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瀬を踏んで淵を知る

『全く!厄介な事に成ったな…』


顧雍は帰宅しながら思案している。


『あんな安易な策に掛かるとは…』


彼は苦笑う。


けれども考えてみるに、安易だからこそ引っ掛かったのだろう。突然、報告を受ければ、誰だって丞相の立場なら駆けつけるに違いない。


一国の丞相として、国庫に異変有りと聞けば動かぬ訳には行かないだろうからだ。そして使いに来た官人の所作にも可笑しな点は無かったのだから、騙されても仕方無かったと謂える。


そして敢えて言うなら、相手は百戦錬磨の呂蒙と陸遜である。自分も元々は山越討伐で名を馳せた武将だから、軍略には精通しているが、現役を退いてからは久しい。


今現在、バリバリに第一線で働き名の通った彼ら相手にはそもそも歩が悪かった。特に呂蒙の名声はこの中華にも知れ渡っている。


そして今回は元々、彼らに歩が在った。そのハードルが低かったからである。


彼らの目的は、彼を国庫に呼び出す事であって、それが叶えば目的を果たしたも同然だったのだから、駆けつけた時点でこちらの負けは決まっていたという事だ。


彼らの手練手管は見事に尽きる。誘引の策だとこちらが気づく事さえ、念頭に入れたものだった。


それを付け焼き刃で考えたと言われては、敵わない。悔いは残るが、いつまでも悩んでいては道は拓けない。


彼は頭を切り換え、想定される状況に、思考を傾けた。いったい彼らは…否、彼らの背後にはあの孫登君が居るのだ。


太子は停戦交渉締結の引き換えに、いったい何を約束したのだろう。


劉禅君の立場で考えれば、こちらの先制攻撃を見事に退けた後なのだから、当然有利に交渉を進められた筈だ。


問題は()の若君が何を目指し、求めているかによるだろう。まず、ここは押さえる必要があると顧雍は想った。


それによってこちらに求められる事も違ってくるからだ。


『そこは二人の話を聞いてからだ…』


そう想った時に、顧雍は多くを語らなかった二人の姿勢に溜め息を漏らす。


『さては、こちらに考える猶予を与えぬつもりだったな…』


彼は今さらながらに、彼らの術中に嵌っていた事に気づき苦笑した。


何れにしても降伏した呂蒙も含め、関係者が(ことごと)く開放されて、無事に戻って来ているところを見ると、それは一方的な厳しいものでは無さそうである。


但し、あれだけの支援物資を熨斗(ノシ)に付けているところを見ると、その要求が軽いものである筈は無く、割と二国間の今後を左右するものになる事は必定だろう。


そして身内の動きに転じて見ても、呂蒙や陸遜の言動を眺めた限りでは、全くといって良い程に、厭々やらされている感は無い。


否、むしろ使命感に燃えているとすら感じさせる。それが太子・孫登の理念に基づくものである事はもはや明白であるから、この場合、二通りの可能性が考えられた。


孫登君が完全に洗脳されたか、或いは劉禅者に傾倒した場合がひとつ。でもあの太子がそれ程、馬鹿である筈は無く、幾ら何でも呂蒙や陸遜が翻意させるだろう。


そう考えると、考えられる可能性は残りひとつしか無い。劉禅君の意志が彼らの琴線に触れた場合である。


つまりそれが我が呉にとっても最良の選択だと感じた…或いはもっと積極的に、双方にとって利があると踏んだのかも知れぬと顧雍は考えた。


それならあの二人のやる気も判る。けれどもおそらくそれは、万人を納得し得るほどの約束事では無い筈だ。なぜなら、予め顧雍や張昭を味方につけようと暗躍する必然性が無いからである。


勿論、人には色々な物の考え方がある事は顧雍も理解している。だから念には念を入れたいと彼らが願っても不思議は無い。


元々根廻しは、(まつりごと)の世界では当たり前の作法とすら謂えるのだ。だが今回のは、それとは少々、毛色が違う気がする。


もし仮にこの申し出が、廟堂の根幹である我が君と、新風を注ぎ込もうとする太子・孫登君の綱引だとすればどうだろう。


この呉に限らずこの中華には、未だ古い体質に囚われて、新しいものは全て受けつけないという保守的な考え方を持つ者も数多く存在する。


残念ながら、それは長くこの世界に馴れた者ほど顕著であり、中には必要以上に拒絶反応を示す者も居る。そんな連中を説得するのは、おそらく容易な事では在るまい。


それなら話も判る。長老である張昭や、丞相である顧雍を味方に付ければ話が早いからだ。なぜなら一方は保守派の筆頭と見られており、片やで顧雍は若い世代を代表する丞相だからである。


