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君と隣りあわせて

 ああ。

 押し寄せてきたぞ。どうしてくれるこの『死にぞびれた』感を。

 二月の第三土曜日。

 「スモークレッド」って真友が言ってた、その色のニット帽をかぶって、俺はクロスバイクで就職先に向かったのだった。


 かぶると消耗しそうでいやだったが、使わなけりゃそれはそれでかわいそうだよな。

 三年もかぶらないで、ごめんな。

 それから……

 いい帽子、編んでもらった。

 ありがとう。



 役職はおいといて、俺の父親は商社系、中川のおじさんは技術系。同居の尾形の義伯父さんは福祉系。

 だれの真似でもないが、進路は義伯父さん寄りになった。


 同じいつかくたばるんなら、いっぱしに稼げるくらいになってからでもいいのか。

 勤まったらボーナスなんかもらえちゃったりするんだよな。

 言ってみりゃ、その足がかりってわけだ。


 就職内定の報告をしたら、義伯父ちゃんは俺に本棚を見せて、好きに読むよう言ってくれた。

 そして実習の様子を聞いてくれたり、豆アドバイスをしてくれるようになった。

 その道を志した理由を聞いてみてないが、義伯父ちゃんは高齢者施設の入所型で仕事している。



 ところどころうねった狭いバス通りに、行き先の建物と同じ名前のついたバス停がある。

 バス停を前にした敷地に入る。

 自転車を置いて、リュックに帽子をしまった。


 〈すこや家の庭〉

 この障害者支援施設が、四月から生活支援員として働こうとしているところ。面接で採用がきまってからは月に一、二度、体験実習の延長で顔を出してる。ユニフォームはまだもらってなくって、準じたナリをして行ってる。

