言葉の力
「太子様♪」
戸口から声を掛けられ顔を上げると、そこには闞沢が直立不動で立っていた。
「これは徳潤殿!朝早くから何用かな?」
「はぁ、儂はこれから山越に廟堂の決定を伝えに行く所存です…故に一応ご挨拶にと!」
「あぁ…そうだったね♪」
そう言われて孫登は書簡を放り出して立ち上がり、歩を進めて闞沢を迎えた。
「永らく待たせてしまってすまないと伝えて欲しい。本来なら呼びつけるなどもっての他だが、私も今は劉禅君を迎える準備で忙しいのでな♪山越側にもこれ以上待たせる訳にも行かぬだろうから、苦肉の策だ!」
「判っておりますとも!少なくとも太子様のせいではありませんからな♪彭越殿も我が君の姿勢は既に承知の上ですから!どちらかというとこの場合、約束を反古にしない事が重要なのです♪」
闞沢は孫登君の懸念を取り除く様にそう答えた。
先般の廟堂での採決を受けて、山越との交渉の全権は太子・孫登の身に委ねられた。
そもそも現在進行形で荊州との折衝を控える太子に、山越の件まで押しつけるとは孫権もなかなかの厚顔だが、これからの事は若い世代で決めよと言われては仕方無い。
その代わりとして、全権委譲を確約させた訳だが、これについてはむしろ周りの受け取り方は却って良好だった。そりゃそうだろう。
誰だって手の平を返されるよりは、ましというものだからだ。それに今回の事で孫登君の力量が判った今、皆にとっても揺るぎない姿勢を貫く太子に、任せてみようという気持ちは強かったのである。
但し、皆の期待を一身に背負い責任をその双肩に委ねられた本人は大変だ。ところがその孫登君は少なくとも今の所は何事も無かったかの様にその責務をこなしている。
さぞや大変だろうと闞沢などは想うが、孫登本人に言わせればそうでも無かった。何しろ彼はこれから劉禅君と組んで中華の恒久平和に取り組む身である。
高々、国内の問題を解決出来なくて、何が出来ようか。そう考えれば、喩え巨石が肩に乗ろうとも、やらねば成らなかったのだ。
それに考えようによっては、将来君主を引き継げば、どうせやらなければならない事であり、それが少々早く双肩に乗って来ただけの事である。
それにこんなところで挫けていては、荊州で全権を揮ってその成果を既に挙げている彼の若君に笑われてしまうだろう。
孫登は只でさえ劉禅君には先行され、水を開けられていたから、やれる事は何でもやろうと想っていた。
別に彼は張り合おうってんじゃない。及ばずながら、その背を追うと決めた時に、自分の責務が今後益々大きくなる事は既に承知していたのだ。
彼の今の責務は未だ国内問題を出ていないし、破綻する程の問題でも無い。そりゃあ大変な事には違いなかろうが、既に覚悟と共にひと皮むけた彼にとっては、少なくとも適わない事ではなかった。
それにひとりの力では何も成し得ない事は、もはや重々承知している。そう…一致団結したチーム力で乗り切れば良いのだ。
それはかつて劉禅君が出した結論であり、孫登も同じ結論に達している。ひとりの力には限りがあるが、仲間が共に入ればきっと成し遂げられよう。
その覚悟の許に、孫登はニコやかに口を開いた。
「そうだな…その通りだ♪約束を守る…そんな当たり前の事が出来なくて、信頼も糞も無いからね♪とにかく事はどちらも重要だ。意志の統一を計りながら一歩ずつだからね!宜しく頼む♪後、しばらく賀斉を貴方に預けよう!一緒に連れていってくれ♪」
「宜しいのですか?」
闞沢は訊ねた。
「うん♪だって彼も関係者な訳だし、今や呉の将であり、私の副官だ!何かと役立つ事だろう♪それに…」
「それに?」
「本人だって消化不良のままじゃ、気持ち好くはないからね♪」
「太子様がそう仰るなら喜んで同行させて頂きますが、御本人は承知しておるのでしょうな?」
「何で?」
改めて訊ねられると闞沢も答え難い。これじゃ、まるで疑って懸かっているようじゃないか。
「それはそのぅ…」
今さらながら、闞沢も余計な事を言ったと苦虫を噛み漬す。ところがそれを聞いていたのかは判らぬが、彼の背後から突如声が掛かった。
「こりゃあ、どうも♪徳潤殿!お待たせしました♪」
それは言わずと知れた賀斉だった。
「おぉ…公苗殿♪」
驚き半分、安堵半分といった顔で、賀斉を認めると、闞沢は慌てて振り返り、孫登君を見つめた。
すると孫登はニコやかに告げた。
「悪いな♪どうやら誤解させたようだが、こうでもしなきゃ責任感の強い君だ!ひとりで行くと想ったんでね?まぁ道中、連れが居れば何かと退屈しのぎにもなるしな♪先方も関係者が揃ってる方が安心するだろう…」
「仰る通りかも知れませんな♪では有り難く!」
