道標
「手間を省いてやろう!はっきり申せ♪」
顧雍は堂々とそう告げた。
その姿勢は自信に充ち溢れていたので、呂蒙には丞相がその根幹を理解したと感じた。だから彼も廻りくどい真似は止めた。
「それは会盟です♪」
彼は安心してそう告げた。
ところが彼がそう答えるや否や、途端に顧雍は戸惑いを見せた。そして少々勝手が違ったという表情をする。明らかに呆っ気に取られている様にそれは感じさせた。
『新しい秩序の構築…』
正直、ここまでその思考の翼を広げた顧雍は見事というほか無い。けれども具体策に話が及んだ時に、なぜ今頃『会盟』を持ち出すのだろうと正直理解に苦しんだのである。
会盟など、変革を望まない保守的な人にでさえ、すでに色褪せて見える太古の化石である。
それを事もあろうに、改革派の急先鋒である筈の劉禅君が今さら持ち出すなど、彼には理解出来なかったのだ。
劉禅君は春秋の覇者に成りたいのか。なぜ…どうして?顧雍は理由が判らず、その気持ちが如実に顔に表れたのだろう。
それは張承もご同様で、怪訝な顔をしている。呂蒙と陸遜は然も在らんとさっそく壁にぶつかった事を想い知った。
けれどもここで挫けてしまっては、今までの苦労が水の泡に成る。ここは呂蒙が代表して言葉を重ねる事にした。
「会盟とは確かに春秋時代の化石かも知れません。けれども、古いものを全て否定する必要は無いのです。もうお気づきかも知れませんが、劉禅君の目指すのは恒久的平和ですから、要は戦いで雌雄を決するのでは無く、話し合いで事を進めたい。そういった志から紡ぎ出された言葉なのでしょう♪彼は天下統一と謂う言葉を否定しました!それはなぜだと想いますか?」
呂蒙は問い掛ける。すると顧雍はすぐに答えた。
「それなら判る。天下統一を成し遂げたとしても、秦は揺るがなかっただろうか?彼らは理屈としては、将来の事を真剣に考えて先を見据えた計画を立てていた。けれどもそこには心が無かったのだ。他の国は攻め滅ぼされ、恨みが残った事。民の苦しみを考えずに厳し過ぎる法制度を施行した事。やり方が悪かったのだな!そして理解が得られる前に性急過ぎたのだろうよ♪それが証拠に秦の作り上げた制度を踏襲し、緩やかに移行した漢帝国は三百年以上の栄華を欲しいままにしている。戦いは必ず禍根を残す。そして戦いで得た平和は戦いで損ねられる。勿論、栄華に酔い、徐々に堕落していった事もその一端には在ろう。興った国はやがて滅びる。だから天下統一と謂うものは一時の華やかさを残してやがて失われるのだろうよ♪お前さんらが言いたい事はそういう事なのだろう?劉禅君もそう想われているのだろうな…」
顧雍はまだ見ぬ劉禅君の気持ちをそう理解していた。不安定な呉の政局にも辟易している様にそれは感じさせた。
このままでは何れ呉も魏も蜀も倒れ兼ねない。そしてその泥沼の抗争からたくさんの命を失い、その結果として血にまみれた戦いを勝ち抜いた者が、その血の染み込んだ大地の上に、また懲りずに国を打ち立てるのだ。
その国もいずれ倒れる。その繰り返しがいつまで続くのか誰にも判らず、止める手立ても無い。そんな負の連鎖が繰り返されるのは誰だって御免だ。
そんな先進的な考え方を持っていた顧雍も見事に尽きる。けれども彼にはそれを打開する知恵が欠けていたのだろう。
だから戦いを望まずに、平和裡に恒久的平和を目指す劉禅君の意図には、一定の理解を示したのだと謂える。
呂蒙はそんな事を考えていた顧雍の姿勢に、頼もしさと期待を感じていた。だからこれはいけると踏んだ。
