3、推理展開―憎まれっ娘世にはばかる
探偵でも刑事でもない名探偵が殺人事件に遭遇するなんて事は一度あればいい方で、二回目以降、それも事件の捜査に携われるような深い関わりを持てる可能性は限りなくゼロに近い。
それでも名探偵らしく事件に付き纏われているなんて事があるとすれば、それは前回の事件の因縁が憑いて回っているという何とも無様な話に他ならず、『ハート事件』、つまりそのキーワードが私達にとってのソレに当たる。
故に今回の二番煎じ染みた事件を語るにおいて、前の事件について整理するのは必要不可欠な事だろう。
あれはそう、中学二年生という、私達が青春を謳歌していた真っただ中――空寒さよりも色落ちしたような町の景色に身体の冷える九月下旬から十月下旬までの約一ヶ月間に渡って結果的に六人もの女児が殺されるという凶悪極まりない殺人事件は起きた。
発見された死体は全て心臓がくり抜かれており、ハート型を模った両手で包みまれていた事が情報漏洩し、付いた名前が『ハート殺人事件』。その正式名称は『浅越市女児連続殺人事件』という。
二〇〇六年九月二十一日、西浅中学に通う一年生温井美々(ぬくい みみ)のバラバラ死体が下校時刻頃の人通りのない袋小路で見つかった事から事件は始まった。まだ〝連続〟はしてなかった当時、マスコミは彼女が住民以外使わないような袋小路で見つかった理由を、野良猫をこっそりと飼っていたからだと知ると、彼女を悲劇のヒロインとして挙って報道したが、翌月の十一日に同校の同じく一年生中島梨奈が、九時頃塾帰りに同じ手口で殺されてからは方針を連続殺人に切り替えた。許可が得られなかったからこそ路地で飼っていた子猫を引き取った両親のインタビューや、その猫の名前についてあれだけなされていた報道はパタリと止んで、ネットや雑誌で猟奇的な手口が明るみになりハート殺人なる名称が定着し始めた一週間後、今度は園川中三年の畑明日香が部活動短縮等の処置が取られる中で、真夜中までゲームセンターに入り浸った帰り道で殺されているのが発見される。少年法は犯人の実名報道を抑制しても被害者の名前を守ってはくれない。第一・第二の被害者と比べられた畑明日香が不良少女として自業自得という風評に晒される中の十月二十三日、高子山中二年生有田夏美が各段に早くなった部活帰りの五時頃公園のトイレで第四の被害者となり、世間は未曾有の大混乱に陥った。
しかしそれは四人の女児が殺されたからだけではないし、猟奇的な犯人手口からでもない。
確かに、短期間に四人もの年端も行かない女児を四肢切断、内臓摘出という残酷非道な行為の対象にした挙句、皮肉めいた例の装飾(、、)を施すというやり方は、病的で異質な犯人像を彷彿とさせる。何かしらの宗教的なシンボルなのか、あるいは警察を皮肉ったメッセージなのか、はたまた単に死体損壊に執着を持っているのか。理由は幾つか考えられたがおそらくは三つ目だろうと誰もが思っていた。
それを皆がおぞましいと忌避し恐れたのも確かではあるけれど、それよりも増して何よりハート事件が恐ろしかったのは手がかりのなさだった。
『彷彿とさせる』、『思っていた』。そう、つまり犯人像すらがそれ程度の推測の域を出ないほどに、警察もマスコミももちろん地元の住民もが何も掴めていなかったのだ。
男? それとも女? 年齢は? 体格は? 凶器は? 解体はどうやって行った? ハートの意味は?
四人も殺しておきながら目撃者・遺留品共になし。
マスコミは散々警察を叩いたが、警察にとっても歯がゆい状況であった事は言うまでもない。
一、二人は狡猾だからと自分達が作り上げた犯人像の後付けとして納得していた人々も、三人目辺りになってある事に気がつく。
快楽殺人は加害者と被害者の関係から捜査できない上に、殺人に快楽を覚えても死体を晒す事に興味のない猟奇殺人者は死体を処分してしまうがために発覚自体が遅れ連続殺人化する事が多い。それは犯人が意図して隠しているからというよりは、殺人そのものの性質上逮捕が難しいからであり、今回の事件が行き詰まっているのとは全く意味合いが違うのではないか?
死体も見つからず事件だと発覚する事すら難しい猟奇殺人と、死体もあり犯行現場も特定された状態で何も残されていないハート事件。その違いが浮き彫りになった瞬間、犯人像はにたにたと壊れた笑い方をする人間から表情のない壊れた人間へと変化し、犯人の住処は不衛生な血みどろ屋敷から無菌室へと変貌した。
実際、無菌室のような病的なまでの白さ(、、)がこの事件にはあったのだ。
現代捜査技術も歯が立たない、あまりにも完成された殺人がこの事件の特徴なのだと理解して、ここでやっと人々はその脅威を真剣に受け止めざるを得なくなった。
手がかりがないという事は捜査の取っ掛かりすらないという事。捜査が進まないという事は犯人が捕まらないという事で、犯人が捕まらないという事は猟奇殺人にも次があるという事を意味する。
では、この殺人はいつまで続くのだろうか――?
世間が震えあがるというのはこういう時に使うのだろう。
異常なほどの手がかりのなさ、手口の猟奇性、そして誰も止められない犯行。警察もお手上げで、いつ止まるか分からず、被害者になれば悲惨の極み。
被害者六人というのは決して多い数字ではないが、猟奇的犯行に快楽を覚え、趣味として殺人が常習化している犯人が、意図的に証拠を残さないほど高い殺人技術を持っているという点で、この事件は前代未聞の猟奇連続殺人として名を轟かせることになったのだった。
けれどそれでは、そんな解決の糸口さえ見えないハート殺人事件はどうして終わりを迎えたのか?
