とある夏の話
夏休みの始まり、僕は久しぶりに祖父母の家に帰省した。
都心の学校にもすっかり馴染んできたけど、
この田舎の、湿った風や遠くの蝉の声には、
なんだか自分の一部が取り残されてる気がしていた。
祖父母の家の縁側に寝転がっていると、
坂道を自転車で駆け下りる音がした。
見上げると、麦わら帽子をかぶった少女がこっちを見ていた。
「……都会の人でしょ、あんた」
その声が、ひどく懐かしく感じた。
名前はヒナ。
僕よりひとつ下の、地元の中学に通う子だった。
最初は会えば軽口を叩くだけだったけど、
気づけば毎日のように、神社の階段で並んで話すようになっていた。
線香花火をしたり、川でサンダルを流されたり。
特別なことは何もなかったけれど、
ヒナと一緒にいると、
この町の時間が少しだけ特別に思えた。
「都会に戻ったら、忘れちゃうでしょ? こういうの」
ある夕方、ヒナが言った。
夕日が彼女の麦わら帽子を金色に染めていた。
「忘れないよ。ちゃんと覚えとく」
「ふーん……。じゃあ私のことも?」
「うん」
そう言った僕に、ヒナは少し寂しそうに笑った。
帰る日の前日、祖母が言った。
「明日は朝早く出るんでしょ。今日のうちにお別れ言っときなさいな」
僕はヒナに連絡しようとしたけれど、
スマホを開いたまま迷って、
結局、何も送らなかった。
神社の階段で待ってみたけど、ヒナは来なかった。
風だけが、木々の葉を鳴らしていた。
帰る日の朝、荷物を詰め終えて玄関に立ったときだった。
家の前に、自転車のブレーキ音が響いた。
「──何も言わずに帰るんだ」
息を切らしたヒナが、麦わら帽子を押さえて立っていた。
「ごめん、連絡……」
「いいよ。間に合ったし」
ヒナは少しだけ目を細めたあと、ふっと口を開いた。
「……あのね、好きだったよ。ほんの少しだけ。でも、忘れていいよ。どうせあんた、また都会で忙しくなるんでしょ」
僕は首を振った。
「忘れたくないよ」
ヒナは笑って、ほんの少し、震えた声で言った。
「──嘘だよ、幸せになってね」
そのまま自転車で走り去る彼女を、
僕は何も言えずに見送った。
遠ざかる後ろ姿と、風に揺れる麦わら帽子。
あの夏の終わり、
彼女がついた最後の“嘘”は、
ずっと僕の中で本当のように残っている。
追憶