錫杖
怯まぬ太子の姿勢は、当然の事ながら孫権にも感銘を与えた。それにしてもである。
荊州が今や力を付けた事は呂蒙の敗北や、隣国からの莫大な支援物資を見ても最早、覆らぬ事実だった。けれども太子に言わせれば、それは上辺だけの繁栄では無く、しっかりとした土台の上に、計画的に構築されたものだと謂う。
俄かには信じられないその事実は、否応なく孫権の胸に突き刺さり、戸惑いを感じさせた。彼はいったいどこで自分は間違ったのだろうと想ったのである。
大災害は謂わば時の運。三国全てがその影響を受けている。なのに呉は未だ復興すらまま成らぬのに、在ろう事か荊州は早々にそこから脱却して、今や繁栄の極みにあるというのだ。
孫権は正直言って、災害復興のために秦縁から莫大な資本が投じられた時に、むしろしめたと想っていた。上手く行けば復興どころか、富国強兵すら果たせようと、順風満帆な将来すら想い描いていた。
ところが現実は違った。海と山脈と大河に囲まれた呉は、あちらこちらで道が遮断されて、想うように復興が進まなかった。
各地に根ざす豪族たちは一体感に欠けており、山越の蜂起に至っては、何とか力ずくで封じ込めた感が拭えない。
『世の中は不公平だ…』
孫権はその刹那に、負の連鎖に追い詰められて、頭を抱える。けれどもそんな孫権の意識を呼び戻したのは、ほかならぬ太子だった。
「父上!父上!しっかりして下さい!お気持ちはお察し致しますが、現実はしっかりと受け止めなければ成りません。後悔先に立たずと申します。それに私はこの眼でその現実を見ました。何の前触れも無くです。その私の驚きが判りますか?」
孫登はそう告げた。
確かに彼と父の置かれた立場の違いを考えれば、その心情は察するものがある。君主はいつだってその両肩に国の全てを背負っているのだ。
けれども孫登だってお気楽な気持ちで居る訳では無い。むしろ現実を目の当たりにした時に、自分が如何に力不足なのかを痛切に想い知らされたのだ。
だからこそ、ここを出発点として始めようと決意したのである。その事を彼は滔々と父に語った。
「劉禅君は約束通り、その気に為れば恒久的な平和を享受する事が出来るのだと、我々の前で証明したのです!勿論、細かく言えば、まだまだ改善の余地はあるのでしょう♪けれども荊州の民が幸せな暮らしをしている事は確かです!」
孫登がそう言うと孫権はおもむろに訊ねた。
「なぜそう言い切れるのかね?」
すると孫登は我が意を得たりと直ぐに答える。
「そりゃあ、そうです!彼らの表情を観れば判ります♪中には呉の民も居ましたね!あぁ…念のために言っておきますが、彼らは正規の民では在りません。我々が力不足で見捨てるしか無かった流民です…」
「なに!劉禅殿は流民を集めているのか?」
孫権は今更ながらに驚いている。然も在らん。そんな事は喩え考えたとしても普通はやらない。
但し、計算上は相当な数に昇る筈である。けれどもそれは中華一円の流民を集めた場合に限るだろう。
ところが何の感慨も無く、太子は滔々と先を続けた。
「えぇ!しかも集めているんじゃ在りません!既に集めたのです。まぁ今も募集はしてるのでしょうが…何しろ劉禅君は気軽に門戸を開いて、人を集めています。ひとりでも多く受け入れるために、自分の小遣いを投入する事も辞さない御方です♪それがバレて部下に怒られたと言って、笑っておられました…」
孫登はここでプッと吹き出す。想い出して笑いが込み上げたらしい。彼は直ぐに先を続けた。
「ねっ!凄い人でしょう?彼はある意味、恐ろしい人です。やると決めたら躊躇が在りません!彼は中華に散らばる打ち捨てられた流民たちを地道に集めて、住む家と職を与えました。今や定着した人々は生き生きとしております。さぞや手を差し伸べてくれた劉禅君に感謝している事でしょうね♪」
孫登はそれ故に開発が促進された事も強調した。
孫権は驚き呆れた。確かに数は力である。そして死ぬしか無かった運命を背負った人々が、再起して協力する姿を厭でも想わずには要られない。
それにしてもそれだけの人々に住まいを与え、働かせるにしても、その準備や費用は莫大な物に成るだろう。元々中華一の弱小国家に耐え得る財政規模の話じゃない。
