1 天才児
揺籃社清水工房tel 042-620-2626 より出版されamazon で好評発売中
古来より「白鳥の湖」と言えば、どことなく優雅なイメージを思い浮かべる人が多いだろう。言うまでもなくイメージを思い浮かべるのは人間であって、白鳥自身ではない。ましてや他種の鳥ではない。
白鳥の親鳥が温めていた卵のうち、一つだけが大きな音をたてた。やがて殻が破れヒナが勢いよく飛び出した。他の卵は孵化する気配すらみせないのに、なぜか一つだけが早く孵った。
親鳥は不思議に思ったものの、元気な我が子の姿を見て頬を緩めた。
「この子は将来大物になるに違いない。ひょっとすると大天才かもしれないぞ」
子を思う親の心は人間も白鳥も変わらない。親鳥はこのヒナに大きな期待をかけた。
「命名、ミツル」
欠けることのない満月のように、この世をば、我が世とぞ思って謳歌するほどの大出世をして、ゆくゆくは群のボスになって欲しい。そんな希望を託しての命名だった。
ミツルは小柄ながら鮮やかな黄色の毛で全身が覆われていた。何日も遅れてやっと産まれた弟妹たちとは明らかに毛並みが違う。
「ミツルは美しい」
誰もが、このひときわ美しいヒナを羨望の眼差しで見つめた。ミツル自身も物心ついた時から、おとなたちの優しい視線と、弟妹たちに一目置かれている事を、敏感に感じ取っていた。
ヒナ鳥たちの毎日は忙しい。親を見習って泳ぎを覚え、歩行を覚え、餌を獲る技術を学んでいく。日々が勉強だ。ミツルの毎日は充実していた。歩くのも、泳ぐのも、餌を獲るのも、何もかも呑み込みが早かった。遅れて産まれた五羽の弟妹たちは、そろいもそろって動作が鈍く、技能の習得は遅く、能力が低いように思えた。
弟妹たちは、体だけは大きいが毛は薄汚い灰色で、ひどくみにくい。ミツルのような美しい毛並みを持つ弟妹は誰もいなかった。
他の家族を見渡しても、群の中にミツルほど美しく優れたヒナはいなかった。
「天才児出現!」
と、群のおとなたちは色めきだった。
ミツルは思う。
「将来は、自分がこの家族を引っ張っていかねばならない。いや、家族だけではない、群のボスとして、この湖で暮らす白鳥みんなを幸せにしてやる責任を負うことになるだろう。このオレがボスにならねば、いったい誰がなるというのだ」
群のボスというのは他の家族からも一目置かれていなければならない存在だ。そうでなければ群はバラバラになってしまう。
今、群を率いているボスは人望が厚い。美しい純白の羽を広げると、その堂々たる体躯は見る者を圧倒し、畏敬の念を起こさせた。
「あんなボスになりたい。いや、自分は必ずなるんだ」
ミツルは幼な心ながら秘かに思った。自分以外に、今の偉大なボスを継げる者はいない。他のヒナを眺めてみても、本当にろくな者がいない。他のやつらは薄汚れた灰色の毛をしょぼつかせて水面をパタパタしているだけだ。
水面に映る自分の姿は誰よりも美しい。毛並みの鮮やかさは群を抜いている。疑いようもない事実だった。
湖畔には人間たちが頻繁に現れる。三脚で固定した大きなカメラを覗き込む人間、双眼鏡を首に掛けている人間、ノートとボールペンを持った人間、大きなタブレット画面に指を走らせる人間。
彼らはミツルたちに危害を加えることはない。どの人間も白鳥に笑顔を向け、湖のゴミを拾い、住みやすくきれいにしてくれる。
たまに湖畔で迷惑な事をする人間がいても、いつもの彼らが悪い人間を追い払ってくれる。ありがたい事だ。
人間たちが自分たち白鳥に尽くしてくれるのは、なぜだろうか。それは、白鳥の姿が美しいからだと、ミツルは見ていた。美しいからこそ、人間たちは下僕のように世話を焼いてくれる。
ボスのような美しい白鳥になりたい。将来の群を背負って立つにふさわしい美しいおとなになりたい、とミツルは心から思った。ボスの凛とした美しさは「万物の霊長」などと自称している高慢な人間どもをも屈服させているのだ。
美は力なり。そして力は正義なり。醜は悪なり。
そんな信念を持ちながら、ミツルは徐々におとなになっていった。まだ思春期特有の不安定な自我と揺れ動く心を持ちながらも、他のヒナたちに対する圧倒的な優越感を持って、将来への希望を膨らませていった。