いつにない顔
その『夢』から覚めました。
姿勢はそのまま、焦点が合わない目で俺は一点を見てた。
飯の支度の音が聞こえる。俺も行く準備しよう。
授業はもう、あってないようなものだ。体を連れていって机で座らせとけばいいだろ。仕事も本番は四月から。ここでオタついたら劣敗よ。
昼が息をつき
影が去るまで
なぜ、このタイミングなのかを知りてえ。
考え考えチャリ移動し――着くといつものところにはほかのやつのチャリが駐められてしまっている。三年になってから、ときどきこうだ。校舎の角を折れてもっと奥に場所を探した。
鍵を抜いて靴箱に向かいながら、もう一度思いめぐらした。
見事に遠のいてる記憶。
たしかに近くにいたあいつ。体感時間がちがったや、いままでだと小っせえ砂時計のぶんもないぐらいが、今朝のはいやに……長くて。
今度のは、〈手続き〉のスパンと絡んでないって――どういうことだよ?
教えてくれい、太助。真友。
頭の中に、けだるい系ロックミュージックとどことなく相通う音色が響きわたっている。そして太助。この肩の上で、俺の頭を撫でさするおまえの手の感触、それはまざまざとよみがえる。
୦
「あらどうしたの、福留ちゃん。他覚徴候発現か」
そいつ藤野は机の前に来て言うと、眠そうな顔でもって苦笑いを浮かべ、さらに言った。
「聞きたくもなるよ、いつにもなくそんな顔してりゃさ」
俺の喉が、犬のごとくにうなった。
「なんでもグォロナと結びつけやぐゎる」
「じゃない、ウイルスじゃない。vacから来るんさね」
そのスラング調がなおさら青スジ立たすんじゃ、「いー、いい、いい。そう言って、話が布教に発展するんだろ」
おまえはへんな御教えにかぶれてるからいやなの、マジに。
俺の親――別居中の、いや。俺とスッパリ別れた二親も、同じ団体の構成員とくる。
地理的に、集会所は別々なんだろう……っていって交流がないかとなると、わかりゃしない。
近年まで鳴りをひそめとった新々興宗教、御倉総神山。校内にかぶれてるのはまだいる。藤野の彼女までが染まっている。御倉のなにがおまえらの血を沸かせるんだか知らんがよ。
「んで、どんな面してんの俺」
「いまのいままで、頭の中がヘチマになったようなお顔してたよ。俺、心配になっちゃったねっ」
ヘチマだ? ひでえや。やっぱりおまえはひですぎるよ。
「熱はござらぬな……どうしたのかなぁ福ちゃんは」
――気持ちいい。
(認めたくないが)
肩を叩かれたことならあったが、こいつに顔の一部を触られるのはいままでになかった。
「いいのか? 藤野。四条が見てないところで俺におタッチなんかして」
「おや? 照れてませんか? 福留ちゃん」
「そーよ、僕照れてるの。って、なるかい、いちいち。おまえ、なんで二時間目から出てきたの? それも、いつにもなくマスク着けて入ってきたよなあ」俺でさえ、いまマスクはずしてるのに。
登下校に休み時間、頑強にマスクをしようとしてこなかった者のほぼ全員を占める御倉信者。授業中にはずしてたときすらあった……。それで連中は学校と揉めたりもした。
三年になるまでクラスのちがった藤野とは、この一年間テキトーに関わってればいいぐらいに思ってたんだが。
こいつと話すとへんに熱の入った談義になることがある。
藤野は上着のポケットに手をやって言った。「保温だよ、これは」
言いながら、ふあっとあくびをした。「今朝はすこぶる寒かった……残業したから一番サッブい時間に自転車漕いできたんだぜ? サミーネミー」
寝すごされたか。
半分に折りたたんだマスクを取り出すと、「これはそんじょそこらの〈顔おむつ〉とはちがってな。特殊なアマ科の植物繊維のつむぎ糸を用いて縫われたすぐれもので」
「いい、いい」
「宣伝しようなんて思っちゃいないさ。おまえに宣伝するとなったら、プレゼントしないことには気がすまなくなる。ンでもって、あいつにも、こいつにも…………と」
「ほら、鐘が鳴ったよ。席にもどれよ」
「悲しいかな、いまんとこ、俺は、俺とさつきの分で手いっぱいでな」
「たーのーむーから。着席しやがれってんだ」
藤野賢は、年度の変わり目に四条さつきと婚姻届を出すことになってる。
二学期の期末テストあけ、さつきは体育の授業中に救急搬送され、そこで妊娠と診断された。通学時のリスクが懸念されて、ぱたりと彼女は登校しなくなった。
