故事に倣う
「元歎!そこ何とか成らんか?」
張昭は困ったようにそう言った。
「子布様♪それは駄目です!遊びとは謂え、勝負は勝負ですから♪」
顧雍はクスクスと笑いながらそう答える。
『この人には敵わんな…』
そう想いつつも彼は毎度毎度、譲歩する事に成る。
『そろそろだな…』
顧雍がそう想った途端、張昭は案の定、呟いた。
「そこを曲げて…」
こうなるとさすがに顧雍も一歩引かざる逐えない。
『文公の精神だ…』
彼はそう想い、直ぐに碁板の黒石を取り除いた。本来、顧雍はここ呉に於いては追随を許さぬ碁の名手だから、黒石を使う事などほぼ無い。
けれどもさすがにそれも相手次第というところだろうか。この張昭もそのひとりだった。
張昭は建国の功臣のひとりであり、未だ影響力の衰える事の無い長老である。
顧雍はこの国の丞相ではあるが、張昭相手ではさすがに歩が悪かった。そう言えるだろう。
「ホッホッホ♪さすがに元歎殿はお優しい…労りの精神をお持ちじゃ!」
張昭は諸手を上げて顧雍を褒めた。
顧雍は苦笑う。
「滅相も無い!急いては事を仕損じる…只、それだけで御座る♪」
彼が確信を持ってそう言うと、張昭は再び「コッコッコ♪」と笑った。
「貴方は謙譲の心がある。それは何れこの国をひとつにまとめ上げよう!」
「厭々!私などまだまだ…」
敵も然る者である。この間にも張昭は白石を打ち直している。
顧雍は褒め殺しされぬように十分注意しながら戦況を窺う。三舎退く故事に倣い、彼は大人しく退いた。
確かにそれは年長者を尊ぶ精神には違いない。けれども時としてそれは功を奏する。それは歴史がちゃんと証明していた。
「三舎退く」これは春秋時代の覇者、晋の文公の故事に由来する。晋の文公とは謂わずと知れた重耳の事だが、彼には苦しい時代があった。
内乱により命の危険に晒された彼は、長い年月、逃亡生活を余儀無くされたのである。
亡命した事で彼はその命を永らえた訳だが、行く先々で起きる不測の事態に巻き込まれて逃げ出した事もあれば、居心地が良すぎて不安に苛まれ、新天地を目指した事もあった。
彼には何れ帰国して、天下を安寧に導くという使命と覚悟があったからである。
そしてこの三舎退くという故事は、彼が亡命先の楚に居る時に約束した言葉だった。
楚の成王は、重耳をひと目見るなり大器と認め厚遇する。そして重耳も、その手厚い歓迎に恩を感じていた。
ある時、成王は重耳に問う。
「もし仮に、この私が君を晋に無事帰国させてあげたら、君は私にどう報いてくれる?」
すると重耳は、全てを持っている王に何も持たない自分が出来る約束など無いと、はっきりと答える。
この辺りが大器と呼ばれる由縁であろう。けれども、それでも良いから返事を聞きたいと問う成王に、重耳はこう答えたのだ。
「判りました…ではこうしましょう♪仮に私が帰国して、何れ君主の座に着いたとします。その時に貴国とやむを得ず戦う事に成った暁には、貴方に敬意を評して軍を三舎退かせましょう。それでもご満足頂けなければ、堂々と互いの雄姿を見せ合い、戦うだけです!」
三舎とは古代中国の距離の単位で、一舎は12kmほどに当たる。この時代の一日の行軍距離にそれは相当する。
つまり重耳は36km退くと約束したのだ。それは三日分の行軍距離に当たるから、当然の事ながら晋は不利と成る。
これを聞いた成王は、大いに笑って満足した。
無いもので約束する事など幾らでも出来た筈なのに、下手に空手形を振り出さずに、今考え得る最大限の可能性の中から答えを見出した重耳に感心したのである。
その場は戯言で終わるが、世の中とは不思議なもので、実際にそれは起きた。それが城濮の戦いである。
