5、推理閉鎖―その先行き止まり
道元麻央、当然女性で当時二十六歳。浅越市女児連続殺人事件の被告内山広一の弁護を担当。
しかし、初公判前に広一君が彼女の差し入れた聖書の紙を口と鼻に詰め自殺。あれほど騒がれた殺人犯の自殺はマスコミの標的となり、所属していた弁護事務所は彼女を解雇、キャリアに傷をつけた彼女は弁護士生命を絶たれた。あれから数年、司法試験という大きな壁を乗り越えた彼女は、ハート事件による世間の仕打ちをも乗り越えて、現在小さな法律事務所を構えている――全くマークしていなかった彼女の近況を至急探るべく、面倒くささから金にモノを言わせて、本物の探偵に集めさせた情報を纏めると大体こんな感じになる。
再起してる時点で、『弁護士生命が絶たれた』という表現がそぐわない気がするかもしれないけれど、実際にはそう表現するに相応しい状況だったはずで、事務所まで構えられるほどに立ち直っているのは一重に彼女の能力の高さからだろう。
夢だの何だのと遠く曖昧なモノを見ている人間は成功できない。設定した目標に対してどうステップを踏めば叶えられるかを見据えて行動できるタイプ。それに、逆境に耐えうるだけの忍耐力もある。
今回の件――と言い続けるのも分かり辛いので『ハート二番煎じ事件』と仮称しよう――の犯人像には合致する。
動機も充分、わざわざ私の周りで人を殺すという遠回りをする理由もある。凶器を残さないという矛盾した行動は事件がまだ途中段階であるとして今は判断を保留。
となると次の問題はアリバイだ。
幾ら動機があっても物理的に不可能では話にならない。推理小説ならアリバイがあったとしても、『犯人はあいつに間違いない! アリバイはトリックだ!』なんて展開になるのだろうけれど、そもそもそんな確信を持てるのなら今私は苦労してないし、この現実世界でアリバイほど無意味なトリックはない。アリバイトリックなんて考えるくらいなら、死体を発見されない方法を考える方が幾らか建設的だ。
容疑者に決定的アリバイがあるなんてまだいい方で、あやふやだったりしたら最悪だ。犯人なのか違うのか、それすら判断できないまま捜査はやり直しになる。
単調で地味で、成果が挙げられたかも判断しづらい。閃きがなければただただルーチンワークでしかない、それが名探偵の思考作業である。
はっきり言って探偵本人の心情描写を地文に描かれている小説はすごくつまらないものになるだろう。探偵が事件を解明する途中経過が書かれているんじゃ、謎解きとしても面白くないし。
……あぁ、だから推理小説は探偵自身ではなく少し頭の緩い助手が主人公なのかと今更ながらに思った。
ともかく、作業は地味で内容はほぼ脳内会議に始終する捜査活動の結果、私は今繁華街にある貸しビルの前に立っている。
二日という短期間で探偵社に調べさせた情報によれば、道元麻央の拠点はこの七階建てビルに入っているという。狭い範囲に店やら事務所やらを詰め込めるだけ詰め込もうとしたような、節操のないこの一帯には珍しくはない低く狭い建物だ。
通りへ突きだされた看板を確認すれば、一から三階はアパレル店で四階は囲碁教室、六、七階は雀壮となっていて『道元法律事務所』が五階フロアである事は資料とも一致していた。
ビルそのものに備え付けられているらしいエレベーターと階段を、アパレル店とは切り離された端の廊下奥に見つけて足を進める。
その途中アパレルの可愛らしいワンピースが目に入った。ああいうの、蜜に似合うんだろうけど彼女は買っても着てくれないだろう。彼女は黒ワンピと帽子が殊お気に入りで、他の服を着たがらないから。
改装されてはいるものの、年季の入ったビルの昇降機は五人入ればぎゅうぎゅう詰めになりそうなほど狭い。
エレベーター。その単語にふとこの前の事件を思い出し思わず上を見上げた。あいにくとこの機体にはカメラは備え付けられていないが、マンションのモノと重ねてこの小さな箱で起こった出来事を思い返してみる。
一歩間違えれば監視カメラに写ってしまう状況下で、わざわざ四肢と頭部を放り込むような真似をする理由には何がある? 何せ肝心の胴体は十七階で、凶器だって結局見つかっていない。それにあの事件に関して私は殺害現場に足も運んでいないのだ。冤罪をかけるにしては不可解な行動が多い。冤罪が目的……とは言い難くはないだろうか? けれど、だとすれば何が狙いになるのか、それがまるで思いつかない。
