第三十七話 波紋
塔攻略から三日後。
辺境ギルドは、見た目にはいつも通りだった。
掲示板の前には依頼票を吟味する冒険者たちが集まり、
受付には簡単な質疑と報告が行き交う。
奥の訓練場からは、木剣と木剣が打ち合う乾いた音も聞こえてくる。
平常運転。
少なくとも、表面上は。
「最近、妙に依頼の確認が増えてませんか」
帳簿をめくりながら、セリーヌが言った。
「増えていますね」
カイは書類から目を離さず答える。
「討伐対象の危険度再確認、必要装備の確認、撤退条件の確認」
「今までは、そこまで細かく聞いてこなかった連中まで、です」
「良い傾向です」
淡々とした返答だった。
「……ええ。まあ、そうなんですけど」
セリーヌは少しだけ視線を上げる。
「理由が理由ですから」
塔の件は、公表されたわけではない。
だが、完全に隠し切れる性質のものでもなかった。
辺境北部で大規模な異常が起き、
中央Aランクパーティ銀牙が動き、
辺境ギルドの若手パーティ天衝がその場にいた。
しかも、帰ってきた全員が生きている。
それだけで、話は広がる。
どう広がるかを選べないだけで。
「噂になってますね」
「なっているでしょうね」
カイはようやく書類を置いた。
「放っておけば、そのうち収まります」
「収まる種類の話ならいいのですが」
セリーヌはそう言って、ため息を飲み込む。
その時だった。
受付の扉が勢いよく開いた。
「カイさん! セリーヌさん!」
飛び込んできたのは、見慣れた青年だった。
ハンス・ヴォルフ。
以前よりも仕立ての良い上着に身を包んでいるが、顔つきそのものは変わっていない。
ただ、今はその顔に、抑えきれていない高揚が浮かんでいた。
「おはようございます」
カイが言う。
「ええ、おはようございます! いや、そんなことより!」
ハンスは勢いのままカウンター前まで歩み寄る。
その背後で、数人の職員が何事かと視線を向けていた。
「塔攻略、おめでとうございます!」
声が少し大きい。
セリーヌが小さく眉を寄せる。
「ハンスさん、声量を――」
「失礼しました」
口ではそう言うが、まったく勢いは死んでいない。
「ですが、本当にお見事でした。今、国中この話で持ちきりですよ」
「国中、は大げさでは?」
セリーヌが冷静に返す。
「大げさではありません」
ハンスは胸を張った。
「少なくとも、商人の間では完全に広がっています」
「銀牙が辺境で動いた。塔の異常が止まった。辺境の若手パーティがそこで名を上げた。しかも、全員無事」
一拍。
「物流も動き始めています」
カイがわずかに目を細める。
「早いですね」
「早いですよ。皆、待っていたんです」
ハンスは頷いた。
「塔の周辺が危険なままだと、北側の商路は実質死んでいましたから」
「それが止まったと聞けば、そりゃあ動きます」
「確認も済まないうちから?」
セリーヌが言う。
「確認しながら動くんです。商人は」
言い切る声に、少しだけ以前にはなかった芯があった。
「今の時点で、物資の問い合わせはもう来ています」
「保存食、簡易装備、補修材、移動用の荷車――細かいものまで含めれば、かなりの量です」
それから、少しだけ顔を寄せる。
「そして何より」
口角が上がる。
「勝ちましたよ、カイさん」
その声音に、セリーヌが小さく目を瞬く。
カイは変わらない顔で問う。
「何にですか」
「今回の取引に、です」
ハンスは、とうとう堪えきれずに笑った。
「想定以上でした。正直に言います。ここまで早く反応が来るとは思っていなかった」
「辺境向けに抱え込んだ在庫も、もう半分以上は次の動きが見えています」
「商会内の評価も上がりました。裁量も広がります」
そこで一度、軽く息を吸う。
「いやあ……」
珍しく、年相応の顔だった。
「本当に、大勝負でした」
その様子を、少し離れた場所から見ていたマックスが、鼻を鳴らした。
「ずいぶん楽しそうだな」
受付の方へ歩いてくる。
「こっちは命張ってたんだが」
軽口だ。
だが、刺さるようにも聞こえる一言だった。
ハンスは、そちらを向いた。
表情を崩さない。
「ええ」
むしろ、真っ直ぐに答えた。
「ですから、僕も命を張りました」
マックスが一瞬だけ目を細める。
「……商人がか?」
「商人だから、です」
ハンスはそう言って、自分の胸元に手を当てる。
「負けていたら、この商会は終わっていました」
「在庫だけじゃありません。信用も、裁量も、たぶん全部失っていた」
