悪魔と契約してでも、あの婚約を破棄させます
聖女。
聞こえはいいけど、やってることは地味。要は地方公務員です。
私、ケイシーは、辺境の町ノーソンで聖女をしています。
朝、教会に出勤。
体を清めた後、午前中は神に祈りを捧げます。午後からは、町の田畑や森林を回って神の加護を授け、空いた時間で書類をまとめます。
夕方になったら終業の鐘を鳴らして、帰宅。
毎日変わり映えのしない仕事を十年続けてきました。
でも、それももうすぐ終わり。
目の前にいるのは、後任の聖女。十五歳になったばかりの、まだあどけない少女です。
彼女に引き継ぎをして、半年後には、この仕事から解放されます。
夕方。鐘撞きが終わると、新人が不安を口にします。
「聖女って、思ったより歩くんですね。あと、報告書類もめちゃくちゃ多いし、私に務まるんでしょうか……」
私は十年前の自分を思い出しました。
「そのうち慣れます。さあ、今日はもう帰っても良いですよ」
聖女って、地味なのに大変。それが分かってもらえただけでも、今日の引き継ぎは成功です。
「ケイシー様はまだ帰らないんですか?」
「今日は、神父様に残るよう言われているので」
「分かりました。お先に失礼します」
「ごきげんよう」
少女を見送って、私が教会の中に戻ろうとすると、ちょうど馬車がやってきました。
このノーソン周辺の領主であるシャーク子爵様がご到着されたのです。
領主様は私を見て、嬉しそうに笑います。
「いい縁談を持ってきたぞ」
私は暗い気持ちになりながら、領主様を神父様の部屋にご案内しました。
早速、お二人の会議が始まり、私はそっと末席に座ります。
「ノーソンなんて辺境なのに、良い縁談が多いですな」
「どこ出身だろうが、聖女を迎えるとなったらその家名にも箔が付く。王侯貴族はみんな狙っているさ」
釣書を比べながら、神父様と領主様の話には、どんどん熱がこもっていきます。
「南部の貴族は勢いがあるから狙い目だ」
「こちらは侯爵家といっても九男ですな」
「もう男爵クラスは除外しましょう」
王都の侯爵家から、知らない地方の男爵家まで、いろいろな縁談が届いているようです。
よりどりみどり……というわけでもありません。
「前の聖女の失敗を繰り返すわけにもいかん。権威ある貴族に嫁がせて、シャーク家の影響力を高めねば」
「今度こそ、教会の建て直しができるかもしれませんな」
そう。聖女は、その任を全うした後、政略結婚に使われるのです。
会議の場には同席させてもらっていますが、選ぶ権利も、拒否する権利もありません。父母のいない私を守ってくれる人もいません。
私は二人のやりとりを、じっと見ているだけ。
「やはり、コーガイ地方のドェス伯爵だな。地位や領地もさることながら、王都にも強いパイプを持っている」
「私も賛成です。彼は神への信仰も篤く、寄進が望めそうですからな」
知らない土地の知らない名前。
私はそこに嫁ぐことになるのですね。
心配そうな私の顔を見て、神父様が優しく諭します。
「大丈夫。同じ時を重ねることで生まれる愛もあるのです」
そんなことを言われても。
見たことも聞いたこともない人に、自分の未来を任せるなんて、「不安」以外に表現できる言葉を知りません。
釣書の記載だけで安心できるほど、私は馬鹿でもないし、神父様と領主様を信頼もしていません。
しかし、聖女の力を与えられた者の運命。愛着のあるノーソンの人々の暮らしが良くなるなら仕方がありません。
私はゆっくりと、頷きました。
「ダメだ! 俺は反対だ!」
突然、扉が乱暴に開きました。
入ってきたのは、領主様の息子レイ・ソックシー・シャーク様です。
扉の外でずっと会議を盗み聞いていたに違いありません。彼は小さい頃からいたずらっ子で、いろいろとやんちゃをしてましたから、盗み聞きくらいは朝飯前です。
領主様がすごい形相になりました。
「なんだとぉ!?」
「ケイシーをそんな悪名高い伯爵にやるなんて、反対だと言ったんだ!」
悪名高いってなんでしょうか。
レイ様、伯爵様の悪名を詳しく説明してくれませんか?
