忖度tea
「なんだつまんねえな、五年前の俺がその教義知ったらなびいてたろうに。つうか、聖書そのものがまるごと偽典で、神ならぬ何者かによる社会の洗脳装置である可能性すら俺は思うぜ」
「まるごと……っ。突拍子もない〜。福ちゃん」
親元宅寄りの施設を候補に入れなかったことはうまく話せそうにない。
塩谷さんから聞いて知った話も飛ばしたが、さなちゃんの病状のことをいくらか聞いてもらった。
こいつらのことだ、当然vacの影響を疑ったよな。
なにも言わなくなったと思うと、藤野は、あぐらをかいたまま、背すじをのばして目を閉じている。さつきが、同じように目をつぶった。
不思議な静けさ……
眺めてるのもばつが悪くて、俺もすこしのあいだ瞼を閉じる。
「だが、あなたがたに告げるが ― 」
藤野が伏し目で開口し、俺は顔を前へ向けた。
「自分の兄弟に対して……ちょちスキップ……腹を立てる者はみな裁きを受ける」
「クラィストが……言ってたか? 超うっすら知ってるぞ」
「ただいまカンニング中ッす」
藤野は、スマホの画面をこっちに向けてみせた。
「『 ” ― 自分の兄弟に対して ‘ラカ!‚ と言う者は最高法院に引き渡され、 ‘愚か者!‚ と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれる 』」
意味不明な単語はともかく、藤野の言いたいことは、伝わってこないでもなかった。
「『 ” ―― あなたの頭にかけても誓ってはならない。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないからだ 』。これ、訳し方次第でこうもなるさね。いいか?」
「ンァ」
「『 “己が頭を指して誓ふな、なんぢ頭髮一筋だに白くし、また黑くし能はねばなり„ 』」
Ahh... .「ホント訳しかたしだいだね」
「聴覚に訴えてる」
笑いながらさつきがそう言った。
「おいらもすこしはオトナになったからね」
とふたりに言った。「イヤナやつに対して『ろくな死にかたしねえ』って思う考えは捨てたよ、っつか、捨ててる」
今度は目を閉じないふたりに、
「なんでおまえらみたいなのが御倉信者なのかが理解できないよ。ベクトルがちがくね? 前からそんなだ」
「ホメてくれてんのかい。俺ね、終身会員でいられる自信はないのよ。頭も心も弱いんだネ。吟味して、段階踏んで入信した気ィではいたけれども」
「吟味」
「御倉総神山は教理に重きを置いてて、創始者に特別な磁力があるわけではないという印象が、当時あった」
「こんな規模になるとは思ってなかったよね。ゆるふわ系とかのスピでなければいい気が……あたしはしちゃってたのね、周辺にそういうのハマってる人が結構いて」
「なれそめがな。俺らは名前を覚えたの、学校でだったね、互いのね」
「あたしは下の名前知ったのがね。同じ教団に所属してるコトで加速づいたのは、大いにある」
「うん……。信仰歴、そんな長くもないからかもなぁ。いま五年目だから」
「だって四条は子供んときからだろ」
とつっこんだ。
「そうだな」
「それに、もっと新しいのはたくさんいるだろ」
「俺は御倉総神山と連携してる団体にも登録してるから、ちょっと外側から見てるっていうのはあるかもしれない」
「ナニソレ」
「姉妹教団で、玉祥雪耻会っていうところなんだがな」
「う……、たっは。御倉といい、漢字漢字してるな」
「昔は日本でもキリスト教のことを耶蘇教って言ってたんだから、おかしくはないさ」
どっかで聞いた。教科書だったっけ。
「雪耻会もキリスト教系だが、いろんな要素がまじってる。総神山にしても、あれこれと取りこんでるがな。んーと、真言密教の教えであるとか」
「仏教……あぁ『キリスト・御仏とともに』だっけな、そういや」
「ようは死んだあとの極楽浄土に救いを求むるにあらずして、現世で即身成仏することによって、生きながらに涅槃の境地を体現するといった考え方な」
即身成仏ね。いかにも御倉的な教義……っつうか、高名な坊さんをパクってアレンジしただけのニホヒがプンプンじゃねえか。
俺の親も、そういうのにうつつ抜かしてんだわ。
俺の母親に、『この子はあんたの所有物じゃないんだよ』って言い放ってた洋子伯母ちゃんの顔が、ふとよぎった。
「念のためだが福ちゃん。いま〈あぐら〉なんかかいてるのは、椅子がここにないからだよ」
と両手で大仏なポーズをつくりながら藤野が言った。
「ぷふ……、はいよ」
「寝ころがってれば、起き上がって聞いてる話だ」
「了解」
「福ちゃんにはかなり詰めよったけど、俺、攻撃するつもりはさらさらなくてさ」
「賢ったら。福留くんはだいたい話しかけんなオーラ出してなくって、出しゃばっちゃってるんでしょ」
「そう? 俺、かまってちゃんオーラ出てる?」
「え? いやゃや、そこまで思ってないー」
否定してなくね?