……その幕引きはあまりにも呆気なかった。
十月三十一日、後に魔のハロウィンとしてマニアに親しまれるハート事件最終日、「お菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうぞ(トリック・オア・トリート)」なんて言葉に引き寄せられるが如く、当時『白桃シロップ』と甘ったるいあだ名で呼ばれていた私達は事件の渦中に踊り出る事になる。
その頃、四人の被害者を出しながら悪に屈せずと学業停止をしなかった浅越市学校群は連携し、市全体を覆う集団登下校ネットワークを構築していた。教員総出でポイント毎に生徒を集め、人員が足りない場所は時間差で集合をかけてまで警護して登校させるという一大作戦である。
徹底した登下校ネットワーク、そして警察の監視網、それらが功を奏したのか数える毎に縮まっていた殺人間隔に反して、一週間経っても第五の被害者は現れなかった。が、結果的にそれが仇となったと言うしかない。
教員・警察の勝利と思われた矢先の十月最後のこの日、最悪の悲劇が起こった。
ネットワーク作戦によって生徒が集められ始めた午前七時三十分、家から教師の待つ集合場所までの僅かな間にて、園川中学二年生の濱口朋子が惨殺された。ポイントまで親の送り迎えを義務付けてはいたものの、止まったとも見える犯行と、たった十メートルの距離であるからという気の緩みによって彼女は五人目の被害者となった。指定時刻になってもやってこない彼女に、同じポイントに集まっていた女生徒が、彼女の家に続く曲がり角を覗いて発見。その第一発見者が白藤桃、つまり私。
集団登下校ネットワークも警察の監視もすり抜けられた上に、その目前で殺されるという失態は、彼らの完敗を示していた。
学校側は臨時集会を開く事にし、犯人逮捕がなければ今年最後となる登校日として生徒を登校させた。
すでに学校に集まっている生徒も居たし、ポイントに集まっている生徒も大勢居た。一校ならともかく多校間での大がかりなネットワーク故に、無理に子供を家へ帰したりすれば連携自体が崩れて大きな隙を作る可能性もある。ここでパニックになるのは危険だと考えての行動だった。何より二人の生徒を殺された園川中学としては全校生徒で被害者の冥福を祈れる最後のチャンスでもあった。
教員数が足りないために時間差で登校させていた関係上、どうしても先に来た生徒が待ち惚けを食らう中、私といえば乾いた喉を紙パックの苺ミルクで潤していた際に、誤ってそれをクラス委員長にぶっかけたりしていたが、教室はまさに葬式ムードで、クラスメートであった朋子の死に親しい友人はすすり泣いていたし、年頃で変に格好をつけたがる男子もこの日ばかりは女子を気にかけていた。
まさにこの時運命の歯車が狂い始めた事に犯人以外の誰も気づかず、最終組の生徒が合流。
集会のために集まった体育館で、泣いている隣のクラスメートにハンカチを差し出そうとして、私はそこでやっと見つける事になる
……委員長のブレザーを拭いたソレに血が付着しているのを。
さらに委員長と蜜がいつの間にか居なくなっている事にも気づき、……私が教室に駆けつけた時には中谷真希が頸動脈をかっきられ第六の被害者と化していて、いきなり体育館から走り去った私を追いかけてきた担任教師が教室で目にしたのは、血溜まりの中で揉み合っている私と委員長、六人目の死体と呆然としている蜜だった。
あれだけ世間を騒がし、手がかり一つ残さなかった殺人鬼が現行犯逮捕。誰もが予想だにしなかった結末だった。
だが、事件はさらなる展開を見せる。
委員長は容疑を否認、私と蜜こそが犯人だと言い張ったのだ。確かに教師が踏み込んだ時にはすでに六人目の中谷真希は死んでいて、蜜以外で彼が犯行を行うのを見ていた者はいない。彼の言い分はみっともなかろうが筋は通っていた。
中谷真希ではなく五人目の濱口朋子の血液が彼のブレザーの裏地に付着しているだろう事に関しても、私が拭き取ったのではなくこすりつけたのだと彼は言い、凶器に私達の指紋が付着していないにも関わらず、その台詞を元に警察は大捜索を行った。
私情を挟まずに言うのであれば、あれだけ世間に罵られた中で冷静かつ人権を守った当時の捜査主任の行動は評価できるものではあるのだろう。が、私情を挟んで言わせてもらえば、地獄に堕ちろといった感じだった。
凶器は持ち方次第で指紋を残さないような工夫はできる。故に問題は血。染み込んでしまうハンカチで血を運んだとは思えない。何かしらの容器に入れて運んだ可能性を考えて警察は私達の私物全てを科捜研に回し、学校中の捜索及び全校生徒の所持品中まで探った。
そうやって『白桃シロップ犯人説』を周囲にばら撒いておきながら、結局容器は見つからず、彼らは委員長犯行の裏が取れたとして私達に謝罪もなしに彼を逮捕。
いたる所に遺恨を残したままハート事件は幕を閉じ、それでも彼が犯行を認める事は最後までなく、
――犯人であり、クラスメートであり委員長であった内山広一は無実を訴え自殺した。
♯
ガクンと不意に落下する感覚に襲われて目を覚ますと、まず目に入ったのは床の絨毯だった。
いつものように寝相の悪い蜜にベッドから蹴り落とされたのだと理解するのに五秒要して起き上がる。だんだんと働き始めた頭が五感からの刺激を受容し始めて、自分の居る部屋にあまりにも濃いグレープフルーツの香りが充満しているのに気がついた。はっとしてベッドテーブルに目をやるとアロマキャンドルが完全に溶け切っていた。
思い出した……。「それじゃあ私達はこれで」と思考を停止させた上で華麗に戦略的逃亡を図ろうとした私達だったけれど、結局あの後、桜花さんに肩を掴まれ車内へと引き戻されたのだった。
任意じゃない任意聴取でがっつりと事情を説明させられ、解放されたのは日暮れ時。事務所であり半住居でもある『白桃シロップ』に帰って来た頃には疲労がピークに達していた。
そんな思いの外疲れの出た身体をまずはシャワーで清めて、すぐさま事務所の資料室からハート事件関連の書類ピックアップ、ベッドで寝転びながら改め直して…………そして途中から乱入した蜜に鳴かされ続けて結局疲れが取れなかった、と。
「ロクな一日じゃなかったのは確かよね……」
思えば二日連続だ。最近ご無沙汰で色々貯めこんでいたらしく、昨日は随分と激しく……流石にそろそろ攻めに回れるようにならないと身体が持たないかもしれない。いや真面目な話。
それで、いつの間にか眠ってしまってキャンドルは無駄に消費され、部屋は毒々しい匂いに侵され、休みを与えられなかった身体はだるいわけだ。
ケータイの表示を見てみれば現在時刻は午前十一時二十九分。
大学に通っていない上仕事が仕事なだけに、ニートと大差ない自堕落な生活を送っている蜜はそのままに、私はそこら中に散らばったハート事件の資料をかき集め始める。
