第7話 〈煉獄〉
「炎龍百齧破ッ!」
夜の居住区、その表通りの一角に響く詠唱。
フレンの眼前、赤い魔法陣から、無数の炎が出現した。
炎龍百齧破。
無数の火柱を放つ高位炎魔術だ。
威力を分散させれば複数の敵を攻撃でき、一点に集中すれば魔獣の装甲も破壊できる。
しかし、発生する火力が甚大であるため、障害物の多い街中では発動しないのが定石だ。
にも関わらず、フレンはそれを発動した。
両端を住居に囲まれた表通りで。
「遂に魔導士の矜恃も捨てたかッ!」
吐き捨てながら、ヴェンダーは全身に風を纏う。
高速でフレンから距離をとり、路地裏へ。
奥から別の通りに抜け、さらに別の路地裏へ。
詠唱完了から魔術発動までの誤差は2.1秒。
その僅かな隙で、十分過ぎる距離をとった。
「私がどこにいるかなど分かるまい……! 撃てるものなら撃ってみろ! それとも住民ごと私を燃やすかッ!?」
次の瞬間、巨大な炎の渦が、表通りを通過した。
ヴェンダーはそれを、通りを二本挟んだ路地裏から見ていた。
闇雲に放った炎魔術はヴェンダーに当たらなかった。
魔術行使による魔力消費。格闘による負傷。
勝利の天秤は、間違いなくヴェンダーに傾いている。
「さて、あとは奴を見つけて……」
『今度こそ葬りさってやろう』。
そう呟こうとして、ヴェンダーは違和感に気づいた。
炎龍百齧破の直線上。
その建物が、一切燃えていない。
あれだけの火力を伴う攻撃で、なぜ家屋が崩壊していないのか…。
「…………?」
地響きのような音。
フレンの魔術の残響だろうか。
「ッ……!?」
違う。その音が、近づいてくる。
空気が沸き立つような轟音が近づいてくる。
それも、凄まじい熱波を伴って。
路地裏の双方向から。
「なん───ッ!?」
次の瞬間、左右から灼熱の炎が雪崩込んだ。
◇ ◆ ◇
「…………まぁ、当然か」
風を纏ったヴェンダーは、高速で自分の視界から消えた。
大規模破壊魔術の前であれば、それは当然の判断だ。
発動者であるフレンもそれは想定している。
解き放たれた炎龍百齧破は止まらない。
無数の炎渦が魔法陣から出現し、唸りをあげて爆進する。
しかし、その先に標的はいない。
そして一度解放した炎は戻らない。
敵には当たらず、ただ街に火を付け、新たな災害を生み出すだけ。
一介の魔導士が見れば、そう判断するだろう。
「───百首の龍・我より生じし汝」
追加の詠唱。
言の葉が大気を揺らし、魔力がフレンの全身を駆け巡る。
魔力は両腕に収束、血管が紫色に発光した。
ビキッ
後頭部を殴られたような衝撃。
鼻血が伝い、石畳に零れる。
しかし、過集中状態のフレンは痛みを感じない。
強引に、魔力を流し続ける。
「我に……従え!」
最後の一説。
次の瞬間だった。
轟音と共に家屋に殺到していた炎の群れが、急旋回した。
まるで意思を持ったかのように。
◇ ◆ ◇
「おー! やっぱりそう来たか!」
居住区の外れにある小高い山。
その頂上に、古びた鉄塔が立っている。
元々は送電線だったが現在は使われておらず、廃棄コストの問題から放置され、錆び付いた鉄塔だ。
その鉄骨に腰掛けながら、ライラは眼下の景色に手を叩いていた。
フレンが放った炎龍百齧破は、彼女の追加の詠唱と同時に、突然軌道を変えた。
その様は、炎を纏った獰猛な龍の群れ。
空気を引き裂き、路上の物体を須らく燃やし、しかし家屋は燃やさず、ぶつかりもせず。
居住区の表通り、裏通り、果ては狭い路地裏まで、余すことなく蹂躙していく。
「ヴェンダー如きじゃ、フレンのこれは見抜けないわよね」
そもそも魔術は、基本威力、造形、効果、指向性が厳格に設定されている。
それらの変更は、並大抵のことではない。
「魔術の仕様変更、指向性の強制操作なんて、そこらの魔導士じゃ考えもしないもの」
しかし、フレンは違う。
天性の魔力量にあぐらをかかず、常に魔術の鍛錬を欠かさなかった。
鍛えられた、極精密な魔術操作。
それが可能にした絶技こそ、魔術の指向性の操作なのである。
故に、〈煉獄〉。
圧倒的魔力量による高威力な炎魔術。
繊細な魔力操作による卓越した指向性の制御。
彼女の業火はまるで意志を持つように動き、対峙する者を焼き尽くす。
まるで罪人を焼き弔う、煉獄の炎の如く。
「魔力の追加投入。三節の詠唱。たったそれだけで魔術の指向性を再設定して、おまけに実戦に使えるまで洗練させるなんて……それに至るまで、どれだけ頑張ったことやら」
ヴェンダーは『全てに恵まれた貴様に何が分かる』と言った。
フレンを知る者は皆、彼女の天性の才のみを見る。
しかし、ライラは彼女の執念こそ評価していた。
己の罪を否定するために、罰を捩じ伏せるために、生きるために、フレンは努力を惜しまない。
不器用で愚直で回り道ばかりの生き方は、しかし、いつしか彼女の魔術を、至高の領域に押し上げていた。
「……だから、私は見てみたくなったのよ。フレンの我儘の果てにある景色」
煙と共に、言葉が夜風に溶ける。
煙は風に乗り、薄くなりながら南方へ流れていく。
その方向を、ライラはいつまでも見つめていた。
「…………あの壁の向こうにも、いつか」
見つめる先に、B区の山脈。
さらにその向こうに、夜の闇に紛れて、何かが光っている。
赤く点滅するそれは、中に浮いている。
いや、違う。固定されている。
『人獣都市』東京。
その全土を覆う、巨大な壁に。
人と魔獣を閉じ込めて逃がさない、黒い壁に。
ドォォオッ!