少しだけ笑う。
「戦場が違うだけですよ」
その返答に、マックスは口を閉じた。
茶化すつもりだったのだろう。
だが、茶化せなくなった。
代わりに、頭を掻く。
「……悪かったよ」
「いえ。褒め言葉だと思っておきます」
そう返すハンスの口調は軽い。
だが、言っていることは軽くなかった。
グレンが後ろから近づいてきて、肩をすくめる。
「賭けに勝った奴は、だいたい声がでかいんだよな」
「勝った時くらいは、少し浮かれてもいいでしょう?」
「まあな」
そこで、セリーヌが小さく咳払いした。
「……理解はしていますが、あまり受付前で市場の勝利宣言をされると困ります」
「失礼しました」
ハンスは今度こそ素直に一礼した。
だが、目の輝きまでは隠せていない。
カイはそれを見て、ようやく短く言った。
「良い判断でした」
ハンスが顔を上げる。
一瞬だけ、言葉を探したようだった。
「……ありがとうございます」
短い返答。
だが、その一言で十分だった。
セリーヌが帳簿を閉じる。
「それで、“国中この話で持ちきり”というのは、具体的にはどういう広がり方を?」
「ああ、そこです」
ハンスの顔つきが、少しだけ実務に戻った。
「正確に伝わっている部分と、かなり怪しい部分があります」
「でしょうね」
セリーヌが即答する。
「まず、銀牙が塔を制圧した、という話が広がってます」
「これはまあ、半分正しい」
ブロムが後ろで鼻を鳴らした。
「半分かよ」
「もう半分は?」
カイが問う。
「辺境の若手が中央Aランクに食らいついた、という話です」
マックスが反応する。
「お、悪くねえな」
「ただし」
ハンスは指を一本立てた。
「その二つが、今のところ別々に広がっています」
「つまり?」
「銀牙の功績として語る人間と、天衝の快進撃として語る人間がいる」
一拍。
「そして、その二つを繋いでいるのが“辺境ギルド長の指揮だったらしい”という曖昧な噂です」
セリーヌの目が細くなる。
「曖昧、ですか」
「ええ。そこがまだぼやけている」
「銀牙が動いたのは事実。天衝がいたのも事実。塔が止まったのも事実。ですが、それを誰がどう動かしたかまでは、きちんと伝わっていません」
ハンスはそこで一度、カイを見る。
「逆に言えば、これからそこが問題になります」
カイは頷きもしない。
「そうですか」
それだけだった。
ハンスが少し苦笑する。
「……そこ、もう少し驚いてもいいところですよ」
「事実が変わるわけではありません」
「まあ、そうなんですが」
セリーヌは、そんなやり取りを黙って聞いていた。
噂が広がる。
商人が動く。
功績が分解される。
事実だけが、都合よく切り取られる。
ここまでは予想の範囲内だ。
問題は、その先だった。
「……広がりますね」
小さく呟く。
カイが視線だけ向ける。
「ええ」
「辺境で起きたこととしては、大きすぎます」
ハンスも頷く。
「だからこそ、皆が飛びついています」
その時、入口の方で足音がした。
見れば、アルトリウスが一人でこちらへ歩いてくる。
銀牙の他の面々は酒場の方に残っているらしい。
「話は終わったか」
ハンスが一歩下がる。
「今、だいたいまとまりました」
「そうか」
アルトリウスは短く応じ、カイを見た。
その視線は、塔の中にいた時と変わらない。
余計な感情の色がない。
「一つ、言っておく」
声は静かだった。
「このまま、中央が放っておくとは思わない方がいい」
受付の空気が、わずかに冷える。
誰も口を挟まない。
アルトリウスは続けた。
「銀牙が動いた」
「辺境の若手が結果を出した」
「そして、その指揮を執った人間がいる」
一拍。
「それを面白く思わない連中は、必ずいる」
事実だけを並べた口調だった。
だからこそ、重い。
カイは、少しだけ目を伏せる。
「でしょうね」
「分かっているならいい」
アルトリウスはそれだけ言った。
警告であり、確認でもあった。
セリーヌが、静かに口を開く。
「対策を考えておきましょう」
「ええ」
カイが頷く。
「いつも通り、出来ることから」
それで話は終わった。
派手な転機ではない。
誰かが大声を上げたわけでもない。
だが、確実に波紋は広がっていた。
塔で止めたはずの異常は、別の形で動き始めている。
人の口を通って。
商いを通って。
評価を通って。
辺境ギルドの受付には、いつも通りの空気が戻り始めていた。
それでも。
もう、何も変わらないふりはできなかった。