 三階建ての建物に入り、掃除の人に挨拶して、事務室をノックする。


 無愛想な中高年の男性職員さんがいて、きょう俺が一番知りたくて聞きづらかったことをこともなげに言った。


「益子さんは急性心膜炎で入院中だよ」


 益子(ますこ)早苗(さなえ)さん。障害福祉サービスを利用してここに通所している、三十二歳の知的障害の女性。みんなから『さなちゃん』って呼ばれている。

 下の名前で呼ぶのも、ちゃんづけするのも本来NGとされるが、コミュニケーションの一環ということでまかり通ってるってことだった。


 先週俺が到着したとき、入口前には、救急車が赤色灯を点滅させてとまっていた。

 搬送されたのはさなちゃんだった。


    ୦


「興味あって応募してくれたわけだからお知りかなと思いますけど、知的障害の方は純粋だといわれています」

「あ、はい。そんっな感じ、ですよね」


 サービス利用者さんたちの姿を目で追う。


「『心が洗われる』と形容する人もいますね」

 とその時間俺を受け持つ職員さんはつづけた。

「うらはらに老化の進行が早いですから、はた目以上に体がきついことと思います」


「老、化……は」

 義伯父ちゃんからも聞いとらん。「まったく知りませんでした」


「純粋とはいっても、働く方ともなればね、業務怠慢などもなきにしもあらずですよ。知恵が働かないのとはちがう」


「ウーン。そうなんですか」

 『悪知恵』っていうよりか、それはもう『本能』なんじゃ? って気が……したり。


「障害が軽度の方は、一見して健常者と見分けがつかないことも、多々あります」


 ここの利用者さんは、みんな髪を短くしているように見える。理由はなんとなく察せられた。シャンプーがしやすいだろうって思う。


 トイレ介助はなかなか大変だ。

 生理中の女性にはおおむね女性の職員さんが対応してるようだ。俺は亡き祖父ちゃんの下の世話を親たちと朝夜やってたから、そこらへん抵抗はないんだが。

 なにしろここの人たちは……立ちあがったりとかする。



 お昼が近づき、(ノリ)ちゃんと呼ばれる男性には俺が食事用のエプロンを着けた。

 スプーンの向けかたについて指導してもらいながら、彼の食事を手伝う。


「あ……はィイ。正面からヌッと出されたりしたら。キョーフです」


 則ちゃんは自分でスプーンを使えるが、食べこぼしが多い。

 ガッと柄をつかんだかと思うとすごい勢いでスプーンを口に持ってくが、大部分の食べ物がエプロンや床に落ちる。


 それだと食べたことにならないので、ある程度はこっちでスプーンに乗せる必要があった。


 そうしていたら、四年前のバレンタインを思い出した。



「わあお。嬉しー。ことしグレードアップすかァ」

「誕生日にはわっからっなイー」

「んなのいいよ、俺だってあげてないじゃん。買ったやつ?」

「うん――」


「ますますホッとした」


「へ? なにそ、ホッとって」


「おまえに怒られたよ、俺の食いかた」


「えっ? て、いつ……」


「ほら、ボロボロに崩しちまって。おまえがおばちゃんと作った、あー」


「――あ……フルーツケーキ? のこと? それ……は。うーん」


「とにかくわざとじゃあなかった」


「忘れて」



 いまごろ思い出した。


 それでか。真友。



『じょうずに食べるね』




「福留さん。ロビーの自販機のところまで、さなちゃんを見ててもらいたいんですけどォ」


 職員の女の子と一緒に、その利用者さんが来た。


「あ。はい」


 ブロックパズルから離れ、立ちあがる。

 この人とは散歩の時間、すこし一緒に歩いた。


「さなちゃんはおやつタイムに、自販機でトマトジュースを買うのが日課なんです」


 職員さんは説明をつづける。

「こちらで用意する飲み物だと、ダメなんですよ……。ご家族も『好きにさせてあげてください』とのことで、ジュース代をさなちゃんに渡してます。これに入ってます」


 さなちゃんが、ビーズ刺繍の小銭入れを手に持っている。

 彼女はこっちの話を理解して聞き、首を振る形で意思表示をすることができる。職員間の会話の内容が通じているときもある。

 額の線が真友に似ている、なんちゃって。ややしかめ眉だったとこまで。


「階段は使わないから、大丈夫だと思います。お金を投入するのと、ボタンを押すときはやってあげてください」


 ガラス扉のむこうに、自販機が見えた。「はい」


「あ……それから、取り出すときも、おねがいします。じゃあ、さなちゃん、いってらっしゃーい」


 さなちゃんは手を振り返すと、ロビーに向けて歩き出そうとした。俺は扉を開ける。

 うん、足どりはひょこひょこしてるけど、全然イケるっぽい。


「さなちゃん、これでいいの?」と俺は自販機のサンプルを指差した。


「そう」

 と彼女はうなずきながら小銭入れをさし出した。


 取出し口に、トマトジュースの缶が落ちる。

 渡すと、彼女は冷たそうに缶を持った。


「そっちまで、僕が持ってこうか」


 缶を預かる。その直後……想定外なできごとが起きた。


 さなちゃんが、俺に腕を組んできた。彼女はにこやかな表情で、先を見ながら歩く。

 俺も必死で平然を装った。

 いや、心を開いてくれてるのはわかる。

 わかるけど。

 あなたは俺からしたら年齢的にオバさんだ。近い未来のお客さんだ。だけどそんなにぴったりされると胸が当たるんだよォォ、俺にぃ。



 何色かの色鉛筆で何かの書かれた、テーブルの紙。渦巻きキャンディの模様にも見える。


「なんの絵?」