ま、俺はさびしがり屋だけどな。
「福ちゃんはトイレで落とした俺のピックを拾ってくれたのー」とさつきにとも俺にともないように聞こえる口ぶりで、藤野は言った。
えー……、こやつなにを覚えてるかわからぬな。
「二組の笠松なんて、おとなしいけど、福ちゃんと話したがってると思うんだよな」
笠松……
「あぁ、あのなんかちょっと藤野に似た、ダサかっけえ」
いつも挨拶はないが、会釈するんだよな。「いいよいいよー、俺は細い人脈で。放電パネそぅ」
「針の穴を通るラクダが湧いたさ」
「あァ? 四条さん、この人の湯呑みにアルコールなぞ注ぎましたか?」
その意味不明な藤野の言は、あとで調べたら、キリストが話した中にあった。
『富んだ人が神の王国に入るよりは、ラクダが針の穴を通り抜ける方が易しいのだ』。ますますわからんわ。
「おまえは、俺に殺される思いしたことあるか?」
ひょいと尋ねると、藤野は「ないヨ」と歯切れのいい答えを返した。
「そうか。俺もねえよ」
「あ」
さつきが口を開いたから、ドキッてした。
「ここだから言うけど、この子のことがわかったとき、あたし、父親にボコられたー」
俺は藤野賢と一緒に固まった。が、藤野のほうは口にやった湯呑みを置くと、芋をかじりだした。
気のきいた言葉なぞ出てこん……
「ごめんな、さつきちゃんっていう、年ごろの娘を持つ男親になってみないと、わからんかもやー……その心理」と俺は言った。
それで『殺される思い』をしたっていうのなら、いま目の前にいるキミは蘇生体だね、なんて言ったら、さつきはどう答えるだろう。
「ふふ、ごめんね。言ってみただけ。おとん、いまはとってもやさしいよ。賢に対しても普通だし。ね」
「いろいろ甘えさせてもらってるね」
「……」
親父さんは、孫を抱くんだね。
体を揺らした弾みに、藤野は屁をこいた。
「あ。失礼、やーね、自分んちなのをいいコトに」
後ろの窓の外、地上からは、遊び回る子供たちの声が聞こえてくる。
「あれだよ福ちゃん、総神山は、ともすりゃ黙示録やなんかの預言に傾倒して」
「――『666』の、黙示録か」
「好きに預言を解釈しがちだとは……俺も感じるものはある。大事なことは、たとえばヨナ書にだって記されてあると思うんだが」
「なっしょ?」
「ヨナ書。そこにニネベという町が出てきて」
「ヨナヨナ?」
「聖書の中の。ヨナ書って書物」
「有名なの? それは」
「どうなんだろうな、中くらいに有名なのかなア。そこで神が、ニネベは滅びると。ヨナって人物の口から言わすのさ」
「ヨナ書、これだね。けっこう短いんだな、ヨナ書って」
スマホ検索で、さくりと出てきた。
「そこの第3章にニネベという町が出てくる。ほかのふたつの預言書にも出てくるが、ひとまずそこな」
「んーむ」
3章、2節……
「『 “立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ„ 』」
4節……
「『ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、 “四十日を経たらニネベは滅びる„ と言った』……四十日を経たらニネベは滅びる。ねえ藤野、これ、期限を切ってる?」
藤野はうなずいた。
「そうなんだ。でもそれが結局、神はニネベを滅ぼさなかった。ゆくゆくは陥落したけどね」
「ふーん……あ、そうか。書いてあるね、町の人間が改心したからだ」
よかったじゃないですか。
異国じゃないが、遺跡発掘調査の求人案件を見たことがあったのを脈絡もなく思い出した。
俺はお茶を二口すすった。
「すまんが福ちゃん、その後ろの棚の聖書取ってくんろ」
「お、紙本。でけえなこりゃ」
重っ。
「見てのとおりで、これも口語訳」
受けとった藤野は本を函から出すと、終わりのほうから開いた。
藤野賢の手……。指は細長い。物流の労務だけでは飽きたらないような。
「かたや、黙示録の記述はこうさね。ヨハネの黙示録1章……19節。『 “ ― そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい ― „ 』」
行を目で追う藤野。