これからしなければならない推理のために、今まで備えとして集めてきた資料を重要度順に重ねながら思うのは、もしもあの時警察がもう少し穏便に済ましてくれていればという事だ。
無実を訴え自殺――それは証拠があっても彼が犯人であるという決定的な確証がないまま事件が閉じた事を意味し、公式には彼が犯人として名を刻むも、白桃シロップ犯人説を否定する要素もやはりないままなのだ。周りで同様の事件が起これば疑いの目は間違いなく私達に向けられる。
溜息、纏め終わった資料をファイルに挟んでからシャワーを浴びに部屋を出る。実のところ本当の住居は別にあるのだけど、この事務所には日常生活が送れるだけの設備が整っている。
最寄駅十分の好立地にある高級マンションの二階テナントスペースに事務所を構え、その上の二十七階に5LDKの本住居、加えて大学費やら生活費その他諸々も含め、私達が十九歳という歳に反してかなり裕福な生活を送れているのはスポンサーに因るところが大きい。
熱いお湯を浴びて完全に思考を覚醒させた後最低限の身嗜みを整えて応接間へ。今日は昨日の刑事達がやって来る事になっているので、早いところ食べ物を胃に押し込んでおかなければならない。
電気ケトルにお湯を注いでスイッチを入れ、冷凍ハッシュドポテトをオーブンに放り込んでから、出来上がるのを待つ間、だらしのない所がないか室内をチェックする。考えてみれば数か月ぶりの来客だ。
室内中央部にはガラステーブルとそれを挟んで二人がけのソファー二つが鎮座し、脇には業務に使いそう(、、)な代物が追いやられている。使われていない盗聴器類の入ったダンボール、使う気のない六法全書等の並んだ本棚、唯一使っているホワイトボードでは前にやってきたクライアントの描いた野獣パンダが棒人間を貪り食っていて――まぁ、どの道本来の用途で使われているとは言い難いそれらは、むしろ使われない事を前提にここにあると言っていい。
にも関わらず、要らぬ火の粉を浴びないための予防として、名探偵の体裁を繕うために用意した品々が、今こうして名目通りの役目を与えられようとしているのだから皮肉な話だ。
使いたくもなかったんだけどなぁ……。
ともかく、今更そんな事を言っても起こってしまった以上は仕方ない。願わくは無事に解決してほしい。
ソファーに沈んで今後の対策を考え込んでいた私の耳にケトルのスイッチが上がる音がやたら大きく聞こえてきた。
完全燃焼して死んだように眠っている蜜をベッドから落として、唇を尖らした彼女にミルクココアのカップを突き出し、少し癖のある髪を梳かしてあげた辺りで件の来訪者は現れた。
昨日世話になった三人の内二人、桜花さんと新米君。中年刑事は今日は居ないみたいだ。私はともかく蜜が居るのもあって、その事に安堵する。
冷蔵庫に溜めこまれた私の果物の中から今日は巨峰を皿に盛って、珈琲と一緒にテーブルに置いていく。最後に新米君の前へ置く際に、彼の視線が私の手にいっているのに気づいた。
半袖から伸びる私の右手には細かい傷を含めればそれこそ無数に、大きい傷だけでも手首に三ヶ所ほどある。それが気になっているのだろう。少なくとも十九歳の娘が身に負う傷数とは言い難い。
「リスカですよリスカ、自傷行為。ハート事件で散々マスコミに弄くり回されたから癖になっちゃってるんです。だから身体中傷だらけ」
私の答えに彼はビクンと身体を撥ねさせた。どうやら責めているように取られたらしい。別にそういうつもりではなかったのだけど、……今更訂正しても無駄か。
居心地が悪そうに視線を外した先で、今度は正面に座る蜜と目が合って会釈する新米君。が、彼女はフイッと顔を背けた。
意図的に彼と正面に座らせたのだけれど、やっぱり駄目らしい。仕方なく彼女と場所を入れ替えると、彼はそんな彼女の様子にショックを受けた顔をしていた。
「気にしないでください。蜜、緘黙で特定の人物としか一対一では喋れないんですよ」
「そう……なんですか」
幾分ホッとして、それから心配そうに蜜を一瞥する様子に、まぁ根はいい人間なんだろうと適当に評価する。
「私が居れば完全にだんまりってわけではないんですけどね、他にも自発的行動を取ろうとすると精神的負荷がかかったり……それから失感情症だったり。だからあんまり彼女の挙動は気に留めないで」
「アレ……キシ?」
「アレキシサイミア、失感情症。自分の感情を自覚・認知・表現する能力に乏しい子の事よ」
「まぁ、蜜の場合は『喜怒哀楽』みたいな単純なモノは大丈夫なんですが、嫉妬とか『怒』と『哀』が混じったようなのが苦手で……しかし桜花さん、詳しいですね」
「ちょっとね。従妹の時色々調べたから。ま、そんな事より、桃ちゃん蜜ちゃん。お茶しましょうよ」
あまりにも自然な台詞に、思わず「はぁ、そうです、ね」と言いかけて首を捻った。
……あれ? おかしくないか?
「って、違うでしょうよ。何か訊きに来たんじゃないんですか?」
「んーん、遊びに来たのよ。あと私の事は可奈ちゃんって呼んでね?」
「いやいや可奈さん、上司が居ないからって羽目外すのはどうかと思うんですが」
私の言及にも彼女は全く動じず、早くもソファーにだらんと身体を預けだした。ずるずるとスーツに皺が寄っていく。
「いーじゃない、ガールズトークしよーよぅ」
その姿はまるで駄々っ子だった。昨日はあんなにキリッとしていたのに。この人普段はかなりだらしない性格をしているらしい。これが本性なら、昨日見逃してくれもよかったじゃないのよ。
――って、駄目だ、向こうのペースに乗せられてる気がする。そもそもお互いの立場上、プライベートモードで話し合う事自体がおかしいはず。
というか横に座る同僚は見えてます? ガールズトークも何も男入ってますよ?
どう考えたって彼が肩身の狭い思いをするに決まってる。すでに今の時点でだって若い女性三人に囲まれて彼は……彼は……………………そう言えば、新米君だとか彼だとかと呼び続けていたけれど、彼の名前って何だっけ?
おやおやぁ、覚えてないぞ? 聞いてない事はあり得ない。昨日あの三人とはメアドも交換したのだ。赤外線交換で、確か名前は入ってなかったからわざわざ入力して……、いや、それなら登録データを確認すればいいのか。
そう思ってポケットからケータイを取り出しテーブルの下でアドレス帳を検索する。カテゴリ『友達』『仕事』『人外』『論外』ときて……『警察関係者』の『桜花可奈』『梶川総次郎』そして……『新米』。
……眼中になかったのは私も同じか。
中年刑事こと梶川さんの名前が辛うじて入っていたのは年配者だったからだろう。分かりやすいなぁ私。
しかしどうしようか? 今更名前を訊くのもなぁ。代名詞だけで誤魔化せきれるか?