「きゃっ!?」
重い衝撃音。
ライラは危うく鉄骨から落ちそうになった。
音のした方角から煙が上がっている。
路地裏の片隅。ヴェンダーが避難した場所だ。
「ふふっ! これは勝負あったかしら?」
まるで博打でも見るように、笑って注目するライラ。
「…………あら?」
しかし、その表情はすぐに、訝しみへと変わった。
「全く、しぶといオッサンねぇ」
飛び上がった、火だるまの影を見つめながら。
ふっと、ライラの背後で小さな風が吹いた。
◇ ◆ ◇
「マ゛だダぁ゛ァ゛ぁ゛アぁァあぁ゛ッッ!!!」
上空から悲鳴にも似た絶叫。
フレンは思わず見上げ、凍りつく。
そこには、人の形をした何かがいた。
顔面は焼け爛れ、零れ落ちた左目が視神経でぶら下がっている。
左腕は焼け落ち、全身の至る所が赤熱している。
髪や衣類に纏わりついた炎は消えておらず、肉体は未だに焼かれ続けている。
命無き火だるま……いや、違う。
それは、全身を炎龍百齧破に焼かれたヴェンダーだった。
瀕死の重症。もはや放置しても死ぬだろう。
それでも諦めず、渾身の力で風魔術を行使して飛翔し、全身を焼かれながら燃え盛る路地裏を辛うじて脱出したのだ。
怨敵を殺す。その悲願だけを糧に。
「こロ゛ずゥ゛ッ! ゴろ゛じデャ゛る゛ぅッ!!」
焼かれた声帯から漏れる声にならない声。
唯一無事な右手を突き出し、フレンに標準を合わせている。
皮膚の溶けた腕に、紫色の亀裂が走る。
魔力の流動。同時に緑の魔法陣が出現した。
死に体になりながらも、フレンに一矢報いようと、ヴェンダーは魔術を発動させた。
常人の理解の及ばない執念。
張り詰めた怨嗟が、狂気が、ヴェンダー=アリウスを動かしていた。
「…………いい加減、死んどけよ」
その言葉とは裏腹に、フレンは危機的状況にある。
炎龍百齧破は未だに継続している。
一つの魔術を発動中に、別の魔術を行使することはできない。
つまり今のフレンには、風魔術に抵抗する術がない。
「……………………」
極限まで引き伸ばされた刹那。
フレンは、改めてヴェンダーを見つめる。
焼け爛れて化け物のようなその顔は、しかし、泣いていた。
口元が、僅かに動いている。
カ エ セ。
ナ カ マ ヲ カ エ セ。
「…………ごめんなさい」
フレンの表情に、悲愴の色が差す
彼は、彼らは極悪人だが、きっと、本当に仲間を大切に思っていたのだろう。
それを奪ったことは、たしかに、フレンの罪なのかもしれない。
「…………それでも、私は、生きたい」
明日を生きたい。
自分を肯定して生きたい。
別の生き方を見つけた『いつか』を生きたい。
それまで死ねない。
罪と言われても、エゴと言われても、関係ない。
自分を罰するなら、力で捩じ伏せる。
この『人獣都市』東京で、人として生きるために。
「炎獣咆衝砲ッ!」
「ゥ゛──────」
ヴェンダーが、爆発四散した。
左手を天に掲げるフレン。
その掌の先に、赤い魔法陣が花開き、散った。
次の瞬間、炎龍百齧破が終了。
右手の先の赤い魔法陣も散華した。
異なる魔術の同時使用。
本来なら有り得ない現実に、途切れる寸前のヴェンダーの意識が困惑する。
そして、彼女の両腕、紫の亀裂が入った両腕を見て、答えに辿り着いた。
二重術士。
魔力が集結し、魔術発動の基盤となる体の部位を、魔導器官と呼ぶ。
多くの魔導士は片腕がそれにあたり、魔術を行使する際、その部位の血管が紫色に発光する。
フレンの魔導器官は両腕。それだけなら決して珍しくはない。
魔術の威力が高まるだけであり、さほど脅威とは看做されない。
しかし、フレンは途方もない鍛錬の末に、各腕で別の魔術を行使する術を会得していた。
そのような特殊な魔導士を、二重術士と呼ぶ。
フレンは天才の土俵に自力で這い上がり、それを一切看破されることなく、ここまで戦ってきたのだ。
最後の最後まで、ヴェンダーにその可能性を悟らせないまま。
ドシャッ
全身を焦がし、炭の塊になったヴェンダーが、石畳に叩きつけられた。
傍らに立つフレンは、崩れ落ちそうな足で立ち続けている。
風が、止んだ。
中央区、居住区における市街戦。
勝ち残ったのは、フレン=ゲヘナ=バーネリアス。
フレン=ゲヘナ=バーネリアス
・魔術適正:炎
・魔導等級:一級魔導士
・魔導器官:両腕(二重術士)
・魔力滞留:頭痛→???
・所属組織:ギルド『マグナゲート』
・異名:〈煉獄〉