そこまで考えた時に孫権は思い出した。
『そうか…秦縁殿か!やってくれたな…』
秦縁は交易国家の元締めである。おそらくは莫大な財政基盤を有する。彼がその気に成れば簡単な投資で在ろう。
そう…文字通り投資したのだ。彼は損する事にはけして投資はしない男だ。だから孫権やあの曹操ですら、その眼鏡に適わず見捨てられたのである。
そしてこれもおそらくだが、その点、劉禅君はその眼鏡に適ったのだ。彼は芋づる式にその事実を掴んだ。
けれども命が喩え助かったとしても、果たしてその恩義の心がそれほど長く続くものだろうか。人とは直ぐに暑さや寒さを忘れる生き物だ。
彼らにも利益が無ければ、続くものでは無いのだ。その点を孫権は疑問に感じて訊ね返す。
すると孫登は即答した。その顔は喜びに溢れ、感服する様にその事績を讃えた。
「父上!劉禅君は職を与えたと言ったでしょう♪彼は当初、彼らを河川現場で働かせたのです!そしてその賃金を支払いました。出発点はそこに在り、やがて彼は土地の発展に合わせて、土地を拓き、作物を育てる者。交易に参加して利益を得る者。店を開き品物を提供する者。道を整備し、流通路を活性化させる者。壁を造り、人の命を守る者。軍隊に志願して、民を守る者。技術を駆使して、家や道具、果ては大型船を造る者。そうやって徐々に職の多様化を計り、その全てを賃金で賄う職業として成り立たせる事で、経済の活性化に成功したのです♪それが荊州の発展の礎と謂えましょう!」
孫登はそう語った。
孫権は嘆息した。これは敵わないと想ったのである。なぜならそこには先を見据えるしっかりとした絵図が在ったからである。
目的がちゃんと整理され、その決め細かな計画には齟齬が無い。そしてやると決めたら突き進む推進力が在った。
さらには皆を納得させて、疑う事を知らぬ不屈の集団に成長させた破壊力すら秘めていたのだ。
元々居た民は元より、流民の者にとっても働けば働くほどに生活はどんどん豊かに成る。それが判れば、後は自然と開発は進む。
何も展望が無く、只ひたすらに励む事を奨励していた自分とは格が違ったのである。打てど響かず時間を無駄に費やした事が身に沁みて理解出来た。
「判った!納得するしか無かろうな…それでお前は自分も出発点に立った訳か?かなり後塵を拝したが、やらぬよりはマシというものだ…否、やらねば成らんだろう!何しろやれば叶う事を目の前で実践された以上、我々も叶う事を信じて突き進まねば成らぬからな♪」
孫権はそう言って頬を緩めた。
「それでは…」
孫登は光明を見出だした様に言葉を返す。すると孫権はコクりと頷き同調した。
「あぁ…そうだ!何しろ手本があるからな♪我々だって死ぬ気でやれば出来ぬ事は無い。それで…手始めにどうするかだが、その会盟とやらに乗るにしても準備が必要だろう!まぁまだ復興も果たせぬ我々が、正直、対等に話し合いに向き合える立場かどうかは判らぬが、この誘いを断れば、まずその先は無かろう。先方は何と言っておるのだ?」
孫権は訊ねた。孫登は笑顔で答える。
「はい!手始めに、会盟に向けた話し合いをするために事前折衝をしたいと仰せです♪そのために劉禅君はこの江東に訪問する用意をされています!私たちはその準備を進めるためにも一枚岩と成って、呉の廟堂を代表する交渉団を組織せねば成りません♪」
「成る程…これはそのための説得という訳か!承知した。儂も窓口を閉ざすほど狭量では無い。まずはそのつもりで準備し、お会いしてみよう♪良くやってくれた!そのための不可侵条約と交易協定だったという事だな?お前はやはり見込みがある。儂の目に狂いは無かった。せっかくの段取りだ♪喜んで受けさせて貰うとしよう…」
孫権はそう告げた。
「有り難く♪」
孫登はそう答える。
孫権は優しく太子の肩を叩き、その苦労を労った。その瞳には温かさが感じられた。
孫登も安堵からか僅かに笑みが零れる。行動した結果が報われた事が何よりの証だった。
孫権はここで思い出した様に言葉を継ぐ。