闞沢は今ひとつ歯切れの悪い孫登君の言葉に、得も言われぬ疑念が頭をもたげるが、敢えて口に出すのは止めた。
太子の親切を無碍には出来ない。それに賀斉のお陰で元々は収めた反乱だ。彼を抜きには語れまい。
闞沢は少々気負っていた自らに気づき、ここは賀斉と協力して臨もうと心に決めた。二人は太子に挨拶して旅立つ。
孫登は優しく微笑み頷くと、安心したように書簡に目を落とし始めた。
「しかし…妙な風の吹き回しだな。御主にそんな拘わりがあったとは驚いた!」
馬車に揺られながら車窓を眺めていた闞沢は、然り気無くそう口にする。
両手を枕替わりに寝そべり、あぐらを掻いていた賀斉は、その唐突な物言いにも動ずる事なく、少々右目を釣上げると口を開いた。
「まぁ、成り行き上はそうなるでしょうな…」
そう言って、目配せして来る。
「何だ!違うのか?」
闞沢はいつの間にかその視線を賀斉に向けており、真険な眼差しで問い質した。
「やれやれ…」
こうなると、賀斉も寝転んでいる訳にも行かず、一旦居住いを正すと闞沢に向き合う。そして仕方無いといった体で話し始めた。
「徳潤殿…貴方は責任感の強い御方!貴方こそ大夫の鏡であり、立派な武士で御座ろう♪それは誰が見ても恥じぬ振る舞いです!貴方のその確固たる姿勢の前では、邪な者はその身を恥じ、正しき性根の者は奮い立つ。そして慈悲の心を持ち合わせたがゆえの今回の道行き、恐れ入るほか御座らぬ!」
賀斉はそう言って見つめ返す。
「何が言いたい?」
闞沢は理由が判らず訊ね返す。すると賀斉は溜め息混じりにこう言った。
「責任感は買いますが、山越は一筋縄ではいかぬ手合い。そもそもここいらは全て彼らの土地だったのです。山越があの春秋の御世の越の子孫かどうかは定かではありませんが、越の民も元々山岳部で暮らし、生計を立てていた訳ですから、彼らに越の民の血が流れていても今さらあっしは驚きません!そして我らの主人はあの斉の孫武の末裔です。謂わば権謀術に優れた詐術家だ!そもそも我らこそ、他所からノコノコとやって来て、他人の土地を奪い取り、厚顔無知にも平気な顔をして、ずうずうしくも彼らの土地に胡座を掻いている痴れ者です。話し合う余地など、そもそも無いのですよ?どの口が言うかぐらいのものですな♪」
賀斉があっさりとそう言い切ると、今度は闞沢の方が慌て始めた。そりゃあそうだろう。
『コイツ…どこの禄を食んでると想ってる?』
そう誰しもが想うだろうからだ。にも拘らず、この男は飄々としている。
「おぃおぃ待ってくれ!それじゃお話しにならんじゃないか?そんな事言ったら、三国全てそうだぞ!」
闞沢の言わんとする事は正論だ。そんな事を言い出したら切りが無い。漢の支配体制が崩れ去り、一旦戦乱の世を経ての三国鼎立だ。
今さら蒸し返し始めたら、何を根拠にすべきかが、その根底から崩れてしまいかねない。ところが賀斉はそれでも怯む事無く、いけしゃあしゃあと言った。
「勿論、そんな事はこのあっしにも判ってるんで!それって当たり前の事ですからな♪あっしが言いたかったのはそんな事じゃ無いんです!山越共はそもそも略奪を生業としている者たちの集まりだ。確かに地に根付いている者たちである事に変わりは無いです!でも山麓に拠を構えて、やっている事は昔と大して変わっていません。体の良い畑荒らしです。それって同じく地に根付く民いじめであって、やっている事はほぼ山賊と変わりません!あっしに言わせれば、上等な賊徒共でしょうな♪」
聞いていた闞沢はもはや理由が判らない。『コイツ…何が言いたい?』てなもんである。
すると賀斉はその反応に満足したように、こう言った。
「確かに後からやって来た我々が彼らの拠り代を破壊し、奪ったのかも知れません。ですが彼らには、元々この地の民を導こうなんて気概は全くと言って無かったのです。それどころか、やっている事は真逆なんで!山越とは生産性の欠片も無い、只の山賊です。それが証拠に今度の復興にも何の寄与もしていません。生産性を高めなければならない時期に、足を引っ張っていたのは彼らです。勿論、江東が特殊な地形に阻まれて、復興が遅々として進まないという問題を抱えている事は承知の上です。ですが本来、自然災害などの緊急事態には皆が協力して当たるものでしょう?それを在ろう事か反乱を起こし、救済を求めるなど本末転倒だとあっしは想うのです!ですから今回の問題には慎重に当たるべきだ。なのに貴方は彼らを憐んでいる。あっしの言いたいのはそこなのです♪」
賀斉はそう言った。
言わんとしている事は闞沢にもようやく理解出来た。そもそも山越とは国家の形態を持つものでは無いし、まとまりのある集合体ですら無い。