「4章、1節。『その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、 “ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう„ と言った』」
これから……起こるべきこと
「で、たとえば9章の、15。『すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた』」
殺す……ため
「18『この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった』」
殺されてしまった
「16章には『(見よ、わたしは盗人のように来る ― )』とある。わかるか? この違いが」
「盗人のようにってのは、つまり……」
「盗賊・盗人、これは新約聖書中の他の福音書なんかにも出てきて、パウロの書簡には『主の日は盗人が夜くるように来る』とある」
「天災は忘れたころにやってくるってね」
孝行をしたいときでも親イナイのは俺だけど。「そもそもヨナ書なる書は旧約聖書の一冊、ビフォー・キリストだろ。それは……わかる」
「三分の一は殺されると聞かされれば、普通は殺されるなんてまっぴらだと思うよな」
「ああ……。でもニュー総神山は、自分たちは助かるって思ってる」
「なんのこっちゃその、ニュー」
「しかしこぇえって、聖書の神。おまえは……藤野、殺されちまいたいのか?」
「まさか、まさか。だが、『殺されずに残った人々』についてもあれやこれや書かれてあるのを見るとね…………殺されるのと、どっちがましなのかってなってくるよ」
「んなら、即身成仏するのか」
「いや、俺の中では微妙にちがう」
「なんだつまんねえな、五年前の俺がその教義知ったらなびいてたろうに。つうか、聖書そのものがまるごと偽典で、神ならぬ何者かによる社会の洗脳装置である可能性すら俺は思うぜ」
「まるごと……っ。突拍子もない〜。福ちゃん」
「まえにも超ざっくり見てみたときあったけどよ、主なる神ってやたら出てくんじゃん、聖書」
「んむ」
「なんで神は、何千年もまえの人びとのまえにばっか姿あらわして現代人とは会話しないんだって、素朴に疑問だ」
「だれにでも姿あらわしてたんじゃないさね」
「わァってら。そんくらいなら。それも踏まえてなあ」
「古代イスラエル人の側で怖気づいて『神がわたしたちに語られぬようにしてください』って指導者に頼んだ経緯も踏まえてるかい」
「指導…………モーセだね。かの地にたどり着く前に、年の若いのと交代した」
「ついさっき、自分で答めいたこと言ってなかった? ビフォーって」
そこにさつきが菓子をのせた皿を持ってきた。
「スマホとか、あるからじゃない? 福留くん、よかったらこれも食べてー」
「スマ、ホ」
「古代には、印刷技術もなかったはずでしょ。いまとは流れる時間…………時間の流れかたもちがってて、それで神様とやりとりできたんじゃない?」
「おまえらー」
俺とさつきを交互に見ながら、藤野が言い出した。
「なかなかザンシンなこと言ってくれるじゃねえか。それ小説に投稿しろや」
って、すでに出てるくね? ネタとして。
いや。既出なのは俺自身のキャラ。不覚にも春寒の天空の下、いや、こいつらの前で、涙をたらした。
しかしだ藤野、四条。俺は二輪の乗りものを転ばすことで振り向かせなくても、道をあのまま進んでおまえらがだれだかを確かめる。
「補講があるから無理ぴょーん」
「発想だけだもん。おまえニクヅケしてよ、それと代筆。ってもしやおまえ」言いながら俺はさつきを見た。「しかるべきサイトで――」
「ふふ。ひみちゅ」
「分けマエよこすか? 福ちゃん」
藤野がさし出した手のひらに、アソートチョコの包みを乗せてやった。
さつきの言ったことが気になった。
「その、四条。平安時代の貴族は、退屈しのぎに和歌詠んだのかなとは思ったよ。中学んとき」
時間の流れはまどろっこしかっただろう、って言いたかった。「モーセの十誡は知ってるよ。石板に刻むんだよな」
藤野は腕組みして目をつぶり、「ひょっとしたら消しゴムはなかったかもしれんな。鉛筆もだ……」
「あたし最近ねえ、集会のほうにも全然行ってないの。十戒にも『汝姦淫する勿れ』ってあるじゃない? なんか目に浮かぶようでしょ」
