第八話 いなくなってから分かること
中央ギルド本部、総務局。
朝の執務室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
怒鳴り声があるわけではない。
机を叩く音もない。
ただ、人が行き交い、書類が積まれ、
誰も全体を見ていない――そんな空気だった。
「……まだ、決裁が下りていない?」
若い職員が、困ったように書類を抱えて立っている。
「予算の再配分が必要だ。だが、どこから回せばいいか……」
別の職員が、首をひねる。
以前なら、こういう場面は長引かなかった。
誰かが間に入り、
必要な部署に声をかけ、
最小限の修正で流れを整えていた。
だが今、その“誰か”はいない。
「……レオンハルト課長代理は?」
声が上がる。
「会議です」
「また?」
中央の一角、会議室。
レオンハルト・ヴァルツェンは、席に座りながら眉間に皺を寄せていた。
議題は、複数の部署にまたがる損失処理。
原因は現場の判断ミスとされているが、
実際には指示系統の遅れが重なった結果だった。
「つまり、どこが責任を持つのか、という話ですね」
レオンハルトが言う。
「現場ではありません」
「いや、指示を待たずに動いたのが問題だ」
「それは結果論でしょう」
議論は噛み合わない。
誰も間違ったことは言っていない。
だが、誰も引き受けようとしない。
「……では、総務局としては」
局長が咳払いをする。
「前例に従って――」
「前例がありません」
誰かが言った。
場が、静まる。
レオンハルトは、その沈黙に覚えがあった。
(……以前も、似た場面があった)
だが、その時は。
「では、こちらで暫定的に調整します」
そう言って、書類を引き取った男がいた。
地味で、目立たず、
誰の手柄にもならない仕事を、黙ってやる男。
レオンハルトは、無意識に机の端を見た。
そこに置かれた資料の束。
引き継ぎの際に渡されたものだ。
開いてみる。
書類は整然としている。
だが、ただ整理されているわけではない。
ここを動かせば、あちらに影響が出る。
だから、この順で。
だから、このタイミングで。
行間に、判断が詰まっている。
「……これを」
レオンハルトは、思わず呟いた。
「これを、全部一人で?」
会議が終わっても、答えは出なかった。
結局、決定は先送り。
現場には「検討中」とだけ伝えられる。
執務室に戻ると、職員が待っていた。
「課長代理、あの件ですが……」
「まだだ」
「そうですか……」
落胆が、隠されない。
レオンハルトは、椅子に深く腰掛けた。
仕事はしている。
忙しい。
だが、何かが違う。
夕方、局長がふと思い出したように言った。
「……そういえば」
「セリーヌ君は?」
一瞬、空気が止まる。
「辞職しました」
誰かが答える。
「……ああ、そうだったな」
局長はそれ以上、何も言わなかった。
レオンハルトは、そのやり取りを聞きながら、
胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
(皆、分かっている)
(分かっているが、認めない)
認めた瞬間、
自分たちが何に支えられていたかが、
はっきりしてしまうからだ。
その夜。
レオンハルトは、一人で残業していた。
書類の山を前に、ため息をつく。
ふと、あるメモが目に留まった。
引き継ぎ資料の端に、走り書きされた文字。
『ここは、無理をさせない』
短い一文。
だが、その意味は重かった。
「……そういうことか」
レオンハルトは、初めて椅子から立ち上がった。
誰かが前に出て、
誰かが無理をして、
それを当然のように消していた。
評価も称賛もなく。
だから、いなくなってから分かる。
世界は、
“何も起きないようにする仕事”で、
支えられていたのだと。
レオンハルトは、窓の外を見た。
遠く、辺境の方角。
「……厄介な人を、手放したものだな」
それは、後悔とも、
まだ言葉にならない理解ともつかない呟きだった。
中央ギルドの夜は、今日も静かに更けていく。
だが――
辺境ではすでに、
小さな変化が、確かに積み上がり始めていた。
そして、この時はまだ、誰も想像すらしていなかった。
その小さなうねりが、
いずれ中央を激しく揺り動かす激流に変化していくことを。




