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6、ダブルデート―致命的Miss

 久しくベッドで寝ていない。

 寝違える事にさえ慣れた、休息としての意味しか持たない睡眠から覚めてソファーから顔をもたげると、テーブルの上に並んだ飲んでそのままのカップが目に入った。

 その中から最後に口をつけたカップの記憶を探り当てて、まだ残っていた液体を飲み干すと、温くなったレモネードの甘ったるさが口内に広がった。はっきり言って、くそまずい。

 振り出しに戻った推理と捜査は依然として進展を見せず、せめてもの防衛として籠りっきりになった私達、というか私は片っ端から当時の資料と今回の資料を整理する事に時間を費やしていた。

 朝の習慣通りにケータイを確認すれば、今日の日付は八月十二日十時三十一分でメールが二十三件。外に頼んだ捜査の情報等のメールからチェックして、目新しい事実がない事に落胆する……そんな日々がかれこれ八日続いている。

 四件目は失敗だった。

 四件目、先の三件とは違い訪問後に殺された道元さんの事件の容疑は完全に私にかかった。

 外から蹴り歪められた非常扉と慌てて階段を駆け上る私の姿が私の説明した経緯と合致していたために逮捕は免れたけれど、代わりに求められた任意同行を拒否したのは、印象をさらに悪くしただろう。

 もっとも、今更その印象が私達に与える影響は微々たるものだろうけれど。

 警察の特捜本部は完全に私達を標的にした。『らしい』ではなく断定して言えるのは、私の筋からも確認が取れた事であり、可奈さんの筋からも確実だと聞かされたからだ。

 可奈さんの筋とは梶川さんの事で、やり手女警部補と比較される万年の被害者警部という肩書きを生かし、可奈さんを快く思っていない本部責任者につけ込んで諜報活動に勤しんでいるらしい。何が「総次郎さんが待機してるし」だ。あの人もあの人でとんだ食わせ者じゃないか。

 しかしこれ以上ないほど確実で、内容が全く好ましくない情報はいいとして、この際問題にしたいのは連中の考えだ。

 私達が怪しい。百歩譲ってそれはいい。そう思われる行動をしている自覚もある。

 ただ、疑うのならせめて今までの事件を論理立ててからモノを言ってほしい。

 仮に私が犯人だとして、何で今回だけ凶器を放置して、それも死体をハート事件を模せてすらいない殺しかけのままで警察を呼ばなければならないのか。それだけじゃない、ハート事件の犯人も私達とするなら何でわざわざ自分達で終わらせた事件を蒸し返さなければならないのか。

 少なくともこの二点をクリアしない限り、状況証拠だけで私達を逮捕するのは難しい、はずだ。ハート事件の際に私達が自分達で起こした事件を自分達で解決する動機について、一切触れないままに容疑をかけ、結果無実を自分達で証明してしまった警察が、今度も根拠薄弱のままに同じ行動に出るのはリスクが高い。

 それに今回のハート二番煎じ事件は、正確にはハート事件との繋がりはない。ハート事件の因縁と主張しているのは私達であって警察は聞く耳を持っていないし、手口が同じであるというだけで、遺留品もなく凶器も一致していないため、模倣犯という可能性を警察は本来捨てられない。そもそも正式にはハート事件の犯人は内山広一として処理されているのだから、今回の件とは繋がりを立証できないハート事件で疑われた私達を、その容疑で引っ張ろうというのがまず無理のある話だ。

 白藤桃の周りで四人が死んだ。事実はそれだけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 むしろ非常扉や目撃者といった反証の方がある。

 そんな中で特捜本部の連中が私達をロックオンしたわけだから頭が痛い。つまりは、それだけ盲目しているという証明みたいなものなのだから。

 警察が愚かだと言いたいわけではない。一度確信を得たモノに執着してしまう人間の性質が厄介なのだ。

 今後よほどの反証が出ない限り、つまり真犯人が現れない限り疑いを晴らすのは困難と考えた方がいいだろう。

 犯人は白藤桃と桜川蜜に間違いない。ハート事件の頃から疑惑はあった。今回はまさに白藤桃の周りで事件は起きている。動機も不明だがそれは逮捕後に供述してもらう。けれど問題は証明できない事だ。さてどうする? よし監視しよう――というわけで実は現在進行形で監視されていたりする。

 困ったなぁ。メール内容の表示された画面に再び視線を落とす。そこには監視警察官の動向について書かれた文章が踊っているわけだけど……何でこんなややこしい事になってるんだか。

 名探偵って警察に協力するんじゃなかったっけ? 思っていたのと大分違う関係になってしまった。それもこれも可奈さんのせいだ。

 テーブルに広げきれなかったコピー紙が溢れて足の置き場のなくなった床をつま先立ちで進んで、コルクボードに留めた新聞の切り抜きを手に取った。『警察、大捜索』、そして記事の内容には白桃シロップ説について触れた後、女子生徒二人の身辺から学校中を調べつくした警察の行動について記されている。

 全てはここから始まった。当時蜜にアタックをかけていた私が彼女とより親密になったきっかけ、そして今一歩間違えれば離れ離れになってしまいかねない最悪の因縁。

 一つでも間違えて逮捕されてしまえば容疑を解くのは難しい。すでに四人が死んでいるこの事件で課されるだろう刑罰は無期懲役か死刑か……どちらにしても蜜と会えなくなる。

 その考えに寒気がして思わず身体を擦った。それだけは絶対に避けなければならない。

 記事をそのまま床に落として、次はホワイトボードへと視線を移した。描かれたハート事件の相関図は蛸足配線染みてきて、かなり縁遠い人物までに捜査の手を伸ばしている。財産の相続権を調べるように犯人になり得る可能性を探って拡げられた図を見て、苦労の分だけ線を増やした見栄えだけはいい図表だと評価を下した。

 そこに描かれたほとんどがハート事件被害者六人の繋がりなのだ。けれど、私自身……考えたくもないけれど、例えば蜜が殺されたりしたら、直接拷問にかけてやりたいという醜悪な激情のままに、関わりのある連中を血縁含め惨殺するだろうだけに、被害者側という説は納得し難い。それに私に冤罪をかけようとしている風に見えるこの二番煎じ事件は、やはり広一君側、犯人遺族側の立場からの復讐であるという説が最もしっくりくる。それなら遺族側の主な復讐対象になるはずの蜜が、今のところ狙われていない理由も犯人の狙いは私だと納得できる。

 ところが目の前のボードから分かる事といえば広一君には遺族がほぼいないという事実だけだ。やってられない。

 道元さんに死なれたのは本当に痛かった。生きていれば、彼女には悪いけれど、警察の捜査撹乱と時間稼ぎぐらいはできただろうに。

 大切なカードを失って容疑だけが深まっていく。ババ抜きで揃ったカードを出す前に引き抜かれ、さらにはジョーカーを引かされた気分だった。

 さりとて沈んでばかりではいられない。こちらの状況などお構いなしに進んでいくのがこの無情な世界なのである。肩をほぐし首を回して、今日すべき作業を頭から引っ張り出そうとして、

「うわっ、随分荒れてるわね」

 そんな聞き覚えのある、できれば聞きたくなかった声に思考を中断させられた。眉間に皺が寄るのを感じながら事務所の入り口に振り向き、思った通りの姿を確認して表情筋を引き攣らせた。受け入れたくない現実から逃避すべく、目を擦り眉間を摘んでから、もう一度開く。

 幻である事を願っても、そこには二人の〝見た目〟美少女が存在していた。

 赤青緑黄と風車のような四色の羽根飾りの付いたヘアバンドで、ポニーテールにしている女子中学生の姿をしたソレ。そして、彼女の趣味に合わせてなのかメイド服を身に纏った女装子。

 こんな時に――否、こんな状況だと分かっていて来たのだろう。

「……何の用よ幽霊」

 全く、よりにもよってケータイの電話帳、その『人外』と『論外』にカテゴリされる二人組のご登場とは!