保守と革進…その双方を味方に引き入れれば、廟堂を動かす原動力に必ず成る筈だ。おそらく太子様はそう考えられたのだろう。


そして呂蒙と陸遜が、それに積極的に加担しているのはもはや疑うべくも無い。(こと)の始まりが荊州に端を発している以上、同行した者は、既に一枚岩と見て良い。


或いは既に新たに引き込まれた者も居るかも知れない。少なくともあの場には太子様と諸葛恪が居なかった。


単純に考えれば、諸葛恪は父の説得に充てられたと想われるので、あの太子様が部下任せにばかりして休む筈も無いだろうから、既に誰かと接触した事も考えられる。


『そんなところかな…』


顧雍は顔を上げる。考え始めれば切りが無いのだ。だから後は話を聞いてからと、割切る事にしたのである。


ずっと下を(うつむ)いていたので気づかなかったが、いつの間にか家の傍まで来ていた。彼は気を引き締め直すと、『さてどうしよう…』と独り言を呟きながら歩みを進めた。




「只今、帰りました♪」


顧雍がそう告げると、家宰が(うやうや)しく出迎える。


「奥さんは居るかね?」


彼がそう訊ねると、「自室に居られます!」と答えた。


「彼女にはこれから伝えるが、間もなく重大事案で将軍たちが訪ねて来る。準備を頼む!三名だ♪」


顧雍がそう伝えるなり、家宰は確認した。


「いらっしゃるのはどなた様でしょう?」


「あぁ…そうだったな!呂蒙と陸遜と張承だ♪」


「承知致しました!準備します…」


そう言って家宰は下がる。少々(くど)いようにも想えるが、仮にも一国の丞相だから仕方無い。


顧雍はその足で妻の部屋に向かった。


妹妹(メイメイ)殿は顧雍が顔を出すと、のんびりとお茶を飲んでいたので直ぐに気づく。


「アラ?貴方、お帰りなさい♪子布様とはもう宜しかったのかしら?」


彼女はそう訊ねた。


然も在らん。いつもなら、「もう一回、もう一回!」となかなか離してくれないから、早くて夕刻に成る。


陽の高いうちに帰宅するのも、久し振りと謂えた。彼女は「お茶でも如何?」と言って、席を勧める。


顧雍は勧めに従って、一応ドシリと腰を据えるが、唐突に感じさせる程、困った様に口を開いた。


「あぁ…スマンな!頂こう♪だがのんびり構えている訳にも行かない事情が出来てな!」


彼は妻に今日在った出来事を率直に話した。勿論、全てを話す訳にはいかないが、協力して貰う以上、事情は話さねばならない。


「お前の知った事では無い!」とか「男の仕事に口を狭むな!」とか、そんな事を当たり前に言う時代に在って、この顧雍という人は想いの他、革新的な考え方の持ち主だった。


そう謂えるだろう。だから彼は遠慮無く、語れる範囲で妻に伝えて、協力を(あお)ぐ。


ところがこの御方、割と殿方のお付き合いや仕事には理解があって、賢く控える事が出来た。但し、唯一承服出来ない行為がひとつあって、それは公私混同する事である。


だから仕事の勢いのまま、同僚を自宅に連れて来るのはNGだった。そういう事である。この時も、だから怒りもしないですぐに訊ねた。


「それで…貴方はどう成さりたいの?」


これは一緒に居て手伝うか、遠慮するかの確認である。丞相夫人とも成ると、家族ぐるみのお付き合いもある。そういった訳で、彼女は毎回確認していた。


「どうやら込み入った話に成りそうだから、今日は遠慮してくれるかい?」


夫にそう言われて彼女は即答した。


「勿論ですとも♪でもせっかく伯言ちゃんに会える機会なのに残念です事!」


妻がそう言うと、顧雍はホッとした様に答えた。


「なぁに、奴はしばらくこちらに居る事に成るだろうから、改めて会いに来させるさ♪それで良かろう?」


「えぇ♪勿論ですとも!じゃあ、私は出掛けます♪今の話じゃあ、周妃様もお淋しいだろうから、あそこに居りますね?」


そう言って、妹妹(メイメイ)殿はすぐに出掛けてくれた。良く出来た方である。


これで顧雍の方は粗方(あらかた)準備が整ったので、彼は再び考えに没頭する事にした。広間では家宰が着々と準備を整えつつあった。