「何を言うか。これが最高の選択なんだ」
「あんな下卑た奴にケイシーを任せるなんて、馬鹿じゃないか!」
「親に向かって、馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い」
激しい罵り合いがはじまりました。
神父様が仲裁するタイミングを失って、オロオロとしています。
ああ、私の望む情報は得られなさそうです。
どれだけレイ様が反対しようが、どうせ嫁ぎ先は決まったのですから、もうこの場に用はないはず。
「お先に失礼します」
私は小さい声でそう言うと、扉から外へ逃げ出しました。
お二人の罵声は教会の外まで漏れ聞こえます。
教会から出てすぐ。
「あら、何か落ちてる」
それは本でした。
古びてはいますが、丁寧に装丁された本には「悪魔召喚法の本」と書いてありました。
なぜ、教会の前にこんな不謹慎な本が?
とは言え、こんな所に放っておくわけにもいきません。
教会に……は戻れませんし、一旦、私は本を持って帰ることにしました。
***
「ケイシー様、明日はいよいよ婚約ですね。良いなぁ」
神への祈りが終わると、後任の聖女は、キラキラとした瞳を投げかけます。
そりゃあ私も十年前ならそう思いましたよ。
庶民の娘である私が、たまたま聖女の力を与えられたというだけで、貴族と結婚できるチャンスが来るんですから。
美しいドレス、豪華なパーティ、華やかな社交界。夢のような世界です。
十五歳の少女が憧れるには十分です。
「王都にも行くんですか?」
「どうでしょう。夫になる人が連れて行ってくれればですけどね」
「とても綺麗なお城があるんですって、素敵ですよねー」
私は「くれれば」に力を入れたつもりでしたが、彼女には伝わらなかったようです。碌でもない貴族もいるんですよ。
ちょうどレイ様が、こちらに走ってきました。
「レイ様、毎日来てますね」
彼女も少し呆れ顔。そうなんです。あの夜以来、彼は三週間毎日私たちの前に現れました。
そしてお決まりの言葉。
「ケイシー、今からでも遅くない。この縁談を断るんだ」
彼からはいろんなことを吹き込まれました。
伯爵様は、女遊びをするために今まで結婚しなかったとか、ケチだから金持ちなんだとか、権力のためには手段を選ばないとか。
いつものように、私は首を横に振ります。
「もう決まってしまったことなんです。相手方もあることですし、無下にはできません」
彼の額には新しい擦り傷。
繰り返される親子喧嘩のために、生傷が絶えないんだとか。
私はため息をついて、彼の額に手を当てました。
神の加護を人に使えば、小さな怪我くらいなら治癒できるのです。触れている所がじんわりと温かくなります。
傷はきれいに治りました。
「あ、ありがとう」
彼の傷を治したのは五年ぶりでしょうか。
彼が成人するまでは、毎日のように生傷を作っては私の所へ来ていました。きっと、やんちゃでもしていたのでしょうが、おかげで仕事が増えてしまったのを覚えています。私の知る碌でもない貴族の一人です。
「ワガママは、そこまでにしてください」
「お前のためなんだ。ワガママなんかじゃない!」
レイ様はそう言われますが、この結婚はノーソンのためなのです。ひいては領主の息子である、彼のためとも言えます。
諦めの悪い彼の話を聞かされていると、子爵家のじいやが姿を現しました。
「坊ちゃま。ケイシー様がお困りのようです。そろそろお帰りください」
「だがしかし、明日には……」
「申し訳ありませんが、時間がございませんので」
少し冷たくそう言うと、じいやは私の方へ向き直ります。
「ケイシー様。お迎えにあがりました」
「準備はできております」
これから私たちは一昼夜をかけて、コーガイへと向かわなければなりません。
「お、俺も……」
レイ様が私たちの後を追いかけようとしますが、じいやが止めます。
それはそうですよね。結婚に反対しているような人を婚約発表の場に連れて行くわけには行かないでしょう。