重耳はこの時、成王の計らいで秦の穆公に預けられた上で晋に帰国し、君主の座に在った。そして彼らが大河を挟んで対峙した時に、文公はこの約束を果たす事に成る。
彼は躊躇う事無く、三舎退いた。
これを認めた成王は、これは天意だと言って自らも軍を退く。重耳が晋公に成ったのは当然の事であり、約束を見事に果たした彼に成王もまた敬意を評したのである。
「天の理には逆らえぬ!」
こう言って成王は兵を退いた。
けれどもここで子玉が異を唱える。こんな機会またと無いと、彼は自軍だけでも攻めるというのだ。
実は子玉はあの戯言の際、成王に重耳を殺すように進言している。彼に言わせれば、あの時に殺していればこんな事には成らなかったという不平不満があったのだろう。
彼は曲がりなりにも令尹であったから、異を唱えるだけの力はあった。
成王は溜め息を漏らし、勝手にしろと謂わんばかりに彼を置いたまま引き上げた。その目には、責任は取れと書いてある。
それでも子玉は諦め切れずに重耳を追い、反撃を受けて壊滅してしまった。
文公は堂々と戦うという言葉も守ったのである。子玉は帰るに帰れず自殺する破目に成った。
約束を守った文公もあっぱれなら、その文公の潔さを認め引き上げた成王もまた潔い。
三舎退くという故事は、この二人の立派な姿勢に由来する。そういう事に成るだろう。
結局のところ、顧雍は一目差で張昭を退けた。本来であれば既に大差がついてしまっていた事だろうが、それだけハラハラドキドキしながらの展開を愉しむ事が出来たのである。
これは二人にとって満足のいく結果となった。張昭も負けはしたが、元々力の差がある事は彼ですら心得ていたので、顧雍の譲歩に彼は感謝していた。
だから文句は言わなかった。そもそも白石を持った時点で置き石をする訳にはいかない。顧雍の譲歩はある意味、置き石代わりだったのだ。
たらればな事だが、端から張昭が大人しく黒石を持ち、置石を置いて居れば勝っていたかも知れない。
果たして張昭は、成王の如き寛容さの持ち主か、はたまた子玉の如き荒ぶる魂の持ち主なのか、それは意見の別れるところだろう。
「見事じゃ♪いつにも増して、今日の貴方には緻密さが感じられた。正直、着いて行くのがやっとじゃったな♪」
張昭は顧雍を手放しで褒めた。
「厭々…子布様の追い上げに正直、生きた心地がしませんでした♪愉しゅう御座いました!」
顧雍もまた張昭を持ち上げる。二人は愉しそうに心の底から笑い合った。
そんな時である。官人のひとりが慌てて飛んで来て、報告に及ぶ。二人は聞くなり驚き、笑顔が吹き飛んだ。
二人はその後、官人に案内されるがままに国庫に向かう。勢いのまま飛び出して来たのは良かったが、張昭はもう老齢であり、息が荒くなる。
顧雍も自ずから譲歩せざる逐えずに、官人に声を掛け、その速度は否が応にも落ちた。急いては事を仕損じるという事なのだろう。
けして慌てる必要は無かったのだ。ようやく彼らが現場に到着し、目の当たりにしたのは、たくさんの台車に積まれた救援物資である。
既に馬からは切り離され、台車は理路整然と倉庫を埋め尽くしていた。
「これは何と…」
二人は驚く。
すると奥で忙しなく、ゴソゴソと荷を弄くり回す者たちに目が留まった。それは呂蒙と陸遜である。
張昭は「ウォッホン!」と咳払いをして、注意を促す。当然の事ながら、二人はすぐに気づいて足早に近づいて来た。
「これはこれはご老体♪いったいどうしたのです?おゃおゃ…丞相殿までお越しとは!とんだ事で…否、恐れ入ります♪」
呂蒙は落ち着き払ってそう応じる。陸遜もまた泰然自若を貫く。
顧雍はこの時点で気がついた。ひょっとしたら、これは嵌められたかも知れぬと用心する。
けれども張昭は、そんな事にはお構い無しに尋ね返した。
