第三話 静かなる処刑準備
月曜日の朝。
重い瞼を持ち上げると、窓の外は皮肉なほど爽やかな朝日で満たされていた。
スズメのさえずり。近所の主婦が掃き掃除をする音。
世界は昨日と何一つ変わらず回っている。俺の世界だけが、完全に崩壊してしまったというのに。
鏡の前に立つ。そこに映る自分の顔は、酷く無機質だった。
目の下のクマ、血色の悪い肌。だが不思議と、瞳だけは凪いだ湖のように静まり返っていた。
昨晩、俺は一睡もしていない。
悲しみも怒りも、夜の闇に溶けて消えた。残ったのは、目的を遂行するための冷たい演算処理能力だけだ。
「……おはよう、翔太」
鏡の中の自分に挨拶をする。
それは、かつての「佐藤翔太」への別れの言葉であり、今日から始まる復讐劇の主演男優への合図でもあった。
制服に袖を通す。いつもと同じ白いシャツ、紺色のブレザー。
だが、その内側にある心臓は、もう昨日のようには脈打っていない。
俺は仮面を被る。
「気弱で地味で、純粋に彼女を愛している陰キャの彼氏」という、彼らが求めている完璧なピエロの仮面を。
学校へ向かう通学路。
いつもの交差点で、いつものように彼女が待っていた。
高槻レナ。
今日も完璧に可愛い。少し憂いを帯びた表情さえ、計算された演出に見える。
俺の姿を見つけると、彼女はパッと表情を明るくした。
「あ、翔太くん! おはよう!」
駆け寄ってくる足音。揺れる髪。
昨日までなら、この瞬間に胸が高鳴っていただろう。
だが今は、彼女の背後に黒い糸が見えるようだった。ダイキという人形使いに操られ、俺という観客を騙すための舞台装置。
「おはよう、レナ。待たせてごめんね」
俺は口角を上げ、少しはにかんで見せる。
自分の演技力の高さに、少し驚いた。吐き気がするほどの嫌悪感を完璧に隠蔽し、愛おしげな視線を作ることができている。
人間、極限状態になれば誰でも名優になれるのかもしれない。
「ううん、待ってないよ。……あのね、翔太くん」
「ん?」
「昨日の夜、MINEの返信なくて……ちょっと心配しちゃった。既読もつかなかったし」
レナが上目遣いで俺を覗き込む。
心配?
どの口が言うのだろう。
俺が既読をつけなかったのは、お前たちの裏切りを知って絶望していたからではない。お前たちの破滅の準備に忙しかったからだ。
「ああ、ごめん。ちょっとパソコンの調子が悪くてさ、修理してたらそのまま寝落ちしちゃったんだ」
「そっか……よかった。嫌われたのかと思っちゃった」
「まさか。俺がレナを嫌いになるわけないだろ?」
俺はサラリと言ってのけた。
その言葉を聞いて、レナが一瞬、安堵とも罪悪感ともつかない複雑な表情を浮かべるのを俺は見逃さなかった。
かつては「なんて繊細な子なんだろう」と解釈していたその表情も、今では「罪の意識に苛まれる哀れな共犯者」の顔にしか見えない。
どちらにせよ、もう遅い。
彼女がどれだけ心を痛めていようが、彼女は昨日、あの教室で俺を守らなかった。
ダイキに同調し、俺を嘲笑う側に回った。それが全ての答えだ。
教室に入ると、空気が澱んでいるのを感じた。
教室の後ろ、窓際の一角。そこが陽キャグループの根城だ。
黒川ダイキが机に座り、大声で笑っている。その周りにはミキ、ケンジ、その他数人の取り巻きたち。
俺とレナが教室に入った瞬間、彼らの視線が一斉にこちらに向いた。
「おー、来た来た。噂のバカップル」
ダイキがからかうように声を上げる。
以前なら縮こまっていただろうその言葉も、今はただのノイズにしか聞こえない。
俺は怯えたフリをして、視線を落とす。
「……おはよう、ダイキくん」
「声ちっせえなー。朝から元気出せよ陰キャくん。レナに精気吸い取られたか? ギャハハ!」
下品な笑い声が爆発する。
レナが気まずそうに俺の袖を引く。
「行こう、翔太くん。席につこ」
「……うん」