「なに? それ。聞き捨てならなくね?」
そこまでこいつらに影を落としてるのか。御倉。
「内輪のフリンは黙認してるくせにって言いたくなるさ」と藤野は立てた片膝に顎を寄せてぼやく。
「うぁ、おぞましや。若いみそらで、キミらもなにやら大変のようだな」
「そのぶん、補講に身を入れるわよ。せっかく先やんたちが卒業させてくれようとしてるんだもんね」
「『姦淫』って言葉はあいまいだーな。『姦淫罪』で見ると、なんとなく通じなくはないが」
「俺たちは純愛だよ。だれがなんと言おうと、なー」
「ははは。いただきます」
屈しない藤野か。
皿からクッキーを取ろうとして、晩飯のことを思い出した。
再びスマホをタップする。
「自分んちに電話入れとく」
さつきが窓のカーテンをつかんで細く開いた。
「日はだいぶ長くなってきたねー」
伯母さんが電話に出た。
「あ、俺です」
୦
「まるごと偽典は、俺もうっかり断言できないネ。まぎれもない聖典だと主張する者がいたら、それもまた危うい気がいたすよ」
藤野はさらに付言する。
「神の言葉につけ加えたり、とり除くことを禁じる旨は、申命記や、黙示録にも書かれてあるが、実際どうなんだろうな……」
「脳みそが、だいぶ乳化したぜい」
藤野の聖書はずいぶん読みこんでる質感だったが、マーキングがされてないように見えた。
「もともとが章で区分されてたんじゃないから、そういったのさえも『これに書き加える者』となるんだったら、アウトさね」
「えらく微妙だな。読みやすく分割して、ナンバリングしてるだけっていえばそれまでじゃん」
「好きに解釈しがち、だののたまいながら、俺にも好きな聖句というのはあってさ」
「うん」
「『わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない』」
「ほー。単純明快だな。どこにあんの」
「伝道の書。これ思いおこすと、できることをやるしかないって気持ちになれるんだ。あ、エロい意味で言ってるんじゃないぜ」
「ははは」
二百歩譲っておまえらが姦淫罪だとしても。おまえらは……
「福留くん、人間の赤ちゃんって、どのくらいの日数で産まれてくるかって知ってる?」
と、さつきが聞いてきた。
「んー? 十月十日っていうのは、まあ聞くよね」
一ヶ月30日換算で、十ヶ月目の第十日って解釈で合ってるのかどうかはちょっと。
「詳しいね。ニネベの町の話してて、四十日ってあったじゃない? 四十って数字、よく現れるのよね」
「ふむ」
「この子はいま百十三日目、満一六週。満四〇週のころに、産まれてくる」
と藤野がフライングした。
「ほぇ……、そうか。二百八十日なんだね」
俺のおつむで、勝手に二百六十六日に変成されてたのは内緒だ。
神様。
俺は、さつきちゃんのおっぱいが大きくなったなぁって、内心思ってます。
「きょうはあれだけど、全然手ぶらでいいから、またこっち寄ってくれよな」
「ありがと。またな」
俺の運転でよけりゃ、どっか連れてったるよ。の前にレントして、ペーパー歴を初期化しておかないとだな。
ふたりに見送られ、俺は来たときのバス通りまでの道をたどった。
「さっちゃ……ん」
「――ん?」
「一年だったとき、うちにコロナ死者が出たな」
「いたね。たしか同じ学年の人だよ。どうしたの?」
「いいよ……」
「なに。賢ちゃん?」
「いいんだ、俺もおまえもろくに覚えてないな……入学したてのころなんて」
「賢」
「ほい」
「あたしたちは、おたがい名前を知らなかったよ……」
「ん。さて、おまえと、この子も送りとどけなきゃあーな」
交差点を折れる。
吐き切った息を吸いこむと、空の『冬の大三角形』の一番目立つやつと、オリオン座とが目に入った。
なんとなく言わなかったけど、そのうち親とは暮らしてないことも聞いてもらおう。
難解度はともかく、旧約聖書で目にとまった叙述、『わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください』
日の涼しくなるまで
影の消えるまで
きょうインスパイアされた俺は、遅めの晩ご飯のあと、聖典のことを調べたりしてるうちに、寝落ちした。
