第六話 十年後の傷跡
都心の高層ビル、二十七階にあるオフィス。
ガラス張りの窓から見下ろす東京の街は、まるで精密な基盤回路のように無機質に輝いている。
俺、佐藤翔太は、高級なアーロンチェアに深く身を沈め、モニターに表示された複雑なコードの羅列を眺めていた。
二十七歳。
あの日から、十年という歳月が流れた。
今の俺は、ITコンサルティング会社のシニアエンジニアとして、それなりの地位と収入を得ている。
高校時代、「陰キャ」と見下されていた俺のプログラミングスキルは、デジタル社会において強力な武器となった。
年収は同年代の平均を遥かに超え、都内のタワーマンションに一人で住んでいる。
端から見れば、俺は「成功者」の部類に入るだろう。
「佐藤さん、これ、先日のプロジェクトの報告書です」
声をかけてきたのは、新卒二年目の女性社員だ。
綺麗にメイクをし、愛想の良い笑顔を浮かべている。
「ありがとう。そこに置いておいて」
「あ、あの……もしよかったら、今夜、チームのみんなで飲みに行くんですが、佐藤さんもどうですか?」
彼女の瞳には、上司への敬意以上の、微かな期待の色が混じっている。
だが、俺の心は冷え切ったままだ。
その笑顔の裏に何があるのか。
その好意の下に、どんな計算が隠されているのか。
そんなことばかりを考えてしまう。
「ごめん、まだ仕事が残ってるんだ。楽しんできて」
俺は視線をモニターから外さずに断った。
彼女は一瞬、失望の表情を見せたが、すぐに「分かりました、お疲れ様です」と作り笑いを浮かべて去っていった。
遠ざかるヒールの音を聞きながら、俺は小さく息を吐く。
十年経っても、俺の病は治っていない。
女性の笑顔が、すべて精巧な仮面に見えてしまう病だ。
あの日、高槻レナという少女が見せた「完璧な嘘」が、俺の恋愛観を、いや、人間不信という名の根深いトラウマを植え付けたまま、化石のように固まらせてしまったのだ。
復讐は成功した。
あの日、俺を嘲笑った連中は全員、社会的な制裁を受けた。
ダイキは少年院を出た後、裏社会に染まり、今は消息不明だという噂だ。
ミキやケンジも、ネットに残ったデジタルタトゥーに追われ続け、まともな職には就けていないらしい。
そして、レナ。
彼女は高校を退学になり、家族ごと夜逃げ同然で街を去ったと聞いた。
ざまぁみろ、と思った瞬間もあった。
けれど、その快感は一瞬で消え去り、後に残ったのは広大な砂漠のような虚無感だけだった。
俺は誰も愛せない。誰からも愛される資格がない。
そう思い込んで、仕事という名の要塞に引きこもるだけの十年間だった。
週末。
俺は珍しく、仕事の用事で郊外の街を訪れていた。
クライアントとの打ち合わせが早く終わり、駅へ向かう道すがら、ふと足が止まった。
近くの公園から、ピアノの音と、子供たちの歌声が聞こえてきたからだ。
「青葉保育園」という看板が掛かった、古びた建物。
園庭では、運動会の練習だろうか、子供たちが一生懸命に走っている。
その中心に、一人の保育士の姿があった。
ジャージ姿にエプロンをつけ、髪を無造作に後ろで束ねている。
化粧っ気はなく、日焼けした肌には汗が光っている。
高校時代の、あのアートのように美しかった「高嶺の花」とは似ても似つかない、生活感に溢れた姿。
けれど、俺の目は釘付けになった。
子供たちに向けて手を叩き、大声で声援を送るその横顔。
クシャッと崩れた、飾らない笑顔。
「……レナ?」
声に出した瞬間、心臓が十年ぶりに激しく警鐘を鳴らした。
間違いない。
どれだけ時が経っても、どれだけ姿が変わっても、俺があの笑顔を忘れるはずがなかった。
高槻レナだ。
彼女は生きていた。
俺が「社会的に殺した」はずの彼女が、ここで、命を育む仕事をしていたのだ。
逃げるべきだと思った。
今さら会って何になる?
