希望に向かって翔べ
幕が引けた後に、孫権はいつも通り諸葛謹を伴い退廷した。顧雍と張昭は互いに挨拶を交わすと、左右に別れて引き上げて行く。
闞沢は、只ひとり納得が行かずにいら立ちを覚えていたので、その後を追うように顧雍に迫る。
ところが当の本人は飄々としており、取りつく縞が無さそうだった。
「おや?これは徳潤殿!何ぞ用ですかな?」
顧雍はまるで何事も無かったかのようにそう訊ねて来る。闞沢はカチンとなって捲し立てた。
「"用ですかな"も無いもんだ!先程のは何です?アレでは問題を体よく先送りにしたようなものなのでは!」
偉い剣幕で迫って来る闞沢に、顧雍が辟易しているのは確かだった。けれどもそこは一国を担う丞相である。
顧雍は足を止めて、真摯に向き合う。然れどその姿勢とは裏腹に、その言葉は辛辣だった。
「はてさて?我が君の決定に皆、英断だと賛同された筈だが…それともこの私の耳が聞き間違えましたかな?」
言葉尻は無論の事、その惚けた物言いは闞沢を益々いら苛立たせた。けれどもそう言われては旗色が悪い。
何故なら彼も文句が言えなかったからだった。大勢が決した時、諸葛謹は勿論の事、長老の張昭さえも、反論に転じなかったからである。
彼は唱和こそしなかったものの、反対だとはっきりと言明もしなかったのだから、そういった意味では顧雍の言葉は正しかった。
結果、闞沢は憤るしか無い。これではまるで、ひとり駄々を捏ねる幼子のようである。
彼もそれは重々承知の上だったが、太子様や呂蒙たちの事を想うとやり切れなかったので、食い下がった。
「それは屁理屈で御座ろう!丞相も、呂蒙殿や陸遜殿の申し入れに賛同されたではありませんか?」
闞沢は見て来た様に物を言う。けれどもその意気込みは見事に顧雍に打ち砕かれた。
「貴殿がどのように報告を受けたのかは、私も知りません。ですが、私は一言も会盟に賛同したとは言わなかった。むしろその意図するところが判らず、直接本人に聞いてみたいという姿勢を貫きました。だからあの時、彼らにもはっきりと、江東に来るというなら吝かでは無いと申し上げた。私はあくまでも、その線で話を進めただけです。言っておくが、コレは太子様にとっても千載一遇の機会となる事でしょう♪むしろ感謝されこそすれ、批判を受ける謂れは無い!徳潤殿、私はこれでもこの国の丞相だ。焦って、結論在りきで皆に迎合する事は出来ないのです。但し、最終的に表明したように、劉禅君の意図が明確化され、その意志が理解出来たなら、私は喜んで承諾するし、会盟にも進んで協力すると約束しよう♪それが不服ですか?」
これが公平公正と評される男の由縁なのだろうとこの時、闞沢は想った。だからこれ以上は、言い返す事は出来なかったのである。
それに物事には、手順を踏む必要はあるものだ。おそらくこのままで、会盟に賛同を表明したとしても、廟堂の総意は得られまいという彼なりの意志を、そこに闞沢は感じたのである。
総意が得られぬまま時が過ぎる事は、太子側にも得策では無い。なぜなら反対に転じた烏合の衆に、またぞろ我が君が引き込まれないとも限らないからである。
そう考えた時に、闞沢には丞相の意図するところが見えて来た。確実に一歩ずつ進む必要があるという事である。
勿論、丞相は最終的に会盟に持って行きたい訳では無い。どう転ぶかを見極められるつもりなのだろう。
けれども、一方的に遮断して耳を傾けない事は、甚だ健全とは言えないというのが彼の持論であり、姿勢だった。それだけの事だったのだ。
闞沢もようやくその意図に気づき、己を恥じた。だから姿勢を正して非礼を詫びた。
「否…仰る通りでしょう♪丞相の深謀遠慮には恐れ入りました。儂が浅慮で御座った!許されよ♪」
闞沢は謝る。すると顧雍はニッコリと笑って闞沢の肩に手を置く。
「貴殿は真っ直ぐな御方!私のように公正な眼で物事を見る者も国には必要ですが、貴方のように謝ちには怯まず直言で応える者も国には必要なのです。今後もその折れぬ心と姿勢を貫いて下されよ♪」
彼はそう言うと、そのまま踵を返して去って行った。闞沢は丞相の背を見送りながら、一国の丞相の矜持を見た気がしていた。
