第三十六話 報告書
中央ギルド総務局。
昼を過ぎても、室内の空気は変わらない。
書類が運ばれ、
判が押され、
次の机へと流れていく。
人は多い。
だが、声は少ない。
必要なことだけが処理される場所だった。
レオンハルトは、その一角でペンを走らせていた。
机の上には、未処理の報告書が積まれている。
優先度の低いものから順に処理する。
それが、この部署の基本だった。
辺境関連の報告も、その中に含まれている。
特別扱いはしない。
する必要がないからだ。
「……次」
短く呟き、一枚の書類を手に取る。
表題を確認する。
――辺境北部 異常事態 沈静化報告
視線が、ほんのわずかに止まる。
だが、それ以上の反応はない。
紙をめくる。
記述は簡潔だった。
発生時期。
被害範囲。
影響圏の推定。
周辺集落への直接被害は軽微。
ただし、魔獣の異常活性化により、継続的な危険状態。
ここまでは、よくある報告だ。
問題は、その先だった。
対応戦力。
――中央Aランクパーティ「銀牙」
――辺境ギルド所属パーティ「天衝のレゾナンス」
視線が、わずかに止まる。
組み合わせとしては、あり得なくはない。
だが、通常は逆だ。
中央が主導し、辺境は補助。
そうなるはずだった。
さらに読み進める。
戦闘経過。
魔獣の挙動に異常あり。
統制された動き。
出現間隔、一定。
討伐による減耗、効果なし。
ここで、レオンハルトの指が止まる。
(……討伐で減らない?)
あり得ない話ではない。
だが、その場合は結論が決まる。
長期戦、あるいは撤退。
そうなるはずだ。
だが。
報告は、そのどちらにも進まない。
次の行。
――対象は塔内部の防衛機構と推定
さらに。
――魔獣は防衛端末として機能
レオンハルトの眉が、わずかに動く。
(……装置か)
戦闘ではない。
構造の問題。
そう理解すれば、筋は通る。
だが。
その先が問題だった。
対応。
――中央制御装置の特定
――接続回路の遮断
――再起動処理
そして。
結果。
――異常停止
――再起動後、正常動作を確認
ページの下部。
損耗報告。
死者――なし。
重傷――なし。
軽傷――若干名。
レオンハルトの手が、完全に止まる。
視線だけが、数字を追う。
もう一度、最初から流す。
内容に矛盾はない。
記述も整理されている。
だが。
(……成立している)
それが違和感だった。
この規模の事案で。
この戦力配分で。
この結果。
(あり得なくはない)
だが。
(普通は、そうならない)
紙の端を、指先で軽く叩く。
癖だった。
さらに下へ。
指揮系統。
そこに記されていた名前。
――カイ・アークライト
数秒。
完全に動きが止まる。
(……やはりか)
声には出さない。
ただ、視線だけがわずかに細くなる。
続けて読む。
指示内容は簡潔にまとめられていた。
・不要な交戦の回避
・前進優先
・戦力分割
・中央突破による制御装置到達
・破壊ではなく停止
余計な装飾はない。
評価もない。
ただ、やったことだけが並んでいる。
だが。
(……無駄がない)
そして。
(逃げ道も用意されている)
撤退基準の記述もある。
魔力残量。
負傷率。
戦線維持可能時間。
すべて、数値で管理されている。
(徹底しているな)
レオンハルトは、わずかに目を閉じた。
思い出す。
あの人間のやり方を。
戦わない。
だが、負けない形を作る。
そして――
(誰も死なせない)
目を開く。
(偽善者め)
心の中で吐き捨てる。
だが。
その言葉に、以前ほどの棘はなかった。
書類を閉じる。
机の上に置く。
隣へ流せばいい。
いつも通りに。
そうすれば、この報告は埋もれる。
特に問題にはならない。
“よくできた事案”として処理されるだけだ。
レオンハルトは、次の書類へ手を伸ばしかける。
止まる。
視線が、先ほどの報告書へ戻る。
(……)
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ考える。
これは。
例外か。
それとも。
見逃していい範囲か。
銀牙が関わっている。
辺境での大規模事案。
そして、この結果。
見なかったことにすることもできる。
誰も責めない。
むしろ、その方が波風は立たない。
だが――
(それは、“記録”じゃない)
小さく息を吐く。
引き出しを開ける。
中から、一本の印を取り出す。
“重要”
それが押されれば、この書類は上に回る。
中央ギルド長の目に入る。
意味は、分かっている。
レオンハルトは、その印を見た。
指先が、わずかに止まる。
ほんの一瞬だけ。
それから。
迷いは消えた。
紙の端に、印を押す。
乾いた音が、小さく響く。
――重要
それだけだった。
特別なことはしていない。
必要な処理をしただけだ。
印を戻す。
書類を、別の束へと置く。
それで終わり。
レオンハルトは、何事もなかったかのように次の書類を手に取る。
視線はもう動かない。
手も止まらない。
ただ、処理を続ける。
だが。
その一枚は、確かに流れを変えていた。
誰にも気づかれないまま。
静かに。
上へと向かって。