犯人の考え、狙い……それが何なのか、私は本心から分からない。
チン、と到着を知らせる電子音に顔を天井から戻す。視界に映るのは事務所と廊下を仕切る擦りガラスとシールで貼られた事務所名。
恨まれているかもしれない相手との対面だ、少し緊張する。
一息吐いてからドアノブに手を伸ばした。
道元さんと初めて会ったのはハート事件当時、広一君弁護の関係で事情を訊きに彼女が訪ねて来た時だった。駆け出しでの経験不足を真面目さや堅実さで補って、日々励む若き弁護士という印象を持った事を覚えている。
ただでさえ警察やマスコミ相手に気を張らなければならなかったあの頃の私は、かなり精神的に参っていたのだけれど、広一君を弁護するには私達を貶める事が最も容易かったはずの彼女がそういう目で私達を見る事はなかった。
無実を証明するのか無罪を主張するのか。まずは事実を見極めようと彼女はしたのだろう。「広一君は人を殺して喜ぶような子に見えなかったわ」と彼女は彼の印象を語ったが、その同じ目で私達を潔白とも判断し、彼に減罪を求める方向で裁判を進める事を伝えたらしい。けれど、同意したかに思えた彼はその時欲した聖書で自殺してしまった。
「私が罪を軽くする方向性を示した時、広一君は裏切られたと感じたのでしょう」
自分で運んだ紅茶を一口、上向いて彼女は思い出すように言った。
あれから五年。私達が中学生から大学生になるほどの目まぐるしい時の経過に、彼女もまた晒されたようだった。皺が刻まれるとは言わないまでも、心労が身体に影響した結果なのだろう、凛とした顔立ちの中に疲れが見える。髪の手入れすら億劫なのか、髪型はあの頃とは違ってベリーショートで、それでもタイトなスーツ姿は当時のままだった。
「弁護すべき……味方であるはずの人間が自分の主張を信じてくれなかった、その絶望が彼を自殺させてしまった」
私の責任ですね。そう苦笑いしてカップを置く。
「……あなたは今でも彼が犯人ではないと思っていますか? 絶望して自殺した彼は犯人ではないと……あれは冤罪だったと」
「分かりません。ですが今でもこの目で見た彼の印象が間違っていたとも思いません。自分が女児連続殺人事件の容疑をかけられていると知った彼の驚きとショックは本物だったと思っています」
ですが、と彼女は私をまっすぐと見つめる。
「あなた達が犯人だとも思えません。例え彼の言い分通りだったとして、血を持ち運ぶのに不可欠であるはずの容器は見つからなかった。学校中をひっくり返したんですよ? あれほどの大捜査の結果発見できなかった。疑う余地はありません」
「そうだといいんですけどね」
けれど、実際は疑われている。
白桃シロップ説の根底にあるのは悪魔の証明だ。
血を運んだ容器が見つかれば、『私達が犯人である』という証明になり得るのに対して、大捜索で見つからなかった事は『ない事の証明』にはならない。
見つからなかっただけ……幾ら完璧に捜索が行われていても、疑う余地を末梢する事はできない。
少なくとも警察の特捜本部の捜査が私達に及び始めている事は知っているし、
「私達が犯人であってほしいと願う人物にとって、あの捜索は疑いを晴らしてくれはしません」
「そうかも、しれませんね。そして……疑いをかける人間は、かけられた人間の心を蔑ろにしがちです」
「えぇ、本当に」
「あの事件で身に染みてそう思いましたよ。彼は死に、あなただってストレスで胃に穴を……。だから、その経験を生かして、私は今加害者の弁護に力を入れています」
それはまた……ドラマチックな話だ。おおよそ私のような人間には縁遠い、清々しいほどの美談だ。その真偽はともかくとして、「実はあなたを疑ってます。アリバイありますか?」なんて訊けそうにない雰囲気である。
「もし何かあれば遠慮せずに頼ってください」
挙句、そう言って自分で印刷したらしいシンプルな名刺まで差し出されてしまった。