「おゃおゃ…これはまた奇妙なところでお会いしましたな!」
そう言われて賀斉は振り向く。そこには白髪の爺が佗んでいた。
「あっ!こりゃあ驚きやした♪子布様では御座らんか!どうしてここに?」
彼は少なからず驚いている。賀斉は元々、孫策に見出だされた男だから、その当時から参謀格だった張昭とは面識があった。
なかなか本性を見せぬ厄介な相手だと記憶している。だから自然と構えた。
勿論、それは相手にも伝わる。張昭はほくそ笑むと言った。
「警戒せずとも何もせぬ♪全く!敵を見るような目をせんで貰いたい。儂がお主に何かしたか?」
そう言われてみれば、確かにその通りである。賀斉はすぐに姿勢を正した。
「否…そんなつもりでは!只、つい昔のですな…」
彼は言い淀む。
すると張昭はコロコロと笑った。
「まぁな…変革期は用心が肝要だからのぅ~♪心配するな!何もせんよ♪それにしても、ようやくか!長い事、御苦労だったな♪」
張昭はそう言った。彼なりの誠意なのだろう。
賀斉は答える。
「いぇ…仕方ありません!あっしは評判の良くない男でしたからな…それで今日は何か?」
賀斉は訊ねた。
「おう♪太子様に報告にな!手短かに済ます…重要だ♪」
そう張昭は答える。
太子様の事を想えば、断わる方が良いのは判っていたが、相手が悪い。それにわざわざ足を運んで来たところをみると、その言葉も満更偽りでは無さそうだった。
そこで賀斉は長老の張昭を伴って、太子様に声を掛けた。
「公苗です♪お休みのところ、申し訳ありませぬ!子布様がいらしております。急用です♪」
すると程なく戸が開き、孫登が姿を現わす。身形は整い、その表情もしゃんとしていたので、賀斉は驚く。とても休んでいた様には見えなかった。
「これは子布様♪わざわざのお運び、痛み入ります!で、どうなりました?」
太子はいきなり問い掛ける。
この時、賀斉はようやく事の成り行きを理解した。用があったのは張昭では無く、太子様ご自身だったという事になる。
なぜなら、その言葉には待ち侘びたという強い意志が感じられたからだ。それならそうと、端から言ってくれりゃあ良いのにと、賀斉は苦笑う。
けれどもその意味はすぐに判った。
「えぇ…まさしく、太子様の読み通りに落ち着きました。けれども本当に、これで宜しいのですね?」
張昭は念を押す。
「うん♪上出来だろうね!あの父の事だ。また迷われると困る!まずは端緒に着く事が大切だ♪その点では丞相の路線で良い!急いては事を仕損じるからね♪急がば廻れだよ!」
孫登はそう言って笑った。
どうやら、我が君が招集した首脳による決議の結果が知りたかったのだろう。いつ終わるとも限らないその行方を、今か今かと待ち侘びていたらしかった。
それなら予め、示唆も出来まいと賀斉も得心する。すると張昭もやむを得ぬと、両手を広げてみせた。
「まぁ儂などは、手っ取り早いのを好みますが、衆目を納得させるには致し方ありませんな!まずは端緒に着く事。そうあるべきなのでしょう。ですが、これだけは言わせて下され!儂は太子様の味方です♪宜しいですな?」
張昭は念を押した。
『儂は孫登君の穆公に成る!』
その言葉をここで示した事になる。
太子は苦笑した。
「長老は会盟が気に入ったみたいだね?どうやらこの私の意図を正確に理解しているのは貴方だけのようだ!頼りにしていますよ♪」
「えぇ…それは勿論!只、今この儂が理屈を捏ねると、我が君が益々態度を硬化させる事は想像に難くない。ですから発言はしばらく控えますので、悪しからず!」
「うん♪それも承知している。それで良い!子布様は謂わば最期の切り札ですから、それを忘れぬようお願いしますよ?」
「えぇ…御意のままに♪しばらくは張承と張休を暗躍させ、儂は傍観しておりますから御安心下さい!」
「では宜しく!」
「えぇ♪」
張昭は白く長い髭をゴシゴシとしごきながら、喜色満面に引き上げて行く。余程、意思の疎通が量れた事が嬉しかったに違いない。
賀斉は想う。
張昭とて、もはや返り咲きを狙う歳では無い。但し、彼が孫権の代に権力を維持しながらも、その影響力を削がれて来た事もまた、否定出来ぬ事実だった。