「改めてこの勲功には報いるとしよう♪但し、お前もこれから何かと大変だろうから、差し当たり何かして欲しい事が在れば聞いておこう!」
「そんな事は…」
必要無いと言い掛けて、孫登は居住まいを正した。そして改めて申し出る。
「では誠に勝手ながら、賀斉を私の配下に頂きたいのですが…宜しゅう御座いますか?」
孫登の求めに対して孫権は少し小首を傾げたが、結果的にはそれを許した。
「良かろう♪そうすると良い!」
その瞬間、孫登は自然と笑みが零れた。
「有り難く♪」
彼は心から感謝を示す。
こうして二人の会見はひとまず陽の目を見る事に成った。後はその準備をしっかりと推し進めるだけであった。
孫登が会見を終えて太子府に戻って来ると、そこには仲間たちが手ぐすね引いて待っている。直ぐに呂蒙が声を掛けて来た。
「如何でした?」
彼はそう言った。
「あぁ…何とか上手くいったよ♪私の覚悟が父上にも伝わったようだ!ハラハラした瞬間も正直在ったが、言葉を尽くしてみるものだな♪父上も理解して下すった!」
「「それでは…!!」」
皆が一斉にそう言いながら、顔を寄せ合う。孫登は嬉しそうに言葉を重ねた。
「そうだ!一歩前進だな♪これで我々はいよいよ端緒に着けた訳さ!でもこれからが大変だぜ♪」
彼は目配せしながら皆を眺める。皆も太子の眼差しをしっかりと受け止め、意気込む。
「そうでなくっちゃ♪これで私も父上を説得した甲斐が在りました!」
そう宣ったのは諸葛恪である。孫登はニコやかに語り掛けた。
「へぇ~元遜君もようやく説得したのだな!それを聞いて安心したよ♪今はまだ鉄も熱い。そう易々とは覆るまいが、外堀はなるべく埋めておくに限る!これからが大変なのは我が君も同じ事だ♪またぞろ気が変わるかも知れんからな!皆もそのつもりで気を抜かないでくれよ?」
孫登は真面目な顔でそう告げた。
「やはり我が君はまだ悩まれておいでなのですね?」
呂蒙がそう訊ねると、孫登は溜め息を漏らす。
「まぁ…父上にしては良い返事をして下さった方だろう♪十中八九、間違いは無いとは想うが、人の性はなかなか変わらぬものだ!まだ完全に安心してはいないよ♪でも信じてみたいと私は想うのだ!感触は悪くなかったのだからね♪」
孫登はまるで他人事の様にそう告げる。実際、彼も信じたいのだ。でもなぜか今までの経験が、彼のその自信を奪って行く気がして堪らない。それが彼の本音だった。
「そうでしょうな…」
闞沢もそれに同意した。何しろ彼は未だに山越への返答を得ていないのだから然も在らんというところだろう。
これには陸遜も辟易しながら口を挟む。
「仰る通りかも知れません!ですが、おそらく我が君はさっそく丞相の顧雍や長老の張昭、そして側近の諸葛謹らを集めて意見を聞く筈です♪ここで我らが先回りして打った手が効いて来る事でしょう!」
陸遜の言葉に孫登も頷く。
「そうだね♪そうなればしめたものだ!だけどね、私はそれでもまだ安心はしていないよ…何しろ父上は筋金入りのさ迷い人だ♪ちょっとした風や波の揺らめきでまた考えが変わるかも知れん!地道に説得して行くしか無いだろうね?」
孫登はそう言って笑った。
唯一、賀斉は沈黙を貫く。彼は皆の意見を拝聴しながらその成り行きを眺める。
けれども彼だって意見が無い訳ではなく、元来の彼はむしろ行動的な人である。でも、しゃしゃり出る様な事はしない。
なぜならそれは彼が主導する立場に無いからであった。勿論、意見を求められれば進んで協力するし、裏で暗躍するのも吝かでは無い。
只この時に彼はこう想っていたのだ。
会盟となると、おそらくその核に成るのは実際に現地を知る者と、この呉を長年支えて来た重鎮になる。
代表団の中心には必然的に太子が据えられて、その両脇は呂蒙と陸遜が担う事に成るだろう。
そして山越掃討に功のあった闞沢も発言力が増している今、使わない手は無いのだから、その一翼を担うに違いない。
それに元々太子には四友と呼ばれる学友が居る。その筆頭の諸葛恪は相当に頭の切れる御仁だが、些か評判が良く無かった。
けれどもその悪癖もこの度の旅を経て解消されて、まるで人が変わった様に角が取れた。きっと今後は太子の力と成る事だろう。