 幽霊、朝間綾香(あさま あやか)。別名は幽体離脱(エクトプラズム)。カテゴリ『人外』の筆頭。幽霊と言ってももちろん死んでいるわけではなく、『存在感がない』などという特徴をあげつらった比喩でもない。その言葉から連想される事柄なら大抵やってのけれる(、、、、、、、、、)彼女の異質を認識させるのに、『幽霊』ほど相応しい渾名はないからこそ、そう呼ばれている紛う事なき人外だ。

 正直、ここ『白桃シロップ』のスポンサーでなければ関わりたくないというのが私の本心で、そんな連中と従妹が同類であるというのだから、可奈さんが他の警察官と一線を画している理由が分ろうというものだ。

 それから『論外』の方、月見里遥(やまなし はるか)。確か幽霊の2コ下だったか、見た目は普通の女装子で、いつも見えないものを見ている、らしい。これ以上の事は論じるのも憚られる。故の『論外』。

 どちらにしろ人間が人間らしく一生を終える内に遭遇する代物ではないし、一応は人材紹介を主な業務としている私ですらよほどの事がない限り紹介しない連中だ。

 そんな連中がこのタイミングで姿を現した。

 厄介事の臭いしかいない。できればさっさと引き返してほしい。

 私のそういった心情をよく理解しておきながら、満面な笑みを私の渋面に返してくるのだから性質が悪い。

 睨み合う私と幽霊。けれど、

「あれ? 越嫁さんは?」

 二人の険悪なムードなどお構いなしな遥ちゃんの台詞に毒気を抜かれて、私は仕方なく幽霊に固定していた視線を外した。

 分かってる。ここを立ち上げるにあたって援助を乞うた相手に対する態度ではないし、今のところは見た目通り精神年齢中学生の彼女に対して大人げない態度だとも。

 しかしながら、幾ら私がそろそろ法的にも大人に分類される年齢にあるからと言って嫌なモノは嫌なのだ。

 お茶を出そうと考えてテーブルの資料を床に移しながら、さっきの遥ちゃんの質問に答える。

「あの女装青年なら東日本で入院中よ。今年で三回目」

 すると彼は納得したように手を打った。

「あー、あの人マゾだもんね」

「え? そうなの?」

「え? だからここで働いてるんじゃないの?」

「……」

 なるほど? それはどういう意味かな、御奉仕(、、、)女装子ちゃん?

 その論法、自分にも適応される事分かっているのだろうか?

「うー、女装で聞きたい事あったんだけどなぁ」

 さすが幽霊とペアを組んでいるだけあって遥ちゃんも結構な癖者だよね。類は友を呼ぶというのは真理を突いていると思う。

 女装は幽霊にさせられていたんじゃなかったっけ? 目覚めたとか?

「あー!パンダちゃんが消えてるー‼ 」などと叫び出した彼に二次元から三次元へと進化して蘇った床の人食いパンダを指差してやると、彼は嬉しそうにそれを掲げてくるくると踊り始めた。

「それで、本当に何の用なの? 知っての通り忙しいんだけど?」

「ああ、言ってなかった? デートに誘いに来たのよ」

「ほう?」

 既に四人も周りで殺されて、推理も捜査も行き詰って、ハート事件の疑いを蒸し返されて、極刑もあり得る容疑で逮捕されかねないこの状況を分かっていながら言ってるのかなこの娘は?

「そう、分かった。さっさと地獄へ還れ地縛霊」

「あなた……人を傷つけないよう本当気を付けた方がいいわよ? ただでさえ言葉がキツいんだから」

「うるさいわね、私があんたの事毛嫌いしてるの知ってるでしょ?」

「ねぇ、今の忠告聞いてた? 言っておくけど、私人並にガラスのハートよ?」

「ああ、幽霊だけに心も透けてるのね」

 その台詞に幽霊は遥ちゃんに抱きついてわざとらしくいじけてみせた。その頭を遥ちゃんが撫でる。実に白々しい光景だった。

「だいたい私は蜜一筋なんだから、そんなの断られるのは分かってるでしょうよ」

「いや、私とあなたとでじゃなくてダブルデートよ。シロップちゃんの提案なんだけどね」

「え?」

「最近、あなた彼女に構えてないでしょう? 事件でかかりっきりで相手してくれないし、気を張りっぱなしだし(ふさ)ぎ込んでるしで、『どうしたらいい?』って相談されたのよ」

 相談? 自分から行動を起こす事を極端に怖がる蜜が? ……私のために?

 確かに蜜と幽霊は腹が立つことに仲がいいけれど、それでも精神疾患上、なかなかできる事じゃないのに……。

 その事実に言い知れぬ喜びが湧き上ってくる。あ、駄目、嬉しさの余り身体が震えてきた。

「だからデートに誘ったらって言ったの。どうせだから私達もって。それならこっちでチケット用意してあげられるし」

 言ってポケットから出したそのチケットとやらをヒラヒラと見せびらかしてくれる。よくは見えないが色調からして『御伽の国』のパスなのだろう。

 本来、今自分の状況下を鑑みればそんな娯楽に現を抜かしている場合ではないのだけれど、それが蜜の気配りであるとなれば私には無碍にできない。

 選択肢なんて始めから用意されていないじゃないか。

 それが分かっていてニヤニヤ笑って私がどう出るかを待っている幽霊の性格の悪さを改めて感じるも、癪ながらこの女がシロップちゃんと呼ぶ友人の願いを聞き入れて訪問してきた事もまた事実なのだった。

 仕方ない。今回ばかりはその提案に乗る事にしよう。

 ただ、

「――で、シロップちゃんは?」

 そんな彼女の質問に、後ろ、生活部屋にあるベッドの方へ振り返りながら思う。

 ……自分が提案したくせに寝過ごすのってどうよ?


                    ♯


 浅越市の隣にある涙川市を挟んで、反対の県境の戸伽市にある『御伽の国』は、それなりに交通の便がいい立地に、それなりに人気のあるアトラクションを詰め込んだ後、版権に気を使わなくてもいい御伽噺をモチーフにした安上がりなテーマパークである。

 戸〝伽〟市だから御〝伽〟の国というのに加え、オオ女将さん・赤頭つ巾ちゃん・花から爺さん・鬼いちゃんなるマスコットキャラクターが園内を徘徊するという何とも安直な発想で成り立っているのにも関わらず、経営自体はしっかりしているのかここ数年黒字続きらしい。

 安く済むところはとことん切り詰めた代わりに、余った財力はアトラクションに注ぎ込んだようで、ジェットコースターが三つにスーパートマホーク、ジャイアントドロップ、ウォーターフォールと六つも絶叫マシーンが存在し、他にも観覧車や仮装施設にスパなど施設だけはやたら充実した遊園地になっている事もあって、世間的に夏休みに入っている八月上旬の今日も人の入りは上々。正直人混みの嫌いな私としては勘弁してほしい密度だった。

 が、今はそんな人混みすらが懐かしく、勘弁してほしいのは人がゴミに見える俯瞰に今自分が向かっているという事実だ。

 嗚呼、夏の日差しが近づいてくる……。

 しっかりと閉じているにも関わらず、目蓋を透かして見える赤い太陽に願う。

 ……このコースターを止めてください。

 視覚情報を必死に遮断しても背中越しに感じる振動とセーフティーバーの感触、さらには慣れない体勢でお腹にかかる重力。

 そして、

「ねぇねぇねぇ……! ガタンゴトンって揺れてるよね! もうすぐだよ? もうすぐ落ちちゃうよ? ねぇ、ほら、上り斜面もあとちょっと、あとちょっとで……うふっふふふふふっ!」

 そして隣からご丁寧にも実況してくれる我が恋人。今だけは彼奴(きゃつ)も敵だ!