山間部に住まう地の者たちの集まりであり、賀斉の言葉を借りれば、山賊の集合体なのである。その総称が山越であり、反乱を起こす部族もその時々で違う。
だからこそ互い違いに反乱を起こす。その行動には何ら普遍性は無いのだ。そして山賊相手だと割り切っているから、これまでの討伐隊の者たちも容赦無く彼らを討伐し、手柄として来たのだ。
けれどもそれは山越全体を抑え込むには当然至らない。結局その時限りで、またぞろ時と共に反乱は起きる。
そんな事は討伐する方も心得ていて、手柄になりゃあ気にする必要性すら無かったのだ。要は根本的な解決には成っていないのである。
こんな事を今後も続けていれば国は益々疲弊するのみだし、討伐の手柄で肥え太った豪族たちは益々勢力を強めるだけだ。孫家にとっても民にとっても何も寄与する事の無いくだらぬゴッコなのである。
今回、賀斉は穏健派の闞沢の意向を入れて無血解決を断行し、彼らとの話し合いの道を繋いだ。この機会を生かさない手は無く、全ての山越に対して施行出来る法制度を作らねば、全くもって意味は無い。
そもそも賀斉が容赦無く彼らを叩くプランBを計画していたのだって、山賊相手だと割り切っての事だったのだ。でも話し合うなら、互いに殺し合わずに済んだ方がその端緒に着きやすい事は自明の理である。
今こそ山越の反乱の芽を永久に摘む時と賀斉はこの道行きを買って出たのだ。伊達に長年、山越と向き合って来た訳ではなかったのである。
「成る程…公苗殿の言いたい事は判った!そういう事ならこの儂も覚悟を決めよう。だが彼らが一枚岩では無い以上、彭越とだけ話し合っても無駄という訳か?」
闞沢がそう答えると、賀斉はようやく二人の温度差が縮まって来たと想い、口を開いた。
「左様で!ですから今回、我らとしては山越で有力者と想える全ての頭目に我らの意志を伝える所存です♪そのためには高々50名足らずの道行きでは心許無い。特に山越は一枚岩ではありませんから、彭越と敵対している者共からどんな妨害を受けるか判らないでしょう?太子様が特にこのあっしを寄越した理由は二つ。使者の安全を計る事。そしてこちらの意志の統一を図る事です。黙っていましたが、あっしは太子様の近衛部隊を1万従えて来てます。やつらが襲って来たら容赦しません!まぁ奴等は山合いの高見から見ている訳ですから、後ろから追従して来ている大軍が見えぬ筈は無く、そんな愚挙に及ぶ輩は居ないでしょうけどね?」
賀斉はそう言って笑った。
「それは穏やかじゃないな?それにしても、そういう事なら早目に言ってくれれば良かったんだが…」
闞沢は溜め息混じりにそう呟く。すると賀斉はほくそ笑みながら答えた。
「そらぁ…そうです。そうなんですが、太子のお立場としては言い難かったんでしょうなぁ♪まずは寄る辺ない廟堂の中で、真っ先に手を挙げてくれた貴方の手柄だ。交渉に入るまでは、口を挟みたく無かったのでしょう。そして廟堂の連中の中にも、今後山越討伐を足懸かりにして出世の道を模索したい者も居た筈です。あからさまに公言し過ぎては反論を許す余地が在ったのでしょう。何しろ荊州の若君を迎えるためには、一枚岩に成らねばならん時ですからな!些細な事で拗れると困るでしょう?少々、後出しじゃんけんになる事を承知の上で、知らぬ振りを決め込みたかったんでしょうなぁ♪」
賀斉は然も愉快とばかりにそう宣う。
闞沢は太子の覚悟をその言葉に感じ取って、反論するどころか事は重要なのだと、益々やる気に溢れていた。そしてこれこそが、本当の問題解決の方法なのだと改めて感心仕切りとなった。
『それにしても…』
闞沢は想う。この賀斉の何と雄弁な事よ。
その姿勢には些かのブレも無く、山越問題の完全決着にも迷いが無い。おそらく長い間温めて来た、コレしか無い秘策なのだろう。
それを今がその機会とばかりに、躊躇わずにとっておきの札を切れる男…それが賀斉という人の類い稀な行動力なのだと闞沢は恐れ入ってしまっていた。
太子・孫登君をその雄弁さとブレない姿勢で説得したのも、おそらくこの男である事はもはや疑いようのない事実だった。あの太子が歯切れの悪い態度を取る訳だと、闞沢は苦笑う。
そしてこの山越問題決着には、我が国の明るい未来が感じられた。否…それだけでは無い筈だ。
これから中華の恒久平和を目指す時に、国内の悪しきしがらみを抱え込んでいてはお話にならない。これは謂わば会盟に向けての孫登君なりの覚悟なのだと彼は想えてならなかった。
賀斉もその想いを感じ取ったのか、ニコやかに闞沢に微笑み返した。
【次回】待てば海路の日和あり