藤野は深夜の仕分けバイトをはじめた。それまでやったアルバイトとは毛色がちがくて、当初は苦戦したもよう。いずれ就労時間を増やして、当面そこでやってくようだ。
俺は俺で、同じ会社で夕方からバイトしたことがある。二年の夏休みにはフルタイムでも働いた。教習所にいく金を貯めるためだった。
୦
前の空いてる席の主は陽性が出て、自宅で療養中。解熱はもうしてて、今週中に出てこれないこともないらしい。
「しっかり飯食ったかーい?」
言いながら前の席の椅子に、藤野が横へ足を出して座った。
「ああ」
俺は午後カットでも食べて帰る組。特にきょうは、ほうれん草の卵炒めがおいしかった。
のはいいんだが、今朝は伯母ちゃんが呼びとめてくれてなきゃお弁当を持って出忘れていた。この頭ほんとにヘチマになった疑惑。
浮かせていた椅子の前足をもどして、すこし机に引く。
「どんなときでもがっつり食うよ、弁当は。俺がここにいるってのは、そういうことだ」
どういう意味でもないが、後半をすこし小さめの声で言った。
あの夢で真友たちに会うのはきまってコロ注した次の日だった。連動してたから日付を忘れにくいんだが、今度はどう覚えようか。そうだ、生徒手帳。
右手を胸に当てた。生徒手帳に一日一行、見開き二ヶ月の予定表がついてたじゃないか。
あとでなにげに書きつけとこう。
「あのね、あのね」
布教でなければなんだよ藤野。もったいつけよる。
藤野は、
「さつきがさ。卒業見込めそうなんだ」
「ほう」
「オンラインで補講してくれる。きょうあたり、二者面談にここに来ることになってる」
「それはそれは。もったいないもんな。よかったじゃん」
きょうフケずに出てきたの、四条が来るかもしれなくてか。
入り組んだ気分がもたげる。
一年だったころ、黄金週間あけに新型コロナウイルス感染症で亡くなった生徒がいたことは、藤野、おまえも知るところだろう。
それが中川真友なんだってこと、おまえは知ってるんだろうか。
俺の伯母ちゃんは、真友を覚えてた……伯母夫婦宅へ、離居の荷物を運び入れたときに仲間と手伝ってくれたことがあったからだ。
そもそも俺らのあいだ柄を、藤野は知らないって思う。夢のことにしろ――俺はだれにも話せてないんだし。
藤野に言った。
「まあ、無理するな……って言っても無理すんだろうけどよ、頑張るよな、おまえも」
「あんがとさん。無理は全然してないよ。生きがい――って言うのが大ゲサなら、はり合いさ」
出た、藤野節。負けるわ。
「福ちゃんは、バンドの話したのって、覚えてる?」と藤野。
「ああ。新々々新興宗教の青少年信者バンドだろ?」
俺にも以前、声がかかったんだったが一蹴したんだぜ。
「わはは、痛いな。そっちのほうは、バンド名も決定しないうちにド亀の歩みモードに切り替わったがな。やむを得んわ」
「ふむ」
「俺がいったん抜ける申し出は却下されて……ありがたいっちゃありがたい」
「だっておまえが抜けるってのは、実質、空中分解ってことだろ」
「あん」
「ほかのやつらは華に欠ける」
「福ちゃんが俺をそう評価なさるのけ? 意外すぎてコワイ」
ていうか、新々々新興宗教の青少年信者バンドなんざ、絵にならんっての。いっそ無期限休止にすべきだぜ。俺は心の中で思った。
俺がこいつを拒絶しないのは、挨拶してもちゃんと返してくるところがあるからだ。
非信者を、ちゃんづけで呼ぶ傾向あるのが鼻にはつくが、ナメてるわけでも、正義感からでもない感じがしている。
ほかの御倉信者たちってなると、たいがい俺やなんかを侵略的外来種でも見るような目つきするから降参るんだよ。わかりやすいのはいいんだがな。馴れあわなくてすんだんで。
非信者イコール味方、っちゅーのでもないけど。
福留家の近隣には、当家庭を路地端首脳会談(て俺のいう、)のテーマにしてるかたがたがいたもんだった。遊び仲間の親までが、中にはいたんだ。
「さっちゃん、私服で来る許可を得てんだと。スカートが合わなくなって」
「あぁ俺も絶賛成長中だからなんかわかる、いまさら買い替えるかよダヨナ」
「ところで、福留ちゃんは……これからもvac受ける気なの?」
「それなんだよな。どうしたもんかなーあ」
