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会見

「まぁそこに座れ…」


孫権はそう言った。孫登は頷き、座る。


父にもここ連日の騒動で疲労が感じられた。そして良く見ると、その額には(シワ)が刻まれている。


おそらく原因の半分は、息子である孫登の行方が知れず、生死不明と成った事から来た心労であろう。


さらには山越討伐後の彼らへの返答もまだしていない筈であり、課題が山積しているのである。


孫登自身もよくよく考えてみれば、親子水入らずで話すのも久し振りの事だったので、父と頭を付き合わせるくらい接見して初めて気がついた事だった。


自分の歳を考えれば、親の歳も推して知るべしである。すると孫権がまず口を開いた。


「この度は御苦労だった。結果的には事無きを得たが、薄氷を踏む想いであったな…儂も一時の怒りから罰を与え、援軍要請に行かせた事は行き過ぎであったと後悔している。だが、その結果としてお前が戦を止めて停戦協定を結ぶに至り、大きな(わざわい)は回避する事が出来たのだ。今回の勲功第一は、おそらくお前だろう。それは認める。しかしながら、物事は全てを吟味した上で判断せねば成らん。まずは報告を聞こう!」


そう孫権は宣言した。


孫登は困った様に口を開く。


「いぇいぇ…滅相も無い事です!そもそも元遜は私の直臣ですから、監督不行き届きという父上のご裁可は妥当なものでした。生憎と行き先が変わったのは、不可抗力というものでしょう。おそらくあの時点で状況を完全に把握出来ていたのは私だけです。そして問題を最小限に押さえる権限を有していたのも私だけでした。私は太子ですから、国難にあってはこの身を体して問題解決に当たらねば成りません。陸遜からは報告を受けておられるのでしょう?」


孫登は訊ねた。


「あぁ…無論だ!その辺りは承知しておる…」


孫権もすぐに答える。


孫登はコクリと頷くと先を続けた。


「ご承知のように陸遜には江夏に到着する前に遭遇しました。お恥ずかしながら、我々の馬車は闇夜の中で山賊に襲われて、追い掛けっこの最中でしたから、まさに地獄に仏とはこの事です。あの時、陸遜に出逢わなければ、我々は風前の灯火だった事でしょう。彼の機転によって救われたのです!まずはそれをお忘れ無き様に♪」


孫登は敢えて念を押した。孫権は「承知している!」と言って、頷く。


「私はそこで初めて荊州侵攻の事実を知り、危惧しました。江東は未だ復興の最中です。山越の内乱に加えて、荊州との両面作戦に耐えられる程の国力は持ち合わせておりません!それに彼らも山越掃討と同時併行に成った事は知りませんでした。私は太子権限の許に侵攻を阻止して、陸遜には甘寧を止め、山越討伐に向かうように命じました。甘寧を止め、援軍に向かうには十分な時があったからです。これは成功したようですね?」


「そうだな…なかなかの判断であった。お前のお陰だ!」


孫権はそう答えた。


孫登は少し照れながらも、まだまだこれからだと話し続ける。


「問題はここからです!先の事も有りますので、私は陸遜に騎馬百騎を借りて呂蒙の侵攻する予定の湖へと急ぎました。けれども生憎と長沙は遠く、行き着いた時には遅かったのです!呂蒙は船団での侵攻でしたから、陸路の我々には当然の事ながら、湖という障害が立ちはだかります。打ち捨てられた船も無ければ、(いかだ)を造るにも斧が有りません。そこで私は待つ事にしました。皆には盛大に炊飯させて、白煙を上げさせます。勿論、呂蒙が背後を振り返らない限り、無駄かも知れません。けれどもやれる事は全てやっておこうと想ったのです。私はこの時、既にこの身を拘束されても、荊州と停戦交渉に及ぶつもりでしたので、万が一発見されるのが敵側でも良いとさえ、想っていました。結論から申しますと、呂蒙は降伏しました。大型船5隻の壁に阻まれたのです。唯一の救いは、圧倒的な戦力差に侵攻を断念した事でしょう。そのお陰で、誰一人として命を損う事無く、撤退させる事が出来ました。これは荊州側の恩情に依るところが大きく、父上が確認したのは、江夏に撤退した後の呂蒙軍でしょう…」