と、割と焦っていると可奈さんが昨日と打って変わってにやつきながら訊いてきた。
「で? 桃ちゃん、池田君の名前は見つかった?」
何で言いますか、可奈さん。
テーブルがガラス張りにも関わらず隣の彼は全く気付いてなかったのに。
そしてどうしてくれるんですかこの状況。
私が随分前に手放した常識に関しての記憶が正しければ、昨日の今日で名前を覚えてないってかなり失礼な事だった気がするんだけど。
あー、仕方ない。このままの流れで池田君とやらをからかって誤魔化そう。
「言わなきゃ新米君にはバレなかったのに……」
すると池田新米君はムッとして答えてくれた。
「僕の名前は池田悠志だ。改めてよろしくお嬢さん(、、、、)」
池田悠志。なるほど、今度は忘れない内に入力しておこう。『名前/姓: 新米』の下に『名前/名: 池田悠志』と加わり、彼は『新米池田悠志』にレベルアップした。
それにしてもこっちの売り言葉をちゃんと買ってくれちゃって、何て〝可愛い〟青年だろうか。あ、もちろん侮辱の意味で。今更言う必要もないだろうけれど、私男に興味ないし。
そんな私の意図が分かっている可奈さんはケラケラとおおよそ女性らしくも刑事らしくもない笑い声をあげた。一通り笑い終えた後、急に真顔に戻って言う。
「酷いなー桃ちゃんは。もうその辺にしておいてあげてよ、この子ウブなんだから。そういう駆け引きなんてできないのよ」
うわぁ……この人トドメ刺しやがった。
「酷いよね可奈さんは」
哀れな悠志君は横で顔を膝まで伏せている。ノックダウン、そしてKO。ゴングが鳴り響くのを確かに聞いた。
性格の悪い上司に連れられて性格の悪い小娘に会いに来るなんて朝から災難な人だ。ご愁傷さま。
酷く項垂れる彼。きっかけが自分だけにあまりにも可哀想なので、とりあえず昨日はできなかったここの自己紹介で話を変えてあげる事にした。
「まあ、悠志君がウブなのはともかくとして一応紹介しておくと、ドアの所に書いてあったと思うけどここの名前は『白桃シロップ』。名探偵の事務所……といよりは、他の探偵事務所を紹介したり、要望に応えられる人材を紹介したり、って感じで人材紹介が主な仕事なんだけどね。職員私と蜜、それからもう一人女装青年が居るけど、今は東日本に出払ってる。刑事が来たのはこれで二度目よ、おめでとう。記念にどうぞ」
そう言って昨日中年刑事の梶川さんには渡した名刺を二人にも渡すと、悠志君はゾンビのように突き出した手を引っ込めて、子供のように貰った名刺を弄り始めた。ホント、この人大丈夫なんだろうか?
「んー、そう言えば気になってたんだけど何で『白桃シロップ』なの? 普通『~事務所』ってつけない?」
そんな彼を無視する形で可奈さんが名刺を見ながら聞いてきた。ガールズトーク宣言は冗談じゃなかったらしい。
「事務所名っていうか、元々はコンビ名なの。私が白藤と桃で『白桃』って呼ばれてて、それに合わせて蜜がシロップ。で、『白桃シロップ』」
「ああ、自分でつけたんじゃないんだ?」
「つたのは中学時代のクラスメート。桃の缶詰でもイメージしたんでしょ」
「いや……、たぶんイメージは百合よ、それ」
「………………え?」
「コンビ名じゃなくてカップル名よね」
そう言って出した安珈琲に初めて口をつける可奈さん。
そんな馬鹿な。あの頃(、、、)は自重してたはずなのに。
自信がなくなって改めてあの青春時代を思い出してみる。
あの頃は長かった蜜の髪に口づけする私。はだけた蜜の胸に顔を埋める私。乾燥して切れた蜜の唇に口移しでリップクリームを塗る私。
OK、分かった。自重できてねぇ。
くそぅ、覚えてろあの女! 自分だってショタ趣味でブラコンの癖に変な名前つけやがって!
あれ? ということは何? 私達中学時代百合カップルってクラスメートに認識されてたの?
自室整理で封印が解かれた暗黒ノートと類似した、脅威的精神ダメージに悶え苦しんでいると、今度は悠志君が伏していた顔をいきなり上げた。どうやら元気を取り戻したらしく表情が明るい。
「白藤さん!」
一メートルも離れていない距離で叫ばないでほしい。男の叫び声なんて不愉快だこの野郎、というこちらの内心を知る由もない彼は名刺を突き出して言った。
「日本において探偵業を行うためには公安委員会に届け出なければならないと探偵業適正化法で決まってるんですよ」
「………………」
いや、そんな鬼の首を取ったような顔されても。
年下の小娘相手にしたり顔をしてる自分の格好悪さを分かってないのだろうか?
視線を横にずらしてみると可奈さんが角砂糖を三つも入れた珈琲を苦い顔をして啜っていた。蜜も飲み干したミルクココアを淹れ直しに席を立つ。
どうやら私がこの残念な子の相手をしなくてはならないらしい。
「悠志君、名刺もう一度見てみ」
いつの間にか可奈さんに影響されてタメ口になっていた事に気がついたけれど、もはや敬語を使う気すら失せたのでそのままで。
言われた彼は素直に伸ばした腕を折って私の名刺を再確認する。……が、その表情からしてまだ分かってないようだ。
「読んでみ」
「事務所『白桃シロップ』……名探偵、白藤桃」
「名(、)探偵は職業じゃなくて肩書きよ」
身を乗り出していた彼は力が抜けたのかソファーに沈み込んだ。はいはいお疲れ様。二ラウンドは自爆、と。
しかし彼は諦めない。
「桜花さんはどう思いますか⁉」
あろうことか上司を巻き込んだ。やめなさいよ、可奈さん「私に振るの⁉」って顔してるじゃないのよ。
「えー、と……グレーかな?」
あなたもあなたで部下に甘くないですか?
「ほら!」
今度は我が意を得たりというこれまた小憎たらしい顔を向けてきた。
というか「ほら!」じゃねぇ。彼は本当に小中高大と警察学校を卒業したのだろうか? 精神年齢を計れない今日の教育制度が嘆かわしい。将来の日本と自分の現状に頭痛を覚えて頭を抱えていると、
「ふふんっ、大丈夫よ桃ちゃん!」
いつの間にか帰ってきて、後ろに立っていた蜜が得意げに言った。
その笑みが実に可愛らしい。けれどマイエンジェル、ずっと連れ添ってきた身として言わせていただければ、その言葉全く安心できないん――、
「こういうこともあろうかと、探偵業届出証明書買って(、、、)あ――」
「アウトォォオオオッ‼」
ほれ見たことか! その台詞でグレーが真っ黒に早変わりだ!