「仰る通りです!今、貴方が仰られた事は、劉禅君の理に適うでしょう♪但しひとつ付け加えるとするならば、あの方の心の中には民の幸せを最優先とする気持ちが込められていると私は想うのです。ここでいう民とは人の事です!下は民から上は王まで、人はなぜ他人よりも優位に立ちたがるのか?命に高貴も下賎も無いと彼は断言しました。人は命の許に平等であるべきだ!それが劉禅君の心です。太子の孫登様はその心に共鳴されました♪それは我々も同様です!」
呂蒙のこの言葉に、陸遜も同意を示す様に頷く。
顧雍もまたその言葉にいつしか共鳴したのである。そしてそれは張承も同じ気持ちだった。
だから顧雍は率直に問うた。
「話しは判った。だが会盟の趣旨は未だに理解しかねる。その意味が奈辺にあるかが今ひとつ判りかねる。その辺りはどう説明するのかね?」
すると呂蒙も率直に答えた。
「劉禅君はその辺りの事を両国で詰めるために、会盟を開催する前段として、この江東にいらっしゃると仰られています!その準備に入るためにも我々は一枚岩と成って、廟堂を説得しなければ成らないのです♪丞相や長老を説得に掛かったのはそういった次第です!」
「そうすると、会盟の趣旨はやはり当の御本人から直接聞いた方が良さそうだな…」
顧雍はそう結論付けた。
「それでは…」
呂蒙は許より陸遜も顧雍の示唆に光明を見た。顧雍はおもむろにコクりと頷く。
「但し、この先の説得は厳しいものと成るだろう。私はその考えに光明を感じている。だから最大限の協力はすると約束しよう♪張承殿はどうされるのかな?」
顧雍は若き後継者にそう告げた。張昭の跡継ぎはどう考えているのか。これは明暗の別れる分岐点と謂えた。
すると張承はアッサリと告げる。彼はすっかりその面白い考え方に共鳴していた。
「面白いじゃ在りませんか?是非、やりましょうよ♪どうせそれ以外に現状を打開する案は無いのでしょう!だったら直にその若君の謂わんとする趣旨を私は聞きたいなぁ~♪」
張承はまだ若いがゆえに頭も柔らかかったので前向きな姿勢を示した。それに賛同に値しなければ断れば良い事だとも考えていた。
そこら辺りが保守派の張昭の血筋足る所以である。実際、顧雍も似たような考えに在り、未だ呉の国の利を念頭に置いていた。
それは仕方無いと謂える。彼は曲がりなりにもこの国の丞相なのだ。
でも仮に劉禅君が堂々と持論を展開し、納得の行く説明が出来れば、顧雍だって吝かでは無いのだ。
その時には真摯に報いようと考えていた。彼はどこまでも平等な見地の許に在りたいと考えていたのである。
だから劉禅君がかつての諸葛孔明の様に、廟堂を制する事を期待していた。そういう事である。
呂蒙も陸遜もそれは如実に感じていて、これが最終決定では無い事を理解していた。けれども一歩前進には違い無かった。
何しろ後押しはすると保証されたのだから、今は只、それで満足するべきなのである。まずは江東への劉禅君の行脚を成功させる事が肝心なのだ。
そう想い、彼らも今日のところは矛を収める事にした。そういう事に成ろう。
「ではそういう事に…」
顧雍はそう結論付けた。そして話が収束すると、突然話を蒸し返した。
「ところで茶葉の件は判った。私は下戸だから、これはどうせ私のために用意されたものだな♪ところでこちらの小さい瓶のはどういった趣旨かな?」
この切り返しの早さにはさすがの呂蒙や陸遜も仰け反る。現金な者だと想ったのだ。
それでも陸遜は苦笑いしながらも答える。
「それは蜂蜜です♪美容と健康に良いので是非!」
「ほぉ~するとこれは奥様への贈り物か!聞いたら喜ぶぞ♪そう言えば伯言ちゃんに会えなくて残念と申しておったな♪」
顧雍はほくそ笑みながらそう切り返す。
「ハハハ…そりゃあどうも♪また改めて伺いましょう…」
陸遜も冷や汗混じりに答える。
「そうせぃ…奥様も喜ぶ♪それで?この蜂蜜とやらにも何か意味合いがあるのかな?」
顧雍のこの問い掛けには呂蒙が応える。劉禅君の語った平和の象徴としての喩え話を披露する。