『当園自慢のジェットコースターおむすびころりん、おむすびになった気持ちでGO!』なんてキャッチコピーが書かれていたけれど、外観からしてそんな軽い代物とは思えない。

「えへへ……ほらぁ、感じない? 傾斜が少しずつ緩やかになってるでしょ? 頂上だよ? 着いちゃったよ? もう少しで落ちちゃうよ?」

 何でこんな時にだけ饒舌になるんだろうね、君は。セーフティーバーを掴んでいるために耳を塞げないこの状況を恨めしい。

「あはっほらほらほらほらぁ!」

「……いっ」

 開けてしまった目に飛び込んできた、今まさに落下せんとする視界に思わず声が漏れた。

「い?」

「いっぎゃぁあああああああああああぁああああああああ‼ あー! あー! あー!」

 お教えしよう、名探偵白桃ちゃんは怖いのが苦手なのである。



 上昇からの自由落下(フリーフォール)に続いて急カーブ二回、遠心力にふらふらになった頃にループを一度挟んでまたほぼ三六〇度のカーブ、落下した後に再び上昇してカーブしながらの急降下、そして最後のダブルループ。聞けば高さ九十五メートル、落差九十一メートルで最高速度が時速百九十キロらしい。そんなふざけたアトラクションを『ころりん』で済ます設計者の神経を疑う。

 気持ち悪くなって急遽入った、喫茶スペースの屋外テーブルで私は机上に突っ伏していた。

 気晴らしどころか捜査以上のストレスになって禿げそうだ。

「大丈夫?」

 ちょんちょんと蜜が肩を突いてくるけれど、私のこの症状は彼女が乗る度に目を瞑って恐怖に耐える私の横で悪魔のように囁いてくれたせいだ。

 もちろん口が裂けてもそんな事は言えないとことん甘い私は大丈夫と返して、飲み物を買って戻ってきた幽霊からコーラを奪い取る。冷えた喉越しと炭酸の刺激で幾分すっきりとした。

「復活!」

「よーし、じゃあ今度は『一寸法師』に乗ろっ!」

 一寸法師=ウォーターフォール。最後の自由落下(フリーフォール)が定番のアトラクション。

 ……なるほど。さっきの「大丈夫?」はまだ絶叫マシーンに乗れるかどうかの『大丈夫?』だったわけですか、蜜ちゃん。あれ? 目から生理食塩水が。

「あのさ? 幽霊と遥ちゃんも居るわけだからさ、ここは皆の意見を聞いて」

「あら、いいわよ私は」

 ちっ、いつもは協調性の欠片もないくせに!

 幽霊を恨めしく睨みつけながら、最後の頼みの綱である遥ちゃんに助けを求める。

「遥ちゃんは? そろそろ疲れてきたんじゃない?」

 お願いだからイエスと言ってくれ。そんな私の願いが届いたのか、彼はにっこり微笑んだ。

「僕は先輩がいいって言うならそれでいいです」

「さいですか」

 実に素晴らしい回答をありがとう。その忠誠心やら奉仕心やらに一人の少女が犠牲になった事を忘れるなよ?

「ねぇ、駄目?」

 眉尻の下がった蜜の不安そうな顔。そんな顔で袖の端を掴まれてしまえば私に逃げ場はない。

 まさに詰み(チェックメイト)。だからせめてもと訊いてみる。

「なんで蜜はそんなに絶叫マシーンに乗りたがるの?」

 すると彼女は、誰もが見惚れるような満開の笑顔で言ってくれた。

「桃ちゃんが泣いてる顔が好きだから!」

 わぁ、私はそんなあなたの笑顔が大好きだから困るー。

 絶叫マシーンに乗って涙目になった私を見て蜜は笑顔に、その笑顔を見て私が癒される。マイナス、プラス、プラス……一見正の連鎖に見えて、私に限って言えばプラマイゼロで得をするのは蜜だけという奇妙な現象がここに存在しているらしい。

「じゃ、いこっか? 一寸法師!」

 もう、勘弁して。

 と、言ったところで勘弁してもらえるはずもなく、一寸法師に乗った後他のコースターもコンプリートした上で、次はジャイアントドロップに乗らされた。

 ただ上がって落ちるというだけの単純明快なこのアトラクションは、最も手軽な絶叫マシーンではなかろうか。

 自由落下とは言っても斜め下に落ちるコースターと違ってジャイアントドロップは垂直落下だ。正直、コースター以上に怖い。

 それに加えてこのマシーン、名前を『蜘蛛の糸』というらしい。

 御釈迦様が垂らした蜘蛛の糸に縋りついた悪党が、自分だけ助かろうとして結局地獄に落とされるという例のアレをモチーフにしているのだろうけれど、それってつまり落ちる私達が業が深いって意味だよね?

 蜜の笑顔を見るために地獄を見る私。まぁ確かに業は深いけどもさ。

 ともかく、さらにその後再びおむすびころりんに乗らされたところで『蜜のためなら』がモットーの私も流石に根を上げた。

「もう駄目、無理、死ぬ……」

 四度目の喫茶店、今度はLサイズのミックスオレを飲み干して私は呻く。悲鳴の上げ過ぎと涙線の緩み過ぎで、筋肉その他が引き攣って表情がうまく作れている自信がない。

「ねぇ、大丈夫? 桃ちゃん」

 蜜の問いかけにまた大丈夫と返してしまいそうになるも辛うじて口を噤んだ。

 危ねぇ、さっきの二の舞になるところだった!

「大丈夫じゃない、お願いだから絶叫系はヤメて」

 むー、と尖らせた蜜の口に紙コップに残っていた氷を放り込む。アイスクリーム頭痛になったのか「きゃふっ」と悶え始めた。

「とにかく、もうちょっと大人しいアトラクションにしよう? ね?」

 涙目で頭を押さえながら不服そうにしつつも「分かった」と彼女は言った。

「じゃあ観覧車に乗ろっ! ここの花咲観覧車って直径八十八メートルなんだって!」

「うん、そうね……」

 名探偵白桃ちゃんの弱点その二、高い所。

 蜜ちゃんよ、あんた全然分かっちゃいねぇ。



 午後五時少し過ぎ。夏の長い昼の支配下にあるためにまだ十分明るいけれど、五時間ほどはしゃぎ続けた疲労がやってたらしく、蜜は観覧車のゴンドラが頂上に至る前に眠ってしまった。

 私の膝枕ですぅすぅと寝息を立てる彼女の横顔は五年前とあまり変わらない。思えば彼女は学校に居る間のほとんどを寝て過ごしていた。あの頃に比べれば遊び疲れて居眠るなんて実に健全的だろう。過去の健全的でない理由までもが浮かび上がってきて一瞬顔をしかめるも、彼女の頭を撫でる事で気を紛らわせる。それから窓ガラスの外に見えるそれなりに映えた俯瞰風景に目を移した。高所恐怖症の私にはあまり楽しめるものではないけれど、蜜にゴンドラを揺らされる危険性がなくなった分余裕がある。

 この後スパにもで行くのか、あるいは他に予定があるのか。幽霊がホテルも用意してくれたようなので、帰りの心配はしていない。

 しかしあの連中本当に何しについて来たのだろうか?

 蜜の我が侭に一緒になって付き合ってくれるのは有り難いが、まさか私の泣き面を眺めてけらけらと笑うためだけに来たわけではないはずだ。ない……と思いたい。

 まぁ、基本傍観者であるあの二人だ。私の所が面白そうだからというだけの可能性が一番高い。

 でもそれならば、幽霊という名前の由来通りの方法を使えば直接会いに来なくてもいいのも事実で、わざわざ観察に来た理由としては少々薄い。

 では何が狙いなのか?