「まあ、とりあえずは自分達で何とかしていきますよ。と言っても関係者一人一人を当たって可能性を潰していく事ぐらいしかできませんが……。それでお聞きしたいんですが、七月二日の午後二時と十六日の午後四時半、それから二十九日の午後三時頃どこで何をしてましたか?」
「二日に十六日、二十九日? もう三人も?」
「ペースで言えばハート事件と変わりありませんよ」
「マスコミは……嗅ぎつけてはいないんですね。ああ、報道テロでそれどころじゃないんでしたか」
「えぇ、それに、ハート事件の事がありますから犯行の詳細は伏せられてますしね。一件目の発見者は錯乱して死体をロクに見てませんし、第一事件以外の発見者は私。一番厄介な発見者が喋らないんですから噂は広がりません」
もちろんこれ以上狭い市内で立て続けに人が殺され続ければ流石に連続殺人を隠し通す事は難しいだろう。
ハート事件の時もそうだ。三人目までは『普通』の連続殺人と思われていたけれど、四人目で急に慌てだした印象がある。
たった一人違うだけで少ない多いと印象が変わるのだから人命の等価なんて言うだけ虚しい。
「そうですか」
何を思ってか感慨深そうに手元のカップに視線を注ぐ彼女。
何というかやりにくい。
少なくとも見た感じは善人な彼女だと、流石の私も不躾に質問するのは憚れる。
この振る舞いが化けの皮ならともかく、素顔そのままの場合はまずい。元ハート事件の被告の弁護士という肩書きはいざという時役に立つ可能性がある。確証を得られない現状、協力関係を築ける余地は残しておきたいものだ。
「あの……それで、アリバイなんですが」
申し訳なさそうな表情を作って、逸れた話を戻すべく再び尋ねる。
「え、あっ、そうでしたね。すみません。えーと二日と十六日と……」
「二十九日です」
「うーん、たぶんないと思います」
「たぶん、ですか」
「あはは……恥ずかしい話、そう依頼が来たりはしてないから」
これまた突っ込んで訊き出しにくい……。
「そうですか」
先ほど彼女が発したのと全く同じ台詞を吐いて、私は彼女の事務所を後にした。
……単純にあるかないかの話であれば、道元麻央が犯人という可能性は充分にあり得る。
先ほどの談話で得た印象はともかくとして、彼女が本心を偽っているかどうかなど判断のしようがない。嘘発見器だって間違えるのだ。生身の、それもたった二十年ほどの経験しか積んでいない小娘に見破れるとは最初から思っていない。
加害者弁護に力を入れていると彼女は言ったが、その言葉が私達にのみ向けられたものである事も考えられる。
私達の弁護を引き受ける事、それが目的だとすれば事件の状況にも説明がつくからだ。
警察の手が私達に及ぶのはどうせ時間の問題だし、裁判所という舞台に引きずり出したいだけなら、裁判を誘導できる立場になれる彼女は凶器をわざわざ遺して置く必要もない。
むしろ凶器が特定されてしまえば、そこから自分に足がついてしまうかもしれない事を考えると、勝手に警察が逮捕してくれるのを辛抱して待つ方がリスクは少ない。
自分で採取しておいた血液を私達の私物に付着させて検察側に流せば有罪に持っていくのは難しくないし、白桃シロップ説で私達が使ったとされる手段を使う事で復讐の意味合いを強める事もできる。
そう考えれば矛盾はない。容疑者リストの筆頭候補としては十分だろう。
何も掴めなかった期間が長かっただけにひとまず安心した。
安心ついでに長い間溜め込んでいた肺の空気を吐き出して伸びをする。身体を伸ばし切るとここ最近の疲れを追い出せた気がした。
「ん?」
ぱたぱたと階段を上るらしき足音が聞こえて閉じていた瞳を開けると、ジーンズの裾が階段の陰に吸い込まれていくところで、その視界の端でエレベーターが今まさに締まらんとしていた。慌てて駆け寄ってボタンを押し扉が閉め切りのを食い止めて中に入った。
「ふぅ、間に合った」
……しかし、アリバイがはっきりしないのは困る話だ。
本当にないのならいいのだけれど、いざという時になって実はありましたなんて事になれば、それまで費やした時間が無駄になる。一応調べてみる方がいいのだろうが、第一の事件に関してはもはや一ヶ月前の出来事だ。情報が散逸してしまっている可能性が高い。
今調べられるのはこれぐらいが限度だろう。