『ほぉ~こりゃあ筋金入りの平和主義者だな!』
顧雍は笑みを浮かべた。呂蒙はそれを見て取り、呟く。
「そういえば荊州城の入口には噴水の広間が在りました。民の憩いの場だそうで、ふんだんな水が絶え間無く立ち上がっておりましたな…」
「うん?その噴水とやらは何か!」
顧雍は許より、中華の人々は噴水の存在など知らないから当然の如くに訊ねる。呂蒙は見て来たままの描写と聞き齧った知識で答える。
「荊州の劉禅君は博学です♪それは遠く西の国から渡って来た知識だそうで、広間の中央に設置された大きな器から繋がるたくさんの管から水が一斉に立ち上がるのです!そらぁ見ていて気持ちの良いものです♪河川から取り入れた水をふんだんに使っていて、それがまた器を経由して河に戻ります!どうやら還流している様です♪」
そこで顧雍が口を挟む。
「そう謂えば、劉禅君は他国語が喋れると言っていたが書物も読めるのかね?」
「えぇ…どうもそうらしいですな!この噴水も若君の肝煎りだそうで設計時に幾つか注文をつけているそうです。建設にはその国の技術者が関与しているらしいですからそれも凄い事かと!」
「まさしくな♪しかし還流とは驚いた!それだけふんだんな水が使えるとなると籠城など容易いな♪恐ろしい事だ!」
「えぇ…左様です!でもこの噴水に纏わる話の凄いところは別に在ります。そこを訪れた者は皆が想う事でしょうが、門の傍にそんな物を設置するなど本来は有り得ません。戦闘が起これば直ぐに壊されてしまいますでしょう?ところが件の若君はこれは戦いを起こさぬ為の戒めで在り、これぞ正に平和の象徴だと仰って居られました♪」
それを聞いた顧雍はまた苦笑う。
『またぞろ平和の象徴か…こりゃあ天下統一など本当にやる気は無さそうだな!』
そう想ったのだ。本来、それだけの富国強兵を成し遂げれば、誰だってその威力を試してみたく成るものだ。
けれども劉禅君はそのために富国強兵を成し遂げた訳では無さそうだった。
『おそらくこれはあの会盟に繋げるために違いない!その力を誇示して会盟を主導するつもりなのだろう…』
顧雍はそう想った。実際のところは、その考えは事実を捉えているようで、そうでは無い。
劉禅君は確かに会盟を主導するつもりでは在るが、力を誇示するという強引な手法は考えていなかった。
それはあくまでも三國対等の意見を述べる立場を作るためのもので在る。三國最弱と謂われたままでは意見など通らないからだ。
そしてもうひとつ、そこには確固足る信念が存在している。それは実現した平和な姿を実際に見せる事であった。
やれば出来る事の証明である。他国の考えを変えるためには、まず実際にやってみて、やれば叶う事こそを誇示して見せたかったのだ。
劉禅君が会盟の場所を荊州城の中央に位置する運河の見える丘にする意図は、正にそこに在ったのだと謂える。
顧雍もひとりの人間として、まだそこまでは想い至らなかったのだ。これは本気で中華を恒久平和に導こうとする者の覚悟と、まだ自国の利益に縛られている者との差である。
そこには大きな隔たりが存在して居るのだ。そこいらの意識格差をどう縮められるかが、これからの焦点と成る。そう謂える事だろう。
意識の格差はあるにしろ、顧雍はひとまず荊州が、呉の国の脅威とは成らない事に安堵していた。本来であれば、呂蒙ですら立ち打ち出来ない難攻不落の城塞が、隣りにドーンと構えているのだから、夜も安心して眠れないところである。
ところが聞けばガチガチの平和論者で、明日にも攻めて来る事は無さそうだ。そして相手からわざわざ出向いて来るというのだから、こちらとしても真摯に耳を傾けるくらいの度量は必要だろう。
過剰に畏れたり、拒否反応を示すのでは、余りにも大人げない。