私ら十九歳、未成年者よ? 届け出に法定代理人の許可いるのよ?
私は親と絶縁してるし、あんたに限っては両親刑務所でしょうがっ!
どれほど精巧だろうが調べれば偽造ってバレるっての!
そんなお茶目なところも大好きだけどな!
蜜の台詞をかき消す叫びと共に、ご丁寧にも彼女が手に握っていた件の証明書を掠め取りアロマキャンドル用のライターで火を着ける。トドメに今まで煙草の吸い殻さえ落とされたことのない灰皿へと投下してボールペンで押し潰した。
……よし、証拠隠滅完了だ。
「白藤さん……」
そんな私の奇行に悠志君の咎めの声がかかるが、
「何か?」
私の平然とした返しに何も言えずに黙った。その横で可奈さんは腹を抱え足をバタつかせて大笑いしている。スカートスーツでそんなことをするものだから中のショーツが丸見えだった。
なんだろう、すでにかなりの疲労感があるんだけど。
「それで? 本当に今日は何の用? ハート事件絡みの連続殺人が起こってるのに警察だって暇じゃないでしょ?」
投げやりになってる私を責めないでほしい。
私の問いに彼女は「あー、そうねぇ」と勿体ぶった態度で応じて、少し考える様子をしてから言った。
「今の私達の状況を簡潔に説明すると――特捜立った、のけ者にされた、暇なんできた」
「帰れ!」
なるほど、だからガールズトークとか言ってたわけだ。本当に遊びに来たんじゃねぇか!
「というか何でのけ者に?」
中央の人間が地方を蔑ろにするというのは物語の中の話で、実際は現地を知らない中央組だけでは捜査できないからペアを組むんじゃなかったっけ?
「私が捜査主任に嫌われてるのよ。警察庁のキャリア組警視正さんが嫉妬狂いでさ。私ってば警察内で『ぬらりひょん』とか『焼き太り可奈ちゃん』とか呼ばれてるから」
あぁ、警察とのファーストコンタクトミスったっぽい。別に発言権を持った人物でなくてもよかったから、特別捜査本部に関われる人物と関係を持ち(コネクションし)たかった。こういった時にのけ者にされないための名探偵の肩書きだというのに、これでは意味がない。何でよりもよって変に階級の高い……、
「ん? あれ? そう言えば可奈さんって階級は何でしたっけ?」
「警部補よ、五級職警部補」
「ちなみに、年齢は?」
「ピチピチの二十三歳」
二十三歳がピチピチなのかはさておき、特別捜査本部が昨日付けで立ったとして、それ以前に現場に来ていた彼女は言うまでもなく地方警察官のはずだ。キャリア組のエリートなら初任が警部補なのでありえない階級ではない、けど。巡査が初任のノンキャリアが普通(、、)の警部補になるにすら確か二十六歳が最短で、彼女が本当に二十三歳だとすれば例外的なケースと言える。
いや、それよりも酷く気になっている事があった。
「悠志君は巡査だろうからいいとして――」よくないですよという彼の抗議は無視して続ける。「梶川さんは?」
「警部」
「彼の年齢は?」
「四十……七歳、だったかな?」
「…………」
私は昨日非常に恐ろしい場面に遭遇していたらしい。
片や二十三歳の五級職警部補、片や四十七歳の万年警部。
もちろん警部の方が階級上高い位ではあるものの、注目すべきは可奈さんの五級職という役職だ。統括警部補とも呼ばれるその役職は警部補の中にあって他の警部補に命令を下せる立場にあり……そんな責務から警部と同じ給料(、、、、)が支給される。
四十七引く二十三は二十四年。過ぎ去った時間は価値なし(バリューレス)。実力社会の悲劇を見た。
キャリア警視正が嫌うわけだ。本来ノンキャリアの出世限界は警視正だが、すでに彼女はそういう制度を度外視してしまっている。
というか、彼女梶川さんを目で使ってなかったか?
「結構な御身分のはずの可奈さんは署に居なくていいの?」
「いいのよ総次郎さんが待機してるし」
この人鬼だ。
「ホント何で来たのよ……」
「言ったじゃない、お茶しによ」
捜査に関わるために今まで温めてきた名探偵という伏線を叩き折られて頭を抱える私。対して可奈さんはにやにや笑顔を絶やさずにさらに付け加えた。
「まぁ悠志君の研修にもなるしね」
あぁ、私が試験官というわけですか。酷い話だ。欝憤を晴らすためにも言ってやった。
「じゃあ不合格で」
本日三回目のダウンとなる若き警察官。
よし、今度は私が取った! ……じゃなくて。
ごめんよ悠志君。悪気はないんだ。ただ君が弄りやすいだけなんだ。
私の精神衛生上非常に役立っているから、君の死は無駄じゃない。安らかに眠ってくれ。
「あと、ハート事件を知らない私達に当時の事を教えてもらいにね。悠志君に聴取の経験積んでもらおうかなって」
研修っていうのはそういう事か。しゃべる気が失せるなぁ。
「でも当時の捜査資料には目を通したんでしょ? 何か疑問でも?」
散々弄り回した負い目もあり、ここでやっとまともに彼へ視線を向けて尋ねる。
「はい、手がかりなし……というのが信じられなくて。そんな殺人が本当にあり得るのかと。遺留品なしと言っても死体は残ってたんですよね?刺傷角度から犯人の身長ぐらい割り出せたと思うんですが」
そういうのは、それこそ警察の方が知ってる情報だと思う。私達の立場はあくまで当時を知る巻き込まれただけの学生であって一般人の域を出ない。そんな司法解剖やら科捜研やらで得られるような情報を本来(、、)持ってるわけがないのだけど、その点を彼は分かっていないのだろうか?