わざと遅めにずらしたことならある。なぜなら、そのまた次との間隔がせばめられた。
お注射の針が大好きで2回目以降も受けつづけてきたわけじゃあゼンゼンない……。
真友がいない現実を突きつけられて、真友とあそこで会ったのが接種の翌日だったから、次を期待したんだ。単純とも、不純ともいえそうな願いではある。
でも、ここへきて状況が変わった。
今回の夢は、ワクチン接種日との関係がない……接種の翌日でないうえ、直近の接種から日が浅すぎるんだ。
したら、打つ必要性はどこに――
「『おまえが言うと説得力がない』って言われるんだろうけどさ」
その声で、ふっとまた机のわれに返る。
藤野が後ろ向きに椅子にまたがって、俺を見すえていた。
「ただワーギャー言ってんじゃない。自分をいじめるのはよしな。次はもう見送れ」
言われたのは、一学期のころ以来だった。
なんだよこいつ。『いーんじゃナイ? 打ちたいと思って打つんだから自己責任』ってつき放したんじゃなかったか?
俺はひと呼吸した。
「今度のとこの職域接種がどうなってるのか未確認なんだわ、考えてみたら。まあ、慌てて打つことはないな。それそうと、おまえの仕事先っていま検温はやってるの?」
「けんお――あぁ、モニターがあるにはあるな。素通りしてるけど」
「ふーん。だよな、一旦2類から引きさげられたらそうなる。計れるようにはなってるのね」
「もしも熱が出りゃあ連絡はするけどね。なんで?」
「今度のとこが自己申告制だったからどうなのかなってさ」
と俺は答えて言った。「俺が夕勤してたころは毎度毎度着いたら計って、紙に記入してたよ」
高二の夏にはそれがたち消えたから、管理の杜撰化との区別がつかないままで契約満了していた。
「賢――」
前側の入口から、男子の呼び声が人もまばらな教室の空間に響いた。
「おう、行くよ」
と藤野が反応して、椅子をもどす。
「じゃな。福ちゃん、変異株はすっかり弱体化してるぞ」
安心させるために言ってくれてるのはわかるがな、猛威が強力なら打ってよし、か? 聞きかたによっちゃ、そうもとられるぞな。
それって、一〇〇パーセント感染しないっつー話ではないだろ。
一〇〇パーセントこじらせないって意味でもないよな。
今後打たない決心をしたとは、俺は言ってない。
正統的とかってことじゃなくてさ。俺はそのへんが判断できるほど情報収集してもいなけりゃ、おまえら御倉信者のごとくには、世にいう陰謀論なるものも奉じてない。
人類はいつ牛耳られたよ。ホロコーストの再来ってナニソレ、の地平なんだよ。俺はね。
今週はまた、内定先の実習に行くことになってる。
俺は生きているので、生きてくために職を得て働く。
『大卒は使いものにならん』って、昔俺の父親が言ってるのを聞いた。
会社選びをミスったんだ、ってそのときは思った。そうでないならそいつはきっと俺のように、なにがなんでもこれをやりたい、ってものが見つからない人間なんだろう。
出世とか栄進とか、なくていいよ別に。
୦
校門を出かかったところで、反対方向の空をちょっと仰いだ。
真友が暮らしてた家は出身の小中学から見ても、俺の親元宅より手前にある。俺が伯母ちゃんちに移り住んでからは、徒歩で三〇分強。五倍かかるようになった。
通らなくなってずいぶんになる。
行ってみようか。
いや、やめとく。
生前の真友んちの前まで行かないと夢で真友に会えない、ってパターンが形成されるのは勘弁してほしい。
俺は左に向けペダルを踏み出した。
中川家に年賀状は出してないが、就職がきまった時点で、近況報告のハガキを出した。返事を期待しなかっただけに、おばさんの字でハガキをもらったときは単純にとても嬉しかった。よくあんな俺のヘタ字に。
驚いた中に、新しい住所から届いたってことがあった。
出すのが遅ければ転送されなかったかもしれないんだ。届いただけでも超絶ありがたい。
ていうか、真理に気づいてしまったよ。
保障がないんだ。行けばこの先――
必ず会えるっていう保障が。
「福留くんだ。ひさしぶりい、元気そうだね」
塀づたいのところで、ひとり歩いてくる女の子が俺を呼んだ。
「お、四条じゃねえか」
前よりか低いとこで髪をひとつに結んで、藤野のとおソロいっぽい顔おむつ……いや、マスクを装着している。保湿か?