孫登はあくまで話の筋を違えぬ様に気を配る。


孫権は相槌を打ちながら、耳を傾けていたが、いよいよ核心に迫る事が判り、無意識に身を乗り出す。


それは当然の如くに孫登にも伝わる。彼はいつの間にか、びっしょりと手に汗を握っている自分に気づき、踏み止まる。


「幸いな事に、荊州を統括している劉禅君は話しの判る方でした。先方は既にこの私が岸辺で待機している事すら察知しており、大型船で迎えに来ると、やがて船上での停戦交渉が始まります。出された条件は三つ!」


孫登がそう言った瞬間に、父の喉からゴクリと(つば)を呑み込む音が聞こえた。やはり気になるらしい。


当たり前の事だが、喩え太子が独断で合意した事だろうと、正式な交渉に臨み、約束した事は守らねばならない。


それが紳士協定というものなのである。


それを一方的に破棄する事は勿論可能だが、乱世の世であろうと他国の(そし)りは免れないし、呉とは約束を違える国だと想われてしまう。


そうなると信用は失墜するし、今後こちらから交渉を持ち掛けようにも相手にされない危険性は出て来るのだ。


それは彼らとしても本意では無い。


それに魏のような大国であれば、ちゃぶ台をひっくり返すが如く、無かった事にするくらいは朝飯前だろうが、今の呉にとっては、守れないなら戦で決しようと言われては、却って困るという事情もあった。


そうなると、返す返すもはっきりとした命令を下しておかなかった事が悔まれる。


けれども、今更そんな事を言っても何の足しにも成らない事だから、孫権は覚悟を決めた。


「構わぬ!申せ…」


父の異変をいち早く察し、辛抱強く待っている太子の配慮に気づき、孫権はそう告げた。


どうせ避けては通れぬ道なら、聞いた上で早急に対応策を練った方がどう考えても賢い。


ところが太子の言葉に孫権は驚く。それは本来的な停戦交渉では無かった。


本来は賠償金や支配地の割譲を求められるのが、勝者と敗者の間で行われる停戦交渉というものである。けれどもそれは違った。


孫登は条件を読み上げた。


「ひとつ!長沙郡と桂陽郡には復興支援として、人材と資材を多数投入し、尚且つ救援策の一環として、備蓄米を再三投入済である。これは両大守の約束に基づき、返済を求める事で合意済であるが、返済が履行されぬ場合には即ち、呉にその負債を払う責務があると認める事。仮に支払えぬ時には、長沙郡と桂陽郡は荊州で接収するものとする!」


これを聞いた孫権は理由(ワケ)が判らないという顔をする。


「どういう事だ?歩隲と呂岱は敵国に救いを求めたのか…?」


まだ表面上は敵国と通じていたと言わないだけマシと謂うものだが、この場合は意味としては同義だろう。


表面上は短絡的とも取れるこの言葉も、ある意味は絶妙な線を突いている。疑り深い面は勿論あるのだろうが、伊達に長年君主として君臨して来た訳では無かったと謂うべきかも知れない。


研ぎ澄まされたその感覚は、偶然にも核心を突いていた。但しそれは、歩隲の追い詰められたがゆえの降伏や、その後の情報提供を裏切りと捉えるならである。


実際は負債を支払う事を条件に、降伏は武陵太守・費禕によって却下され、情報提供も結果的には呂蒙たちの独断専行を止め、山越討伐との両面作戦を阻止した事により、むしろ自国の利益を守った事にさえ成る。


さらには、歩隲自身も自分を呉の臣と捉えていて、その行動を裏切りとは微塵も考えていない。それはどちらかと謂うと、両国の利に適うと考えての行動だった。


それにそもそもの条件も可笑しい。


否…停戦交渉の条件にはそぐわないと謂うべきで在ろうか。本来は勝者側の条件としては、無条件に長沙・桂陽を割譲すると迫っても良いくらいのものであるのだ。


それを敢えて投資した事をはっきりと伝えて、貸した金を返せなければ担保にした二郡は頂くというのである。つまりは事実を正式に伝えて、本国に尻拭きさせる保険を掛けたに過ぎない。


