5 流転
「渡り」の日がやってきた。まだ集合時間の三十分前だが、すでに群のメンバー全員が集まっていた。しかしその中にミツルの姿はない。
数百メートルほど離れた湖面に、ミツルは一羽佇んでいた。みなが集まっているのが小さく見える。昨夜、誰にも言わずに姿を消したが、ミツルがいないことを口にする者はいなかった。群のメンバーにとって、ミツルはすでに忘れられた存在となっていた。
春の日差しが心地よい暖かさをもたらしている。晴れ渡った湖面が朝日に照らされて美しく輝いている。その光る水面の向こうに、大勢の鳥が終結している。
何をする気力もない。彼らと別れて気が楽になったというのも、正直ある。と同時に、寂しさと、これからの生活の不安もまたミツルに重くのしかかっていた。
乾いた空気を切り裂いて、大群が飛び立つ羽音が湖畔に響き渡った。耳をつんざくほどの大きな音だ。
ミツルに目にも、その光景がいやおうなく飛び込んでくる。これだけ多くの白鳥が一斉に飛び立って、密集して同じ方向へ飛んでいく光景は、まさに壮観だ。その姿は力強く、そして美しかった。
湖岸の人間たちが歓声を上げた。みな双眼鏡やカメラを目にあてて、嬉しそうな顔で、はしゃいでいる。
「何を喜んでやがる。人間どもには関係ねえだろう」
ミツルは小さくつぶやいた。
アホ臭くなったミツルは、大空を飛ぶ群からも湖岸の人間どもからも目をそらし、食べ物を探した。「自分は自分だ。今やることに専念するのみ」そう自らに言い聞かせた。それしかないであろう。
「朝飯を探そう」
腹が減っているわけではなかった。ただ、食餌を獲るという日常の瑣事に没頭することによって、「生きる意義」だの、「自分のアイデンティティ」などという出口のない思考に陥るのを避けたかった。何もかも忘れて目の前の事に没頭したかった。
ミツルは獲物を追うことに意識を集中させた。一匹の小魚に目を付けると、脇目も振らずに一心に追いかけた。獲物は浅瀬へ逃げていく。それを追って湖岸の近くまで寄った時、ふと顔を上げて驚愕した。人間のボートに囲まれていたのだ。
人間たちはミツルを包囲し、徐々にその輪を狭めてくる。逃げる先は陸地しかない。いや、陸地にもトラックと数人の人間がいる。
「どうして? どうして?」
あの優しい人間たちが、なぜ自分を捕まえようとするのか。
「そうか。オレがアヒルだからだ。あいつら人間は、白鳥には優しいが、アヒルは捕まえて食ってしまうんだ」
白鳥は上級生物で、アヒルは下級生物なのか。白鳥がケガをするのはかわいそうだけど、アヒルは殺して食べてしまうのか。
白鳥ではない、というだけで、なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのだろうか。人間とは何と自分勝手な生き物だろう。理不尽な思いがミツルの胸を覆った。
「アヒルでもいいじゃないか。オレはアヒルだ、それの何が悪い」
ミツルの心とは関係なく、ボートはどんどん近づいて来る。
「もう逃れられない」
逃亡を諦めた時、頭上から大きな網が落ちて来た。ミツルは抵抗しなかった。このまま死んでもいいと思った。
「湖畔のペンションの料理長は、天然産アヒルにこだわっているから高く売れるぞ。肉が引き締まって美味しいからな」
その料理長は白鳥保護団体の活動にも熱心に参加しているらしい。
トラックには大きな鳥カゴが載っている。中にはメスのアヒルが一羽いた。 網の中にいるミツルは、どうやら鳥カゴの中に入れられて、中にいるアヒルと一緒にされるようだ。
人間がミツルの体を手で抱えて、鳥カゴの入口を開けた。
と、その瞬間、中にいたアヒルがカゴの入口から飛び出した。
「逃げるぞ。殺されるよ」
メスのアヒルは、そう言い捨ててトラックから飛び降りた。
ついさっきまで「死んでもいい」と思っていたミツルだが、この瞬間「生きたい」と心から思った。
「こんな所で死んでたまるか」
ミツルは自分の身体を掴んでいる人間の手に噛みついた。顎に力を込めて、力一杯噛みついた。
「痛ぇ」
人間が手を離した隙に、メスの後を追ってミツルもトラックから飛び降りた。命懸けだった。
「何としても生き延びるんだ」
いつの間にか生への執念が湧いていた。ミツルは走った。息が続く限り走り続けた。これほど全力で走ったことは、今まで一度もなかった。走って走って走り続けた。
背後で人間たちが大声で騒いでいる。
小川が流れているのが見えてきた。
「あそこまで行けば助かる」
二羽は小川に頭から飛び込んだ。水柱が二つ小さく上がった。水に潜ると、人間どもはミツルたちを見失ってしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「危なかった。殺されて食われるところだった」
メスのアヒルの明るい笑顔がまぶしかった。体は疲れているけれど、心は晴れやかだ。
「私はミナ。あんたは?」
「オレは、ミツル」