「超しばらくだーな、バスで来たのか」
「だよ、始発だからずっと座ってたー。そのマフラーいーねえ。合ってる、色といい柄といい」
「あ、面談なんだよな? きょう聞いたぜ、補講であがれるんだってな」
「そうなの、四月に食いこみそうでね。ひときわ社会弱いのがふがいないわ」
校門のほうを振り返った。
「やつのお出迎えがないな」
「あたしが言ったの、中にいなさいって。バスは絶対遅れるんだから。そう、福留くん、よかったらこれ食べてー」
小さなチョコバー。に、リボンシールがついてる。
「おう。ありがとう」
サドルからケツをおろして受けとった。
ポケットの飴をやろうと思ったが、何日か前につっ込んだ飴だしノンシュガーだからイヤミになってもナンだ。
バスの混みぐあいがどんなだったかは知らないが、これ以上無防備に……俺に接近してくれるなよ、四条。
御倉の信者は、コロナ既接種の人間と密になると健康被害を受けるって、本気で思ってるはずだ。被害によるとする皮膚症状の写真は俺も目にしちゃいる。
とりあえずいまの俺――顎から下は着こんでるけど。その有害物質とやらが繊維の目を通りぬけるのを、想像しないわけにいかない。
「放課後なのに、またバラまくのか」
「ふふ、ことしはさらにピンポイントでね」
四条さつきとは、二年でも同じクラスだった。
去年チョコをくれたとき、この子は日ごろの感謝って言ってた。女子にも配っとった。
機に乗じてるにすぎんのだよな? 年度末にも近くて。聖バレンタインデーのいわれ……古典古代に殉教した聖人だとか、近代日本に風習をもたらした菓子メーカーだとか、未来の大人にチョコレートを配った進駐軍人だとか。そういうのを、つべこべ持ち出すのはよすんだ。
「一緒に暮らすのは、これからか」
「んー。いまんとこ、なんかあいつがこっちに顔見せてくれてる。毎日必ずじゃないけど」
「ふむ」
「具体的にはまっさら状態なの。しばらく親と同居するかどうしようかも……ねえ、そういえば、あたしたちってみんなひとりっ子だね!」
「そういや、そうだな」
真友もそうだった。
さつきんちは、親が職場恋愛なのと、子供が生まれてから御倉に入信した点が、俺のとこと共通してる。
ただ、さつきの両親は彼女が中学のときに御倉を離れている。
「この子はどうなるかなァ、なんてね。さてー、行ってきますか。まだ一五分前、余裕余裕」
とさつき。
「階段とか気をつけな。ちゃんと手すりにつかまるんだぞ」
「あはは、大丈夫。ありがとうね。福留くんも気をつけて」
パンツに、ビット靴ないでたちで、彼女は先を見て歩いていく。
お腹の様子は、言われてみればそうなのかなって感じで、ちょっと俺には気づけなかった。
今度のことはともかく、へんな宗教さえやってなけりゃかぎりなく普通なのにな、四条。
漫然と引きこもってはいないだろうから、きっとなにかやってる。アンケートに答える在宅ワークってガラでもなさそうだが。
しかし、おかしなもんだな。藤野を見ても思ったが、四条がマスクすると違和感ある。
今後顔の一部にするつもりじゃなかろ?