 その答えを知る事になったのは花咲観覧車を降りた後、「狭いゴンドラで数分限りの密室なんて燃えるシチュよね」などと意味ありげに言って、降りた時には衣服を意味ありげに乱していた幽霊の一言を聞いた時だった。

「さぁ、コスプレしに行きましょう!」

 狙いはそれか。警戒した私が馬鹿だった、呆れて物も言えない。

「それに服も乱れちゃったし」

 それがもし本当にコスプレ施設に行く口実になると思っているのなら、病院に行った方がいいと思う。

「行くのはいいけどさ……、恥ずかしくないの?」

 この時間帯家族客は大分減ったとはいえ、仮装施設は幼年齢層向けの施設だ。大学生の私は当然の事ながら中学生の彼女達だってギリギリアウトだろう。そう思って訊ねたのだが、

「うん?何が?」

 まるで意図の分かっていない答えが返ってきた。ま、いいか。

「ん、じゃあ行こうか」

 私としても絶叫系と高所以外ならもう何でもいい気分だし、それにいつも同じ服しか着てくれない蜜を着せ替え人形にできる絶好の機会だ。

 まだうとうととしている蜜を背負ってパンフレットを持った幽霊について行くと、大きなカボチャを模したらしいドームが見えてきた。

 パンフを見なくても分かる。きっとこの仮装施設の名前は『シンデレラ』なんだろう。思えば遊園地は子供を楽しませるためにあるのだから、そういう分かりやすいネーミングというのがいいのかもしれない。

 魔女が魔法をかけてくれるかは別として、このシンデレラドームは建設費で魔法のようにお金が消えていっただろうと用意に推測できるほど大きかった。こういった施設は申し訳程度に存在しているものだと思っていた私としては意外で、なるほど幽霊が来たがっていたわけが分かる。『御伽噺に拘らず普段着ないものなら何でも』という、大雑把な考えの元に集められたとしか思えない大量の衣装を収めるために、衣装掛けがドーナツのようにループしているようで、回りながら自由に選べるシステムになっているらしい。記念写真を撮るスペースもあるみたいだけれど、どうも着て楽しむのを主な目的にしている造りに私には思えた。

 建物に入って少し、面白い物がないか物色していると、独特な衣装が目に留まった。日本民族な趣から日本の昔話とまでは分かるのだが、いったい誰の衣装なのかまでは分からない。クイズのようにしばらく考えてみたものの、結局思いつかずギブアップ。裏向きになっているタグをひっくり返すと、『瓜子姫』と表記されていた。

「いやいや瓜子姫の衣装って……」

『うりこひめとあまのじゃく』。知らない人が多い気がするけれどあの御伽噺、天邪鬼が殺した瓜子姫の生皮を被って、爺婆を騙した挙句殺されるって話じゃなかったっけ? 蜘蛛の糸といいこれといい、ちょくちょくとお客を皮肉るチョイスが見え隠れしている気がしてならない。だいたい知名度の低いこんな衣装を何で置いているんだか。

 瓜子姫の服を元の位置に戻して別のハンガーを取ったら、今度は天邪鬼の衣装だった。だから誰が着るんだこんなもの。

「ねぇ、ナース服と修道服どっちがいいと思う?」

 異様にテンションの高い幽霊が訊いてくるが、そもそもその二択にしたって病人に仕えるか神に仕えるかの違いしかない。欲望に忠実なやつだ。

「修道服」

 そう適当に答えて私は『不思議の国のアリス』の青いワンピースを蜜に見せた。

「どう?」

「ヤ! 帽子がない!」

 こっちはこっちで困った拘りだ。いいじゃん、似合うと思うのにな。

「それじゃあこれ」

 次に見せた赤頭巾の衣装を彼女に渡して着衣ボックスを指す。これなら難癖はつけられまい。

「何なら私が着替えさせてあげるけど?」

 絶叫マシーンのお返しとばかりに笑顔で言ってあげると彼女はそそくさとボックスへと消えていった。それはそれで何か寂しくなくもない。

 少しして赤いカーテンから蜜の顔がひょこりと現れた。どうやら慣れない服装に気恥ずかしさを覚えているらしい。

 羞恥心なんてモノ、この建物に入った時点で捨ててるようなものなのに。

 出るように促して一分、ごねにごねて、ようやく彼女はボックスから出てきた。

「おぉ……」

 そこに居るのはまさしく天使だった。

 胸に押し出されている胸元の赤いリボン、白いレースの入った短目のスカートから覗く御御足(おみあし)、恥ずかしそうに頭巾に手をやって深く被ろうとする仕草。

 超、可愛い。

 思わず抱きついた。

 私の奇行に他の客がびっくりしているけれど、そんなの知った事か。

 今はこの可愛い生き物を愛でる事に集中したい。

「あぅー、もうぐりぐりしすぎぃ」

「いいじゃん、昼のお返しよ」

 絶叫系で蜜が私の精神力を犠牲に貯金したプラス分を、今こそ私の幸福に変換しなければ割に合わない。

 全く、蜜はこういう可愛い系の服が似合うんだから普段着てくれればいいのにさ。

 一通り愛でまくったところで、蜜は私の腕から逃れてカーテンの向こうへと逃げ込んだ。

 いつもの黒服に着替えるつもりなのだろうけど甘い甘い。この建物はまるで図書館のように衣装を詰め込んでいるのだ。蜜に似合う服もまだまだ沢山あるに違いない。そんな状況で私が逃がすとでも?

「巫女にメイドに黒セーラー、さぁて次はどれにする?」

 そもそも女同士なのだからそんな薄っぺらいカーテンが防壁の役割を果たすわけがないじゃないか。遠慮なくボックスに侵入してワンピースを掴もうとする蜜の手を止める私。今度は私が愉しむ番だ。

 赤頭巾の衣装と(いろど)り同じ紅白でも和風の巫女服はまた違った趣き。やっぱり黒ショートの蜜には和風の方が似合うかな? これはこれで背徳的、脱がしやすい胸の部分が特に。

 もはや身近な言葉になっているメイド服は幽霊じゃないけれど、奉仕されるという立場はいつもと違って刺激的かもしれない。普段は私が奉仕してる分、このシチュはなかなか……。

 制服に関しては、高校時代では無理だった校則無視の着崩しが新鮮だった。ギリギリまで丈を上げさせたプリーツスカート、第四ボタンまで開けてはだけさせたシャツ、そのまま押し倒したら……ねぇ?

 その他にもあれやこれやと片っ端から着せていってしばらく、蜜は床に座り込んだ。

 もはや帽子の有無に文句を言う元気すらも失くしたらしい蜜は目尻に涙を溜めて、

「もうお嫁に行けない……」

 などとお決まりの台詞を言ってくれるが、私達は女同士、

「なら婿においで」

 その辺は自由が利くのだ。私は嫁でも婿でもどっちでもいいもの。

 知ってた? 両方女編なのよ?

「ふぅ……やっぱりハルカは少し緩いぐらいのサイズがの方が似合うわね」

「身体が小さいから……、それにやっぱり肉つきの問題もありますしね。露出の高い服は……いっそ胸造ってみます?」

「いやいやそれはなくていいの。髪伸ばしてみようか? コスプレの幅が広がるし」

 傍では幽霊と遥ちゃんが何やら相談している。

 ある程度満たされた私からやっと解放された蜜は、さっさといつもの黒ワンピに戻ってドームを散策し始めた。とたとたとたんと独特なステップで、ふらふらと衣装を取っては戻しを繰り返して、どんどん奥へと回り込んでいく。追うべきか迷ったけれど、もう閉園も近いし人もほとんどいないし、まぁ大丈夫だろうと止めておいた。

 幽霊からここの衣装は貸し出しありだという看過できない事実を知らされ、さっそく蜜に着せる衣装を選んでいると、蜜の声が聞こえた。

「ねぇねぇ! こんなのあったー!」

 その声に振り向いてみると、そこにはオオ女将さんが居た。もちろん着ぐるみだ。

 エプロンを着て付属品の切れない包丁を持ったデフォルメされた二足歩行の狼。似合うも似合わないもない。

「蜜……」

 何でそれは自主的に被るかなぁ?