 さなちゃんはなぜかあさってのほうにちろちろ目をやり、返事をしてくれない。


「するとこれは文字……」


 なかば無意識に言ったらそこで彼女は顔をほころばせ、大きくうなずいた。


「絵じゃなくて、文字なんだね。さなちゃんの言いたいことが書いてあるんだ」

「そう。そうよー」


「なんて書いたのか、知りたいな」


 ちがう色の鉛筆で、なぐるように書き足すさなちゃん。

 場をつなぐために俺は言ってるが、解読できずもどかしいのも本当。そんな自分がいるのに、ちょっと気づいた。


 その『言葉』に彼女の意思が宿っている。


    ୦


 一週間前、さなちゃんが救急車で運ばれていった日も、『すこや()の庭』は通常に回っていた。

 ほかの利用者さんたちには、影響がないように見える。


 俺のかたわらにいる男性職員さんのところに、ひとりの男性利用者さんが来た。本を手にしている。


「読みたいの? 亮くん」


 伝記だ。職員さんは表紙を見て言った。

「よく書けた絵ですね」


「よくかけたっすねぇ」と亮くんが答えた。


「もとの場所にもどせる? 亮蒔郎(りょうじろう)さんはどっちから来たっけ」

 職員さんは彼を見、彼がもと来たほうへ目をうつす。


「もとーもどせー? 亮、蒔郎ぅーさんー」

 と亮くんはそっちにまた歩いていった。


 俺はただそのやりとりを見ていた。

 良く言えば、寡黙なのか。このおじさん、俺は口もききづらいが、見てると利用者さんにモテモテなんだ。


「あのタイトルの人、知ってる?」

 と名札に『塩谷』とあるその無愛想な職員さんは言った。


 念押しに「僕ですか?」と聞くと、彼は視線を一瞬こっちに向け、それとなくうなずいた。


「名前は知ってます、学校の図書室にもありましたから」

「その出会い――歩みは、私も感銘したひとりだけど。だれがどうしてあの本、持ち込んだのか…………あの人物は三十代の時点で、優生思想を唱えていたらしいよ」


「ゆうせい思想」


「それによると、重度精神障害児や奇形児は、安楽死の対象になる」


 殺すってこと?


 身体機能の強固な『壁』を自身がのり越えたことで知られる人。

 たったいま聞いた、その思想。

 どうやってとっさに結びつけろというんだゴァッドゥ。


「当事者との関係性いかんで感じかたが異なる部分があるにせよ、私はその考えかたを支持しかねる」


 利用者さんたちに目を向けながら、さらに彼はそう言った。


 障害を持つ、十九人の人が刃物で殺されるということがあった。神奈川の相模原市において。俺からすると祖父ちゃんが亡くなる前の年、小学五年のときに。

 晩年の祖父ちゃんを見ていて、死んだほうが本人は楽なんじゃないかって気持ちと、ずっと生きててほしいって気持ちと、俺には両方あった。

 当事者との関係性。

 生きててほしい気持ちはエゴだろうか?

 もうひとつ、俺は優生保護法って言葉を思い出していた。

 いまでいう、母体保護法って法令の名称だ。

 しようと思えば――人工妊娠中絶のよりどころにできる。


「はい。あ。お名前、塩谷(しおや)さん……ですか?」


塩谷(しおたに)です」


    ୦


 利用者さんたちが持ち帰る、連絡ノートや昼に飲む薬など入れるポーチ。そこに来週のお昼の献立表を、折りたたんで入れる作業。

 その俺のそばで職員さんがふたり、連絡ノートに各利用者さんの本日の様子を書きこんでいる。


 先週は益子早苗さんの連絡ノートをちらっと見れた。彼女が送迎車でこっちに向かう前の朝の体温は、36・4℃って書かれてあった。


「福留くん、今月は連続で来てくれてるけど、来週はどうする? 無理しなくていいのよ」と聞かれた。


「ぜひ、また来週も」と俺は仕分けのバイトのころのガツッッとしたノリを出した。


「さなちゃんが気になる?」

「あ……正直、とても気になってます」


「本当に無理するんじゃないよ、最初から飛ばすとあとでヘタレるよ」と、もうひとりの職員さん。「制度的にまだ、学業を終えてないんだから。自宅で勉強もアリだよ。来るなって言ってるんじゃないけど」


「ありがとうございます」

「さなちゃんは、一品一品やっつける食べかたするよね。嫌いなものはとことんスルーして」


 意識はしっかりしているらしい。しかし家族が、身体拘束に同意せざるを得なかったそうだ。つまり、ベッドで暴れないようにされている。


「知らない人しかいないところで、どうしているかしらと思うと……早く帰ってきてほしい」


 俺は無言で軽くうなずいた。


「さなちゃん、ここの停電で失禁してしまったりもしたの。顔の表情は笑いっぱなしで…………かわいそうよ」


 食事の前、普通に薬を飲んでるとこは見た。注射には抵抗を覚えるだろうか。さなちゃん。


 いま俺はなんでも悪いようにとらえてる。


 次週の約束は、とりつけた。


    ୦


 五十メートルかそこら先の、狭い歩道を縦にならんで歩く二名の後ろ姿。前は女のようだ。

 あの男女――

 そこへ、後ろから来た二五〇ccくらいのバイクのミラーが一瞬の間に俺に当たって、バイクはそのまま走りぬけていった。


 体は足で支えたが、自転車のほうが歩道側に横倒しになった。


「福留くん」


 四条さつきの声だ。

 こっちへとひき返したさつきの連れ、すなわち藤野賢が俺の起こしかけた自転車を支えあげてくれた。


「かすっただけだ……けどムカつくぜ、んなろめがア」


 ああ。

 押し寄せてきたぞ。どうしてくれるこの『死にぞびれた』感を。


「轢き逃げか。青信号になっちまったな」


 それとも、『命拾い』か?