同じ違和感を覚えた記憶はないから、体育の時間に倒れたときも、四条はマスクしてなかっただろう。
運動部には、マスクを着けて走りこんでて、救急車を呼ぶはめになったやつがいる。はたまた彼女のようなケースもある、この……ままならなさ。
学校から一番近いコンビニの前では、ノーマスクで通してきた顔ぶれがきょうも買い食いをしている。在学中見てきたかぎり、店はずっと黙認していた。アホクサい……
バイトしてたところの宅配の自転車リヤカーが躯体をゴトつかせながら、滑るように俺とすれちがった。
୦
台所の洗い桶に、箸とともに弁当箱を浸した。
「卓ちゃん、おかえり」
「ただいま。洋子伯母ちゃん、朝はごめんね」俺は言った。
俺あてに届く郵便物や宅配物は、みんなここん家に配達される。
だから、町名番地のあとには〈尾形様方〉がつくって仕組み。
「なんともないならいいのよ。心あらずだったねえ」
「はは、きっと朝だけ。ありがとう、ごっそさまでした」
「お昼近くに、お母さんが来てたんだよ。議員さんのチラシを置いてったわ」
「あ、そう」
義伯父ちゃんに見せてから捨てるかきめるんだろう。
「懲りないな」
最低月一やってくる実の母親。まもなく養育費を渡す必要もなくなるぜ。せいぜい、すとれーとに成育したことに感謝するこったな。
俺が会いたがらないからではあるが、高熱で寝こもうがなんだろうが放置されてる。
コロワクの副反応ゆえ自業自得だヴァカめ――ぐらいに思ってんだろうよ。
今度親と顔を突き合わせるのは、どっちかが……俺かやつらのどっちかが死んだときかもしれない。
伯母ちゃんが化学物質過敏症だとかで、人体への負荷を抑えた洗剤使ってるから、洗ってもらってる衣類は実のとこ香料臭くないのが気に入ってる。
「そういえば、このうちも家の中じゃマスクしなかったね」
と俺は、襖の柱に手をかけて伯母ちゃんに話しかけた。
「そりゃそうよ。咳とかやばいならまだしもよ、効果のほどなんて、ちょっと考えればお母さんじゃなくたってわかるもの」
と干し物をたたみながら、俺を見て伯母ちゃんは言った。
「うん。おとなりの奥さんもしないんだろうか」と俺。
「はずしてたでしょうよ、ごみ出しのときにしてなかったんだもん。郵便受けもね」
「知らなかった」
隣の泉谷さんは清掃パートや児童見守り隊の活動なんかをしてて、ノーマスク姿を見かけたことがない。
俺がここに移り住んだころにはすでにひとり暮らしになっていた。
通話手段がいまだに黒電話オンリーなのは知ってる。
「形だけの遮断でも、気持ちのものだと思うのよね。うつさない、うつされないっていう。そんな願いの意思表示だわよ」
「うん、うつしたくない――うつされたくないね」
俺は伯母ちゃんの考えにきわめて近い。
マイクロ飛沫、煙霧質……呼びかたいろいろのようだが。
二メートル離れたところに歩速で移動、そしてそこに停滞する《そいつ》を吸いこむのって、容易にシミュレートできやしないか?