今度施設に行ったら、無事なことしかなければ嬉しい。そんなふうに思いながら。
୦
太助は水筒を肩にさげ、ソリの綱を握って、友達との待ちあわせ場所に行こうとしている。
「卓史っちゃんも、心ゆくまで食べてね」
というが早いか、あっという間に姿は小さくなっていった。
俺は食べかけの果物を、ひとつ平らげた。
「ああー、喉うるおった」
きゅうりに似た形で、なすのような色したこれ、絶妙にウマくて。名前は聞いたが、ど忘れしてる。原産地ーはどこじゃらほい。
それにしても、畑の隅に立つ俺たちは――
「ふたりっきりじゃん」
「ね。ふたりきり」
うなじから真友の髪をそーっと後ろに払う。両脇に手をさし入れて、それなりの気あいで彼女を持ちあげた。
「軽いなー」
まるで俺が筋肉野郎だ。
真友のことを『○みたい』『〜がはえてるみたい』って言うと猿真似になるとの噂につき――天使みたいだ。いかがでしょうか。
降り立った真友は俺の小鼻に触れて、ひとさし指に移り乗ったてんとう虫に笑う。
キスをした。
俺は膝立ちになって、真友の体に顔を押し当てる。
真友が両手で、俺の頭をなぞる。
変わらない。おまえのにおい。
「なんだろう」
「んん?」
「おまえのこともイタダキタイが。欲情がかきたたない。おまえもせがんでこん」
声もなく笑うのがわかった、と同時に俺の頭がわしゃしゃッて撫でくられた。
「俺健全なんだから。ムラムラがマッチしたらあらためてなんだぞ」
言いながらゆっくり立ちあがった。俺の腕のつけ根のあたりに真友が手をそえて、もう一度俺たちはキスした。
こんなにこのままでいたいのにな。
きょうのおまえの、太助を思わせるハーフアップした髪とは関係ないな。
暗ーい現実な日々とも関係なく。あくまでもこの夢は俺にとって、思い出の続きなのだから。
さすがに公園なんかじゃハメはずせなかったあのころ。
ドコカの生命体が空から監視してるって気配は……ないがな、ここに。もし視られてるなら、見せつけるまでだ。
少々おままごとな気分だからかなぁ。
「見わたしてると、花がかすみ草みたい」
咲きこぼれる小さな白い花を見ながら、俺の腕の中で真友は言った。
もしかして、ホワイトデーに渡したものにつけた花を思い出している?
「ここ、なに育ててるの?」
「そばの原種って聞いてるよ。太助に持たせたのも、そば茶なの」
「蕎麦……これが。こっから飲食物の原料だのが穫れるんかい」
真友の手に指を引っかけた。「ベンチにもどるんでいい?」
「抱きあげてこーか」
「いいよ、実践しなくて。どうせなら膝マクラして」
ぽっかりと土になってるところまでもどった。水筒をもう一本置いたベンチがひとつ、真ん中へんにある。そこに俺たちはかけた。
「太助と三人そろったら、川の字になって寝そべろーぜ。持ち主に叱られるかな?」
「あはは。共有地だよぉ」
真友の右手を取って、みずみずしい手を、その指先まで包みほぐす。
十五年だろうと――何十年だろうと
俺の知ってる真友は、その世界でのあなたの在りかたでした。
あなたのその人生には、結構な頻度で変わった男児が登場してきました。
ああ。この人はこうなのだ。俺がおっさんや爺ちゃんになっても。そうにちがいないよ。
俺の肺臓が 永久に動きを休めても
この俺は? どうなのか。
そんなことを考えるのは、いつも〈起きて〉からあとだった。
「つもる話はあるっちゃーあるだな。のんべんだらりやってるなりに」
語れば〈「魔」の〉十三日間の初日からになりそうだ。あんな長い、日一日はなかった。
「ん。たくさんたくさん話そ。でも、卓ちゃんが覚えてられるかは別よ」
「そうやってまた、意味ありげに言うんだな。俺はもう学校行きたくないよ。クラスのやつとワクチンの件で応酬してたのはタノシかったけど」
「ワクチンのって」
「その後俺のところにも接種券が来たから、片っぱしから打って、そのたんびに」
「――社会に出てない卓ちゃんのところにまで、案内が来たの」
その天然めいた反応に、なにか胸がざわついた。
「世界で七割近くの人が、一度はワクチン打ってるよ。大人も子供も」
「七割近く。すごいんだねー」
やっぱり噛みあってない。
「日本だけなら八割だよ。知らないの?」
「知ってないよ」
真友の前にかがんだ。
