二章5話-束の間の戦い
――それを見た時に感じたのは、本能的な恐怖だった。どんな生物でも持ち合わせる、生存本能。種の存続のため、子孫を残すため、命を繋ぐために発揮される本能。
戦ってはいけない。立ち向かってはいけない。目の前に居るのは、こちらを一方的に殺せる存在だ。逃げなければ。逃げなければ殺される。生きるために、逃げろ。なりふり構わず、全て投げ出して逃げ出せ。
本能がそう訴えかけてくる。しかし、理性は『絶対に逃げてはならない』と語る。
ここで逃げ出せば街に被害が及ぶ。こいつが壁を抜けてしまったら、街は、人々は蹂躙される。そんなことには、させてはならない。絶対に。
――肩慣らしのつもりだった。準備運動のつもりだった。そのつもりの曉熊討伐依頼だった。今目の前に居るアレは、どう見ても曉熊ではない。10年でここまで種族単位で見た目が変わるはずがない。
……依頼は自然環境の中で行うものがほとんど。である以上、不測の事態は無いわけじゃない。そしてそれにも備えておくのが冒険者。だとしても、今回の場合は不測にも程がある。目の前のアレは、書物でも見たことが無い。
『悪魔』は明確にニコを視界に捉え、見つめている。獲物を値踏みするかのように、じっと観察している。
――頭の中で、理性と本能がせめぎ合う。逃げ出せ。逃げるな。逃げろ。逃げるな。投げ捨てろ。逃げるな。逃げるな。逃げるな。逃げるな。逃げるな。逃げるな。
ニコは眼前の敵に向け杖を構える。決して逃げないという、自らの意思を示すように。『悪魔』はその殺意を感じ取り――、瞬時に、ニコとの距離を詰める。四足で突っ込んできたその勢いのまま、明確な殺意を持って、その歪な爪でニコの腹部を破壊した。
「う‶ッ……!」
――痛い。しかし傷は、瞬く間に修復される。『魔女』の再生力は健在のようだ。ならば。
「……ッ逃げる理由なんて、ないよね。」
……こいつがゲインさんの言ってた『魔物』である確証はない。けど、わたしの勘が言ってる。「こいつがお前の罪の証だ。」と。
蘇生されてから魔法を使ってないから、気分的にはかなり久々。でも、やれる。ううん。やる。杖はさっきの一撃で折れた。問題ない。杖が無くても、魔法は撃てる。
覚悟を決める。肩慣らしも準備も不要。ここでこいつを、仕留める。
『悪魔』は攻撃した人間が死ななかったこと。傷が治っていること。初めて見るそれらに困惑し、あからさまに警戒している。――次の一手は、同時だった。
ニコは『悪魔』に向けて『水穿』を放つ。目標は脳の物理的な破壊。しかし『悪魔』はそれを躱し、ニコの顔に、爪による一撃を浴びせる。人間の身体で、これを避けるのは至難の業。当然、ニコは避けられず、鼻が、目が、口が破壊され、見るも無残な顔になる。しかしそれすらも1秒後には治り、次の一手へと移る。
――痛い。泣きそう。逃げたい。でも、こいつに襲われた人たちはもっと痛かったはずだ。恐かったはずだ。わたしが逃げ出していい理由なんて無い。だから、わたしの意思じゃなかったとしても、こんなやつを生み出してしまった、その責任はちゃんととらなきゃ。
ニコは次こそは、と『悪魔』に向けて『水穿』を放つ。今度の目標は手足の破壊。まずは機動力を削ぐ。薙ぎ払うように放たれた『水穿』に、『悪魔』の右後ろ足が引っ掛かり、切断される。『悪魔』は短く雄叫びを上げた後、怒りのままにニコに爪を振り下ろす。その爪はニコの身体を引き裂き、内臓が辺りに飛び散る。が――、それも瞬く間に再生する。
――『悪魔』は困惑した。今までの獲物は攻撃すれば動かなくなったというのに、今目の前にいる獲物は、三度攻撃してもまだ動いている。それどころか、壊したはずの頭が戻っている。あぁ――この獲物は、自分と同じなのか。
ニコは次の手を打つため、構える。『水穿』だけでは打てる手が限られている。何か他の手は――。
そう思案する最中、気付く。切断したはずの『悪魔』の足が、再生している。
「――!」
『魔物』は、その内に保有する魔力の多さから、『魔人』『魔女』と同じく強い再生力を有している。――否、順序が逆である。『魔人』『魔女』は、その魔力の多さから、『魔物』と同じく強い再生力を有している。
生まれついての『魔物』も、後天的に変異した『魔物』も、個体ごとの魔力量で多少の差はあるものの、皆一様に持つ力である。
――予想はしてた。再生力があることは。
「やっぱり、足切ったぐらいじゃ意味ないか。」
『悪魔』がニコを睨みつける。ニコは顔に付いた自身の血を拭い、魔法を構える。
「なら一撃で、殺し切らないと。」
この際、森の環境への被害は無視する。全力で、仕留める。
『悪魔』がニコに襲い掛かる。爪での攻撃は無意味と判断してか、今度は牙で。大口を開けて食らいつこうと、迫る。
「――『水穿・網』」
かつて猛筋猪相手に咄嗟に生み出した技を、迫る『悪魔』との間に展開する。『悪魔』は寸でのところで踏み止まり、打開の為の一手を考える。しかしその隙を、ニコは見逃さなかった。
「『囲め』」
展開されていた水の網が、『悪魔』の周囲、頭上までをも覆うように形を変える。『悪魔』は一瞬、判断が遅れ、逃げ損ねる。触れれば切断されると解っているものに、自ら触れるほど愚かではない。しかし、自身の再生力を知りながら、それに任せて囲みきられる前に無理矢理離れるという判断が出来ない程、理性的だったのが、仇となった。
「さよなら。――『縮め』」
『悪魔』を取り囲む水の檻が、急速に縮む。『悪魔』はその水に刻まれ、やがて大きな肉塊となった。
「……流石に、ここからは再生しない、よね?」
『魔物』の再生力は、基本的に魔人や魔女よりも弱い。そのことを知らないニコは、戦々恐々としながら肉の塊を見つめる。
「……念の為焼いておこうかな。」
火魔法で焼こうと、構えた瞬間、木の陰から声が掛かる。
「いい戦いっぷりだったね。ニコちゃん。」
「――リアンさん!」
「久しぶり、かな?」
笑顔で手をひらひらとさせているその様子に、懐かしさのようなものを覚えながら、駆け寄る。
「どうしたんですか?こんなところで……」
「ん~……実験も兼ねて、弟子の肩慣らしに、みたいな?」
「え?それってどういう……」
以前と変わらぬ調子で、何やらよくわからないことを言うリアン。ニコが思わず聞き返せば、それに返って来たのは――、
「今キミが仕留めたの、私の魔力で曉熊を加工した、いわば『森の悪魔』の模造品なんだ。」
「――へ?」
完全に想定の斜め上を行く、予想外の言葉だった。