そして丞相の顧雍、長老の張昭、我が君の側近である諸葛謹も絡んで来るとなると、廟堂でも新参者の賀斉が割って入る余地など無い。
とても口を挟むどころでは無かったのだ。それに彼は孫登君の事が気に入っており、その一挙手一投足を見逃すまいと意識を注いでいたので、敢えて口を挟む気も無かった。
ところがそんな賀斉の気持ちとは裏腹に、周りは彼の事を放ってはおかない。なぜなら彼は既に仲間である。そう認められていたからだ。
だから話がまとまりかけた時に、皆の視線は自然と賀斉に注がれる。そして太子が遠慮している彼にニコやかに語り掛けた。
「ねぇ~君は何か意見は無いのかい?私達は仲間だ♪遠慮はいらないんだぜ?」
そう言って微笑む。
今や注目の的となった賀斉は、こうなっては何か言うほか無い。仕方無く彼は述べた。
「そうですな…特に在りませんな♪」
余りにも堂々とそう言ったものだから、皆も途端にずっこける。明らかに期待していた孫登も少々その表情を歪めた。
その顔に不満を観て取った賀斉は、困惑した様に言葉を重ねる。その声音は迷惑そうだった。
「ちょっと待って下さい!あっしは歌舞いちゃいますが、宮中での駆け引きはズブの素人です。そんなあっしがお歴々の皆様に語る資格なぞ在りませんよ!むしろ教えて欲しいくらいのもので♪」
成る程…言われてみれば確かにその通りだと、皆は納得したものの、太子は尚も食い下がる。
「そんな事は百も承知さ!だから大事な事もある。それにズブの素人が、あの尚香様に気に入られる訳が無かろう?君は孫策様に従い、宮中出入り自由の砌が在った筈だ!違うかい?」
これではまるで、出し惜しみするなというくらいの勢いである。賀斉は辟易した。
彼の計略は、戦いにこそ生きるものであって、朝廷内の権謀術と一緒にされては堪らない。昔取った杵柄を宛にされては大いに迷惑なのである。
そんなもの到に錆てしまって、最早使いものにならなかった。けれども求められると、ついつい持って生まれた人の好さが馬脚を表わす。
お人好しというのは古今東西、損な役廻りなのだ。賀斉は溜め息を漏らすと、仕方無く告げる。その顔には明らかに不本意だと書いてあった。
「そこまで言われちゃ仕方ありませんや♪でも期待はしないで下さいよ!まだ頑張れば、搾り粕くらいなら、出るかも知れませんや…」
賀斉はそう念を押した。
孫登は、俄然面白くなったと身を乗り出す。すると賀斉は淡々と喋り始めた。
「あっしも詳しくは知りませんが、我が君はお父上・孫堅様には相当可愛がられていたそうです♪それはそれは目に入れても痛くない程の溺愛振りで、孫策様などはそれを眺めては鼻白んでいらしたそうです。お父上の膝の上で、はしゃぐ我が君は、まるで賢いお人形さんといった具合だったそうですな!ところがお父上が憤死された頃になると、甘やかした付けが出て来て、これでは将来困ると踏んだ呉風太様が、厳しくしつけた事から、我が君は笑わぬ子に成ったと孫策様は言っておられました…」
賀斉がそこまで話を進めると皆、その御心に触れて気の毒そうな表情になった。賀斉はやっぱり不味かったかと後悔したが、ここまで話した以上、後には引けない。
すると太子だけは妙に壺に嵌まったらしい。先をせがんだ。
賀斉はその言葉に勇気を振り絞る。それは文字通り、搾り粕を搾り切るが如くであった。
「孫策様が言うところでは、吳国太様は、おみ足が悪かったそうで、常に錫杖を肌身離さずお持ちになったとか?我が君はその音を聞くと、必ずビクッとされて驚き、言う事に従ったそうです…」
賀斉の話はそれで終わった。だからどうするとも敢えて言わなかった。さすがに君主に対して余りにも不遜だと想ったのだろう。
皆も一斉に孫登を見つめた。すると孫登はフフンとほくそ笑むとこう告げた。
「それ…面白いじゃない?確かに気の毒ではあるけどさぁ、この際使えるものは何でも使っておきたい!立っている者は親でも使えと謂うだろう?文字通り使わせて貰うとしようか?」
そう言ってクスッと笑った。皆、この太子にこんなイケズな側面が在ったとは知らずに呆気に取られた様であった。
【次回】将を射んと欲すれば