すこしにらめっこのようになった。
「ひとっつ、確かめさせてくれよ。中川真友ちゃん。あんた、自分が弔われたのも知ってないんか」
『風が気持ちいい』と言い、
いつものように 『またね』って言ったんだ。
「だろうなぁーとは感じてる」
「――真友」
「信じてたよ。卓史くんに会えるの」
俺は信じてなかったよ。どこにもおまえがいないなんて。
半身座りあげたベンチで、抱きしめた腕に力をこめた。
見ろ。会えてるじゃんか。やっとだけど。
やっと………… だけど。
ときどき波のように飛びたつ、小鳥の集団が地面をついばんでいる。
もうひと頑張りすれば足の指も使って数えられるほどにかさねた、この、言いあらわせない時。
同じ回数だけ、ウイルスの遺伝情報にアプローチした製剤を体に取りこんできたこと。
その門を通らないと会えない可能性を感じてたことも、話して聞かせたって思う。
高校受験や入学のころ、真友が自覚したのは「来てもよさそうなもの」が来ないのと食欲増進のみで、体は特段しんどくなかったと。疑って聞くかは、俺しだいらしい。
聞けば聞いただけ、心が楽になる気もする。会ってとっくに安堵してた気もする。
現実で生きてると、助けを求めて呼んでるときがある。見守っててほしいんじゃないのに虫がいいよ。
俺が建てたわけではないお墓の前で、俺は二度だけ手を合わせたこと。二度目のとき、示しあわせたかのように昔の仲間と行き合ったこと。
修学旅行は、見どころはあったがクソつまらなかったこと。
「まいんちコロコロといろんなニュースだ。TVでも、SNSのトレンドでも」
東ヨーロッパの戦争のこと、元総理銃殺のこと。
いまや自分が選挙の有権者であることやなんかも、無意味かもしれないが聞いてもらった。
「あのメンバーも、またひとり消えちまった」
吹いては凪ぐかすかな風に、ため息を溶けこます。
「おまえもいなくなったけどな」
静かに、真友も俺を見る。
「矛盾してるな……矛盾って言葉の言い換えがないか調べてみるよ、目ぇ覚めたらな」
橋に目をやって、俺は言った。
「ここいらには字引きがなさそうだから。矛盾って字は、『矛』と『盾』だろ」
「うん。ここだと……」
組んだ手のひらを前にのばし、足を浮かす真友。
「一面、畑なんだもんね。卓ちゃん、あたしたちが座ってるこのベンチー」
箱ベンチの座面を真友は撫でた。
「ここが蓋になってるの。きっとお宝が入ってるんだ」
「え。開けたらトンデモナイことになる伝説の箱じゃねえのか。見てないの、おまえ」
「うん、まだ。どうせなら、先に卓ちゃんに教えようと思った」
「どれ」
肩へ水筒を引っさげた。
蓋は、簡単に指がかかって手前で浮いた。
なにも考えずに持ちあげる。
蓋の内側一面に張られた鏡が、空と、俺たちを映す。
鏡の中の真友と目が合った。
「〈レコードプレーヤー〉? これは……でも」
パッと見そんなふうに見えた内部だったが、《トーンアーム》のような棒は円盤の真ん中から出ていた。
「オルゴールの音ね。大きいなぁ」
音量ではなく、本体のことを真友ちゃんは言っている。
金属のその円盤がゆっくり回り、箱が旋律を奏でた。かねての町内放送もどきの調べと、それはハモって、この世界の大気に呑まれる心地がしてきた。
「おまえが持ってたやつとちがうな、あのミシン糸の芯みたいな形のと…………見たことない」
しゃがんでひととおり眺めまわす。
思い出すよな。あのオルゴールじゃ、左半分のステージの上で磁石の台座に乗ったバレリーナが踊ってたんだ。そうだろ? 真友。
あれを見て、俺は玉乗りのピエロを連想していた。
「櫛みたいな『歯』が見えない」
「マルいのの下にあるんじゃないか? この円盤のプツプツがあるから、音が弾き出されるんだよな」
「うん」
箱のふちに手をついて腰をあげる。側面や後ろ側も見てみるが、2wayあるいはそれ以上にして見た目はただただひらたい直方体、樹脂のようなものでできた箱である。
「ぜんまいはどこについてるんだろうな。ま、いっか」
「耳で聞けてるし」
「この音、聞いてたい」
手の届きそうな
雲が浮かんでるけど 雨は 雪は降るんかな
この夢から覚めたら、そこの日付が何月の何日なのか。そんなこともわからない頭で、俺は考えた。