初動
ポンプ場の脇道は妙に静かだった。久志は息を殺すようにただ時計の針を見つめる。蛍光塗料の針先がもうすぐ重なろうとしている。約束の時間はあと五分に迫った。
荷室は開錠してある。それが誰彼の手で開けられるのが二十三時。扉が閉まる音が聞こえたら、指定の橋を渡り、指定の倉庫に納めるばかりだ。
静謐が深い分、乗り付けてきた車の音はすぐに耳に入った。そして定刻とともに開かれる扉の音も十分に聞き取れた。荷室で何かが為されているのはわからなくもなかったが、扉の音に比べれば至って小さい。久志はただ秒針を目で追っている。
『バタン!! ガチャ』
閉扉の音は闇夜を引き裂くように響いた。思わず声を上げそうになるが、久志は辛うじて平静を保った。心臓には良くなさそうだが、業務仕様に記されていた検閲という行為はどうやらこれで終わりらしい。まだ鼓動が収まっていないが、とりあえず初任をこなせたことを久志は安堵する。
辺りは何事もなかったように息を潜めている。橋を往来する車の音も静寂に吸い込まれていく。その深い静けさはエンジンをかけるのを躊躇させる。だが、自分では意識しないうちにトラックを走らせていた。
橋を通り、クランク状の道を行く。やがて河畔の一角に辿り着くと、指示にあった倉庫が微かな灯りとともに浮かび上がった。戸口には一人の男が立っていた。そして、手を大きく挙げた。
「やぁご苦労さん」
「はじめまして。稲田久志と言います」
「こんな深夜にすまんな。何せ出荷元が時間とルートを厳しく指定するもんだから」
清水と名乗るその倉庫の主は、どこか苦虫を潰したような表情を浮かべつつも、積荷を要領よく捌いていった。
久志はあくまでドライバーである。業務仕様上もそれは明記されていて、荷降ろしには加担しなくていいことになっている。不自然な気もするが、逆に下手に手を出して不始末を起こす訳にもいかない。
手持ち無沙汰ではあったが、隅田川の緩やかな流れが発する音に耳を傾けているうちに時は案外早く過ぎた。
受取のサインをもらったら、あとはトラック車庫に戻るばかりである。だが、今日が初日である以上、しっかり挨拶を交わしておきたいと思う。
「今日はありがとうございました。ところで清水さん、下のお名前は?」
「名乗るほどのことはないさ。ま、気ぃ付けてな」
名刺交換するには及ばないのはわかるが、随分とざっくばらんなものである。
まだ道中にある以上、仕事を終えた訳ではない。だが、気分的にはすっかり開放的になっている。久志はふとこれまでの経緯を思い返していた。あの嵐の夜から何ヵ月が経っただろう。当時に比べれば今はマシになったものだ。状況が転じ出したのは差出人不明の便りが届くようになってからである。全く心当たりがないことはなかったが、確証はない。そんな直近の一通に紛れていたのが今回の求人情報だった。
いわゆる闇求人に通じる部分はあるが、運送業務としては至って真っ当だ。報酬が高額なのは深夜だから、という理由で十分通用するだろう。今の久志にとって腑に落ちないのは次の点のみである。
『20型とはいえ、液晶テレビ三十台分。いくら男手でも一人でやるか? パッと見、五十代だろ?』
さすがに腕や腰に来たようだ。清水はストレッチをしながら携帯電話をしかと握り、声高に話し込む。
「ほんじゃ今日の分は鳶に回しとく」
倉庫の外灯が消えたのは日付が変わった時分だった。
* * * * *
契約ドライバーという形態だったが、その日の指示はケータイメールで届くため、感覚としては日雇いに近い。毎日という訳ではなかったが、メールが届くのも、例の検閲が行われるのも、そして清水が待機しているのもいずれも時間通り。この規則性は人によっては快感になるだろう。久志もいつしかハマっていた。
「じゃ清水さん、今日はこれで」
「あぁ、お疲れ・・・」
労いかけたところで、清水の携帯電話が鳴る。
「あぁ、そうだな、鷹で行くか」
足早に倉庫に戻るも、その会話の一部が漏れ聞こえた。
久志は特に気にするでもなくトラックに乗り込んだ。辺りが暗い分、月明かりが余計に映える。初夏の夜風が静かに通り過ぎていく。