「バランスくずして…………なんともないぜ、サンキュウ」


「このへんで会うのはめずらしいな、福留ちゃん」

 と藤野は言った。


 ていうか、生まれて初だよ、学校以外でおまえに会うのは。


「実習の帰り道だよ」

 車道の音にかき消されないぐらいの声は出しながら、ハンドルを押した。


「俺たちは妊婦健診に行ってきたとこー」


「つきそいか」あすは日中から働くんだろう。「終日休みなんだな、きょう。変わりないんか」


「おかげさんで順調ッす。ま、そうこうしてたら……採血するだけで『性別』がわかる検査っちゅうの、受ける時期逃してるっぽいもののね」


 足をとめてるさつきに追いつく。


「あとは健診のエコーでわかって教えてくれるかもしれないけど、別にいいじゃんって、さつきは言ってて」

「そうよ、産まれればわかるんだもん、そんなとこにわざわざお金使わなくっても――福留くん」


「大丈夫よ。ボサッとしてて、情けのぅ」


「さつき、そこ、ガム」


「え。あ、やだ」

 さつきは、道ばたのガムをよける。


「いけませんねえ、こんなところに吐き捨ては…………そういえば、妊娠検査薬もいらなくなったんだったな。おまえが病院に担ぎこ――あ。そこ、犬のフン」

「やだー。もーお」


「いけませんねえ。ここにさしかかると、いつも同じにンコ臭え。なんなんだろうな、まじクソ民度低い」


 民度低い……か。


「なぁ、藤野、無知って……罪か?」

「んッ」


「『無知は罪』なのか?」


「どうしなすったよ、福ちゃん」


「常套句だろう、御倉(ミクラ)の。SNSでもバトってるよな、そこかしこで」


「うう……む。すくなくとも俺は言わないなそれは」


 さつきが肩越しに振り向きつつ、「関心の向けどころっていうのかな? 無知とはちがうと思うなぁ」と言った。


「ソクラテスが言ったかは疑わしいね」と藤野。


 なに?