 蜜には大きくて手足がブカブカしているし、頭もグラついて少し怖い。

「他にもいっぱいあったよ、着ぐるみ」

 そう言って彼女の指す方へ行ってみると、着ぐるみコーナーとやらが見えてきた。顔の出ないこれらの衣服が、仮装として楽しいのかは分からないけれど、確かに誰でも一度ぐらいは着てみたいと思うものだろう。しかし、『中の人は居ません』という子供の夢を守る例の文句を完全に無視してる気がしてならない。ペチャンコになってハンガーで吊るされた胴体部分とは別に、頭部達は棚に並んでいて、まるで落ち武者のさらし首のようだった。子供が見たら泣くんじゃないだろうか?

 経営者の細かい所に行き届かない発想に再三疑問を抱きながらも一つ、私も赤頭つ巾ちゃんの頭を手に取る。

 頭部だけ被って戻ると、幽霊に出来の悪いホラーみたいだと言われた。だったらあんたも被れよと、無理やり生首赤頭つ巾ちゃんを被せてやる。

 明らかに返り血っぽい何かで赤くなった頭巾、ぱっちりして瞬きしない目と動かない表情、光加減でできる陰影。なるほど、ホラーだ。

 そんな馬鹿な事をやり合っての閉園間際、催した私はトイレに行くと言って三人と別れた。考えてみれば御伽の国に入ってから飲み物ばかりに飲んでいた気がする。それもこれも蜜のせいなのに、彼女ときたら、

「あんなに飲むからだよー?」

 と度々トイレに立っていた私にしれっと言ってくれた。絶叫マシーンにはもうしばらく乗りたくない。

 ま、蜜の笑顔見たさにまた乗る事になるんだろうけどな!

 ……それはさておき、大抵込んでいる遊園地のお手洗いも、この時間帯には幸い人気(ひとけ)はなかった。口に挟んでおいたハンカチで手を丹念に拭いた後、ついでにケータイをチェックする。二十件を超えている着信の内、気にしていたメールを開くと、その内容に思わず笑ってしまった。

 トイレは最奥より右に設置されているから出て左回りの方が距離は短い。当然左を選択したトイレ帰りの道中、まだ見ていなかった衣装を眺めていると無限に本を蔵書している空想の図書館に迷い込んだ気分になる。円状の衣装掛けには終わりがなく、膨大過ぎる衣装は把握しきれない。じゃあ質の方はというと、蜜に着せてみて一着一着の作りの良さに関心した。魅せる事を第一に考えられているこの手の衣装は、飾りが取れやすいものとばかり思っていたけれど、繰り返しの使用に耐えれるだけの耐久性を持たせているようだ。

 貸し出しの事も考慮に入れてもこの施設にやたらと力を入れている気がしてならない。経営者……いや、オーナーの趣味とか?

 けれど、不思議の国のアリスに出てくるトランプ兵隊の平べったい衣装がちゃんと四十四セットあるのには呆れた。よくもまぁ、ここまで集めたものだ。あ、団体客向けなのか。

 『ラプンツェル』はいいとして『手なしむすめ』や『ホレおばさん』なんて今の子供が知っているとは思えない。私だって第一の被害者になってしまった裕子ちゃんに教えてもらってなければ一生知らずにいただろう。

 御伽噺、メルヘン……ここはそんな忘れ去られようとしている物語の墓場なのかもしれない。名探偵の名前もあるいは墓標に刻まれているのではないかという想像がふと浮かぶ。

 奇抜なトリックに突拍子もない真実。現実ではおおよそあり得ない多くの演出に守られてこそ存在できる名探偵は、物語(マジックショー)でしか生きられないのだろうか?

 鹿撃ち帽にインバネス・ コートというシャーロック・ホームズの衣装が掛けられているのを見つけて思わず立ち止まってしまった。

 もっとも、火の粉除けに名探偵を自称している私なんかが浸る感傷ではないけれど。

 自嘲して止まった足を再び出口の方へと向け、再び踏み出そうとして――できなかった。

 視線の先、僅かに弧を描く壁に、オオ女将さんが横たわっているのを見つけてしまったのだ。

 一瞬、蜜が直さずに行ったのかと思ったけれど、自分(、、)の整頓に関してはしっかりしている彼女にそれはないとすぐに思い直した。

 ……では、他の誰か?

 サイズ別に同じ服が用意されているここには当然オオ女将さんの衣装も複数ある。他の客が帰り際に着たものの、閉園時間が差し迫っている事に気付いて慌てて脱いでそのままに――、なんて……なんてね。

「なんて、あるわけないか……」

 そんな無理のある想像を自分で否定する。こういう場面(、、、、、、)に遭遇してしまうと独り言を呟いてしまうのは、やっぱり慣れても怖いものは怖いし、心細いものは心細いからなんだろうか。

 そう、冷静に考えてみればすぐ分かる。置き忘れなんてあり得ないのだ。ハンガーに掛かっていた時のペタンコな状態とは違って、胴体は膨らんでいるのだから。

 何よりも、着ぐるみの太く茶色い両手が包み込む剥き出しの心臓が、誤魔化しきれない事実を語っている。

 これで、五人目。

 おもちゃの包丁は床に落ち、本物の凶器は見当たらない。臨終を迎えても笑い続ける狼の顔は俯き気味で、力なく壁に背中を半分預けた、肌の一つも露出していない胴体はその両手に内蔵を抱えている。

 大して考えもなくそれに近づいた私は、この落ち着かない感情は、死体の本体を確認していないからだと言い聞かせ、着ぐるみの頭を取った。

 けれど、そこにあるのはずの顔はなく、目に入ってきたのは首の切断面。

 思考がその現象の意味を理解する前に、取った頭部の中からごろりと髪の長い生首が転がり落ちた。



 夕焼け空。

 紅から始まり藍で終わるグラデーションが上から下へと広がっている。

 御伽の国の玄関口、閉園したこの時刻に明かりは乏しく、空よりも地上の方が暗い。暗闇の光源代わりになっている捜査車両のパトカーランプは、むしろ私の気分を暗くしてくれる。

 八月十二日午後五時五十二分、第五の被害者を発見。後一人でハート事件と被害者数が並ぶ。

 これはもう……世間に隠しきれないな。

 三から四、四から五という数字は多いか少ないかの境界線だ。大量殺人ならともかく、日を跨ぐ連続殺人で五人と言う数字はかなり多い。それも死体が見つかっているケースとなれば尚更だ。

 今はまだマスコミテロの話があるにしても、そろそろそっちもマンネリ化してマスコミは目新しいネタを探す頃合いだ。見向きもしなかった癖に、警察が真実を伏せていたんだとでも騒ぎたてるんだろう。あの時と、ハート事件の時と同じように。

 溜息を吐く。この動作を一体何回した事か。

 そんな私に、近づいてくる人物がいた。

 灰色のスーツをきっちりと着た中年の男。染めはしているのだろうけれど、その努力虚しく白髪がちらほら見受けられるワックスで固めた髪、弛んだ皮膚が額に作った皺、そして無理やり押し込めただろう腹の贅肉。

 人物描写が辛口なのは、そのまま私が彼にいい感情を持っていないからだと理解してくれればいい。

「こんばんは、お嬢さん」

 かけられた声には答えずに彼の方へと向く。人の良さそうな顔をしているが騙されてはいけない。表情など筋肉の作り出す幻想だ。

「私は警察庁刑事局捜査第一課管理官・警視正の猪俣昌です」

 そこで彼は笑みを深くした。

「まぁ、階級は難しいから分からないかもしれないけれど――」

「警視正。警視長の下で警視の上。警察階級の第四位。キャリアは三十代で昇進。それぐらい知ってます」

 名探偵を自称してる人間に随分と舐めた真似をしてくれる。

 苛立ちを笑顔に乗せて言ってやったら、場が凍りついた。

 猪俣警視正の外見を見れば、彼が三十代ではない事は誰にだってすぐ分かる。四十代から五十代。キャリアなのに警視正。暗に出世遅れと言われて彼は笑顔が少し引き攣ったし、周りの中央刑事は怖いものを見るような目で私を見つめ、地方刑事は触らぬ神に祟りなしとばかりに場を離れていった。