俺たちは彼らの嘲笑を背に受けながら、自分の席へと向かう。
背中越しに、ミキのひそひそ話が聞こえた。
「ねえ見た? あの顔。マジで何も気づいてないよ」
「ウケるー。ピエロすぎて可哀想になってきた」
「日曜日が楽しみだねー。最後の晩餐ってか?」
クスクスという忍び笑い。
俺は鞄を机に置きながら、心の中で冷ややかに呟く。
(笑えよ。今のうちに思いっきり笑っておけ)
お前たちのその笑顔が、恐怖と絶望で歪む瞬間を見るのが楽しみで仕方がない。
俺は教科書を開くフリをして、スマホを取り出した。
画面には、昨晩セットしておいたクローリングプログラムの結果が表示されている。
獲物は網にかかっている。
まずは、外堀から埋めていく。
授業中、俺はずっとノートパソコンを開いていた。
この学校では、授業でのタブレットやPCの使用が許可されている。
教師は俺が真面目に板書を取っていると思っているだろうが、画面に映っているのは無機質なコードの羅列だ。
俺の指はキーボードの上を滑るように動き、学内ネットワークを経由して、彼らのデジタルタトゥーを掘り起こしていく。
最初のターゲットは、取り巻きの一人、ケンジだ。
あのお調子者の腰巾着。ダイキの威光を笠に着て、自分まで偉くなったと勘違いしている男。
彼のTwotterのアカウントは以前から知っていたが、それは表向きの綺麗なものだった。
だが、人間には承認欲求という抗えないバグがある。
特に彼のような、中身のない人間ほど、悪いことをして「すげえ」と言われたがるものだ。
俺はケンジがよく使うハンドルネームのパターンを解析し、類似のアカウントを検索する。
『ken_G_max』『dark_emperor』……中二病全開のネーミングセンスに呆れながら、一つ一つ照合していく。
そして、ヒットした。
『裏・夜の帝王』という、痛々しい名前の鍵付きアカウント。
フォロワーは数十人。おそらく地元の悪友たちだろう。
鍵を突破するのは造作もない。彼らはセキュリティ意識など皆無だ。パスワードなど、どうせ誕生日か車のナンバーだろう。
案の定、彼のバイクのナンバーでログインできた。
中身を見て、俺は冷笑を漏らす。
予想通りだ。
未成年の飲酒、喫煙は当たり前。
さらに悪質なのは、深夜のコンビニ前での迷惑行為の動画。
そして決定的だったのは、数ヶ月前に起きた近隣の公園のトイレ破壊事件。
「うぇーい! やってやったぜ!」というコメントと共に、スプレーで落書きをし、便器を破壊する動画がアップされていた。
警察が捜査していた事件だ。
こいつだったのか。
俺は動画をダウンロードし、丁寧に保存する。フォルダ名は『Target_01_Kenji』。
これでケンジの人生は終わったも同然だ。停学、いや退学は免れないだろうし、損害賠償で親も巻き込んで破滅だ。
次は、ミキ。
レナの親友を自称する、派手なメイクの女。
昨日の教室で、俺のことを一番楽しそうに嘲笑っていたのを忘れていない。
彼女の場合は、金だ。
高校生離れしたブランド品のバッグ、高級コスメ、頻繁なカフェ通い。
親が金持ちという噂もない。ならば、出処は一つしかない。
俺は彼女のアウスタ(写真共有SNS)を解析する。
一見、キラキラした女子高生の日常だが、写真の背景、映り込み、投稿時間、位置情報を点と点で結んでいく。
ある高級ホテルのラウンジでの自撮り。
向かいの席にあるグラスに、中年男性の腕時計とスーツの袖が映り込んでいる。
パパ活。
それも、かなり黒い交際だ。
さらに深く掘る。彼女が使っているフリマアプリのアカウントを特定する。
そこには、『使用済み』と明記された制服や体操着、下着が高額で出品されていた。
取引履歴には、生々しいやり取りが残っている。
『Target_02_Miki』。
フォルダがまた一つ増えた。