「じゃだれが唱えやがったんだー、きっしぇえなあ」

「ま・ま、気を取り直して。俺んちすぐそこだぞ、寄ってくか? いま、酒はないけどな」


「酒はあんまり飲まないから、いい……っじゃなくて。こっこ困るだろ、俺がそんなとこにあがり込んだら」


 藤野は、「なンでよ」


「お、おま、言っただろ、トゲトゲのタンパクが放出されて、注射打ってない人間にまで影響ーって」

「昨今いうシェディングのことか。気にするなよ、俺の家族だって接種ずみだもんよ。気にしすぎたら、おちおち電車も乗れやしねえ」


「おまえが平気でも、四条が」


「なあんだ、大丈夫ってー。うちもあたし以外打ってるって、言ったよ?」


――そんな顔で、よしてくれよ。


「お、お、おまえが大丈夫って、赤んぼ……」


「やだ福留くん、そんな泣きそうなー」

「泣きそうなんかかぜがっ目に」


 涙が小鼻の溝を伝ってこうとする感触があった。


 やべえ……やべえ。タオルハンカチ……


 藤野はハンドルを握る俺の手に、手袋の上から自分の右手をかさねると、

「気を揉ませたな」

 と言い、もう片方を俺の肩に回した。「福ちゃん」


 もう出ちまってんだ、泣くにまかせてやれ、このさい。


「気にしないでよ、ね。この子全然いやそうにしてないよ」


 それがおまえの思いこみだったらどうするよ、四条。


「行こ。予定あるの?」

 藤野が肩ベルトの上から俺を軽く押した。


「んー」


 タオルハンカチで顔をおさえながらスーパーの店先を見て、俺は声をあげた。


「おい。焼きいもだ」


「茨城県産、有機栽培。いいねえ。いいにおい」

 焼きいも機を見て、さつきが言う。


 手早く調達した。藤野んちの家族はこの時間不在ってことだが、いても足りるように買った。袋を藤野が持ってくれた。


「ふふ。賢は皮ごと食べるんだよ」

「へーぇ。そういや俺、フライドポテトは皮つきのが好き」


「緑色になっちゃったじゃがいもは気をつけないとねー、芽が出ちゃったのもね」

 そんなふうにさつきがつけ足した。



 横断歩道を渡り脇道に入ると『すこや家の庭』の隣町の街区表示が目についた。傾きかけた日ざしがあったかい。

 歩きながら俺は、藤野の顔は見ないで切り出した。


「職域接種のことは、また確認し忘れた……」

「うん」


「一学期に、『人口動態』を見ろっておまえに言われて、本当いうと、見てビビったん」


 藤野は俺に答えた。「身内にうるさい信者がいて、言説は多少知ってるってふうに、あのとき言ってたね」


「タダでも打たないっておまえは言ってたね。あらためて見てみたん。身近でそういう亡くなりかたした人、俺知らないから――」


 さつきは藤野の隣できょとんとしていた。「福留くん、鼻声だなぁ」


「ピンとこないっていうか、他人ごとみたいに思ってはいるけれども。んご」

「数字としては、われわれの学年層が幼稚園児だったころの巨大地震をはるかに超えた、戦後最多の減少」


「んー……」

 堂々めぐりのディスカッションは避けてるつもりだ。


 このことについては、結局俺の思考が及ばないんだ。だって、俺はやっぱり現実感を持てない。

 量産の液体の小ビンの一部に、即効きのアタリが仕込まれてると。ンなロシアンルーレットな。そういった、不安論法が実銃(ジツジュウ)のトリガーになることは、ありえはしないか?


「総人口からしたらわずかともいえそうだが、俺は多い、ととらえたものだったからね。数字としてはな」


 横でさつきは、「はじまった年の夏には一件だけ因果関係認めて、それもすぐ取り消してたんだよね」


「そうなんだ」ちょっと息をとめて、棒読みのように俺は答えた。


 同じような、白っぽい建物が立ちならぶ。

 その景色の中を、俺たちは歩いていく。


「俺のホジッたぐらいな見識だと、もろもろの〈関連《統計》〉グラフにはおタメごかしのタネがあるようだ。人口動態はもっとも手が込んでないと思ってるのさ」

 と、諸データを指してチート級の裏ワザみたいに藤野は言う。


 おまえはIQが高いんじゃねえのか。それでどっか壊れ……てんのは俺かもなんだよな。ンーム。


  古人云

   売蔘者両眼

   用薬者一眼

   服薬者無眼


 って改行ナシで、近世の人が言ってた。『蔘』はちょうせんにんじん。

 薬を服む者は目がねェってことだね。


 とにかく俺は、ピンピンしてるよ。


「最近自分をいじめるなって、さつき殿に言われてる。仮にイジッてるんだとしたって、俺の意思に基づいてるさね。でも、人様で実験するとなれば……話はちがってくる」

御倉総神山(みくらそうしんざん)主催の『ワクチン抗議デモ』は、見に行ったよ」


「行ったのー? 福ちゃんが」


「二年以上も前のことだけどもよ。悪いが、毒気にやられて帰ったよ。俺は見て確かめたものを信じるから、なにかあればって思ったが」


「『悪いが』って言うことはなくない? ぽくナイ」

 と藤野。


「苦悩してるのもいるかもしれないからさ」と俺は言った。


 行列の中にチラッ……と大きく黒字で掲げられてるケタちがいな数字を見たような……気がするんだよな。公表されてる人数じゃあなくて。


 聞きわけのない街のバカども目がけ、恍惚感むき出しでナンダーカンダー言ってる態を、とくと拝んだ日だった。あんなもんに追従するくらいなら、俺は救えない羊でいてやっていい、って腹を固めただけ。


 藤野は、「んー……俺は、二度ばかり行った。二度目はひとりで見てただけで、途中で引き揚げた」


「ふむ?」見てただけ? 引きあげた?