しかしそれを言えば、また彼を弄る方向へと話が逸れてしまうので自制する。資料よりも生の情報の方が頭に入りやすいというのは理解できなくもないし。
「悠志君は被害者六人の身長って覚えてる?」
「いえ、全く」
実にきっぱりとした回答だった。そういう素直な点は評価できるとして……期待通りの答えを貰えたところで、蜜に用意した資料を読み上げてもらう。
「一四六、一五三、一六二、一五一、一四九、最後が一五五だね」
「身長が違えば心臓の高さも違う。けれど胸の刺傷角度は全て垂直、身長すら犯人は隠し通したのよ」
トントンと自分の左胸を手刀で垂直に突いてみせる。哀しいかな、発育の乏しい私の胸に指は押し戻されることなく肋骨を叩いた。
私はスレンダー体型、私はスレンダー体型……。自分にそう言い聞かせながら、意識を無理にでも説明に向ける。
「身長だけじゃない。利き手すら交互に入れ替えてたし、手足の切断面にしても綺麗すぎて力の加減も分からなかった。『手がかりなし』って言葉にするのは簡単だけど、実現するとなると悠志君が言った通り信じられないような神業なの。垂直に刺せば身長が分からない? 両手を交互に使えば利き手を隠せる? 綺麗な切断は体格の情報を残さない? 理論としては考えられても、こんなのは結局、机上の空論よ。必死に抵抗するだろう被害者相手に、切羽詰った状況下でそんな事ができるわけがない。けれど、それを犯人はやってしまっている」
それがハート事件の最大の特徴であり、恐ろしさだった。
犯人が切れ者だった事は言うまでもないが、それ以上に、
「天才だったのよ、ハート事件の犯人は」
その点こそが恐ろしい。
鮮やかな手際や明晰な頭脳を駆使する大泥棒や怪盗が、盗む対象を宝石や美術品から人命に転向したようなモノだと考えればいい。
その才能が盗みに向けられているからこそ、彼らは創り物の中で人々の共感を得られるのであって、それが殺人に向いてしまった時の大惨事を実際に経験させられたのがハート事件だったとも言える。
「だからこそ、手がかりがなかった」
「天才、ですか?」
悠志君は納得しかねるという表情を寄越してきた。
その反応は正しい。確かに人殺しの天才などと創りモノめいた存在をそう易々と理解できるわけもない。それはあの当時をまさにその場所で体験していなければ分からないものだろう。
なので、もう少し掘り下げて話す事にする。
「悠志君、ハート事件の犯行がどのように行われたか、警察の資料にはほとんど載ってなかったでしょ?」
「ええ……、そう言えば『刺殺後、心臓と手足を切断』としか」
「いや、殺害方法じゃなくて犯行そのものの事なんだけど……まぁいいか。犯人はね、抵抗する暇も与えず胸を一突き――」
そう言って私は蜜の胸に手刀で刺す仕草をし、それからぐるりと左胸に沿って手を回転させる。
「後はこうしてアイスを掬うように手を回して心臓を切り取って、倒して四肢を切断、そして腕を絡ましてハートを作って……甘く見積もって約二分でそれをやってのけたのよ」
「二分⁉ いくらなんでもそれは……」
「それぐらいでなきゃ五件目の犯行は無理なのよ。登下校ネットワークと監視、破られてこそ避難を浴びたけど、あれはほぼ完璧だった。そもそも犯行現場は集合ポイントから曲がってすぐの所だったのよ? 不審がられて作業中に覗かれたら即アウト。監視の隙を狙うのに、それ以上のタイムロスは危険過ぎる。それだけじゃない。さっき言ったけど、問題は殺害自体ではなくて犯行全体の手法の方でね。『手がかりなし』、何度も繰り返した言葉だけど、未だ犯人が捕まってないならともかく、捕まった今になっても資料に詳細が載ってないなんて、やっぱりおかしいでしょ。君の言った通りあり得ない」
「あ……」
彼も気づいたらしく、そう言うと頭の中に残っている資料の記憶を探り始めたようだった。
「犯人が捕まれば当然家宅捜索はしたはずよね? 凶器の血を拭いた布とか返り血の付着した衣類とか風呂場の血液反応とか、それらについて記載がないのは何でだと思う? そもそもハート事件は『遺留品なし』で有名になった通り魔連続殺人よ? 犯人がどのように人の目を避けて犯行を行ったのかという点に、一切触れられてないのは何故?」
ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。一々反応してくれると説明する側としては冥利に尽きる。何せ、その横のやり手警部補は私の連れとポーカーをやってるのだ。これほど熱心な視聴者の有り難さが身にしみるシチュエーションもない。
気にしても仕方ないので気を取り直して話に戻る。
「なかったからよ。犯行手法を推測できるようなモノが何も。もちろん五、六件目に関しては制服のブレザーを裏に着て犯行を行ったって分かってはいるけれど、それはハート事件としても例外的な状況下での犯行だから別として……前の四件、通り魔的な犯行だったその四つに関して、犯行で必ず出るだろう血の付いた廃棄物すら全く見つからなかった」
今度は叫ぶ事なく静かに私の続きを待ってくれている彼。聴取の練習って事も忘れてるんだろうなぁ。
「どうやればそんな犯行が可能なのか。死人に口なし。犯人の口から語られる事がない以上、真実は永遠に闇の中だけど、それでも結果から逆算してみる事ぐらいはできる」
「どう、やったんですか?」
と、そこで、
「池田君、少しぐらい自分で考えなよ。『犯人になったつもりで』って刑事の大切な手法よ?」
今まで話に加わらずに蜜とポーカーをしていた可奈さんが口を挟んできた。トランプにも飽きたんだろう。気侭な人だ。
「はい、がんばります……」
職務を放り投げて、娯楽に走ってる上司に頭が上がらない悠志君に合掌する他ない。
フルハウスで蜜の五〇〇円を巻き上げながら彼女は続ける。
「どうしても無理なら、こう考えてみようよ。いい? 君の近くには憎たらしいあん畜生が居る」
「はぁ……?」
「そいつは自分とあまり変わらない歳の癖に出世頭で、大して凄腕には見えないのに何時の間にか手柄だけを持っていく」
一斉にそのご本人様に視線を投げる残り三人。
「さらには身分を利用して我が侭ばかりやって、挙句上司まで顎で使う悪党。これ以上好きにさせるわけにはいかない! 僕が殺らなければ! ……さぁどうする⁉」
「本当に勘弁してください」
だよね。もうやめてあげて可奈さん。酔っ払いみたいな絡み方しないで、お願いだから2人で大人しく遊んでてください。
「完全犯罪……あぁ、今回は快楽殺人に限定するけど、それを行うにあたって問題になってくるのは何だろう、悠志君?」
