第一話 期限切れの幸福論
初夏の風が、教室のカーテンを大きく揺らしている。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、張り詰めていた空気が一気に緩み、クラスメイトたちの喧騒が波のように広がっていった。部活の準備をする音、廊下を走る足音、週末の予定を話し合う甲高い笑い声。
そんなありふれた日常の光景が、今の俺にはまるで映画のワンシーンのように輝いて見えた。
「翔太くん、お待たせ」
背後からかけられた声に、俺、佐藤翔太は弾かれたように振り返る。
そこには、夕陽を背負って柔らかく微笑む、高槻レナ(たかつき れな)の姿があった。
肩まで伸びた亜麻色の髪が光を透かして揺れ、大きな瞳が俺を真っ直ぐに捉えている。制服のリボンは緩みなく整えられ、その立ち姿だけで周囲の空気が浄化されるような、圧倒的な可憐さ。
クラスのカーストで言えば最上位。いや、カーストという概念すら及ばない「高嶺の花」。
それが、今の俺の彼女だ。
「ううん、全然待ってないよ。……行こうか」
「うん!」
俺たちは並んで教室を出る。
廊下ですれ違う男子生徒たちが、驚きと羨望、そして少しの嫉妬を含んだ視線を向けてくるのを肌で感じる。無理もない。クラスでも目立たない、成績も中の中、趣味と言えばパソコンをいじってデータの海に潜ることくらいという地味な俺が、学校一の美少女と歩いているのだから。
けれど、今の俺にはその視線すら心地よい優越感に変わる。
俺の右手には、レナの左手の温もりがしっかりとあった。華奢で、折れてしまいそうなほど細い指。それを壊さないように優しく包み込むと、彼女の方からもきゅっと握り返してくる。
この感触だけが、俺にとっての絶対的な真実だった。
校門を出て、駅へと向かう通学路。
並木道の木漏れ日が、アスファルトにまだら模様を描いている。
「ねえ翔太くん。次の日曜日なんだけど」
「あ、うん。映画だよね? チケット、もう予約してあるよ」
「本当? さすが翔太くん、仕事が早いね」
レナが嬉しそうに笑う。その無邪気な笑顔を見るだけで、胸の奥が温かいもので満たされていく。
俺たちの交際が始まって、もうすぐ三ヶ月が経とうとしていた。
始まりは、あまりにも唐突だった。
三ヶ月前の放課後、校舎裏に呼び出された俺は、そこで顔を真っ赤にしたレナから告白されたのだ。「ずっと気になってたの」と震える声で言われた時、俺は新手の詐欺か、ドッキリカメラの存在を疑った。
当然だろう。俺と彼女とでは住む世界が違いすぎる。
陽キャグループの中心にいる彼女と、教室の隅でモニターを見つめている俺。接点など皆無に等しかった。
だから最初は、周囲も噂していた。「どうせ罰ゲームだろ」「一ヶ月もすれば捨てられるよ」と。
俺自身、その可能性を否定できなかった。一ヶ月。それが一つの区切りだと思っていた。もしこれが悪ふざけなら、一ヶ月という期間は笑い話にするのに丁度いい長さだからだ。
毎日が怖かった。いつ「嘘でした」と言われるのか。いつ冷たい目で見下されるのか。
けれど、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎても、レナは俺のそばにいた。
それどころか、時間は経つにつれて彼女の態度はより親密に、より甘いものになっていった。
俺の好きなマニアックな映画の話を真剣に聞いてくれたり、俺が何気なく言った好物を覚えていてお弁当を作ってきてくれたり。
偽物にしては、あまりにも手が込みすぎている。
演技にしては、その瞳に宿る熱がリアルすぎる。
だから俺は、自分に言い聞かせたのだ。これは奇跡なのだと。神様が俺の人生に一度だけくれた、最高のご褒美なのだと。
「楽しみだなあ。翔太くんと出かけるの、一番落ち着くかも」
「……そ、そう?」
「うん。翔太くんって、すごく優しいし、物知りだし。一緒にいると、なんていうか……私が私でいられる気がするの」
レナは少し照れたように視線を逸らし、繋いだ手をぶんぶんと振った。
その言葉が、俺の心の柔らかい部分をくすぐる。
彼女が所属する陽キャグループは、いつも派手で賑やかだが、どこか張り詰めた空気があった。流行に遅れれば馬鹿にされ、空気を読めなければ排除される。そんな世界に疲れていたのかもしれない。
俺という「避難所」を見つけてくれたのなら、俺は全力で彼女を守りたいと思う。