簡単に言うとこうである。


『我々がお隣さんにお金や米を貸した事…知ってますよね?知らなければ、この機会に正式に伝えておくので、返せない時は責任持って下さいね♪』といった具合だ。


誠にぶしつけで、恩着せがましく聞こえるが、正に交渉を優位に進めるためには都合が良かった。


そして裏の事情としては、これから協力関係を築く相手との間に存在する、隠し事を全て解消しておく事を念頭に置いたものである。


けれどもそれはあくまでも荊州側から見た景色であって、そう勧告された呉の側から見れば、利益にも成らない事をなぜ敢えてチラつかせるのか、その意味は判りかねる。


そうなると、当然そこには穿った見方が生まれる。それが二人の大守が本国に断りもなく、敵と直談判したという事実だった。


しかし当然の事ながら、孫登もそこいらをつつかれる事は端から想定内だから、直ぐに諭した。


「父上!それだけ我らが彼らを追い詰めたのです。都の統制機能回復を優先する余り、我々は地方に自己浄化を促し、支援らしい支援をしなかった。否…出来なかったというのが正しい言い方でしょうが、何れにしても支援はしていません。郡庫を開けて民を助けた彼らには、他に選択枝は無かったでしょうから、私はやむを得なかったと判断しております!彼らをどうして責められましょうか?」


確かに言われてみればその通りである。


特に通常時で在ればまた見方も違ってくるだろうが、災害に遭い被災した謂わば非常時なのだ。お隣り同士、喩え助け合ったとしても、それは人情というもので荘ろう。


これには孫権もすぐに矛を収めた。というよりは、自己浄化を強いる以上、そのやり方も彼らに委ねるしか無い。


相手が敵であろうが、支援してくれるなら誰だってそうする。溺れる者は(ワラ)をも掴むのである。


しかも一時的にせよ、荊州が支援してくれたお陰で二郡の立ち直る(すべ)にも繋がったのだ。感謝こそすれ批判は出来まい。


「判った…承知する!あの両名であれば自己完結すると信ずるが、自領である限り責任は持つ♪で次は何じゃ?」


孫権は問うた。


孫登は、ひとまずひとつ目の条件が受け入れられた事に安堵して、最先が良いと先を続ける。


「ふたつ目は、虞翻殿の恩赦の件です…」


孫権は太子にそう言われた刹那(せつな)、不思議そうな顔をした。ひとつ目に続き、まるで謎掛けのような条件の数々に戸惑う。


彼としては難題でも単純(シンプル)な方が受け入れ易かったのだろう。ところが相手はまるで外濠から埋めるように、慎重に話を進めて来るのだ。


聞いてみると、それは虞翻の潜入を狙った作戦の失敗であり、現地で執行された刑の結果だった。


『庶民に下される事…』


これはこの時代の貴族や官療にとっては、かなり重い罪である。それは権威の剥奪に当たるからだ。


それを受け入れ、不問とする事がふたつ目の条件であると謂う。聞いていて正直、孫権は辟易として来た。


そんな事を停戦交歩にわざわざ盛り込む劉禅という太子の意図が、今ひとつ理解出来なかったのである。まず想ったのが、そんな事をして先方にどんな利があるのかと謂う事。そしてその真意である。


少なくともこの二つの条件に限って考えれば、然してそのハードルは高くなく、受け入れ易い。何の問題も無いとすら言って良い。


ひょっとすると、将来的に巡り巡ってこちらの不利益に繋がる事があるのかも知れないが、今この時に直撃を覚悟する程の事でも無かった。


だから彼はもしや、からかわれているのかと誤解した程である。けれども、その直後に孫登が言葉を補ったお陰で、ようやく信ずる事が出来た。


太子は言う。


「父上!誤解召さるな…コレは劉禅君の信義です♪」


「信義?どういう事だ!」


孫権は質す。


()の若君は、交渉とは騙し合いでは無く、相手を信じる事から始めるべきというのが信条の様です。ですから、後々些いな事で誤解を生まぬ様に、慎重を期したかったのでしょう♪そしてその精神は、最後の三つ目の条件に大きく関わって来ると私は想います♪」


孫登はニコやかにそう告げる。


『コイツめ!偉くノリノリではないか?』


孫権はその時になってようやく気づく。


まるで息子が、劉禅君の代理人の様にさえ見えて来たのである。それは洗脳されたといった感じでは無く、むしろ意気投合した様に見てとれた。


だから孫権は苦笑いしながら訊ねる。


「それで…その三つ目の条件とは何だね?」


すると孫登はようやくその時が来たと、その喜びのままに告げた。


「それは会盟です、父上♪劉禅君の目的は、会盟を主導する事にあります!その先に見透えているのは、恒久的な平和です。私は喜んで賛同致しました♪戦う事なく平和を得られるなんて、発想が面白いじゃありませんか!そうでしょう?」