彼は悔しそうに地面を見つめていました。
馬車の隊列の中でも、私の乗せられた馬車は、大きいのに一人だけ。ゆっくりと眠れる馬車でした。明日の婚約発表パーティで疲れが出ないように領主様が配慮してくださったのでしょう。
私は馬車の中で鞄を開き、小さな本を開きました。
そう、あの「悪魔召喚法の本」です。
「やあ、またボクを喚んでくれたのね」
開いた本の上には、人形のように小さな悪魔が座っています。
あの日、私は持って帰った本を開いてしまったのです。その瞬間、この悪魔が現れました。
彼女は愛の悪魔だと名乗りました。そして、「話を聞くわ」と言いました。私は悪魔の言葉に気を付けながらも、ついつい話をしてしまいました。
だって、こんなこと、他に話せる人がいなかったから。
以来、彼女は私の話し相手です。
「明日、コーガイに着くわ」
「いよいよ婚約なのね。楽しみ?」
私は、答えませんでした。いえ、答えられませんでした。
彼女は少し微笑みました。
「ふふふ。不安と緊張で一杯って顔してるわ」
「……まあ、そうね」
「大丈夫。それが普通よ。でも、会ってみれば、意外と何とかなるものよ」
「そうだと良いわ」
私は言葉を選びながら答えます。
「もし、どうしてもって言うなら……その婚約、なかったことにしてあげるわよ」
やっぱり悪魔です。私の心の隙を狙って、甘い言葉をかけてきます。
気を抜くことはできません。
「聖女の魂ってレアなのよ。それと引き換えなら、どんな願いでも叶えることができるわ。ねえ、契約しない?」
「いいえ、あなたにするようなお願いは無いわ」
契約して願いが叶えば、彼女に魂を取られてしまいます。
それに、この婚約がなかったことになったら、ノーソンに与えられるであろう恩恵もなくなってしまいます。
だから、私は相手がどんな人だろうが、断ることはできないのです。
私は決意を新たにしました。
「んー、そう? 残念だわ」
「ありがとう。あなたと話して、少し落ち着いたわ。おやすみなさい」
「おやすみ」
私は本を閉じました。
***
コーガイに到着すると、ホテルの一番大きな部屋に通されました。
そこで、何人もの女中に囲まれて、私は生まれて初めてドレスというものを着ました。
鏡の中には、美しい化粧と煌びやかな宝石で着飾った女性が立っています。
「これが、私?」
「もちろんそうよ。あまり手を掛けなくてすんだわ。きっと元が良いのね」
化粧をしてくれた女中さんが褒めてくれます。
私は、物語に出てくるプリンセスになったような気分でした。
部屋に領主様が入ってきました。
「ケイシーかい? 綺麗だ。見違えたよ」
領主様にまでそう言っていただき、私は何となく不安が薄らぐのを感じました。
なんとか、やっていけるんじゃないかしら。鏡の中の私がそう言っているようでした。
そして伯爵様の御屋敷へ。
大きな門、大きな玄関、大きな広間。ノーソンにはこんな大きな御屋敷はありません。私は圧倒されてしまいました。
「やあ、君がノーソンの聖女か」
ドェス伯爵様が階段を降りてきました。彼は、聞いていた年齢よりも若く、意欲的に見えました。
私は、膝を折って深々と頭を下げます。
領主様が慇懃な挨拶をします。
その間、伯爵様は、私の頭の天辺から足の爪先まで見定めるように眺めます。
今度は私の自己紹介。
「ケイシーです。よろし……」
「ふむ……聖女か。思ったよりも田舎臭い娘だな」
伯爵様は冷たくそう言い放ちました。
いきなりそんなことを言われるなんて。先ほど生まれたばかりの自信がどこかへ飛んでいきました。
「あ、いや。伯爵。彼女は貴族令嬢ではないので、その辺は。でもしかし、教会で所作や振る舞いはしっかり教育されておりますゆえ……」
領主様が私をフォローしようと言葉を重ねます。
「構わん。婚約発表のパーティで、くれぐれも粗相のないようにな」
伯爵様は、私たちを控室に案内するよう召使いに指示すると、さっさと自室に戻っていきました。
「私、何か失礼なことをしてしまったでしょうか」