彼女が安らげる場所でありたい。その為なら、なんだってできる気がした。
「俺もだよ、レナ。レナといる時が、一番幸せだ」
ありったけの想いを込めて伝えると、レナの足が一瞬止まった。
彼女の顔を見ると、なぜか泣きそうな、ひどく困惑したような表情を浮かべていた。
「レナ? どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。ただ、ちょっと嬉しくて」
すぐにいつもの笑顔に戻ったが、その一瞬の翳りが、俺の心に小さな棘のように引っかかった。
最近、彼女は時折こうして何かに怯えるような、あるいは何かを悔いるような表情を見せることがある。
俺が「何か悩みがあるなら聞くよ」と言っても、彼女は決まって首を振り、「翔太くんには関係ないことだから」と口をつぐむのだ。
それが、俺に心配をかけまいとする優しさなのか、それとも踏み込ませたくない境界線なのか、俺にはまだ判断がつかずにいた。
駅前の交差点で、信号が赤に変わる。
立ち止まった俺たちの前を、大型トラックが音を立てて通り過ぎていく。
「あ、そうだ翔太くん。今日はごめんね、この後ちょっと用事があって」
「え? 一緒に帰れないの?」
「うん……友達と約束してて。ミキたちが、どうしてもって」
申し訳なさそうに眉を下げるレナ。
ミキというのは、彼女がいつも一緒にいるグループの女子だ。派手なメイクと、人を値踏みするような視線が苦手な相手だった。
「そっか。残念だけど、仕方ないね。付き合いも大事だし」
「ごめんね。埋め合わせは、日曜日に絶対するから」
「気にしないでいいよ。じゃあ、ここで」
「うん。また明日ね、翔太くん」
レナは名残惜しそうに俺の手を離すと、小さく手を振って駅とは反対方向の繁華街の方へと歩き出した。
遠ざかる彼女の背中を見送りながら、俺は掌に残る温もりの余韻を握りしめる。
用事があるなら仕方ない。俺は独占欲の強い彼氏にはなりたくなかったし、彼女の交友関係を尊重したかった。
それに、俺にもやるべきことがあった。
日曜日は、付き合って三ヶ月の記念日だ。
俺は鞄の奥底にある、小さな箱の感触を確かめる。
アルバイト代を三ヶ月分貯めて買った、シルバーのネックレス。彼女の好きなブランドの、新作デザインだ。
これを渡した時の、彼女の驚く顔が見たい。
「こんなの初めて」と喜んでくれるだろうか。
そんな幸福な想像に浸りながら、俺は軽い足取りで駅の改札をくぐった。
この時の俺は知らなかったのだ。
レナが向かった先で、どんな地獄が待っているのかを。
そして、「三ヶ月」という時間が、とっくに期限切れの砂時計であることを。
***
繁華街の路地裏にある、薄暗いカラオケボックスの一室。
防音扉越しにも漏れてくる重低音と、廊下に染み付いたタバコと安酒の臭いが、レナの胃をきりきりと締め上げていた。
重い扉を開けると、そこには淀んだ空気が充満していた。
テーブルの上には空になった酒の缶やスナック菓子の袋が散乱し、ソファには制服を着崩した男女数人がだらしなく座り込んでいる。
その中心で、スマホをいじりながら電子タバコの煙を吐き出している男——黒川ダイキ(くろかわ だいき)が、入ってきたレナを一瞥して口角を歪めた。
「おっそいよ、レナ。またあの陰キャとイチャついてたのか?」
ダイキの声に、取り巻きのミキやケンジたちが下品な笑い声を上げる。
「ちょ、ダイキくん。あんまり言ってやんなよぉ。レナだって大変なんだからさあ、あんなキモオタの相手」
「マジ尊敬するわー。俺なら三秒で吐くね」
嘲笑の嵐。
レナは拳を握りしめ、震えそうになる足を叱咤して部屋の中へと進んだ。
かつては、この空間が世界のすべてだと思っていた。
陽キャグループのリーダー格であるダイキの彼女でいることが、自分の価値のすべてだと信じていた。
けれど、今は違う。
翔太と過ごした三ヶ月が、レナの価値観を根底から変えてしまっていた。
翔太の不器用だけど温かい言葉。打算のない優しさ。私の顔や体ではなく、心を見てくれる真摯な瞳。
彼といる時の穏やかな時間こそが、本当の幸せなのだと知ってしまった。
だからこそ、終わらせなければならない。
この残酷で、悪趣味な嘘を。
「……ダイキ。話があるの」
レナの声は震えていたが、その瞳には決死の覚悟が宿っていた。
ダイキはスマホを放り出し、面白そうに目を細める。