罵られるか、あるいは俺がまた彼女を傷つけるか。どちらにせよ、ロクな結末にはならない。
だが、俺の足は地面に縫い付けられたように動かなかった。
その時、ふと顔を上げたレナと、フェンス越しに目が合った。
時が止まる。
周囲の子供たちの歓声が、遠くへ引いていく。
彼女の瞳が見開かれる。
驚き、戸惑い、そして……懐かしさ。
彼女は逃げなかった。
ゆっくりと、子供たちに何か指示を出してから、こちらへと歩み寄ってくる。
フェンス越しに対峙する二人。
十年前、体育館のステージで断罪して以来の再会だった。
「……久しぶりだね、翔太くん」
レナの声は、少しハスキーになっていた。
かつてのような甘ったるい猫なで声ではない。地に足のついた、大人の女性の声だ。
「……ああ。久しぶり」
俺の声は震えていなかっただろうか。
平静を装う仮面は、まだ機能しているだろうか。
「立派になったね。スーツ、似合ってる」
「お前は……だいぶ変わったな」
「あはは、おばさんになっちゃったでしょ? 毎日怪獣たちと格闘してるから、化粧してる暇もなくて」
レナは自嘲気味に笑い、自分の頬を擦った。
目尻には薄くシワが刻まれている。指先は荒れて、爪も短く切り揃えられている。
かつてブランド品や流行りのメイクに執着していた彼女の面影は、どこにもなかった。
けれど、なぜだろう。
今の彼女の方が、あの頃よりもずっと「人間」らしく見えた。
「少し……話せるかな?」
俺は衝動的にそう言っていた。
レナは少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑んで頷いた。
「うん。ちょうど休憩時間だから。近くのベンチでいい?」
公園のベンチに並んで座る。
間には、微妙な距離がある。
かつては手を繋ぎ、肩を寄せ合っていた距離。今は、埋めようのない十年の断絶が横たわっている。
自販機で買った缶コーヒーを渡す。
レナは「ありがとう」と受け取り、温かさを確かめるように両手で包み込んだ。
「元気にしてたか?」
月並みな質問しか出てこない自分がもどかしい。
「うん。まあ、色々あったけどね」
レナは空を見上げながら、淡々と語り始めた。
あの後、高校を退学になったこと。
ネットでの誹謗中傷に晒され、何度も死のうと思ったこと。
親戚を頼ってこの街に逃げ延びたが、人間不信になって引きこもっていたこと。
そんな時、近所の子供が純粋な目で自分を見てくれたことがきっかけで、保育士を目指したこと。
資格を取るために必死で勉強し、ようやくこの保育園で働けるようになったこと。
「私ね、子供たちが好きなの。あの子たちは嘘をつかないから。泣きたい時は泣いて、嬉しい時は笑う。そんな当たり前のことが、私にはずっとできなかったから」
レナの横顔は穏やかだった。
過去の苦難を語っているのに、そこには悲壮感よりも、何かを受け入れた強さのようなものがあった。
「……俺を、恨んでるか?」
恐る恐る、核心に触れる。
俺は彼女に濡れ衣を着せた。
ダイキたちの悪事を暴露したのは俺なのに、それを全て彼女の仕業に見せかけた。
そのせいで、彼女は仲間からも裏切り者扱いされ、全てを失ったのだ。
当然、気づいているはずだ。あんな高度なハッキングと偽装工作ができるのは、パソコンオタクだった俺しかいないと。
レナはゆっくりと首を横に振った。
「ううん。恨んでないよ」
「嘘をつくな。俺のせいで、お前の人生はめちゃくちゃになったんだぞ」
「でも、私が翔太くんを傷つけたのは事実だから」
レナは俺の方を向き、真っ直ぐに視線を合わせた。
その瞳に、一点の曇りもないことに俺は狼狽える。
「あの日……翔太くんが『楽しかったよ、罰ゲーム』って言った時、私、やっと分かったの。自分がどれだけ残酷なことをしていたか。保身のために、一番大切な人の心を殺してしまったか」
「……」
「だから、あれは罰だったんだと思う。翔太くんが私に与えてくれた、罪滅ぼしの機会。私、あのどん底があったから、今の自分になれた気がするの。偽りの自分を全部捨てて、ゼロからやり直せたから」
聖人君子のようなセリフだ。
だが、彼女の表情を見れば、それが強がりでないことは分かる。
彼女はこの十年間、俺への恨みを募らせるのではなく、自らの罪と向き合い、贖罪の日々を送ってきたのだ。
それに比べて、俺はどうだ?