「凶器の処理、返り血……目撃者だと思います」
「まぁそんな所だけど、もうちょっと正確に言えば凶器の調達と処理、遺留品と目撃者、被害者と自分を結びつけてしまう廃棄物よ。復讐殺人じゃないから疑われさえしなければ調べられないとはいえ、凶器から身元がバレる事はまず考慮しなければならないし、万が一疑われた際に証拠さえ残さなければ罪には問われない。逆に言えばそれをクリアできれば完全犯罪は可能という事になる」
「けど、無理でしょう? 刺殺なら血のついた何かしらが絶対に残る、白藤さんも言ったじゃないですか」
「普通ならね。でも不可能ってわけでもない。返り血ができるだけ付かないようにするっていうのは言うまでもない事だけど、付いた血にしたって要は染み込む布地に付着させなければ、調べようのないモノで拭き取ればいいんなら――裸で殺して血は舐め取ればいい(、、、、、、、、、)。肌なら衣類と違って血は染み込まないし、肌に付いた返り血は舐めれば取れる。凶器も同じように舐めて血さえ拭るか、口内粘膜細胞のDNAが気になるんだったらティッシュで拭いて飲み込んでもいい。何にせよ、服に血がつかなくなる程度に舐め取った後に銭湯にでも温泉にでも入りに行けば自宅の水回りに血液を残す事もないわ。浅越市にはスーパー銭湯が五つに個人経営の銭湯が二つ、それにこの県に限って言えば電車で一時間もしない所に温泉街がある」
「でも凶器の血液反応は誤魔化せませんよ? 凶器だけはどう足掻いても問題として残るでしょう?」
「それについては凶器の調達と一緒にクリアできるのよ。凶器の刃物。これも足のつかない所から手に入れて、気付かないように処分すればいいんだから、結局のところ自分と結び付けられないような場所から借りてきて返せば(、、、)バレはしない。調べられさえしなければ血液反応なんて気にする必要もないでしょ?」
「確かに気づかれずに借りらればそうでしょうけど……、普段使わない刃物が置いてあるような都合のいい所なんてあるとは思えません」
「あるのよ。刃物を保管していて、毎日使うわけでもなくて、管理の仕方がきっちりしてる分盗むも返すも比較的やり易い場所――小学校の家庭科室(、、、、、、、、)がね。まさかそんな場所に包丁を戻しに行ってるとは思わない。家庭科実習までに返せば、生徒が血が付いていたとは知らずに調理してしっかりと洗ってもくれる。……まぁ、纏めると凶器は学校の家庭科室から盗って、春の露出狂ファッションで出歩いて、裸を見せて唖然としてるところを殺して、返り血は舐め取って、犯行帰りに銭湯でさっぱりって事よ。帽子の下にシャンプーハットでも被れば髪の毛を落とさなくて済むし、あと体毛も先に処理しておくとさらにいいかな。耳掃除もやって皮膚片がボロボロ落ちないようにローションでケアなんかもすれば完璧」
「まるでデートの準備ですね……」
「それぐらい気を使わないと遺留品やら何やら残しちゃうもの。でも、そこまでして死体を晒すぐらいなら事件自体の発覚を防ぐ方が楽でしょ? だから殺人犯は死体を隠すものなんだけど、……そういう意味でも死体を残したハート事件の犯人は異質だった。今話した完全犯罪の方法だって、手がかりなしって結果から導いただけの机上の空論だしね。理論的に可能であっても実現可能とは限らない。そもそも幾ら念入りに準備をしても目撃者だけはどうしようもないじゃない。犯行を重ねる毎に標的が減るのと同じ理由で目撃される確率は減るとはいえ、五人……いや、一人はトイレだっけ? ともかくそれだけ屋外で殺しておいて一つの支障もなく全て成功させられる確率はどれくらい? 怪盗の手口を真似られないのと同じで、あんな方法常人にできる範囲を超えてるのよ。『死体さえ発見されなければ』なんてセコくて合理的な手段が私達泥棒風情にはお似合いなの。だから、こんな事ができた犯人は間違いなく天才だった」
「けど、捕まった?」
「まあね。でもはっきり言ってあんなの偶然よ。ネットワークやらで焦れに焦れて登校中の生徒を狙ったからこそ、自分も学生だった彼は着脱の面倒な制服姿で殺すしかなかったわけだし、それでブレザーを裏に着て犯行を行ったわけだしね。前四件に比べればお粗末なその犯行にしたって私がブレザーに苺ミルクぶっ掛けなきゃバレはしなかったし、犯行はもっと続いていたかもしれない」
「あぁ」と彼はさっきから筆記に使われていない右手のペンを私に向けてきた。「そう言えばどうして噴いたんです?」
「あれね……」
そこで台詞を区切って、一口自分のカップに口をつける。悠志君が誘われて珈琲を口に含んだのを確認してから言ってあげた。
「蜜が言ったのよ。『牛乳に血が混ざったら苺ミルクみたいな色になるのかな?』って」
ブフッとむせる悠志君。まぁ、そうなるわよね。
「よく……分かりました」
「でしょ? でも結果的にそれが広一君の計画を狂わせた。シャツにまでついた苺ミルクを拭くために、私の手はブレザーの中に、ハンカチには血が。その時は気付かれなかったものの、見つかるのは時間の問題。それまでに私を殺さなければならないのに、よりにもよって私ほど男と二人きりなんてシチュエーションを作り辛い人間もいないわけで……。万事休す、彼は捕まるまでにどれだけ多くの人間を殺せるかに狙いを変えた。私に対する復讐のつもりでその中に蜜を入れてね。蜜と仲のいい数少ないクラスメートの一人だったのよ、彼」
「それでもう一人の被害者と教室に? でも集会前で点呼もあったでしょう?」
「うーん、中谷真希ちゃんは別のクラスの子だったから、たぶんサボろうとして残ってたところを引きこまれたんじゃないかな?」
「僕は『話があるんだ。点呼が終わったらこっそり抜けてきてくれないか? 白藤さんのハンカチに血みたいなのがついてた気がして……彼女の鞄を調べたい』って言われたんだけどね」
「それで、後は知っての通りの結末よ」
「白藤さんや教師が駆けつけて……警察が到着、ところがそこで彼は容疑を否認してあなた達こそ犯人だと言った」
「そうよ。そこが問題だった。さっき言った通りハート事件の四つ事件は証拠が一つもない。中身がすっからかんで何も分からない中、犯人だけが捕まったの。凶器から被害者全員の血液が発見されはしたけれど、ハート事件と彼を結びつけるモノはそれだけで、目撃者である私達が犯人だとすればその証拠も疑える。彼の家宅捜査は当たり前として、私達が彼に罪を着せたとすれば残るはずの証拠を隠滅される前に発見しなければならない。その結果が例の大捜索。まさか、そこまでやるとは私も思わなかったけどさ。ニュースでも流れてたから知ってるでしょ?」