この事実が学校中に知れ渡れば、彼女のプライドはずたずたに引き裂かれるだろう。
そして、本丸。黒川ダイキ。
こいつだけは、慎重にいかなければならない。
親が地元の有力者で、警察にも顔が利くと聞いている。生半可な証拠では揉み消される可能性がある。
確実に、息の根を止めるネタが必要だ。
俺は、ダイキがいつも持ち歩いているスマホに狙いを定めた。
彼が授業中に居眠りをしている隙に、俺はBluetoothの脆弱性を突くプログラムを走らせる。
完全に中身を覗くことはできないが、彼が使っているクラウドサービスのIDを特定することには成功した。
家に帰ったら、総当たり攻撃でパスワードを破る。
奴の性格からして、複雑なパスワードを設定しているとは思えない。
「自分は特別だ」「誰も俺には手出しできない」という傲慢さが、最大のセキュリティホールになる。
昼休み。
俺は「ちょっと図書室で調べ物があるから」と嘘をつき、レナからの昼食の誘いを断った。
一緒に弁当を食べるフリをするのは、今の俺の精神力では限界だった。
それに、一刻も早くダイキのクラウドに侵入したかった。
図書室の隅にあるPCコーナー。ここは死角になっていて、誰も来ない。
俺は自前のノートPCを開き、ダイキのアカウントへの攻撃を開始する。
『daiki1234』『god_daiki』『rena_love』……。
辞書攻撃を繰り返すこと数分。
ヒットした。
『daiki0808』。
自分の誕生日。あまりの単純さに、俺は乾いた笑い声を漏らしそうになった。
セキュリティへの意識の低さは、そのまま知能の低さだ。
ログイン成功。
画面に、ダイキのクラウドストレージの中身が表示される。
写真、動画、メモ帳。
膨大なデータの中から、俺は『Business』というフォルダを見つけた。
ビジネス? 高校生が?
中を開くと、そこは犯罪の博覧会だった。
違法薬物の写真。
売買の取引記録をつけたスプレッドシート。
顧客リストには、他校の生徒や、大人の名前も混じっている。
さらに、『Review』というフォルダには、薬物を使用した状態でラリっている仲間の動画が保存されていた。
これは、退学レベルではない。
刑事事件だ。少年院行きは確実、親の権力など通用しないレベルの重罪だ。
俺の手が震える。
恐怖ではない。武者震いだ。
これで、奴を殺せる。
社会的に、完全に、抹殺できる。
だが、俺の手はそこで止まらなかった。
もう一つ、気になるフォルダがあったからだ。
フォルダ名は『Toy_Box(おもちゃ箱)』。
嫌な予感がした。
クリックする指が重い。
開かれたフォルダの中に並んでいたのは、数人の女子生徒の画像と動画だった。
その中には、見知った顔があった。
高槻レナ。
サムネイルを見るだけで、それが何を意味するのか理解できた。
怯えた表情。涙で濡れた頬。
服を脱ぐことを強要され、抵抗しながらもカメラを見つめる彼女の姿。
『別れたらこれをバラ撒く』
昨日の教室で、ダイキが言っていた言葉が蘇る。
これが、その「首輪」か。
俺は動画の一つを再生した。
「……やだ、やめて、ダイキくん」
「あ? うるせえな。俺のこと愛してんだろ? 証明してみろよ」
「そんな……お願い、撮らないで……」
「いい顔だなぁ、レナ。これがあれば、お前はずっと俺のモンだ」
動画の中のレナは、今の俺が知っている彼女とは別人だった。
弱々しく、無力で、ただただ恐怖に支配されている。
彼女もまた、被害者だったのだ。
この動画をネタに脅され、逆らえず、俺との罰ゲームも強要されていた。
「可哀想だから」
彼女が言ったあの言葉も、もしかしたら嘲笑ではなく、自分と同じようにダイキの玩具にされた俺への、精一杯の同情だったのかもしれない。
俺の中で、冷徹な理性が揺らぐ。
(レナを……助けるべきか?)