「あの……いや、ケイシー。きっと伯爵も照れているんだろう」
とてもそんな雰囲気ではありませんでしたが。伯爵様は、本当に私と婚約したいと思っているのでしょうか。
夜になって、婚約発表のパーティが始まりました。
御屋敷の広間には、貴族や豪商など、たくさんの人たちが集まっています。
私と伯爵様が並んで階段を降りると、拍手喝采が沸き起こります。
冒頭、伯爵様が挨拶をされます。
「聖女様はこの婚約発表パーティのために、ノーソンから長旅をしてお疲れのご様子。皆様にもご配慮いただきたい」
伯爵様の言葉に、来賓から「なんて優しいお方なのかしら」と声が上がります。
私は椅子に座らされ、お客様が代わる代わるご挨拶だけして戻っていきます。私は、笑顔を振りまくだけでした。
なぜなら、パーティの始まる直前、伯爵様から「何もしゃべるなよ」と釘を刺されたのです。
伯爵様は、男爵令嬢と楽しそうにお話をしています。
領主様も、この機会に人脈を広げようといろいろな人と話しています。
パーティが終わるまで、私は一人でした。
夜も更け、パーティもお開きとなりました。
皆様が帰られると、伯爵様が私たちの控室に顔を出されました。
「すまんが、これから男爵令嬢との打ち合わせがあってね。もう帰ってくれないか」
「はっ?」
私も、領主様も目が点になりました。
だって、本当に婚約の発表をしただけで、私たちは何の話もしていません。
「しかし、伯爵。ケイシーはあなたの婚約者となったのです。お互いをしっかり知っておいたほうが……」
領主様も何かおかしいと気付いたようです。
「安心したまえ。君との結婚は、形だけになるだろう」
「え?」
「私は、女性とはいつも自由でいたいんだが、この年になると体面というものがあってな。身を固めなければならないのだが、コーガイ近辺の人々には私の醜聞が入っているようで、結婚を受けてもらえなかったのだ」
レイ様のおっしゃっていたことが思い起こされます。
「聖女を妻に迎えられるというのは、本当に都合が良かった。教会の後ろ盾も強固になろう。評判も回復するだろう、家名に箔をつけることもできたのだ」
私の心のどこかに、ヒビが入った気がしました。
「だから、君には夫人として期待していない」
伯爵様は、当然だろう?という感じでおっしゃいました。
慌てて領主様が問います。
「しかし、ご世継ぎが必要でしょう」
「ん? 子どもなら既に何人もいる。その中から優秀に育った者を認知すれば良い」
領主様は絶句しました。
私の心はぐちゃぐちゃです。こみ上げてくる吐き気を我慢します。
「なんだ、不満そうな顔だな。もう、婚約発表はしてしまったんだ。今さら破棄する気か? そうなったら、今まで積み上げてきたシャーク子爵の信用がどうなるだろうねぇ」
「ケイシー、帰ろう……」
領主様に連れられて、伯爵様の御屋敷を後にします。
入れ違いで、男爵令嬢が入ってきました。彼女は若く、美しく、上品です。気分の悪そうな私を見て、ニコリと笑いました。
この人が今夜の伯爵様の相手……
私は嫌悪感に耐えられず、へたり込んでしまいました。
***
領主様に支えられて、私たちはホテルに戻りました。
「……すまなかった」
領主様はポツリと謝りました。そしてそのまま、うなだれた様子で自分の部屋へと戻っていきました。きっと、伯爵様の噂なんて尾ひれの付いた大袈裟なものだと思っておられたのでしょう。でも、それは事実だった。
私はお声をかけることができませんでした。
ただ、領主様が、シャーク子爵の家名とノーソンの領地のことだけでなく、私のことも考えてくださっていたという事実だけが救いでした。
私は、ドレスの着替えにやってきた女中を断り、ベッドの上に寝転びました。
どのくらい時間が経ったのでしょう。外が騒がしい気もします。
私は本を開きました。
「この婚約を破棄させて」
「はぁ? いきなり何よ。どうしたの?」
愛の悪魔が飛び起きました。
「伯爵様にとって、私はただの飾りだったんです」