「どーゆうわけか、何人も面白い人に会ってさ。集合の日時と場所だけ押さえてて、行進のスタート地点はわかってないんだよ。告知はされてるのに」

「は?」


「個性はまちまちだったね、手のかかった横断幕持参の人もいれば、家事の合い間に訪れたような感じの人もいたりで」と、さつきがさし挟んだ。


「ん、教団外部の人もかなりいたと見る」

「誘導する者はいたんか」

「いまがどうだかは聞いてないけど。拡声器でリーダーがひとり声かけしてたようだった。結論から言わせてもらうと、どうせ動くならステージさ」

「ステージって。演奏して歌う――」


「うん。あり? 『歌って演奏』する……どっちなんじゃアァ。俺今夜眠れなくなりそう」


「てめえが正当だっつう前提でモノ言わないでも、歌は歌。ってか」


「そうね。道路の使用許可がなくてもできることをやりたいっかな」


 言いつつ藤野は、片腕を何回転半か外側に大きく回して、掲げてみせた。

 なんだろ、藤野が『息抜き』してるように見えた。

 いまの風車みたいなポーズ、たしかほんとにギターを鳴らしながらじゃなかったっけ。


「おまえは、ボーカル担当なのか?」

「おうよ。アンド、ギター」


「そんな気がした」


 活動の無期限休止を望んだりして、悪かった。

 あいつ、真友は……

 競技で走るとき、ただ走っただけだ。それを勇姿にとらえたのは、俺含む周囲の人間だ。

 藤野は、そういうところがたぶん同類なんだ。真友と。


「オリジナルの曲を作るのは結構ムズいよ。作るだけならサラサラできるけどね。そこの八階だよ、福留ちゃん。11号棟な」


 藤野は手前から二番目の建物を指差した。そして、

「自転車駐める前に、試運転してみ。帰るときになって漕げなかったらヒサンよ」と言った。


 小さく一周して、確認した。


「ここの12号棟に堀本が住んでるよ」「ふーん」


 エレベーターに乗る。

 低速だ。

 同じ形を繰り返す共用廊下の手すり壁と、すきまから広がる遠景。


 藤野が言う。「浄水器を取り付けるとか、コスパ的に難しいけど、こだわりたいことはいろいろなんだよね」


「先立つものぁ、ゼニよの」

「活水器を団地の元栓に……なんてなことも考えたけど、自治会に提案もせずアイデアだおれさっ。いけませんねえ」


 八階でおりて右に行くと、廊下にスーツの男性がいる。隣室の玄関先から移動してきた様子でインターホンを押そうとしていた。


「なんでしょう?」


 藤野んちのようだ。表札を確かめた。


「あ。わたくし、『ほまれの王座』と申しまして」

「一階のエレベーター前の掲示もごらんになってませんか。この団地は、セールス・勧誘、一切おことわりなんですよ」

「いえ、少し、聖書のお話をさせていだだこうとお伺いしております」

「勧誘でしょうが」


「いえ、聖書のお話をさせていただくまでですので」

「べつの方にも言いましたがね、この団地には車椅子や、九十代でひとり暮らししてる人もいるんですよ」


「そうですか。ぜひ、そんなかたにも聖書の福音をお伝えできればと」


「呼び鈴を鳴らされて玄関に出ようとして転んで骨折とかして、最悪誰も気づけなくても、おたくは責任取れるとおっしゃるんですか?」


「はあ。ですが、宅配便はどちらのお宅にも届きますネ。せっかくお目にかかれたんですから、少しでもお話させていただけないものでしょうか」


「宅配便なら、俺は俺の足……俺の歩きで1分で受けとれるが、あなた方につかまったらそんなもんじゃすまないでしょう」


「はあ」


「ポスティングするなとまでは、俺は言ってませんよ。ご検討いただけないんであれば、おたくの団体と直談します。お立ち退きください」


「では、これをどうぞお受けとりくださいー」


 その男は、藤野にリーフレットをさし出した。

 藤野でなくてもこれは……「結構です」って言いたい。

 ていうか、芋が冷めちまうだろうがよ……しかし、加勢するにも相手は一匹――いや、ひとり。いなくなってくれるまで傍観した。


 ていうか、眺めながら、意識はさつき殿のお腹にいっていた。

 その子は、ほんとに俺をイヤがってない?



