2 挫折
ヒナたちの成長は早い。つい少し前までは、まだまだ子どもだ、とばかり思っていたのに、いつの間にかおとなへと近づいていた。
弟妹たちの羽の色が変化してきた事にミツルが気付いたのは、この頃だった。みにくい灰色だった彼らの羽は、徐々に白くなってきている。そう、おとなたちと同じように。弟妹たちは日に日に美しく変身していった。
ミツルの羽も白くなった。しかし同じ白でも、どことなく濁った冴えない白だった。「美しい自分と、みにくい弟」という優越性は崩れた。
それは忘れもしない夕刻の事だった。ちょうど日が西に傾いて湖面を赤く染めていた刻限だ。
ミツルの弟妹たちの中でも特に動きが鈍いのが末弟である。体ばかりが大きくて何をやっても不器用で魯鈍で、美しくもなかった。
その末弟が湖面でバタバタと羽を動かしている。
「こいつ馬鹿じゃねえか。何をあがいてやがる」
ミツルは愚鈍な末弟の醜悪な姿を憐れみをもって眺めた。
と、次の瞬間、末弟の体が水面から浮かび上がった。宙に浮かんだ。末弟の重い体は徐々に水面から離れて高度を増していく。
なんと、空を飛んでいるのだ。おとなたちと同じように。あの愚鈍な末弟が、こともあろうに、この自分よりも先に空を飛んだ。おとなの仲間入りの第一歩だ。それをミツルに先んじて習得したのである。
屈辱という他ない。
「なんであいつが、オレより先に」
ミツルはこの夜、一睡も出来なかった。
翌朝、ミツルは自分も空を飛ぶ練習を始めた。末弟に後れをとっては、将来のボスの名折れであろう。一日遅れた分、末弟よりも高く飛ばねばなるまい。高く飛んで群の全員に見せつけてやらねばならない。そうでなければ、この屈辱は晴らせない。
ミツルは顔を真っ赤にして羽を上下させた。足の水掻きも全力で回転させて前進の速度を上げた。
「さあ、いくか」
と思った瞬間、意外なことに、そして無情にもミツルの小柄な体の重心は下に戻ってしまった。
「よし、もう一度だ」
大きく息を吸って全身の筋肉をほぐし、満を持して全速力で水面を走り始めた。
「おりゃぁ」
気合とともに水掻きを大きく蹴った。しかしミツルの体は浮かばない。
「おかしい。こんなはずでは…」
「もう一度」
「もう一度」
「今度こそ」
繰り返し繰り返しミツルは飛翔を試みた。しかしミツルの体は浮かばない。
その時、背後で大きな水音が聞こえた。振り向くと、一つ下の妹が水面をはじいた音だった。妹の体はミツルの目の前でぎこちなく、しかし力強く宙に浮かび上がった。
ミツルは誰よりもプライドが高い。真夜中に秘かに流す大粒の涙を誰にも見られるわけにはいかなかった。
「オレは将来を嘱望された天才児だ」
弟妹たちよりも早く孵化し、並みはずれた鮮やかな美しい黄色い毛を持ち、素早く動くことが出来た。明らかに優れている自分が、どうしてここに来て、今になって、急に後れをとってしまったのだろうか。
「分からない。なんでだ」
ミツルには、その原因も、これからの対策も、皆目見当がつかなかった。
「努力が足りないからだ」
懸命に思考を巡らした結果、ミツルはそう結論づけた。今まで「自分は天才だ」と思い上がっていて努力を怠っていたのだ。もともとの能力は、他者より数段高いはずだ。持って生まれた能力の低いあいつらでさえも飛んでいる。やつらは地道に努力したに違いない。天才であるオレは努力で負けた。ならばオレも努力さえすれば、必ず空を飛べるようになるはずである。やつらよりも、より高く、より速く飛べるようになるはずである。
「努力すれば、必ず飛べる」
そう信じる以外になかった。信じて信じてひたすら努力するのだ。信じる者は救われる。努力は決して裏切らない。
「オレは、優雅に大空高く飛ぶんだ。誰よりも美しい真っ白な羽を広げるんだ。そういうおとなの白鳥になるんだ」
「努力が足りない、努力が。努力すれば何でも出来る。このオレに出来ない理由がない。おとなたちも、弟妹たちも、オレも、みんな同じ白鳥じゃないか。あいつらに出来て自分に出来ないはずがない」
ミツルは諦めることなく、歯を食いしばって飛翔の練習を続けた。
しかしミツルの屈辱は続く。
「なぜ飛べない。なぜ。なぜオレだけ、どうしてだ。天才児ミツルはどうしてしまったんだ」
ミツルの家族のみならず、他の家族の同世代の者たちも、たいして努力をしているようには見えない。それでいながら当たり前のように、続々と空を飛ぶようになっていった。今や群で飛ぶことが出来ないのは、ミツルただ一羽だけになってしまった。
きりきりと胃が痛むようになった。だがそれはまだいい。
このころから仲の良かった友達も、ガールフレンドも、ミツルと距離を置くようになっていった。話しかけても露骨に避けるようになった。弟妹はもとから仲が悪かったから何とも思わないが、小さいころ子分のように尻尾を振って従っていた幼馴染も、掌を返して馬鹿にしたような態度をとるようになった。
表立っての暴力沙汰こそないものの、無視することに始まり、意図的に大事な情報を伝えなかったり、ミツルがいない所で集まったり、ミツルを横目で見ながらヒソヒソ話をしたり、そんな事が日常茶飯事となっていた。おとなたちもそれをたしなめる事はしない。両親も、どういうわけか何も言わない。
食欲が減退し、顔色が悪くなり、羽が抜け落ちるようになった。何をどうしていいのかも分からない。以前から孤立していたから相談する相手もいない。
孤独と、劣等感と、将来への不安が心を重くして、ミツルは眠れない夜を過ごしていた。