彼はウキウキしながら、嬉しそうに父親を見つめる。孫権は呆気に取られた。


「何をバカな事を!物事はそう単純では無い。そもそも群雄割拠を勝ち抜いた三国が、拮抗している現状があるから我が国も蜀も持ち堪えているのだ。未だ魏の力は圧倒的であり、我々が結束して当たったとしても、そう簡単には揺るがないだろう。それだけの自信があるからこそ、彼らは長江の河川工事に(うつつ)を抜かしていられるのだ。本来なら、その今こそ我らは北上し、敵の隙を突くべき時なのだが、生憎と国の復興をまだ完全に果たせず、山越の蜂起すら招いている始末だ。儂は憂いておる。彼らが河川工事を完了すれば、魏の国力はまた格段に上がるに違いない。そうなれば、我らが復興を果たしたとしても、その戦力差は更に拡がっている事だろう。それだけ魏の力は強大だという事だ。そして彼らは漢の皇帝まで推し戴き、大義名分すら持っている!そんな魏が、今更(いまさら)過去の遺物となった会盟などに見向きするなど考えられまい?言っておくが、会盟は三国揃って始めて叶う代物だ。まぁ仮に三歩下がって考えたとしても、困難の極みだろうな…」


孫権は持論を展開し、光明を否定した。


それは正に現状を正確に言い当てており、常識的な答えだった。確かにそう言われては以前の孫登なら返す言葉を持たなかっただろう。


けれどもそれはあくまでも現在の常識に縛られている者の答えであり、既にその呪縛から解き放たれた彼の胸には響かなかった。


想定内だったと謂える。だから孫登は全く動じる事無く直言した。


「父上…仰る事は重々承知しております。確かに魏は強大です。けれども三国の力関係は、あの大災害を境として大きく変化しております!三国それぞれの事情から、(いくさ)どころでは無くなり、一見その力関係は、端目には変わっていないようにすら見えます。けれどもそれは現実を直視出来ていない者の考えなのです!」


孫登の堂々とした振る舞いに、孫権は驚く。以前の彼なら、けして父親に逆らい、意見する事など無かった。


『とち狂ったか?』とも考えられたが、それにしてはその表情は落ち着いており、息を荒げるでも無く淡々と宣う。そしてその瞳は生き生きとしていた。


「どういう事だ?」


その落ち着き振りに圧倒される様に、孫権は呟く。すると孫登は臆する事無く告げた。


「相乗効果ですよ、父上♪劉禅君の言葉を借りれば、物事が波に乗っている時には、事が想いのほか上手く回転するそうです!逆に物事が停滞している時には、益々上手く行かなくなる。前者が荊州であり、後者が我々なのです。彼はそれを岸部に漂う(オリ)に喩えました。私も実際にこの目で見なければ、とても信じられませんでした。荊州は今や我々を遥かに凌駕する国力を持っております。それは人・物・金に至るまで浸透しており、けして上辺(うわべ)だけの繁栄ではありません。彼らは荊州に中華一の都市を打ち立てました。人々が行き交う大通りには、様々な店が並び立ち、その中には諸外国の物産まで並んでいます。本来、朝貢貿易を経なければ得られぬような珍品も、金さえあれば誰でも購入出来るのです。そして広大な穀倉地帯には圧倒されます。河川整備に始まった彼らの事業はそれに止まらず、運河を経た海洋交易にまで発展しているのです。おそらくは兵力に見積もれば、百万の軍を永久に保持し続ける事すら可能でしょう。そしてあの大型船です。彼らは軍事力に興味が無い訳ではありません。その技術を保ちながら、専守防衛のみに尽力しているのです。荊州城構想が、それを裏打ちしています。彼らは荊州一円をあの秦の函谷関に勝るとも劣らない高い壁で囲い、その中に繁栄を象徴とする理想郷(ユートピア)を実現したのです。劉禅君は仰いました。これこそが平和をその理念とする我々の証だと!彼は中華の平和を保証する手本を、我々に示したのです。そして彼の望みは天下統一では無く、中華を話し合いの許にひとつにして、この中華の隅々にまで、その繁栄を行き渡らせる事だと申しました。戦は喩えどちらが勝っても、負けた側には禍根を残します。それはまた新たな火種を生む事でしょう。今や荊州の力は絶大です。劉禅君の意図は侵略に非ず。他国と対等な関係に成らなければ、その発言力は聞く耳すら持たれない。その一心で彼は着々と前進して来たのだそうです。魏の説得はして下さると約束してくれました。我らも今こそ一枚岩に成る時です♪」


孫登は怯まずそう言って父・孫権を見つめた。

【次回】錫杖

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