復讐を果たした気になって、殻に閉じこもり、世の中を斜に構えて見ていただけじゃないか。
心が死んでいるのは、彼女の方じゃない。俺の方だった。
「……俺は、ずっと空っぽだったよ」
気づけば、俺は誰にも言えなかった本音を口にしていた。
「復讐すればスッキリすると思ってた。でも、何も変わらなかった。お前を傷つけた感触だけが手に残って、誰も信じられなくなって……ただ金と地位だけを積み上げて、中身のない人生を送ってた」
「翔太くん……」
「お前の方が、ずっと強かったんだな」
俺は自嘲する。
勝ち負けで言えば、俺の圧勝だったはずの復讐劇。
だが、人生という長いスパンで見れば、俺は彼女に負けていたのかもしれない。
レナは缶コーヒーをベンチに置き、自分の胸元に手をやった。
ジャージの襟元から、銀色のチェーンを引き出す。
その先には、星の飾りがついた、安っぽいシルバーのネックレスが揺れていた。
あの日、俺が「手切れ金」として投げつけたものだ。
「! それ……」
「捨てられなかった。これが、私の戒めだから。そして……唯一の、幸せだった記憶の証だから」
レナはネックレスを愛おしそうに指でなぞる。
「私ね、嘘じゃなかったんだよ。最初は罰ゲームだった。でも、翔太くんの優しさに触れて、本当に好きになってた。ダイキに脅されてたから、裏切るような真似をしちゃったけど……心の中では、ずっと翔太くんに救われてたの」
十年前、聞く耳を持たなかった言葉。
今なら、その重みが分かる。
彼女もまた、弱く、脆い、一人の少女だったのだ。
俺たちは被害者と加害者という単純な関係ではなく、互いに傷つけ合い、互いに人生を狂わせ合った「共犯者」だったのかもしれない。
「……俺も、忘れられなかった」
俺は素直に認めた。
憎しみと同じくらい、いや、それ以上に、彼女への執着が消えなかったことを。
彼女の面影を探して、他の誰とも向き合えなかったことを。
「ねえ、翔太くん」
レナが、少し照れたように、でも真剣な眼差しで俺を見る。
「私たち、もう昔には戻れないよね。純粋だった頃の二人には、絶対になれない」
「ああ。傷は消えない。俺がやったことも、お前がやったことも、チャラにはならない」
「でも……傷を持ったままでも、前に進むことはできるのかな?」
レナがそっと手を差し出してきた。
十年前、俺が振り払った手。
荒れて、節くれ立って、すっかり「働く人の手」になったその掌。
「友達から……ううん、『共犯者』から、始められないかな? お互いの汚いところも、弱いところも、全部知ってる私たちだから」
共犯者。
その言葉が、妙に腑に落ちた。
恋人という甘い響きは、俺たちには似合わない。
もっと泥臭くて、痛みを伴う、けれど何よりも強固な結びつき。
俺は迷った。
また裏切られるのが怖いという本能が警報を鳴らす。
けれど、目の前のレナの笑顔は、十年前の完璧な仮面よりも、ずっと不器用で、そして温かかった。
もし、この手を取らなかったら。
俺は一生、あの高層ビルの一室で、孤独な王様として死んでいくだけだろう。
それは嫌だ。
俺はもう、自分自身を許してもいいのではないか。
俺はゆっくりと手を伸ばした。
レナの手を握る。
カサカサとした感触。体温。
十年前の柔らかさはなかったけれど、そこには確かな「現実」があった。
「……ああ。よろしく頼むよ、共犯者さん」
俺が言うと、レナは涙を浮かべながら、あの日一番好きだった笑顔を咲かせた。
「うん! よろしくね、翔太くん」
公園の向こうで、チャイムが鳴り響く。
お昼休みの終わりを告げる音だ。
けれどそれは、かつての「放課後のチャイム」のような終わりの合図ではない。
俺たちの、遅すぎて、傷だらけで、でも確かにここから始まる、新しい人生の開始のゴングだった。
風が吹き抜ける。
レナの髪が揺れる。
俺の心の中に広がっていた砂漠に、一滴の雨が落ちたような気がした。
傷痕は消えない。
時折うずくこともあるだろう。
それでも、隣に同じ傷を持つ誰かがいれば、歩いていける。
「じゃあ、また週末に」
「うん。今度は、美味しいご飯でも食べに行こう。割り勘でね」
「ああ、そうしよう」
俺たちはベンチから立ち上がり、それぞれの場所へと戻っていく。
背中に感じるレナの視線が、俺の背筋を少しだけ伸ばしてくれた。
空を見上げる。
高層ビルの隙間から見える空は、十年前と同じように青かった。
けれど、その青さはもう、灰色にくすんでは見えなかった。
痛いほどに鮮やかで、眩しい。
俺はスーツの襟を正し、雑踏の中へと歩き出した。
まだ、誰も愛せないかもしれない。
完全には信じられないかもしれない。
けれど、「信じてみようとする」ことくらいは、今の俺にもできるはずだ。
期限切れの罰ゲームから始まった恋は、十年という長い執行猶予を経て、ようやく本当の愛へと辿り着くためのスタートラインに立ったのだ。
傷痕を抱えて、それでも、俺たちは生きていく。