代替わりした君主は、どうしても前主からの臣下よりも、自らの選んだ陪臣を引き立てる傾向がある。それは仕方無い。
その点、孫登君は次代を担う新鋭だから、取り付く縞は在ったのだろう。自分というよりかは、張承・張休の代への布石と考えれば納得も行く。
食えぬ爺だと賀斉は溜め息を漏らした。すると太子はほくそ笑みながら口を開く。
「子布殿は徐州の出身だ。あそこは孟徳殿に大虐殺を受けた地だからね!思うところは複雑だろう。彼が赤壁の折りに降伏を主張したのも無理からぬところだ。あの惨劇を知る者は、孟徳殿の本質が奈辺にあるのか、その身で知っているからね♪彼にしてみたら、孔明殿がなぜ抗戦を主張するのか、判らなかっただろうな!人は様々だ。大義で動く者も居れば、国という括りに囚われずに、人の命を優先に考える者も居る。私は彼は後者だと思う。それなら、赤壁の時の降伏論も、この度の会盟賛成にも納得がいくからね♪」
孫登はそう言った。
賀斉は反射的に訊ねる。
「爺さんがそう言ったんですかい?」
この言葉は、太子の壺に大いに嵌まったらしい。孫登はプッと吹き出すと答えた。
「ハッハッハ♪公苗君もなかなか言うね?あの御大に、爺さん呼ばわりするなんてなかなかやるな♪けどな、あの方は生粋の平和論者だ!言っている事に裏は無いよ♪但し、保身を優先する臆病者だと想ったら、それは大間違いだ!彼は芯のある政治家だ。卑怯者では無い。赤壁の折りに、抗戦を主張する周瑜殿や諸葛亮殿に、すっかりその烙印を押されてしまったが、彼は信念を持った論客だよ♪ここまで論ずれば理解したと思うが、彼は何も言わない。これは私の見立てなのだ!」
孫登はまだ可笑しいらしく、腹を抱えて笑っている。賀斉はそんな見方もあったのかとおもむろに頷く。
そうであれば少々色眼鏡で爺を見過ぎたかと、彼は反省していた。すると太子は話を結論付ける様にこう告げた。
「だから君の言葉を借りればだが、爺さんと私は利で繋がっている間柄では無い。あくまでも、将来への布石で繋がる謂わば同志だ♪まぁ懸念があるとすれば…そうだね!最終的には、彼が国という概念に縛られる事なく着いて来れるかどうかが焦点だろうな…」
孫登はここで一瞬、顔を曇らせる。
何しろ劉禅君が目指す未来に垣根は無いのだ。国という言葉に囚われている限りは、納得は出来ないだろう。
中華の恒久的平和を目指すという事は、それだけ常識破りな発想なのである。但し、天下統一に至る不毛な戦いの中で、在らぬ命を流さないで済むという考えには、必ず共鳴する者が出て来るだろう事もまた事実だった。
謂わば張昭はそれをいち早く理解し、同調する事が出来る者のひとりだと、太子様は告げた事になる。賀斉にとっても、そこいらの事はまだ腹に落とした訳では無かったので、太子様がどう決着しようとしているのかについては興味があった。
否…不安を抱えていたといった方が正しいかも知れない。けれどもそれを今、訊ねるには時期尚早な気がしたので、彼は敢えてその事には触れなかった。
その代わりとして、太子様を励ます。
「まぁ何にしても、まずは端緒に着けた訳です!これからが正念場ですな♪」
そう言って笑った。
孫登もその言葉に笑顔を取り戻す。
「そうだね♪その通りだ!じゃあ、私は今度こそ安心して眠るとするか…君も明日に備えてゆっくり休め♪」
その言葉でようやく賀斉は気づく。
『君には手足にも成って貰うよ♪つまりは何でも屋だ!』
彼は確かにそう言われたのだ。鯔のつまりは、太子は張昭に非礼に成らぬ様に、ここに彼を詰めさせていた事になる。
『何だよ…ならやっぱりそう先に言ってくれなくちゃ!』
賀斉はそう思い、溜め息を漏らした。あ・うんの呼吸には、まだ程遠い出来であった。
翌日の朝、廟堂の会議が模様される。孫権は少々緊張の面持ちであったが、丞相の顧雍や側近の諸葛謹に励まされて登壇した。
冒頭に於いて、まず山越討伐に功のあった闞沢や賀斉が表彰を受ける。特に賀斉は妙案を出し、実行したその功績が認められて、将軍位に格上げになり、廟堂の末席に置かれる事に成った。