「なんだよ、改まって」
「もう……やめたい。あの人との、罰ゲーム」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
ミキたちが顔を見合わせ、気まずそうに視線を逸らす。
ダイキだけが、表情を変えずに紫煙をくゆらせた。
「やめたい? なんで?」
「もう十分でしょ? 一ヶ月だけの約束だったのに、もう三ヶ月も経ってる。これ以上騙すなんてできない。私、翔太くんに本当のことを言って、謝りたい」
「謝る? あのゴミにか?」
ダイキが鼻で笑う。
その侮蔑的な響きに、レナの中で熱いものが込み上げた。
「ゴミなんかじゃない! 彼は……翔太くんは、あんたたちなんかよりずっと真っ当で、優しい人よ!」
叫んでしまった。
言ってはいけない言葉だったかもしれない。けれど、もう止められなかった。
「私、彼のこと本当に好きになっちゃったの。だから、ダイキとは別れる。もうあんたの言いなりにはならない!」
静寂。
張り詰めた沈黙が部屋を支配する。
レナは肩で息をしながら、ダイキの反応を待った。殴られるかもしれない。罵倒されるかもしれない。それでも、この関係を断ち切れるなら構わない。
しかし、ダイキの反応は予想外のものだった。
彼は怒るどころか、楽しそうにクツクツと喉を鳴らして笑い出したのだ。
「あーあ、言っちゃった。マジかよお前、あんな陰キャに本気になっちゃったわけ?」
「……笑わないで」
「いや笑うだろ普通。お前、鏡見てみろよ。学校一の美少女が、スクールカースト最底辺のオタクに惚れた? 傑作だな、おい!」
ダイキが大袈裟に手を叩くと、周囲の取り巻きたちも追従して乾いた笑いを上げた。
しかし、ダイキの目は笑っていなかった。
爬虫類のように冷たく、濁った光がレナを射抜く。
彼はゆっくりとソファから立ち上がり、レナとの距離を詰めた。
威圧感に思わず後ずさるレナの顎を、乱暴な手つきで掴み上げる。
「痛っ……!」
「いいか、レナ。勘違いするなよ。お前は俺のモンだ。俺が飽きるまで、所有権は俺にある」
「は、離して……!」
「別れる? いいぜ、別れてやるよ」
ダイキは顔を近づけ、レナの耳元で囁いた。その声は、甘く、そして毒を含んでいた。
「ただし、別れた瞬間にバラ撒くけどな。『アレ』」
レナの顔から血の気が引いた。
全身の血液が逆流するような悪寒が走る。
『アレ』の意味を、レナは痛いほど理解していた。
かつて、ダイキに強要されて撮らされた、恥ずかしい動画や写真。
「俺たちだけの秘密だ」「愛してる証拠だ」と言われて、拒否できずに撮らせてしまった自分の愚かさが、今、首輪となって締め付けてくる。
「……そ、そんなこと、犯罪だよ」
「知るかよ。海外のサーバー経由で匿名掲示板にアップすれば、俺だってバレねえし。一度ネットに出回ったら、もう一生消せねえぞ? お前の人生、終わりだな」
「…………っ」
「学校にも居られなくなるだろうな。親も泣くかもな。あ、当然あの陰キャくんの目にも入るだろうぜ。あいつ、パソコン得意なんだろ? 自分の彼女のあられもない姿を見て、どんな顔するかなあ」
ダイキの言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となってレナの心を切り刻む。
翔太に見られること。
それだけは、死んでも嫌だった。
彼の中で、私は綺麗なままの「高槻レナ」でいたかった。
汚れた過去も、愚かな過ちも、すべて隠し通して、彼の隣にいたかった。
「嫌……それだけは、嫌……」
「なら、いい子にしてろ」
ダイキはレナの顎を突き放し、ソファにどかっと座り直した。
「ゲームは続行だ。俺が『もういい』って言うまで、あいつと付き合ってろ。あいつが本気になればなるほど、最後にバラした時の絶望面が拝めるからな」
「……悪魔」
「褒め言葉として受け取っとくわ。ほら、分かったらさっさと帰って、あいつに『愛してる』ってMINEでも送ってやれよ。ピエロ役には餌が必要だろ?」
レナは唇を噛み締め、涙を堪えて部屋を飛び出した。
背後から聞こえる下卑た笑い声が、廊下の先まで追いかけてくるようだった。
走って、走って、路地裏の影にうずくまる。
胃液がせり上がり、込み上げる嗚咽を必死に手で押さえた。
どうして、こんなことになってしまったのか。