「あらー、愛がなかったのね」
「彼は、今日一度も私の名を呼んでくれませんでした」
「そう……」
愛の悪魔は、私に寄り添います。
「だから、この婚約を破棄したいのね」
「ええ。伯爵様と同じ空気を吸うことさえ苦しいわ」
「婚約の破棄、……それだけでいいの?」
「それだけって、私にとっては、とても大事なことなんですけど」
「あなたは、神の祝福を受けた人間よ。その魂を掛けて契約するんだから、もっといろいろと望んでもいいのよ」
「望む……」
「あなた、誰か気になる人はいないの?」
私はベッドの天蓋を見上げました。
気になる人……
「ケイシー!」
突然、扉が乱暴に開きました。
入ってきたのは、レイ様です。
私は慌てて本を閉じて、お尻の下に隠しました。
「ぷぎゅ」
愛の悪魔が、小さな声で鳴きます。
「どうして、ここへ?」
「今朝、早馬に乗って、先ほど到着したんだ」
レイ様の後に、女中たちがなだれ込んできました。
「困ります。いくら子爵様のご令息でも、女性の部屋に乱入するなど……」
「一大事だ!」
レイ様は女中たちを一喝し、私を見つめます。
「父上から話は聞いた。この婚約を破棄するんだ!」
領主様が、後から入ってきました。
「レイよ。ノーソンの繁栄のためには、この婚約は重要なのだ」
「父上。伯爵の力など借りなくとも、ノーソンは繁栄できる。ケイシーが聖女を勤めた十年で、我が領地の収穫高は倍になったんだ。これを地道に続ければ良いんだよ」
レイ様は、私の書いた報告書の束を領主様に突きつけます。そこには、私が加護を与えた記録と、各地の生産量が書かれています。
「だが、レイ。婚約の発表はもう済んだのだ。今から破棄すれば、シャーク家の信用が地に堕ちてしまう。そうなれば、交易や国防にも支障が出る」
それを聞いて、私は愛の悪魔にする願いごとを決めました。
領主様の信用が堕ちないように婚約を破棄して欲しい。
それなら、私の魂なんて安いものです。私は本を強く握りました。
しかし、レイ様はそれがどうしたという顔で笑いました。
「信用なんて、また上げれば良い。少なくとも、領民の信用は下がらない。領民あっての領主だろう」
「うむ。だが……」
「父上が、そこまで気にするのであれば、まずは我が家名に箔をつけたら良い」
彼は私の前に跪きました。
「ケイシー」
そして、私の「名前」を呼びました。
「十五の時、君に初めて傷を癒してもらったことを覚えている。とても嬉しかった。毎日のように君と話しているだけで、心が弾んだ。君の笑顔を守りたいと思った」
ああ。
レイ様はそんなことを思ってくださっていたのですね。
私は思わず微笑みました。
「今も俺の心は変わらない。ケイシーを守るためなら、この魂だってかけられる」
私は息を呑みました。
「俺と結婚してください」
私は驚きで、すぐに答えることができませんでした。
今までそんな風に彼を見たことがなかったのです。
でも、その言葉は、私のひび割れた心を埋めるように染み渡っていました。
彼は私を見つめます。私も彼を見つめます。
私のことを想って、忠告してくれていたのです。私のことを想って、ここまで駆けて来てくれたのです。確かに貴族としては碌でもないかもしれません。でも、伴侶としてなら……
しばしの静寂の後。私は頷きました。
「……はい」
彼は私の手を取ってキスをしました。
誰からともなく拍手が沸き起こりました。
領主様も複雑な表情をしながらも、拍手をしています。
「今日の君は綺麗だけど、俺は普段の君の方が好きだな」
レイ様がそう囁くので、私は耳まで真っ赤になってしまいました。
「さあ、伯爵の所へ行こう。婚約を破棄するんだ!」
勢いにのるレイ様を、領主様が止めます。
「明日で良いのではないか? こんな時間に押しかけては、強盗と思われるかもしれん」
「伯爵の浮気の現場を押さえるには持ってこいじゃないか」
でも、私が愛の悪魔に願えば、そんな危険なことをしなくても、全て丸く収まるのです。