妻を送り出すと、ほぼ入れ替わりに張承がやって来た。そして問題の二人も立て続けに到着する。


顧雍はまめに三人を出迎え、広間に案内すると、ようやくひと息ついた様に席に着いた。三人とも珍しく、それぞれが手土産を持参している。


「何だ!お前たち♪珍しいではないか?仲嗣はまだしも、子明や伯言が土産なぞ、今夜は雨に成るのではないか♪」


顧雍は失礼にも、歯に(きぬ)着せぬ物言いをする。二人は参ってしまった。


すると呂蒙が代表して言った。


「そらぁお邪魔するのに手ぶらじゃ面目が立ちません!些少ではありますがね…我々もその辺りの機微は心得ていますよ♪」


彼は物怖じもせずに堂々とそう宣う。


「左様、左様♪」


陸遜も負けじと相槌を打つ。


「そうかね?では有り難く頂戴しよう♪しかし…これらは何かね?」


机の上に置かれた壺のような焼き物と小さな可愛らしい瓶を手に取りながら、顧雍は訊ねた。


張承も不思議な物を見つめるくらいの勢いで、興味深く眺めている。


「ではそれは私が…」


陸遜が進んで買って出る。


「子明様の壺はおそらく茶葉でしょう♪私は彼が帰りの馬車の中で、嬉しそうに眺めているのを見ました!色々な種類があるので、悩まれていましたなぁ…」


「ほぉ~茶に種類などあるのかね?」


顧雍は然も驚いたと謂わんばかりに呟く。


「えぇ!勿論♪まぁ驚くのも無理はありません!私だって青天の霹靂という感覚で、当初は受け入れましたからね?子明様はあらゆる茶を買い込んでいましたな♪これはそのひとつでしょう!」


「成る程…だが荊州ではそんなものに力を注ぐ余力があるのかね?買ったというのも解せ無いが?」


するとその瞬間、陸遜の目付きが明らかに変わった。それは顧雍にもすぐに判った。


呂蒙は溜め息を漏らす。そして被りを振った。張承にさえそれは感じられた。


『はは~ん!こいつら端からそういうつもりか?これは土産という名の交渉の小道具なのだな!だがまだ序の口だ…もう少し様子を見るか?』


顧雍はそう想い、話に乗る事にした。(いず)れにしても、荊州の様子が判るのは悪くない。


呂蒙は呂蒙で、陸遜の顔に変化が訪れた瞬間に、顧雍には我々の意図を見破られたと想い、その詰めの甘さに苦虫を噛み潰したが、相手がそれを承知で話に乗って来たのでひとまずは安堵した。話さえ通れば良いのだからと、彼も傍観を決め込む。


片やの張承は、この瞬間の駆け引きに酔い痴れる。成る程、交渉事の攻めぎ合いとはこういうものかと感心したのである。そして父・張昭が自分を来させた意味合いを同時に感じていたのだ。


「勉強せい!」


そう言って、高らかに笑う父の顔が目に浮かぶようである。そしてこれは正に生きた勉強に成るだろう。彼はそう想い、しっかりとその光景を目に焼きつけ、その言葉を聞き逃すまいと耳を傾けた。


陸遜は答えた。


「勿論、全て荊州で栽培されたものではありませんよ!中には海洋交易で得たものもあります♪でも見たところ、これは荊州産です!御存知の通り、嗜好品を作ったり、交易で得るというのは、なかなか出来るもんじゃありません。魏のように漢の皇帝を推し戴き、他国と朝貢貿易をしているところは別でしょうが、我々は献上をその根本とする貿易は出来ません。むしろ朝貢させられる事はあっても、して貰う立場には無いからです。そして蜀でさえ、それは同じ立場の筈でした…今まではね!でも彼らのやっている交易は、謂わば平等交易です。献上している訳でも、されている訳でも無いのです。きちんと対価を払い合うもの、つまり売り買いですな!勿論、 国によってはまだ貨幣という概念が無い国も在ります。その時に彼らが行っているのが、等価交換というものです。お互いに話し合い、その価値を選定して物々交換をするそうです。そのためには勿論、意志の疎通が出来ねばなりませんが、彼らにはそれが出来るって事です。当たり前のようにね?あの劉禅君でさえ、他国語を喋るそうですよ♪」


