っているくせに、捜査の様子を知れなかった人物。

 知らないが故にそれに踊らされた人物――そう、私だ。

 そして、私達の事を当然知っていて、捜索中隔離されていた人間はもう一人居る。

 犯人、内山広一。

 無論確実に死んでいる彼が直接的な犯人というのはあり得ないが、もし彼が警察やマスコミに対して行ったように、個人に対しても無実を訴えていたとするのなら、私達を知った白桃シロップ説信者ができあがる。

 情報の発信源が彼だとして、問題になってくるのは遺族すら居ない彼が誰にそれをやったかという事と、誰が彼の言葉に耳を傾けるのかという事だ。

 彼の行動範囲を思い出せ。彼の人間関係を思い出せ。彼の台詞を思い出せ。何か見落としていないか? 本当に彼の周辺は全て洗い尽したのか? 彼の遺族でなくても恋仲でなくていい、彼の主張を真に受ける人物なら――、

「………………………………あ」

 その答えに辿りついて、立ち上がろうとした瞬間、意思に反して足から力が抜けた。

 ゴトンと、両手に抱えたレコーダーが落ちて、その上に覆いかぶさるように崩れ落ちた。直角に立ち上がったままの画面部分で腹を打ちつけて、響く鋭い痛みにお腹を押さえる。顔から滲む脂汗が顔に床の用紙をへばり付かせ始めた頃になって、まだ続く痛みが、打ちつけた時のモノとは別の所から来ている事に気がついた。

「あぅ、ぐぅ」

 まさか、という嫌な予感。これと似た激痛を記憶の果てに追いやった覚えがある。

 右手を床に押し付けて身体を浮かそうとするも力は入らず、両足は棒になったまま。お腹を押さえていた左手は少し上へと押さえる場所を変えた。

「がっ、痛っ、ぃたい」

 もがいた右手が意味もなく用紙を握り潰す。顔に限らず身体中から滝のように流れ出した汗が服と用紙を引っつかせるせいで、動く事すらままならない。

 ケータイをどこに置いたのか、方向感覚すらなくなりかけた思考から探り出そうとしても、それ以上にこの状況に対する焦りにうまく頭が働かない。

 まさかまさかまさか、あの時と同じ……?

 もう時間のないこの状況で?

「いたぃ……よ、ぅ」

 思えば、ここ一ヶ月妙に身体が熱く調子も悪かった。ずっと緊張しっぱなしでストレスが溜まる日々が続いていた。

 そこに来ての蜜の拘束。

 ピークに達した精神負担は胃に。

 ただでさえ一度病んでいるだけに、二度目はよりなり易い……。

 つまり、つまりは……っ、

「胃穿っ……こ」


                    ♯


 全くの無にあった思考の海に今自分が置かれている状況が浮かび上がって、一気に冴えた脳は私の身体を跳ね起きさせた。

 辺りを見渡す必要もなく、現在地が近所の救急病院で、自分が緊急手術後ベッドに寝かされた事ぐらい分かる。カーテンの隙間から洩れる青白い光から見て、まだ日は開けていないのだろうが、零時は過ぎたはずだ。残り一日、その時間を無駄にはできない。

 けれど、足をリノリウムの床に着ける前に、横から伸びた手に頭を抑えられ、無理やりベッドに寝かしつけられた。

「あんまり無茶な動きはしない方がいいわよ。手術創、縫い合わせたばかりなんだから」

 そう言って、手の主――幽霊はベッドの近くに寄せた椅子に座り直した。

 面会時間なんてとうに過ぎている夜の病院に、わざわざ忍び込んで見舞いに来たらしい。隣には病院に喧嘩を売っているとしか思えないナースのコスプレをした遥ちゃんが座り、さらにその横の椅子に入院見舞いらしい桃の箱が見えた。

 そこから桃を一つ取って剥き始める幽霊。意外にも手慣れた手捌きで果物ナイフはするすると滑り、桃の皮は林檎の皮同様に綺麗に伸びていく。ただ、果汁の滴る桃でそれをやるのだから、手は当然ながらベタベタだ。それでも彼女は気にせず剥き続けた。

 ……ホント幽霊ってやつは。

 胃に穴が空いて食べられるわけがない私の前でそれをやる辺り、マジで性根が腐ってやがる。

 というかちょっと待って。その桃、箱に『山梨産浅間白桃』って書いてない⁉ ちょっ、何その旬の高級桃! おおお……おのれ、私の渾名が白桃と知っていてぇぇええええ‼

 そんな私の心中を分かっているくせに、彼女は涼しい顔で切り終えたそれを遥ちゃんに渡し「あーん」を要求している。

「やっぱり看護婦っていうシチュはいいわね」

 どういう理由かは知らないけれど絶対服従の彼は、フォーク代わりに手でそれを彼女に口に運び、彼女は彼女で桃だけなく彼の指も咥えたりとイチャついた挙句、今度はベタベタになった手を遥ちゃんに舐めさせ始めた。