 全く、敵(、)について名探偵を自称する私が調べてないわけがないじゃないか。

「ちなみにキャリアが四十代で警視長に昇任するのも知ってますし、冴えないあんたがついに家族に愛想を尽かされてる事も知ってます。ついでにそれを見返そうと捜査を焦っているという噂も耳に入ってきてますが、誰の蔭口かお教えしましょうか?」

 トドメの微笑み、そして更に凍てつく場。

 そんな中で唯一、可奈さんだけが覆面パトカーのボンネットをバンバン叩いて大笑いしていた。彼女に怖いものはないらしい。警察内で浮いているんだろうと想像してはいたけれど、こうして目の当たりにすると凄まじいものがあった。

 彼女自身はともかく、彼女の下で働く限り悠志君に出世の道はないんだろうな。

「…………単刀直入に言います、白藤さん、それと桜川さん、署までご同行願います」

「お断りします」

 私の即答に警視正はわざとらしく溜息を吐いた。それから子供を諭すように言う。

「いいですか? 貴女方は今大変微妙な立場に置かれています。ここで同行を拒否するという事は後ろめたい事があると言っているようなものなんですよ?」

「『ご同行お願いします』、つまりは任意同行なんでしょう? 拒む権利がある事は法律で規定されてます。当然の権利を主張した相手に疑われると?」

「……疑われる危険性がある事をご忠告しただけです」

「そうですか、じゃあ先にお願いしておきます。任意同行は拒否させてもらいますが、これは刑事訴訟法にもある通り、当然の権利です。言うまでもなく警察は法を重んじてくださるとは存じますが? ついさっき失言も出ましたので? 一応念を入れて言わせてもらいますが――それを逆恨んで疑うなんて事、しないよな?」

「善処、します」

 善処じゃなくて厳守しろよ。

 私の舌打ちが聞こえたらしく、彼は手を強く握りしめた。丁寧な口調を崩さないが、見下していた女子大生に高慢な態度を取られて(はらわた)は煮えくり返っているのだろう。顎の筋肉が強張って、押し殺した息が鼻から出された。

「ですが、白藤さん。実際、貴女方が有力な被疑者である事は事実なんです。事件解決のためにも捜査に協力していただきたい」

 全くそうは思っていないくせに、よく言う。協力なんて選択肢はそもそも向こうから破棄したモノだろうに。

「無茶な事を言いますね。私達は、今回の事件はハート事件の因縁だと主張しています。それを一つの意見としても聞き入れていないのは警察でしょう? 相容れないのは分かりきっているはずですが?」

「確かに、そうですね。失礼しました。では、改めて言いますが、警察は桜川さんを主犯、あなたを従犯だと見ています」

 さっきのお返しのつもりなのか、後半、無駄に厳かだった。

 しかしそんな事、私はすでに知ってる。知っているから敵愾心を剥き出しにしているのだ。

 馬鹿らしいと吐き捨てたい気持ちを抑えている私の気も知らないで、彼は続ける。

「今回の事件は前の四件と違って蜜さんに服を着替える余裕はなかったはずです。けれど彼女の衣服に返り血はない。その事から私は現場で唯一血の付着していた、被害者に着せたあの着ぐるみ着て犯行を行ったのだと考えています」

「それで?」

「着ぐるみに付着した毛髪などの遺留品はそう簡単には除去できない。調べればすぐ分かるんですよ」

 ……まさかと思うが、それで自白した方がいいですよとでも言うつもりなのだろうか?

 確かにあのオオ女将さんの着ぐるみには蜜の毛髪やら何やらが付いている可能性は高いだろう。けれどそれは別に犯行を行ったのが彼女である事を示す証拠にはならない。それを言おうと口を開いたところで、「それ、証拠にならないわよ」という幽霊の声がかかった。どうやら一応は蜜の友達らしい事をしてくれるつもりのようだ。

「彼女、その着ぐるみ着てたもの」

「貴女は……彼女の同伴者ですね?」

「ええ。それにシロップちゃんはずっと私達と一緒だったけど?」

「なるほど、確かにそれが本当ならアリバイにはなるんでしょうが……貴女は彼女達の友人でしょう?」

「かばって嘘を吐いていると?」

「可能性はあります」

「可能性ねぇ、それを言うのなら私の証言が事実であるという可能性も、またあるという事でしょう? 例え私が嘘を吐いているにしても、その証言の虚偽を証明できない限りシロップちゃんを犯人とは断定できないわよね」

 その通りだ。よって、着ぐるみに付着しているであろう蜜のDNAは証拠能力を持たないし、そもそも着ぐるみを犯行に使ったというのは彼の想像でしかないのだから、証拠採用そのものすら無理だろう。

「ですが、証言を裏付ける証拠も存在しないのも事実ですよ。今までの状況証拠も合わせて、令状を取るには十分の容疑です」

 出世遅れ警視正は食い下がるが、それに関して私は切り札を持っている。

「それはおかしいですね猪俣さん。私や幽……朝間さんの言い分が本当にしろ嘘にしろ、警察はそれを証明できたはずですが?」

「何の事です」

「だって私達を監視してたでしょう? ここ数日間ずっと」

「なっ!」

「ですから、こっちもあなた達の動向を監視してたんですけどね?」

 私の台詞にさらに動揺する彼。そりゃあ、監視を監視されているとは思うまい。

「それで、ついさっき面白いメールが届いたんですよ」

 言って私はケータイのメールを開いて彼に見せた。そこに書かれているのは、監視役を務めていた警察官がコスプレドームには入らずに、外で待機していた旨を記す文章だ。

「流石に目立つからですかね? ああ、まさか恥しかったとか?」

 そこでケラケラと笑ってみせてから一転、声を低くして言った。

「ストーカー紛いの事をやらした上、肝心の犯行を見逃したくせに、証言が疑わしいから令状を取る? 随分都合のいい考えですね?」

 奥歯を噛み締める鈍い音。けれど、反論は返ってこない。

 寄ってきた蜜が半目で私の服を引っ張って欠伸をした。

「蜜が眠たいみたいですし、そろそろホテルの方に行ってもいいですよね?」


                    ♯


 戸伽市は温泉街で有名な観光地であり、旅館の強みは当然天然掛け流しのお風呂となる。ホテルという体裁を取っている我らが今晩の宿もそれに漏れず、自慢の露天風呂とやらはなかなか立派なものだった。

 夏という季節に温泉に浸かろうという人物はそういないとみえて、露天風呂に人は少なく、手抜かりなく竹の水鉄砲を持ってきていた蜜は温泉水を飛ばしてきゃっきゃと楽しんでいた。駄菓子がオマケで付いていたちゃっちい水鉄砲は彼女のお気に入りで、こうして湯船に浸かる機会があれば、それで私の顔面を狙うのが習慣になっている。

 今日も今日で、『肩こり・腰痛に効く』という温泉水をまさしく湯水のように顔に浴びせられた後、売店で風呂上がりのフルーツ・オレをしっかり味わってから部屋に戻った頃には、再び眠気に襲われたらしく、彼女は浴衣姿のままベッドに倒れ込んだ。

 それから三分も経たず寝息を立て始めた彼女に布団をかけて、肩の力を溜息と共に抜いてから振り返る。そこに居るのは、もはや定番になった刑事サボり組だ。

 部屋は私達の分と幽霊達の分で二部屋取っていたのだけれど、幽霊が可奈さんに譲ったらしい。「気まぐれよね」と可奈さんは言うが、人を軽々あの世送りにできる人物が、気まぐれな性格を持ち合わせている事に、もう少し危機感を持ってほしい。無差別無作為作動の爆弾なんて誰がいるっていうんだ。