陸遜はそう言ってから、呂蒙に助けを求めるように目配せした。そもそも彼は荊州には行ってないのだから、喩え話をするにも限界はある。


彼が今まで話した事は、自身が経験出来た最大限の事実を踏まえた話だった。茶葉の話し然り、交易の話し然りである。


陸遜が劉禅君と接触した機会は、後にも先にも支援物資の荷が大型船から下されるひと時だけだった。


彼は時を無駄にせず、劉禅君に訊ねたのだ。たまたま茶葉の話からそれは始まり、交易の話にまでそれは及んだという事になる。


余りにも陸遜が熱心に聞くものだから、劉禅君はひとつひとつ丁寧に説明してくれたのだろう。呂蒙はそれを横目で眺めていた。だから敢えてここでそれを披露させたのである。


顧雍は想う。


大型船という、日頃絶対に目にする事の無い脅威を真近に眺めた者にとっては、新しい物を受け入れる事は元より、その新しい概念である価値感を受け留める事さえも、きっと容易だったに違いない。


それはある意味、彼が事前に考えを巡らせていた古い概念に囚われている者と、その先を見据えて、新しい概念を受け入れられる者とに別れるという(ことわり)に繋がる。


そして気づかなければ絶対に感じない事であるが、その新しい(ことわり)を劉禅君が創始した…そういう事に成るのだ。


これは考えてみれば恐しい事でも在る。なぜなら、それは新しい秩序の構築に他無らないからである。


(とど)のつまりは、これからの世界の規範(きはん)作りを、彼らは大胆にも推し進めている事に成る。


そしてその精神にいち早く共鳴したのが、我が国の太子・孫登君という事に成るだろう。


当然の事ながら、頭の良い彼らの事だ。陸遜も呂蒙も、そしてあの諸葛恪でさえ、もうそれが判っている。


この時に、顧雍は彼らがなぜ時を無駄にせず、自分の説得に来たのか判る気がした。鉄は熱いうちに打てという事なのだろう。


そして余りのんびりとしている暇も、おそらくは無いのである。呂蒙が陸遜の求めに応じて、彼の言葉を引き継ごうとした時に、顧雍は手を上げて制した。そして口を開く。


「ちょっと待て!御託はもう良い…興味深く話は聞かせて貰った。手土産まで持参して、大変有り難い話だが、どうやら君らはコレを(かて)にこう言いたいのだろう?嗜好品を造り、販売出来る彼らの生活水準の高さをね!本来、嗜好品なんて、衣・食・住が揃い、生活に困らない者が取り組む物だ。そもそも自給自足が出来るだけでも凄い事なのだ!そうだろう?田畑を復活し、民が飢える事の無いよう取り組む事でさえ、まだまだ行き届かない我々には、けしてそんな事は無理だろう。それにここは海に囲まれている立地の割には、山が海辺まで競り出していて平野も少ない。嗜好品など造るべくも無いな!大型船の存在といい、移民の話といい、運河に海洋交易だからな…聞いていて圧倒されるばかりだ!まだまだ話は尽きないのだろうが、ここは具体的な事を聞く場では無い。勿論、情報を軽んじている訳では無いから、そこは後ほど書面で提出して貰いたい。必ず検討すると約束しよう。それに私は君たちの手間を省いてやろうと言うのだ!理解力のある丞相で在ろうが?だから単刀直入に願いたい!荊州の劉禅君の求めているものとは何だ?」


顧雍はそう訊ねた。


粗方(あらかた)、気づいてしまった者にとっては、遅々として進まぬ講釈なぞ、牛歩戦術に掛かっているようで、まどろっこしい。


これには呂蒙も感心してしまった。その目で見た者だから理解し、信じる事が出来るものもある。


彼はそう想っていたからである。けれどもそれは違った。


顧雍はここまでの説明で、彼らの思考に後一歩のところまで到達して居るのだ。それが判った今、もうこれ以上の時を掛ける必要は無かった。


「それは会盟です♪」


だからそう呂蒙は告げた。

【次回】道標

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