この証拠があれば、ダイキを逮捕させ、レナを解放することができる。
彼女は脅されていただけだ。俺を裏切っていたのも、保身のためだったのなら、情状酌量の余地はあるのではないか?
モニターの中の泣き顔を見ていると、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
あの日々の笑顔。
繋いだ手の温もり。
「翔太くんといると落ち着く」という言葉。
あれらが全て嘘だったわけではないと信じたい自分が、まだ心の片隅に息を潜めていたのだ。
だが。
俺の脳裏に、昨日の光景がフラッシュバックする。
ミキたちと一緒に笑っていたレナ。
「彼氏ごっこ」「穏便に済ませたい」と言い放った冷たい声。
たとえ脅されていたとしても、彼女は俺を守ろうとはしなかった。
俺に真実を告げて助けを求めることもしなかった。
ただ、自分が可愛いから。自分が傷つきたくないから。
そのために、俺という人間を犠牲にしたのだ。
もし俺が昨日、真実を知らなかったらどうなっていた?
日曜日のデートで、俺は満面の笑みでプレゼントを渡し、その直後に捨てられていたはずだ。
そして、その無様な姿を、影で彼らに笑われていたのだ。
被害者?
違う。
彼女は、加害者の共犯を選んだのだ。
自分の尊厳を守るために、他人の尊厳を踏みにじることを選んだのだ。
その罪は、涙なんかで贖えるものじゃない。
「……甘いな、俺」
俺は唇を噛み切り、鉄の味を感じながら呟いた。
同情など不要だ。
慈悲など無用だ。
ここで情けをかければ、俺は一生「いい人のピエロ」で終わる。
俺が味わった絶望を、彼女にも味わわせてやる。
それが、俺の愛に対する、最後の誠意だ。
俺は『Toy_Box』の中身を全てコピーした。
そして、ある計画を思いつく。
この証拠を使ってダイキを破滅させるのは当然だ。
だが、それだけでは足りない。
レナにも、相応の罰を受けてもらわなければならない。
濡れ衣。
裏切り。
孤立。
彼女が一番恐れていることを、現実にしてやる。
チャイムが鳴り、昼休みが終わる。
俺はPCを閉じ、深呼吸をした。
心の中にあった僅かな迷いは、完全に消え去った。
残ったのは、鋭く研ぎ澄まされた刃のような殺意だけだ。
教室に戻ると、レナが心配そうに俺を見ていた。
「翔太くん、大丈夫? 顔色が悪いよ?」
その優しい声も、今は白々しく響く。
「うん、ちょっと貧血気味でさ。でも、少し寝たら楽になったよ」
俺は完璧な笑顔で答える。
そして、心の中で彼女に宣告する。
(楽しんでくれよ、レナ。お前が始めたこのゲーム、エンディングは俺が決める)
週末には、学校の一大イベントである文化祭が控えている。
全校生徒が集まるステージ発表。
大型スクリーン。
大音響のスピーカー。
これ以上ない、最高の処刑台だ。
俺は、自分の手帳を開き、日曜日のページに大きくバツ印をつけた。
そして、文化祭の日付の欄に、赤ペンで書き込む。
『Judgment Day(審判の日)』
ターゲットは全員。
証拠は揃った。
あとは、シナリオ通りに彼らを踊らせるだけだ。
俺は、次の授業の準備をするフリをして、彼らの破滅へのカウントダウンを開始した。
「……ねえ、翔太くん。文化祭、一緒に回ろうね」
レナが無邪気に言った。
俺は彼女の目を見つめ、深く頷く。
「もちろん。……絶対に忘れられない文化祭にしよう」
その言葉の真意を、彼女はまだ知らない。
俺の復讐劇は、もう誰にも止められない。