元々証拠なんてモノが出てくる事は期待していない。犯人が私達ではないとさえ証明できればそれでいいのだ。ま、その辺は今後の展開を見て最終的な判断を下すとして、今問題なのは警察の方。あんまり私達に注目されるのはまずい。変に疑われて捕まってしまえば展開を観察するどころの話ではなくなってしまう。
幸い捜査本部との繋がりはかなり間接的とはいえできているのだし、『道元麻央による怨恨説』をそれとなく流して捜査を少しでも長引かそう。
こういう事をやろうという自分に自己嫌悪を抱きもするけれど、あくまで私の目的を忘れてはならない。
信用を取り戻すのが大変なのと同じ様に、犯罪歴を持つ人間は疑われやすい。ハート事件において私達がグレーである事には変わりなく、今まさに危ないバランスを保っていた疑いが狂い始めている。
危なすぎる。
冤罪。その言葉を聞いて多くの人間が怖い恐ろしいと他人事のように語るが、冤罪なんてものはそれこそすぐ傍に潜んでいるし、思っているほど疑いを解くのは難しい作業だ。
街を歩いていてチンピラに因縁をつけられた時、自分の目がその彼を捉えていなかった事を証明するのが難しいように、あるいは孤島で起きた殺人事件の生き残りが自分ともう一人だけだとして、『自分は犯人ではないから』などという論法が通用しないように、自分の心内で確信している事柄であろうと、それを実際証明するのは困難を極める。痴漢冤罪は証拠が乏しい中、被害者側の証言を重要視する事で起こる。加害者と被害者、容疑の真偽はともかく、人間どちら側に同情するかなんて分かりきった事だ。
何より……、この世界に都合よく冤罪に気づいて真犯人を見つけてくれる刑事や弁護士な存在しない。
だから自分で防衛するしかないのだ。疑われやすい事を自覚しているなら、特に。
縦に流れるエレベーター越しの単調な景色を、ぼうっと眺めながら次に何をすべきかを考えていた私は、景色ではなく振動で一階に到着した事に気がついて『開』ボタンを押す。どうせ開くのだろうけれど、こういうのは気分だ。
けれど、がちょがちょとボタンの寿命を縮めさせていた指は、不意に止まった。
今の今まで思考に集中し過ぎていたせいで、気にも留めていなかった操作パネルから目を離せない。
そこにはごく普通のよく見るボタンが並んでいる。
『1』『2』『3』『4』『5』『6』『7』。そう、各階停止タイプ(、、、、、、、)。
わざわざ一階下で降りて階段で上る必要は、ない。
エレベーターは来たばかり。私以外に廊下には誰もいなかった。乗っていたのは階段を上がっていった人物でまず間違いない。
それはつまり私に顔を見られたくない人間が、五階に用があったという事――
「ッ!」
エレベーターを飛び出て今度は階段で降りてきた階層を上がっていく。
マズイマズイマズイ……!
人の滅多に訪れない事務所、連続殺人事件の連続第一発見者来訪の後見つかる死体、重なる死亡時刻と来訪時刻、閉鎖的な建物と監視カメラもないエレベーター。
マズ過ぎる。この状況、容疑は免れない!
一気に五階までの全速力、途中足を踏み外して脛を強打しながらも、止まらずに駆け上がって廊下に出る。半ばこけそうになりつつ足を前に。猶予はない。擦りガラスの扉にびたんと手を突いて、そのまま体重をかけた。
開く扉の先、まず目に入ってきたのはソファーに横たわる道元さん。
その胸には包丁が刺さっていて、出血自体はほとんど見られない。心臓は身体の中、手足も付いている。
殺しかけ。
足音で気付かれた。けど、まだ近くに居る。
見渡して、擦りガラス越しに黒い影が僅かに動くのを見つけた。
外の廊下! 非常階段から逃げるつもりか!
ついさっき入ってきたドアを体当たり気味に開け放って、エレベーターとは逆方向に非常口の標識ランプの下、今まさに閉じようとしている扉の姿を認める。それが閉じるのとほぼ同時に駆け寄って、ドアノブを掴んだ瞬間、いきなり痺れがきた。振動。視線を落とせば、非常階段に繋がるドアがこちら側に出っ張っている。押しても引いても蹴り歪められたドアは開かない。
「くそっ!」
鉄製の階段を叩く足音は遠ざかり、私の吐いた悪態を最後に主人の居なくなった事務所は静寂に包まれた。