 蜜の居ない私に対するその見せつけに、思いの外胸がキリキリ痛む。

「今は看護師よ……」

 悔し紛れにしょうもない難癖をつけたら、「馬鹿野郎!」と彼女は右手を握りしめ立ち上がった。

「看護師じゃ女装にならないでしょーが‼」

 マジで帰れ、いや土に還れ。ただでさえ真夜中の静まり返った病院でなんて事叫ぶんだこの娘。私の視線を受けて、彼女は腕を下ろし席にかけ直した。

 ごほん。仕切り直しとばかりにわざとらしく咳払いをして、彼女は言った。

「これは罰よ」

『これ』というのはもちろん目の前でいちゃつかれた事だろう。

 誤魔化しにしか思えない台詞に、茶化そうと開きかけた私の口が声を発する前に、

「そんなにボロボロになってすら、私達を頼ってくれなかった罰」

「……」

 続けて吐き出されたその言葉に、閉じる事を余儀なくされた。

「わざわざそこまでぎりぎりの状況で犯人探しなんてしなくたって、私達を頼ってくれればよかったのに」彼女は拗ねたように頬を膨らませた。「犯人役ぐらいやってあげるわよ?」

 その魅惑の提案に私はゆっくりと上半身を持ち上げた。見上げる、あるいは見下ろされるという状態は心を強く保ちにくい。彼女が何を思ってそう言ったのかは分からないけれど、その甘言に愚直に耳を貸すのが危険な事はよく分かっている。化け物相手に対等に話すためにも視線の高さを合わせた。

 けれど、

「ははっ……」

 同様に彼女ならそれを、事もなしにやってしまえる事もよく知っているだけに、返す笑いは嫌に乾いたモノになった。

 犯人役。普通に考えれば身代わりを買って出るという、聖人君子のような提案に思えるけれど、自己犠牲なんてとんでもない。幽霊が幽霊と呼ばれる所以を忘れてはいけない。

「あんたなら、あんたの力なら……そこら辺の人間に乗り移って自供するだけでいいものね」

 幽体離脱と呼ばれる彼女の提案は、つまりそういう事だ。

 否、そうでなくても彼女にはハート事件ぐらい再現できるだろう。自分で(、、、)心臓をくり抜いて、自分で(、、、)四肢を切断して……幽霊に遺留品なんてあるわけがない。いや、もっと単純に、ハート事件の死体が欲しいというのなら、遥ちゃんに限っては泥水から死者どころか生者すら造り出せる。

 人外、朝間綾香。論外、月見里遥。

 人の殻を破った化け物ども。

 けれど彼女は私の予想の斜め上をいく。

「やーねぇ。そんな事しなくたって、乗り移って人前で七人目の殺人を犯した方が確実じゃない、ね?」

 確かにその通り。誰かに自供させたり、もしくは彼女に七人目を呪い殺してもらうより、その方が確実だ。

 けど、それは私にとっての利点であって、実際それをやる彼女にとって自供と殺人では手間が違う。どれだけ彼女に倫理感が欠けていようと、そんな提案を自分からする辺り、善意でそれを言っているだろう。そう思うとぞっとした。

「……私達の関係は持ちつ持たれつだったはずよ。ギブ・アンド・テイク、あんたは私にお金を、私はあんたに暇潰しを。そりゃあ有り難い話だけど、私にそんな協力を頼む代価はないし、あんたにとっては面白いはずのこの状況をお終いにする理由がないじゃない」

 私の台詞に彼女は一瞬意外そうな顔をしたけれど、すぐにいつもの人を食い物にする笑みに戻った。

「そうね。でも、だから言ってるのよ? あなたは私を悪魔のように言うけれど、私はごーまんでやさしー悪魔だから契約上施行できる権利を使わないでいるあなたに、それを指摘してあげてるの」