 それならまだ、理性的な殺人者の方がマシだとくだらない事を思いながら、冷蔵庫からぼったくりな値段をしたジュース缶を二人の前に置いた。

 特捜の横やりがない辺り、ハブられているとはいえ刑事がこうして同伴する事で、警察が聴取と監視を行っていると、対面を繕おうという思惑なのかもしれない。

 何にしても、鬱陶しい連中の代わりでこの二人というのなら有り難い話ではある。監視(ストーカー)も解けたようで気分も幾らか晴れた。

 二つしかない椅子に可奈さんと悠志君が座っているので、私はベッドの端に腰かける。久しぶりの柔らかいスプリングの感触。

「今日はベッドで寝れそうね」

「それは……横着してソファーで仮眠を取るからでしょう?」

 悠志君が言い咎めてくるけれど、その認識は甘い。私がベッドで寝ない最大の理由は蜜の相手(、、)をして余計に体力を減らしたくないからだ。そう言うと彼は苦笑して、「でも」と言った。

「良かったんですか? 任意同行拒否して」

「んー、何で?」

「いや、三回目の拒否じゃないですか。捜査に非協力的っていい印象ないですよ?」

「今更よ。それに閉所に連れ込まれるよりマシ。催眠商法って知ってる?」

「はぁ……?」

「池田君、警察としてそれは知っときなさいよ。SF商法とも言うんだけど、まあ狭い場所に人を集めて雰囲気を盛り上げる事で、集団催眠状態にしてモノを買わす悪質商法よ」

 可奈さんの説明に悠志君が何とも言えない表情になる。

「それ、取調室の事言ってます?」

「言ってるわよ。相手のテリトリー、それも狭い閉所。どう考えても警察に有利じゃない。任意同行名義だったとしても、任意で退出が許されるとは思えない」そこで一口、オレンジジュースを含んだ。「それぐらい私の警察に対する信用は低いの」

 それこそ今更だと彼も思ったのか、苦笑いは空笑いに変わった。

「そんなにハート事件の大捜索は迷惑でしたか」

「それだけじゃないけどね。あの当時私が一番うんざりしたのは、警察やマスコミの責任感のなさよ。連中、自分達がやってる事に何の責任も感じてないの。ハート事件? なるほど、凶悪な連続殺人犯が存在しているという情報は確かに必要だとは思うわ。でも、その犯人像をコメンテーターが推理する必要ってある? 被害者が餌づけしてた猫の名前って重要? 猫を引き取った両親への賛否両論なんて報道して何になるの? 不良少女は自業自得? そんなの赤の他人である大衆が言う事? 白桃シロップ説? 何で警察はそれを記者にしゃべったの? 彼らが面目を犠牲にしてくれれば――捜査ミスや不祥事を勘ぐられる事を気にかけなければ――隠しきれなかったわけじゃないでしょ? 彼らは自分達の誇れる体面を守ったのよ。だいたい、吸水性のあるハンカチで血を媒介する事ができないなんて、試せばすぐ分かる事なのにさ。それなのに大捜索までして……マスコミはまた大騒ぎ。冤罪疑惑? わざわざ……わざわざ懇切丁寧にフリップボードを用意してまで解説する事なの? 現行犯の戯言を、何でどの報道局も揃いも揃って、嬉々として報道したの? 『ああなるほど、つまりそいつらが犯人なんだ』……そんないい加減な考えを浴びせられる人間の事をテレビ越しの大衆は分かってるない。そんなやつらの需要に応えて、必要もない事を騒ぎ立てて、人の人生かき回しておいて、自分らは正義だのジャーナリズムだの……それで(こうむ)った私達のハンディキャップなんて気にも留めてない。自分らは正しい事やったと思ってんのよ。ところがそれを糾弾しようにも法は彼らに肩入れしてる。法は法を作ってる人間が、同調しやすい人間に向けて作られる。それを思い知らされた。法自体も、行政も司法も信用できたものじゃない」

「司法?」

 首を捻る悠志君に、はっとした。しまった、思わず熱くなってしまって口が滑った。警察は行政機関、司法機関は――

「裁判所、ですか? あれ? でも確かハート事件で裁判にかけられたりはしてないですよね?」

「蜜ちゃんの両親の事でしょう?」

 ……可奈さんも余計な事を。

「ええ。悠志君も蜜の両親が現在服役中だって事は知ってるでしょ? 何でかは知ってる?」

「え? ぇえーと……」

 分からないというよりは言いにくいという顔をする彼。実際そう思っているのだろう。確かに、知っているとしても言いにくいし、嗅ぎまわられれば不快以外の何でもない事柄だから躊躇するのも分かる。

「蜜への虐待。で、懲役七年。あと四年で出てくるの。長いと思う?」

「短い、ですか」

「短いね、短い、短すぎる。幼少期、誰もが過ごす黄金の日々……まぁ、これは他人の受け売りなんだけどさ。そんな時期をぶち壊された挙句、暴行されて、後遺症がまだ残ったままで、それで反省しようがしまいが七年で釈放……いや、仮釈でもっと早いのかな? まぁともかくそれだけで出てくる。それが法がちゃんと適応された結果ときてる、本ッ当やってられない」

「でしょう?」と言外に問う。返ってきたのは無言だった。

「蜜、中学生の頃はいつも教室で寝ててね。何でか訊いたら『家じゃ眠れないから』って言ったのよ? 私は死刑にしたかった」

 ジュースを飲み干して屑かごに入れて帰り、ベッドで寝入る蜜の頭を撫でる。ぐっすりと眠っているようだ。

 僅かに逡巡した後、口を開く。

「それに……それにもし本当に法がちゃんとあのクズ二人を裁けたのなら、死刑だってあり得た」

「え?」

「あいつら、蜜の妹を殺してるから」

「い、いや待ってください! それは幾ら何でも警察が黙っていないでしょう⁉ それに確か桜川さんに兄弟は……!」

「うん、居ないよ。居ない事になってる。戸籍上はね」

「で、でもいきなり子供が消えれば近辺で噂にぐらい」

「その子、生涯一度も外に出れず死んだって」

「産婦人科に問い合わせれば」

「妊娠検査なんか行ってなかったし、当然自宅出産よ」

「桜川さんの証言は」

「蜜の虐待に関して精神障害を武器にしたの。言ったところで妄言扱いね」

「…………」

 もう、彼は何も言わなかった。

「陳腐な言い回しだけど、蜜は命の重さを誰よりも知ってる。そして私は法がヒトを守ってくれない事をよく知ってるの。法そのものがどうのなんて今更言わないけどさ、法の下の平等ってやつがクズ二人を守って殺された妹に何もできないって……そんな不平等、ねぇ?」

 もっとも、今現在『疑わしきは罰せず』という原則に守られている私達の言うような事ではないのだろうけど。

「天網恢恢疎にして漏らさず。神が作ったらならまだしも、人の法なんて穴だらけよ。だったらそれらしくしてればいいものを、外面だけはご立派に構えてさ。法を回す公的機関までもが正義だのなんだのと馬鹿な事を言ってる。その結果が昨今の警察・検察の不祥事だっていうんだから目も当てられない。警察に正義の味方を名乗られたらこの社会は終わりよ。張る見栄があるから判断を誤る。被害者だろうと被疑者だろうと平等に扱うのが彼らの役目――あくまで治安維持の機構(システム)なんだから機械(システム)らしくあってもらわないと。正義なんてそんなモノ、暴力で万事を解決するヒーローにでもくれてやればいいのよ」

 二本目、今度は林檎ジュース。国産果汁一〇〇%の表記通り、よくあるクリアーアップルではなく濁ったタイプだった。結局のところ濃縮還元なわけだけれど、果汁感がある分こっちの方が好きだ。