最初は軽い気持ちだった。「一ヶ月だけ陰キャと付き合ってこい」というダイキの命令を、ただの遊びだと思って引き受けた。
それが、こんなにも深く、抜け出せない泥沼になるとは思わなかった。
ポケットの中で、スマホが震えた。
翔太からのメッセージだ。
『今日は気をつけて帰ってね。日曜の映画、楽しみにしてる。大好きだよ、レナ』
画面に表示された文字が、涙で滲んで歪む。
「大好きだよ」
その言葉の純粋さが、今のレナには焼けるように痛かった。
私は彼を騙している。
彼の純情を踏みにじり、嘲笑う連中の片棒を担いでいる。
本当のことを言えば、彼は傷つくだろう。軽蔑されるだろう。
でも、言わなければ、彼はもっと酷い方法で真実を知ることになる。
ダイキは本気だ。いつか必ず、翔太を破滅させるために全てを暴露するつもりだ。
(私が……私がなんとかしなきゃ)
レナは震える指で、画面に文字を打ち込む。
『うん、私も楽しみ。……翔太くん、愛してる』
送信ボタンを押した瞬間、罪悪感が胸を引き裂いた。
嘘じゃない。愛しているのは本当だ。
けれど、この状況で告げる愛の言葉は、裏切り以外の何物でもなかった。
リベンジポルノの恐怖と、翔太への想い。
二つの感情に引き裂かれながら、レナは薄暗い路地裏で一人、声を殺して泣いた。
***
その夜。
俺、佐藤翔太の部屋は、静かな駆動音だけが響いていた。
机の上には三台のモニターが並び、それぞれが異なる文字列を高速で表示している。
俺はメインのモニターに向かい、キーボードを叩きながら、日曜日のデートプランを最終確認していた。
映画の上映時間、その後のカフェの予約状況、天気の予測データ。
完璧だ。
隙のない計画を立てるのは得意だった。不確定要素を排除し、最適解を導き出す。プログラミングと同じだ。
ふと、サブモニターに映し出されたMINEの画面に目をやる。
レナからの返信は、短かった。
『うん、私も楽しみ。……翔太くん、愛してる』
いつもなら、もっと絵文字が多かったり、スタンプが送られてきたりするのに。
今日は文章だけ。しかも、返信までの時間が妙に長かった。
「疲れてるのかな」
俺はそう解釈した。
彼女は人気者だ。交友関係も広いし、気疲れすることも多いだろう。
ダイキとかいう素行の悪い連中とも付き合いがあるようだし、きっと断れない誘いもあったに違いない。
そんな彼女が、俺の前でだけは弱音を吐かず、「愛してる」と言ってくれる。
それだけで十分じゃないか。
俺は画面の文字を指でなぞり、ふっと頬を緩めた。
「俺も愛してるよ、レナ」
声に出して呟いてみる。
気恥ずかしいけれど、誰もいない部屋なら許されるだろう。
引き出しを開け、ラッピングされた小さな箱を取り出す。
このネックレスが、俺たちの絆をより確かなものにしてくれるはずだ。
三ヶ月。
それは、高校生カップルにとっては一つの壁だと言われている。
けれど、俺たちは違う。
この壁を越えて、半年、一年、そして卒業してもずっと。
俺はこの幸せを守り抜くつもりだった。
画面の端で、自作のクローリングプログラムが警告音を鳴らした。
ネット上の掲示板やSNSから、特定のキーワードを含む書き込みを収集するツールだ。
『裏垢』『流出』『地元』……。
最近、この地域の高校生のプライベートな画像が売買されているという噂があり、興味本位で監視プログラムを走らせていたのだ。
ログを確認すると、いくつかの怪しい取引の痕跡が見つかった。
だが、今の俺には関係のないことだ。
世の中の闇なんてどうでもいい。俺の世界は今、光に満ちているのだから。
俺はプログラムを最小化し、モニターの電源を落とした。
暗転した画面に、幸せボケした自分の顔がぼんやりと映る。
「……早く日曜日にならないかな」
ベッドに潜り込み、目を閉じる。
瞼の裏には、レナの笑顔が焼き付いている。
その笑顔が、涙で濡れた仮面であることに、俺はまだ気づいていなかった。
幸福という名の麻薬は、俺の観察眼を鈍らせ、思考を停止させていた。
その代償を支払う時が、すぐそこまで迫っているとも知らずに。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、机の上のネックレスを冷たく照らしていた。
それはまるで、これから始まる残酷な断罪劇への、静かな供物のようだった。
俺たちの「期限切れの恋」は、音を立てて崩れ落ちる瞬間を、静かに待っていた。