さらには太子の推薦により、太子付の副官に成った事も披露された。そして山越には遅まきながら、話し合いのため代表者を寄越す事で対処する事に成る。
そのため即日、使者を派遣する事なったが、これには闞沢自らが進んで行く事になった。彼は責任感の強い男だから、中途半端を嫌う。
それに優柔不断な君主のせいで、散々待たせた事を、自ら謝りたかったのだろう。そして山越の代表者との折衡には、驚くべき事に太子・孫登が指名された。
将来の事は、将来を語る資格のある者が話し合えという事らしいが、皆、体のよい逃げ口上だと思う者が多くみられた。孫登は特に念を押した。
「事情は判りました。その代わり、決定権は私に委ねて頂きます。それで宜しいのでしたら引き受けましょう♪」
以前の彼なら、言う事を只々聞く良い子ちゃんだったから、これには皆、唖然とし言葉も無かった。けれども内心では太子を称える者が多くみられたのである。
孫権も「そうするであろう…」と言うほか無かった。そしてここで皆、気づく。
山越の捕虜を一万余も護送して帰った陸遜が表彰されなかったからである。その理由が判明した時には皆が驚き、騒然と成った。
「確かに伯言は山越討伐に功があった。けれども、江夏を守る者たちは将帥権を盾に、単独で荊州に攻め込み敗北を喫した。この件については幸いな事に、人的被害が出なかった事!陸遜が太子を守り、山賊を打ち破った事!山越討伐の表彰を、自ら返上した事により相殺とし、お咎め無しとする事に決まった。尚、太子・孫登は、臨機応変に戦を止める手立てを行い、自ら停戦交渉に臨む気概を見せた。お陰で実質的な賠償は回避されたばかりか、不可侵条約と交易協定を結び、支援物資まで引き出す事に成功している。この度は友好親善の太使として、荊州・劉禅君の一行を、この江東にお招きする事になった。何でも戦いに依らぬ和平交渉のため、近い将来に会盟を行いたいという御意向があるらしい。我らは廟堂一丸となって、話しを聞き、協儀を行いたいと思う。一方的に意見を遮断する事は、けして大人の対応とは謂えまい。ここはひとつ懐の広いところを見せるところじゃ!如何で在ろうか?」
実際、この持って行き方については、顧雍の入れ知恵が効いており、皆の矜持をくすぐる効果もあったから、覿面だった。
皆、当初は荊州に敗北した事で騒然と成ったものの、太子様の機転と叡知により収めた事で、非難は狂喜に変わっていたので、反対する者は居なかったのである。
さらには、この事件が却って次代を担う新鋭としての太子・孫登の評判を高める事になった。悪く言えば、滅亡の危機にまで発展しかねない暴挙を拭うために、体よく太子を良い意味での生贄に仕立てた事に成る。
何れにしても結果は良好であった。
「「「ご英断です!!!」」」
決議は珍しくも、全会一致で可決される事になったのである。これには孫登主従も安堵を示した。こうして、江東に劉禅君一行を迎える事に成るのである。
「待たせたね♪ようやく君の出番だ!気張れよ、ギョロ君♪」
孫登は、胸許に抱えていた伝書鳩を励まし、やがて大空に放つ。
それは誓いを守る駆け橋と成って、大空に羽を広げて、雲の切れ間にやがて消えた。
孫登はようやく果たせた約束を想い、感慨深げに空を眺めている。すると賀斉はボソッと呟く。
「まぁ何にせよ良かったですが、ギョロ君つ~のは頂けませんな!」
すると耳敏く拾った孫登は、ブツクサと切り返す。
「もぅ…せっかくの気分が台無しだ!ギョロっとしてるから、いいじゃないか♪鳴き声も似たようなもんだろ?全く!少しは忖度出来ないのかねぇ~♪」
「そらぁ…悪う御座したね!平にお許しを♪でも締まらない事は確かですな!」
賀斉は言い返す。
「へぇ~空にヒラヒラとは穿った事を言うな!なかなかやるねぇ~♪」
それを聞いた賀斉は絶句する。駄洒落好きとは想わなかったらしい。
それにしても、この程度で感激するなら、たまに付き合ってやるのも吝かで無いと彼は想った。何れにしても、これで計画は動き出す。
『待ち人来たる…愉しからずや♪』
孫登は劉禅君に想いを馳せた。
【次回】ある日の午後