「何がご老体じゃ♪不遜な事を申すな!この儂は、まだまだ現役であるぞ…それにしてもコレはどうした事じゃ?どこから持参したのだ!」
至極当然の反応である。呂蒙と陸遜は、示し合わせたように見つめ合い、ほくそ笑む。
「どうと申しますと?」
陸遜は惚ける。
それは顧雍には既定路線に見えた。
彼も丞相を拝命する程の人物だから、都督である呂蒙たち武将の考えそうな事には免疫が有る。そのくらいでないと丞相など務まらないのだ。
しかしながら、せっかくの謀をその入口で躓かせるのも大人げないから、彼は判った上で彼らの手の平に乗ってみる事にした。
戯れに乗るのも一興だと想ったのである。すると案の定、感情の赴くままに張昭が食いつく。
「何を言うか!こんなにたくさんの物資が、この御時世に国庫に集まる筈が無い。どこから運んで来たのかと申しておる!この儂が騙されると想うのか?惚けおって!殊と次第によっては許さぬぞ♪」
顧雍はその瞬間、見事に嵌ったもんだと苦笑している。だからここからが二人の真骨頂だと期待しながら眺めていた。
呂蒙はそれでも慌てる事は無い。彼は事実を殊更に強調しないように、サラリと述べた。
「あぁ…我々は太子様のお供で荊州に行っとりました♪その帰りに、荊州の劉禅君より我が国に対する支援物資を下賜された次第!これも太子・孫登様の成し逐げられた功績です♪我々はその中身を確認していたのです!」
言い得て妙である。確かに言っている事に間違いは無いのだろう。
けれども落ち着いて冷静に考えれば、そこにはその前提と成る発端が抜けている。
ここで顧雍はハッとした。都督から出ていた荊州侵攻計画を思い出したのである。
『コイツら…さては勝手に侵攻したな?それを太子がおそらく収めに行ったのだろう。確か太子は江夏に山越討伐の支援要請に向かった筈だから、そもそもコイツらに会いに行った訳だ!伯言がその要請に応えて、あの闞沢を助けた事は揺るぎない事実。すると太子はこりゃあひょっとすると、江夏まで行っとらんな!おそらく伯言の侵攻を阻止したのだろう。その際、山越討伐の印授を授けた。となると、話しは簡単!江夏はその道中だし、我々が調べさせた時に、甘寧と呂蒙の軍は既に江夏に居た。けれども子明は今、ここに居るからには、荊州侵攻を果たしたのだろう。手土産まで貰っているところを見ると、コイツ敗れた上に、太子に助けられたな?だが太子の孫登様は、曲がった事がお嫌いな御方…おそらくコイツを助けるために、劉禅君と取引したのだろう。そして双方の利害が一致したと見るべきだ。でなけりゃこんな贈り物が貰える訳が無い!やれやれ…この支援物資に見合う約束とはいったい何で在ろうか?』
さすがと謂うべきで在ろう。
顧雍はここまでの少ない情報で、そこまで突き詰めてしまった。溜め息を漏らす彼の仕草が全てを物語っている。
顧雍は恐しい事に成らねば良いと、少々肝を冷やしていた。するとそんな事とは露知らず、張昭は笑い出す。
「コッコッコ♪嘘を申すな!さては自らこの儂を誑かすつもりじゃな♪まだ間に合うから、本当の事を申せ!」
張昭は取り合わない。
顧雍はこの時点で余程、種明かしをしようか迷いに迷った。けれども傍観しようと決めたからには、もう少し彼らの手腕を見てみたいと意地悪にも考えた。
だから知らぬ振りをして、只々眺めている。ところがそれは杞憂だった。
これぞ正に彼らの想定通りだったのである。呂蒙は然も可笑しそうに切り返す。