 それを一気に飲み干した。

「さてまぁ、私の恨みつらみの入った話はこれでお仕舞い。すでに過ぎた事はいいとして、今回の二番煎じ事件が丸く収まってくれればねぇ。要は警察が私達を疑わなければいいんだけど。犯人かどうかなんて本人が一番よく分かってる事とはいえ、こればっかりはいくら自己主張してもね。言葉では幾らでも嘘が吐けるから……潔白が証明できるんなら私の心を覗かせてやりたいよ」

 冗談混じり溜息混じりで言った私の台詞。

 けれど、それに悠志君はきょとんとして何とはなしに言った。

「そんなの、白藤さん達が犯人じゃないなんて見れば分かりますよ。疑い晴らすために必死じゃないですか」

 その言葉に、その不意打ちに、今度は私が呆気に取られた。

 そんな言葉をかけられるなんて端から頭になかっただけに、思わず彼を凝視してしまう。

「な、なんですか?」

 ……思えば、私は疑われる事を前提に過ごしてきた気がする。白桃シロップ説、それがある限り自分達は疑われて当然だと。

 けれど、少なくともここに、根拠もなく私達を信じてくれる人間が居る――。

「いや、ちょっとぐっと来たわ。悠志君は警察辞めて探偵になった方がいいわよ」

 否、どっちかと言えば助手なんだろうけれど。「俺、警察になったばっかなんですけど」という彼の呟きを無視して、冷蔵庫を再び開けてアルコール類を取り出した。

 何だかとても気分がいい。今なら気持ちよく酔える事だろう。そんな予感がある。

 それに、実のところお摘みはもう買ってあるのだ。


                    ♯


 私は結構お酒が強い方だ。酒豪とまでは言わないけれど、ビール三本ぐらいなら余裕だし、以前知人と二リットルのピッチャーで一気飲み対決をやった時は三杯飲み干した事もある。

『お酒は二十歳になってから』という決まりもまた、なかなか守らせる事が出来ないのが法の限界などと、冗談にならない冗談はさておき、昨晩飲んだ本数を数えればたった二本だけにも関わらず、私は朝起きると同時に頭痛に悩まされていた。

 誰かが押したインターホンで目を覚まして、まず入ってきたのは蜜の姿。可奈さん達が帰った後に目を覚ました彼女に押し倒されて……うん、いつも通りか。最近はご無沙汰だったけれど。それのせいで睡眠時間が大幅に削られて、頭痛。

 二回目の呼び鈴に「はいはい出ますよ」と適当な返事をして立ち上がる。まだ寝ぼけている頭を振って、寝癖を整えてから扉を開けた。

 当然と言えば当然、部屋の外に居るのは可奈さん達だった。

「おはよーございます。どうかしましたか?」

「おは……の前に、桃ちゃん」

「ふぁい?」

「足に引っ掛けたショーツを穿き直しなさい」

「………………………………………………」

 言われて、自分の身なりに目をやる。

 上半身、Tシャツ。下半身、右足首の引っかかったショーツ。

 それだけ。

 実に扇情的というか戦場後というか……。これはもはや服を着ているとすら言えない。

 よーし、まずは悠志君を殴ろう。

 反射的に右ストレートを彼の鳩尾に叩きこんでから、ショーツを上げ直し、部屋に入ってジーパンを穿いて、蜜がちゃんと服を着ているかを確認してから外に出た。悠志君はまだ悶絶したままだ。

「改めておはようございます」

「おはよう。目は覚めた?」

「それはもう」

 主に拳の痛みで。優男だと思ってたのに、野郎なかなか鍛えてやがった。

「それで何か?」

「朝食に誘いに来たのよ」

「あぁ……、けど蜜がまだ寝てるし。流石に一人で置いてくのは……」

「大丈夫よ、悠志君が見てるから」

 そこで自分が立候補しない辺り流石だと思う。

 しばし考えてから、私は頷いた。

「そう……ですね。ご好意に甘えさせてもらいます」

 頭痛を紛らわせるためにも、残った眠気を覚ますためにも珈琲ぐらい口にしたい。

 顔を洗って髪を整え、珍しくポニーテールに結んで、よろめき立つ悠志君に蜜の事を頼んでから、私は可奈さんと一階の喫茶店に入った。先客達の頼んだ珈琲の香りに満たされた店内をよぎって適当な空席に座り、メニューから珈琲と目玉焼きトースト、フルーツ盛り……はなかったのでフルーツポンチを注文した。

 少し遅い時間帯だからか、すぐに並べられた注文の品に手をつけながら、回転のまだ鈍い脳みそを試運転させるべく五件目の殺人を整理してみる。

 まず、死体。バラバラではなかった。まぁ、着ぐるみを着せるためにはそうするしかないから必然と言える。なら、着せる理由は? 死体を見つけにくくする、は大して効果がない。死体を切断するのは流石にあの状況下では難しかった、とするなら服を着せるのも同じだろう。蜜に容疑を着せるため、それが妥当か? 今まで私だけが狙われていたのは普段蜜は外に出ないから……と考えれば筋は通る。これで私単体が狙われているというケースは消えたわけだ。

 けれど今回もまた凶器は出なかった。四件目は私というイレギュラーで凶器を残す結果になったけれど、あれだって凶器を残していくつもりはなかったと捉えられる。

 次に警察。連中は犯行を見ていない。シンデレラの出入り口は見張っていたようだが、業務員出入り口や非常口までは数が足りなかったらしい。外部からの出入りは可能だった。つまり五件目の状況はこれまでの四件と変わりがないわけだ。状況に進展はなし。故にどうすべきか迷う。判断材料がまるで揃わない。

 そもそも五人も殺して何がしたかったのか説明がつかない――。そこが悩みどころだ。

 もそもそごくんと、珈琲で流し込むようにトーストを平らげて、デザートも一気に頬張る。それを飲み込み、仕上げに口直しに残りの珈琲も空にして立ち上がった。

「さぁ、帰りますか」

「もうちょっとしっかり食べればいいのに」

 なんて可奈さんは言うけれど、破裂寸前の風船を持たされている私達としてはそうもいかない。蜜は蜜で今は平然としてはいるものの、あの子は神経質な所があるから特に心配だ。

 さっさと事務所に返って対策を立てたいし、弁護士とも予め相談しておきたいし、反証も整理しておきたい。

 そんなわけで足早に店を立った私達は、大して会話も交わさずエレベーターに乗車。機内を鏡に映る自分をぼうっと眺めて過ごし、目的階層についた昇降機を降りて、ホテル特有の方向感覚が狂う単調な廊下の奥、『710』号室へ到着。錠前にカードキーを差し込んで、何ともなしにドアを開いた。

 そして、


「……一応訊いておきますが……悠志君て訓練受けてますよね?」

「逮捕術訓練? 柔道とか剣道とか狙撃とか、そういう成績はピカイチだったはずだけど……」

「まさか、鳩尾が思いの外効いてたって事は……」

「いやぁ、それはないでしょう」

 床にずり落ちたかけ布団、捲れた白いシーツは斑に赤く染まっている。寝台の、惨劇の中心は特に酷い。飛び散るというよりは零れたのだろう血の染みが広がり、男らしく筋肉のある腕が片方、こっちに向けて手を伸ばしている。もう片方は掛け布団と共に床に転がり、胴体もまたカーペットを汚していた。

 その全ての真ん中に蜜は居た。酷く震えて、目尻には涙。汗が滴り落ちて、吐き気もするのか口を左手で覆っている。

 右手は、右手には血染めの包丁。

 うぇ……、と嗚咽が漏れる。

「気持ち、悪いよぉ」

 そう消え入りそうな声色で呟いて、彼女は悠志君の頭をベッドから蹴り落とした。

 転がる頭部は先に蹴落とされたらしき他の身体と再会を果たす。そんな皮肉った表現がまるで笑えない。


 ――状況は、これ以上ないほどに致命的だ。

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