長時間同じのを着けてりゃ不衛生なのだってわかりきってる。俺は午後になっても替えないほうだけどな、もったいないから。
とにかく俺、ビンビン……いやピンピンしてるよ。
洗面台で鼻の穴をすっきりさせたついでに、鏡の自分を見た。いつも髭剃るの、えれえかったる……。俺だめ。おれゎもうだめ。髪の毛の色いじるとか以前に、髭のばしたいンじゃ……。剃るけど。
左右反転像の、見ようによっちゃあイケてるこいつは――
母親似と言われるが、父親の血も、等しく引いてるのがわかる。
ため息が出た。
「真友」
オレたちハ、こんどイツアエルノダロウ。
故人と夢で会うのは、俺があいつらの息子だからっていう……わけわからねー特異な立場だからなのか? 俺たちふたりのあいだのことだから、そうは思えないし思いたくないンだな。
御倉のやつらをうらやましく思うときは、ごくごくたまにあった。真友はマスクしてたって意味なかったんだから。
もとは結婚したイトコの使ってた、この部屋。住みついてしばらくは落ちつかなくて、個別に真友を通すことがついになかった。
ラジオの電源を入れる。
「 “キリスト・御仏とともに。この番組はみなさまの道しるべ、御倉総神山の提供でお送り„ ――」
速攻チューニングダイヤルを回し電源を切った。
「くっそ。15時前かよ」
ベッドへ体を投げたとたん、鈍い音をともなって、窓枠で打った頭に痛覚とジョリ感が来た。あぁ、ああ。ふんぞっても――うつ伏せっても うずくまっても――ろくなことがねえ。起きあがって首を振る。
ベッドの上方を頭にして横たわった。
「うたた寝のあいだだけでもいいから。会いたい。糸デンワでもいい。おまえは……ここにいないの? 元気でやってるんなら」
目を塞いでる腕を離せば、天井があった。
幸せにしてるならいい。
ここに、物理的に遺っているもの。
二枚のバレンタインのカード。どっちも葉っぱの形をしている。
手編みの帽子が入った袋。『寒くなったらかぶってね』って、四月になってから受けとった。
それから自分の機種変前のスマートフォン、プラス未使用純正バッテリー……以下割愛。
置いてる写真立ては、昔の仲間に交じったレアめのショットだ。
思えば、中三のときだけでもあいつの誕生日とホワイトデーにそれらしきものを渡しててよかった、なにもしないよりは。一応よろこんでくれてた。
半月ちょっとのあいだ通学手段が自転車に切り替わったにすぎなかったような、あの子の高校生活。
俺が死んだら この記憶はどこへ行く
あたりまえだが、その年も俺の誕生日は四月二一日だった。
曜日は水曜だった。
週末に会えなくなると――――月曜になっても会えないと、俺も思わなかった。
悠長に脳内で、連休の計画なぞおっ立ててたんだ。
たしかに鼻をぐずらせてた。
『とうとう花粉症かも』って本人は言っていて、俺もそのくらいに思ってしまった。
汗の吹いた額が目に焼きついている。
環境の変化が近因の汗ではなかった。
『帰るぞ』って教室で声をかけたら――顔をあげ、何秒間か不思議そうに俺を見て『卓ちゃんだよね』って言った。
それに対して『眠いの?』ぐらいしか口に出さなかったのは、せめてもの救いだ。
みんなコロナウイルスのせいにできれば、どんなにか。
わァってんの。罪悪感 ≧[大なりイコール] 喪失感なのは。
「いいよ、いいよ、それくらい。私にやらせなさい」
飲んだコップを洗おうとすると、伯母ちゃんが分け入った。
「おねがいします。いや、にんじんジュースだからすぐ落とさなきゃって思って」
「今夜はカレーにするのよ。米粉のカレールーなんてあったから、合わせてみる」
「うほほー。カレー。まってまジュル」
なんでもおいしいけど、伯母ちゃんの料理の中じゃ、俺はロールキャベツとシチューが好きだ。
母親の姉妹なのにはちがいないけど、最初のうちこそ異郷の味覚……ってったらいいのか、そんなんだった。
家を飛び出してかくまってもらったとき、義伯父さん、それから伯母さんが一肌脱いでくれてなかったら、いまの俺はこうしてない。
本当に、感謝はしてるんだ。
୦
夜、神社の参道の夢を見た。
追憶が生む夢。見ようって思って見れるもんでもないけれど。
こういう夢ならわりとちょくちょく見る……。三が日はよけたんだったね、二度目で、最後の初詣。オミクジ二本とも大吉だった。
真友が俺を指差し、声をたてた。
「あーっ、笑った。あっハッハ、笑ってる」
巨大なみたらし団子のような焼きまんじゅうを、ただンマンマしてるだけでいきなりそれ……。
「なあんだよう」
俺は口をとがらせ、顔をつき出してみせた。