会盟に向けた協調姿勢を目指す、孫登君率る太子派に組みするかどうかは別にして、話し合おうとわざわざ来る者を拒絶する必要性は彼も感じていなかったから、ひとまずは協力的に交渉を実現するべきだと感じていた。
そのためにはまず、大きな障壁と成るだろう我が君と、廟堂の連中の説得工作が必要になる。
勿論、推進派である孫登君以下の者たちは鋭意進めて行く事だろうが、ここは後押しするが吉と顧雍は想った。だからニコやかにこう答えた。
「確かに面白いな♪仲嗣殿の言う通りだ!まずは劉禅君という人に会ってみたい♪その口から本音を聞き、私も信じてみたく成った!だから彼らの誘致を実現するために、この私も一肌脱ごう♪おそらく太子様も近日中には我が君とお会いしよう。どうせこの度の件の報告を求められるだろうからな!そこはお手並拝見と行くが、根廻しなら御主らよりは私の方が余程マシというものだろう。何しろ一日の長があるからな♪どうせ元々そこいらを期待しての説得で在ろう?」
「判りますか?」
そう言って呂蒙も苦笑する。
「まぁ判らなければ、丞相などやっておらんよ♪」
顧雍も切り返す。
「そりゃあ、そうですな♪」
「まさしく!」
後の二人もニコやかに同意したので、その場はとても和やかな雰囲気と成った。
その時である。不用意に口をついた言葉でその場は一気に凍りつく。
「ところで仲嗣殿は何を持って来てくれたのかな?全く音沙汰が無いが?」
顧雍も悪気があっての事では無い。
けれども話し合いも落ち着く運びと成った今、彼もそろそろこの場をお開きにしたかったので、自然と出た言葉だった。
張承は見るからに躊躇い、遠慮するように手を後に回している。ところが呂蒙は全く動じずに、二コやかに微笑むと張承に語り掛けた。
「仲嗣殿♪気にする事など何もありません!それはいみじくも先程、元歎殿が言われた事が全てです♪」
「はて…何ぞ言ったかな?」
お気楽なもんである。顧雍は小首を傾げる。
張承も躊躇い勝ちに「それは何でしょう?」と訊ねた。すると呂蒙は答える。
「貴方はいつも彼に心を運んでいるのでしょう?だから元歎殿は我々の土産に珍しさを感じ、雨が降ると申された。本来、手土産とは相手を気遣い、その気持ちを伝えるものです。貴方は日頃からそれを実践し、心を運んで来た。違いますか?劉禅君はそれを真心と仰られてとても大事に成さっておいでです♪孫登様はおそらく、そんな些細な優しさに惹かれたのだと私は想います!だから中身などそもそも比較する必要は無いのですよ♪大切なのはその心なのです…」
呂蒙の言葉に陸遜も「まさしく!」と応じた。
張承はなお、躊躇いを見せていたが、そこは業を煮やした顧雍が気遣う。
「全く!何を遠慮しておる…まぁこんな高価な物を堂々と出されたら然も在らんが、継続は力なりと言うだろう?お前はあの張昭殿の跡継ぎなのに、少しも偉ぶるところが無い。そしてこの私にも、いつもその心を運んでくれた。私はその気持ちが判らぬほど粗忽者では無い!いつも感謝しておるよ♪さぁ、判ったらいつまでも手を後ろに回してないで、いつも通りくれたまえ!君のくれる茶葉を私はいつも愉しみにしているんだからね♪」
すると張承は、ようやく納得したように土産を渡した。そして呟く。
「そうか…中身じゃ無かったんですね!心なんて言われたら、小っ恥ずかしいものです♪でも真心が大切なんて、やっぱり私も早く劉禅君に会ってみたくなりました!太子様もその心が判るお優しい人なんですね♪」
張承は無意識にも涙が溢れて来た。
「では今日はこの辺で♪」
顧雍のこの一言で話し合いは散会となる。三人が外に出ると、いつの間にか雨がしっとりと降っていた。
それは張承の流した嬉し涙を感じさせた。
【次回】親子鷹