 なるほど、確かに傲慢だ。

 それに、と彼女は桃をもう一つ取り出して、今度はそのままかぶりつきながら告白した。

「実を言えば、私もう満足しちゃったのよ。……何よ、マラリア蚊って。何警察署で愛を叫んでるの? こっちが赤面しちゃったわ」

 病院で女装を叫んだ人物に言われたくはない。そんな私の心中などお構いなしに彼女は妙に嬉しそうだ。

「私は傍観者じゃないし、あなた達は今度も楽しませてくれそうだもの。ここで終わらせてしまうのつまらないじゃない」

 そう言って悪魔は手招いた。その手には歯形がついた桃が握られている。

「貴女がこの手を取ってくれれば、私がシロップちゃんを取り返してあげる」

「はっ」

 それはあまりにも甘い果実だった。

 倫理や道徳なんてどうでもいい。名探偵だからって、正攻法に拘る必要はない。

 幽霊に言われなくてもその発想は初めからあった。

 羽虫に言った通り、蜜が逮捕されている状況下で次の殺人さえ起こってしまえば全てが解決してしまうなんて事は事件が始まった最初から分かっていた。

 別に彼女のような力を持っていなくても、私にだってそれはできる事。

 それを幽霊が、完璧にやってくれるというのならこれ以上の事はない。

 それも分かってる。

 けれど口を突いて出たのは、どうでもいいような下らない言葉だった。

「探偵が霊能力者に頼ったら、あんたの好きな物語ってやつがぶち壊れるわよ」

「あら、確かにそうだけど、それは私の事情であってあなたには関係ない事だし、そんな余裕ないんじゃない?」

 全く持っておっしゃる通り。中学二年生相手にこの様だ。我ながら年上の権力者を相手取った人間と同一人物とは思えない。

 だけどそれは、彼女が私の痛い所を突いているからで、 

「あなたが私の力を借りたくないのはね、あなたが蜜に尽くしたいから、彼女を救う役を取られたくないからよ」

「……」

 それを言われてしまえば、もはや私は閉口するしかない。

 結局はそこだ。

 蜜が本当に大切ならば、彼女が望まなくても、彼女の気持ちを踏み躙っても、力及ばない私のエゴなんて(どぶ)に捨てて、何を失ってでも手段を選ばずに行動すべきなのだ。

 彼女を失う辛さは散々味わったくせに、『私が』というその一点に拘って、幽霊の提案に頷けない。

 それは私の我が侭だ。醜い、我が侭。

「そしてあなたが男性に辛辣なのは、シロップちゃんを取られたくないから。あなたはシロップちゃんを独占し続けたいのよ。……羽虫との対決で言いかけた言葉覚えてる?」自己嫌悪で歪んだ私の顔を正面から見据えて、それでも彼女は追及を緩めない。「もし――」

「もし、患って、いなければ」

 彼女の言葉を受けて、私は痺れたようにわなわなと、うまく動かせなくなっていた唇を動かした。

「もし、そうじゃなかったら……蜜は男の人と結ばれていたのかもしれない」

 それは自分のモノとは思えないほど、平坦で感情の籠っていない声。

「あなたは同性愛者だけど、シロップちゃんは違うものね」

 だからあなたはずっと払拭できずにいたのでしょう?

 言外にそう囁く彼女は、口に出しても囁いた。

「そんな彼女が自分と一緒に居るのは何故だろう? 自分違って彼女は私から得ているモノがあるのだろうか?」

 そう、そして、

「……蜜は私を好いてくれているのだろうか……?」

 さっきとは打って変わって、泣きそうな声色。私はこんなにも矮小で、貧弱な人間なのかと思い知らされる。

 顔を伏した私に幽霊の溜息がかかる。その――彼女が近づいた気配に、顔を上げた瞬間、思いっきり左頬を(はた)かれた。

 容赦ない、一撃だった。

 限度というモノまるで知らない全力の一発に響いた快音が消える頃、頬の熱さがジンジンとした痛みに変わる。

「今のはシロップちゃんが乗り移ったのよ」

「取り憑くのは、あんたの十八番でしょうよ……」

「まあね」

 彼女は舌を出しておどけてみせた。けれどすぐに彼女らしくない真面目な顔に戻る。

「でも、彼女の友達として今の台詞は頂けない。あの子、あなたの事大好きなのよ? 唯一無二あなただけ――あなた以外に誰が彼女のそばに居てやれるっていうの?」

 彼女はそんな臭い台詞をまっすぐ、臆する事なく言ってのけた。

「あはは……はは、そうね、そうよ。その役だけは誰にも渡さない」

「そうそう、そうこなくっちゃ。人間素直が一番よね。さっきのギブ・アンド・テイクの話もそうだけどさ。あなた考えすぎなのよ。私に言わせれば、シロップちゃんがどう思ってるかなんて、そんなの無駄な悩みなのに。今回の一件の間だけでもシロップちゃんがあなたの事を心の底から愛していて欲しがっているのは分かり過ぎるぐらいじゃない」

 振りかえればその通り。蜜は彼女なりの方法で私にそれを伝えようとしていた。私はそれを、事件解決ばかり気にして見失っていたんだ。

「でしょう?」と同意を求める幽霊。それに私は応えた。

「えぇ、痛いぐらいに」

 目尻に溜まった涙が流れるのを感じる程度には頬の痛みも引いて、麻痺していた表情も和らいで笑みを作れたのを感じる。

「それが分かったんならもういいんじゃない? こんな時ぐらい私達の手を借りても」

 その言葉が今は、蜜の友人の台詞として受け取れた。

 けれど、それでも私は首を横に振る。

「いや、もう犯人の当たりはついてるの」

「あら残念」

「蜜の好意に見合った行為で報いる事――それが私のポリシーよ。蜜を助け出すのは私の役目。……だけど、私だけでは間に合わない」

 それを埋め合わせてほしい。だから、

「だから……手伝って」

 彼女は私の頼みに頷いた。

「幽霊船に乗ったつもりで任せなさい」

「ははっ、頼もしい限りね」

 だってそうでしょ?


 ――少なくともこれ以上沈む事はないんだから。

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