「いゃいゃ…全て本当の事です!長老は太子様の手腕を疑っておいでなのですか?とんでも無い!私は将帥の権限を行使して、荊州に侵攻しました。孫登様はそんな私を助けるため、必死に食らいつき、後一歩で間に合わず荊州との停戦交渉に臨みました。そしてあの劉禅君とバチバチの交渉を繰り広げ、停戦をまとめて双方に恨みが残らぬように上手くまとめました。この支援物資は二人の太子が互いを認め合った証なのです♪言っておきますが、今回の戦で双方共にひとりの戦死者も出ておりません。国を想い、常に好戦的な我々にしては珍しい事でしょう?それもその筈!彼らは我々が国の復興に苦慮してる間にも飛躍的に国力を増強していました!皆様も秦縁様の大型海洋船を御覧に成った事があるでしょう?私が湖から侵攻した際、アレに勝るとも劣らない大型船が五隻、肩を並べて待ち受けていました。その指揮をしていたのが、何を隠そう件の若君です。劉禅君は申されました。"このド阿呆が!"と…どうやら死を覚悟して、強行策に出ようとした私を翻意させたかったようです。"大切な仲間の命を軽々しく扱うな!自分の我儘に勝手に巻き込むな!"と仰せでした。それだけ彼らの国力は既に我々を凌駕しているのです!その彼らを相手に堂々と交渉された太子様は大変ご立派でした。この私が保証致します♪」
結局、呂蒙は自分の恥を晒して説得に懸かった。
どうやら自分の読みが当たったと感じた顧雍は、包み隠ず己れの恥を晒してまで真実に言及した呂蒙に、むしろ好感すら抱いていた。
それにしても荊州がいつの間にそれほどの力をつけたのか、そこには格別の恐ろしさを同時に感じていたのである。
劉禅君とは唯々凡庸な噂通りの人物では無かったという事に成ろう。既に顧雍は何を約束して戻って来たのか、唯々その事に戦々恐々としていた。
呂蒙の恥を晒した狙いは当たる。その熱の込もった説明に、押される様にその場はしばしの静寂に包まれた。
呂蒙と陸遜は、張昭ら二人の反応を窺っている。
そして顧雍はポーカーフェイス宜しく、相変わらず傍観を決め込んでいるから、先の動向は必然的に張昭に委ねられた。
やがてその張昭は、溜め息混じりに口を開く。そこには感情に流されず、冷静な面持ちの長老が居た。
「成る程…御主は劉禅君のお陰で子玉の憂き目に遭わずに済んだという事か!そして太子様は、往年の成王の境地に立てたと謂う事じゃな?しかし驚いたな!劉禅君とは聞けば聞く程に、文公の再来のようなお人じゃな♪よ~く判った!こうしてその証もここにある事だ。お前たちを信じよう♪」
張昭はそう告げた。
「ご明察です♪有り難う御座います!」
呂蒙も陸遜も頭を垂れて感謝を示した。
こうなっては呆気に取られたのは顧雍である。これでは張昭に美味しいところを取られただけで、自分の立つ瀬が無い。
せっかくいち早く真実を推測し、突き止めていたのに想わぬ糞くじを引く結果と成ってしまった。少なくとも顧雍自身はそう想い込んでいたであろう。
けれども殊はそれでは済まなかった。張昭の逆襲はここから始まる。彼は顧雍を見つめてこう言った。
「コッコッコ♪御主、儂に一石譲った時に、文公の故事に倣ったで在ろう?要はこの儂をその瞬間に見縊っていたのだろう♪この爺をやり込めるには忍びなかったから、損して得を取った訳だ!だがこの老獪な儂を見縊るのは十年早いぞ♪もし仮に喩えるならば、この儂は穆公という所かな?しかしながら、儂は劉禅君の穆公には非ず…もうひとりの文公に成れる器!そう、孫登様の穆公に儂は成るつもりじゃ♪元歎!御主は正しい目で物事を見る事が出来る稀な御仁じゃ♪おそらく今度の事も、先読みして傍観していたな?時は金なりじゃ!機会を失う事無く行使する事も、時には必要だという訳じゃ♪」
張昭は後出しじゃんけんでこうして顧雍を出し抜いてしまった。
『この人にはやはり敵わんな…』
顧雍は改めてそう想う。だから即座に頭を乗れた。
「肝に命じます♪」
彼はそう答える。
すると張昭は、再び「コッコッコ♪」と愉しげに笑った。その瞳には往年の輝きが在った。
【次回】手際が肝心