「あぁ、はい。確か『現行犯逮捕に関わらず大規模捜索』とか」
「そう。最初は大っぴらに言いはしなかったけど、犯人が既に捕まってる中で、全校生徒が持ち物全てを調べられたのよ? 私達の私物は科捜研行き。言わなくても噂は立つし、私も詰め寄られて白状するしかなかった。警察も同じ。下手に隠すのも無理があったのよあの状況は。結局そんな証拠が見つかるわけもなく、彼が犯人として捕まったけど、私達に対する疑念が払拭されたわけじゃない。そんな中で彼は否認をし続けた挙句自殺した。白桃シロップ説を信じる人間も怖いけど、私達に恨みを持つ人物にとってもつけ入る格好の隙になるでしょ? 恨まれる生き方をしてると自覚はしてるから、その予防というか牽制というか……そういうのを兼ねて名探偵なんて名乗ってるのよ。こうなっちゃった以上予防の意味はなくなっちゃったけど」
「はぁ……恨まれてるんですか?」
「そりゃあもう」
自分で言うのもなんだけど常人の数倍は恨みという恨みを大人買いしてる自信がある。
ここでやっと彼は聴取らしくノートにペン先を当てた。
「じゃあとりあえず特に恨まれてる人に心当たりは?」
「「両親」」
蜜と声がハモる。そんな些細な事がやっぱり嬉しい。ハモった内容はともかくとして。
「僕の両親は児童虐待その他で服役中で」
「起訴の首謀者が私。で、私は両親と縁を切って家を出たんだけど、その際貯金やへそくりをかっさらったのよ」
だって裁判維持費に必要だったんだもん。刑事と民事の両方で訴えたからなぁ。
「あと蜜の父親をバッドで殴って訴えられもしたし、その事でも恨まれてるかもしんない」
そんな私達の台詞に悠志君は唖然としている。
「ほ、他には?」
「えーと、当然だけど広一君の遺族、後は白桃シロップ説を信じてるハート事件の被害者遺族という可能性もあるし……」
「野村君は?」
「あー、あのいじめっ子?」
「依頼はいじめの調査だったのに、解決までしちゃってさ」
「そんなにサービスしたかなぁ? 目線入れて動画サイトに投稿しただけじゃん」
「ブレザーに思いっきり校章と名札付いてたけどね……」
名札の色が何かで学年まで分かるのよね、中学高校のって。
「ちょっと待った。蜜だって高校の社会教師の授業内容が分かりにくいって解雇させたよね?」
「ヤだなぁ。それは前々から悪評だったからだよ。僕一人の意見でなったわけないでしょー?」
「私立高の、それも校長御曹司がそれぐらいで解雇されるわけないじゃない。何やったの?」
「ちょっとセクハラを暴いただけ。というかさ、その校長もすぐ居なくなっちゃたけどあれは桃ちゃんだよね?」
「だって仕方ないじゃない、変に恨んで蜜の虐待の話蒸し返そうとしたのよ? 発言力のない地位まで引きずり下ろさないと」
「ずり下ろすって言えばさ、男子のズボンずり下ろさなかった?」
「小学校の頃の話でしょ、それ」
「後はー、あぁ南城君。中学の時一緒だった南城和樹」
「南城、和樹……? クラスに居たっけそんな人」
「えっ、覚えてないの? ひっどいなー。いい? 南城君はね、熱帯魚好きの引っ込み思案で大人しい男の子だったんだよ。そんな彼がある日、学内で有名な美少女桃ちゃんを体育館の裏に呼び出したの」
「へぇ、今時珍しい告白よね」
可奈さんもそれには興味を惹かれたらしく話に入ってきた。
「ちょっと待った、美少女? 私が?」
「桃ちゃん、ホントに自分の事分かってないよね……。長身ですらっとしてて足長くて長髪で大人びてて、かなり男子から人気あったんだよ?」
「ふぅん? 私あの頃から蜜しか見てなかったしなー」
「うん、ありがと。で、話に戻るけどちょー美人な桃ちゃんに勇気を出して告白した彼に、桃ちゃんはこう言いました。『女装して出直しなさい』」
………………うん、どうかしてたな当時の私。その頃読んでた小説の影響だろうか? 今なら蜜以外に興味ないって言うのに!
過去の自分に問いたい。どうしてそんな事を忘れていたのか、どこら辺が自重していたのかと。
「そうして彼は引き籠り現在に至るわけだね」
それから室内に漂う気まずい沈黙をどうしてくれる。
悠志君もちゃっかり彼の名前をメモしないでほしい。
「白藤さん、本当に覚えてないんですか?」
「いや、どうだったかな……」
和樹かずきカズキ……。熱帯魚好き。そう言えばそんな子が居た。「水槽の水って餌をあげ過ぎると酸性に傾くんだよ」――そんな台詞を聞いた覚えはある。後は『引き籠り』。その類のワードにも聞き覚えはあるのだけど、あれはたぶん中二の時だったかな、えぇと……そう例の広一君からだ。和樹君が不登校になってしまったから見舞いに行ってほしいと面倒見がよく、彼にプリントを持っていっていた彼に言われて、私は確か――「蜜とデートがあるから無理」……と答えたわけか。
「………………」
さぁて、新たな情報も出てきた事だし、改めて自己紹介をしよう。
私の名前は白藤桃――人間の屑だ。
しかし、待ってほしい。
「それを言うなら蜜だって、告白してきた三浦君の事フッた挙句に彼女にチクッでしょ?」
「そうだっけ?」
「そうよ。あの時の蜜、『男に手を握られた』って泣きっぱなしで大変だったんだから。それで大事になって結局彼女と別れちゃった上に噂になって『三浮気』とか呼ばれてたじゃない」
「あー! あったあった! でもそれって彼女持ちのくせに告った方が悪くない?」
「悪いけどさー。彼女の方まで何か恨んでたって話を聞いた気がする」
「あー、高校の頃だよね? 時効だと思うけど一応火種は消しとく?」
「元鞘で?」
「いや、恋の矢で貫く方。どうせ今でも女漁りしてるんでしょ三浮気君は。その辺の噂を彼女に流せば失望で恨みもなくなるんじゃない?」
「じゃあ健二君と……美優ちゃん真美ちゃん辺りに連絡取ってみる?」
「ん、どうせなら徹底的に叩き潰したい、かな」
「となると同級生に直接接触するのはNGか。でもなー、人雇うとなると結構取られるしねぇ」
私達のそんなやり取りを聞いていた悠志君が可奈さんに言う。
「先輩、ここに諸悪の根源が居ます」
失礼極まりない台詞だけど全くもってその通りなので否定できない。
けれど言われっぱなしも嫌なので、ここは一つ彼よりは分別のある大人として言わせてもらおう。
「悠志君、そんな君に有り難い格言を教えてあげる」
「はぁ、なんですか?」
「憎まれっ子世にはばかる」
彼は無言で私の名前を手帳に書き込むと、それを何重にも丸で囲んだ。