「いけませんねえ」


 エレベーターのドアが閉まり降下していく音を聞きながら、ぽそりとさつきは言った。


「へへ、福留ちゃんとさっちゃんが見てるからってカッコつけちゃ、いけませんねえ」と藤野。


 俺はさっきの路上の接触で、結果的に死守した帽子を手に持っていた。右の腕がなにげに疼く。

 錠前から鍵を抜いて、藤野がドアを開けた。

 あがったすぐ脇が藤野の部屋のようだ。


「これでもずいぶんミニマルにしたんだぜー」


 柱の角の立ち机の下に、アコースティックギターがタンスにもたれるように立てかかっている。


 洗面台も借りたが、藤野がレンチンしたおしぼりを持ってきてくれた。

 ベッドを背に、藤野は腰をおろした。


「聞いてよ福ちゃんー、さっきの勧誘、前んときは俺、明けで爆睡してたのヨォ?」


 コレは……『おまえもクリスチャンのくせに』って言われかねないのを承知でだな。


「私怨もあったか」

「平穏な祝日だよ? 母ちゃんたちだって声かけずに寝かしといてくれるってーのに、なんであんなやつらの呼び鈴に……ううっ」

「それはいけま――おっと。ンなンだよキミたちは、さっきから『いけませんねえ』『いけませんねえ』って」

「最近、俺たちのあいだでブームなんだよ。いけませんねえ。」


「たわむれとるなぁ」


「ふざけてんだもん、なー?」


「はいお茶でーす、ぃしょ。福留くん、安心してね。フツーの緑茶よ、さっきのスーパーで売ってる」


「え?」


 意味のわかってない俺に、藤野が口を挟んだ。

「御倉総神山で三年前から販売してるブレンド茶は知ってる?」


「そんなのあるのか」


「それとは別って意味ょん」

 とさつきが湯呑みを置きながら言った。


 それ飲むと、なにか体にいいことあるんだね。


「あのへんのアイテム一式は、高所得の会員ご用達でショ。俺なんて機関誌代ぐらいしか払ってないもんネ」と藤野は言った。


「おいも、いただきまぁす」

 とさつきが、焼きいもに手をつける。


 四条宅に一方通行で藤野が通ってんでもないのは、まあわかった。

 藤野の真似して、俺も芋を皮ごとかじってみた。美味。


 就職の話なんかをした。

 もともとそういう方面に関心薄だったこと、興味なくても現に世間にニーズはあること。バイトでモノを相手にしてた反動もありそうなこと。といって営業職だとかには適性がないって思ってること。


「じゃあ福留くんはそういう資格持ってたりするんだ、福祉系の」

「いや、俺が先に取ってたのはクルマの免許だけで」


「ふーん」


「ほんとなんとなくじゃああったけどね、一応本免許も一発クリアしたよ。ソッチのやつは、会社の募集要項に取得支援制度ってあったから、それ使うつもり」


 面接で、履歴書の資格欄に担当の人の目が奪われてるのを、俺は見逃さなかった。役立つ場面があるんなら、ペーパーでいるのはヤバいな。もうちょい乗り回さないと。


「若い女の子のスタッフはいるの?」


「いるね。同期の予定にも」

 さつきが突いてくる予感はした。


「芽ばえるかな。いないと見せかけて、とっくにいるか」

「俺は三年前に大失恋してるから」


「――えっ」


「な、n…」と藤野も声をつまらせた。


「そんな相手が現れようものなら、前の女を忘れさせてくれなんて言わんよう気をつけないとフられっかにゃーはっはイ」


 なにか言いかけ、

「福ちゃんはどっか淡泊なんだよな。断食系には見えんけど」と藤野はずらしたようだった。


「かわいいなって思うコはいるよ。けどなんかよ、そこどまりなんだ」

「ほー。そいなら、俺も安心かな」


「そら安心だよ、おまぃにそそられたこたねーしー? かわいいのは四条だけじゃねえから」


 藤野の手をたたく音が響き、さつきはおでこを赤くさせ、俺は自己ウケして。笑いくずれた。

 なんてへんな日なんだろう。


 四条と中川を引き合わせたら面白かっただろうな、うん。

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