「レイ様。一晩お待ちください」
私がそう言うと、レイ様は少し考えて、「分かった」と答えました。
領主様が何度も頷きます。
「そうそう。細君の助言はよく聞いておくものだ」
夜の間に、悪魔と契約してしまえば……
そこへ、伯爵様の召使いが駆け込んできました。
女中たちがまた引き留めますが、「一大事なのです」と言って押し通ります。
「も、申し上げます。旦那様が……ドェス伯爵様が、お亡くなりになりました」
私たちは、何が起こったか分かりませんでした。
***
私たちが駆けつけた時、伯爵様の御屋敷は大騒ぎになっていました。
騒ぎの中心では、あの男爵令嬢が取り押さえられていました。召使いによると、彼女が伯爵を襲ったそうです。
「あはははは、あの嘘つき男! 私を選ぶと言ったのに!」
その狂気の笑顔は、とても悲しく見えました。
もし伯爵様と結婚していたら、私も彼女のように嫉妬に狂っていたかもしれません。そう思うと、彼女に同情を感じてしまいました。
私たちは、そのままコーガイに滞在し、伯爵様の葬儀に出席しました。
そこからは、あっという間に事が進んでいきました。
認知された跡継ぎのいなかった伯爵様の資産は、多くの遠縁に分割されることになりました。
そして、正式な婚約者であった私にも、その遺産と領地の一部が相続されることになりました。
「私なんかが、こんなものを頂いても……」
私は相続の辞退を申し出ました。
しかし、遺産の分割の大小で親族が揉めるくらいなら、半端な取り分だけでも受け取ってほしいと懇願されました。
また、結果、婚約を破棄することになった慰謝料代わりであるとも申し添えられ、私は受け取ることにしました。
それから半年。
私は引き継ぎを終え、聖女の仕事を引退しました。
そして、明日は私とレイ様の結婚式の日です。
領主様の御屋敷に準備された私の部屋で、あの本を開きました。
愛の悪魔が私を見上げます。
「明日、私はケイシー・シャークになるのよ」
「良かったわね」
「あなたにお願いしなくても、全てがうまくいったわ」
婚約は破棄され、領主様の名誉と信頼は守られました。そして、私の相続した資産をノーソンの開発に回すことができました。
全てが本当に思い通りになりました。
「……ふふっ」
愛の悪魔は、優しく笑いかけました。
「ずっと私の話し相手になってくれて、本当にありがとう」
「ボクがいなくても、もう大丈夫かしら?」
「きっとね」
彼女は小さく手を振って、本の中へと消えました。
私は、本を優しく閉じると、本棚の一番奥に片付けました。
「さて、明日の準備をしなくちゃ」
私は部屋を出て、ブーケに合う花を買いに行きました。
***
レイは、明日の花嫁の部屋をノックします。
「ケイシー、入るよ?」
部屋に入ると、誰もいませんでした。
出かけたのかな?
そう思って部屋を出ようとした時、
ドサッ
本棚から一冊の本がずり落ちました。
「何でこんな所に俺の本が?」
半年前に、教会の前で落としてしまった本です。
レイは本を拾い上げました。
愛の悪魔がそこに座っていました。
「あなたの願いは叶えたわ」
悪魔はニコリと笑います。
「そうだな。半年前、俺は悪魔と契約してでも、あの婚約を破棄させたかった」
父上と神父の話を盗み聞きした日。レイは悪魔と契約を交わし、教会へ乗り込んだのです。
確かに、その願いは叶いました。
「だが、もう少し早くできなかったのかな? 本は見当たらないし、ケイシーは婚約を破棄してくれないし、三週間は気が気でなかったよ」
「じゃなきゃ、あなたは彼女に告白してないでしょ」
レイは納得したように頷きました。
「確かに、俺の気持ちを伝えることができた。彼女はそれを受け入れてくれた。今はとても幸せだ」
「心残りはない?」
「ああ」
「では、半年前の契約どおり、いただくわよ」
レイはゆっくりと目を閉じました。
愛の悪魔は、右手に持った魂を転がしながら、残念そうな顔をします。
「あ~あ、聖女の魂を手に入れそびれちゃったわ」




