【番外編】山高賛歌
時は少々遡る。
桓鮮は江夏駐留軍の江陵侵攻が回避されると、その足で撤退して行く軍団を追い掛け始めた。甘寧の軍に突如として陸遜の軍が合流したからである。
何やら不足の事態が起きた事は確かだったので、その動向を見極める必要があった。
二軍はそのまま撤退路を進み、このまま江夏に戻ると想われたが、暗に反して陸遜軍だけは江夏に戻らず北上を始める。
何れにしてもその先は呉の領域なので、これで荊州侵攻は最早無いと判断した桓鮮は、伝書鳩を大将軍・関羽宛に送り、詳細を報告した。
その際、北上する陸遜を追う事を付け加える事も忘れなかった。これは危機管理の一環であり、行動の自由を確保するためでもある。
同時に大将軍の依頼を全て完了した事を意味する。
『これで良し♪後はアレの目的だな?行先が判れば、それも自ずと判明するからな!』
桓鮮は、立ち込める霧に粉れて見つからぬように後を追った。
日中はさすがに気づかれると不味いので、軍団の中に粉れた。彼はそもそも変装の名人だから、移動中に化けの皮が剥がれる事はまず無い。
時折、休息を挟む時だけは話し掛けられると面倒なので、案山子となって畔道を飛び降り、畑の真ん中でそよ風に当たる。
すると兵たちの話し声が聞こえて来た。
「太子様はご立派な御方だったな♪振る舞いは元より決断力がある!」
「あぁ…そうだ!でも将軍もご立派だった♪陸遜様の実行力を買われたのだろう!」
「でも太子様にお会い出来るとは幸せな事だ♪一生の誉れだな!」
「そうさなぁ♪」
ボロ切れを纏った桓鮮は、懸命に耳を傾けるが、行き先を示す手懸かりは未だ得られていない。
けれども孫呉の太子が出て来る程の大事だという事は判った。そのうち休息も跳ねて再び行軍が始まったので、彼は早変わりしてすぐに後を追い、また上手く粉れた。
軍団はそのまま走り続け、ひたすら突き進む。やがて揚州郡に入ったところで、彼はようやくその行き着く先が見えたので、然り気無く隊列を離れた。
軍はそのまま真っすぐに彼方へと駆けて行き、やがて見えなくなった。
『成る程…侵攻を断念したのは内乱のせいか!それなら判る。また山越が蜂起したのだ…』
桓鮮は任務で潜入を繰り返して来たので、その辺りの事情には精通している。彼には今回の原因が手に取るように判ったので、もう追う必要は無くなって居た。
内乱が起き、内論の事情で太子が江夏に援軍を乞う。ところが独断で動いた三軍のうち、陸遜軍が要請に来た太子と偶然遭遇する。
太子の意向が働き、陸遜は侵攻を断念。山越討伐の兵符を受ける。
『おそらくその時に、甘寧を止めるように頼まれたな?とすると呂蒙のとこには太子自ら行ったのか…』
偉く大胆な太子様だと桓鮮は感心していた。兵の語っていた決断力とはそういう事だろう。彼は悦に入った。
若君の思考の一端に、触れた気がしたのである。普通ならここで報告のひとつもするのだろうが、彼は止めた。
呂蒙にはあの若君が対応に行くのだ。そして張嶷も狩りに行くと聞いていたので、自分の出る幕など無いと彼は結論付けていた。
『急に暇になってしまった…』
桓鮮は溜め息を漏らす。
こんな事なら、陸遜の後をそのまま追い掛ければ退屈しなかっただろうに、判断を誤ったかもと少し残念に感じていた。
『ここいらはどうせろくなもんが無い…取り敢えず戻ろう!』
桓鮮はすぐに結論に至る。
『骨折り損だったな…』
彼はそう想いながらも、帰ったら大好きなモモ肉でも食うべぇと、愉しい事を考えながら、のんびりと帰る事にした。
ところが犬も歩けば棒に当たるらしい。もうあとひと息で荊州だと吐息を漏らしている所で、道端にモゾモゾと動くものを目に留めた。
辺りはもう薄暗く成り懸かっているし、山に差し掛かる峠道だから、さすがの桓鮮もギクリとしてしまった。
彼は特に迷信に惑わされるほど弱くないし、至って現実的な男だけれど、ボロ雑巾のような形のが、ヒタヒタと這いながら近づいて来る様は、それでも余り気持ちの良いものでは無い。
もし万が一にも人外のものなら、ひと突きにしようと待ち構えていると、急に呻き声を漏らしたので慌てて駆け寄る。
するとそれは人で、ところどころ穴が開いて布が擦り切れてしまった服を纏い、身体中は擦り傷だらけで血が滲んでしまっている。
顔だって泥だらけだから、剥き出しの身体は言うに及ばずである。息も絶え絶えのところを見ると、飲まず食わずでここまで這って来たのだろう。
念のため身体を確認してみると、右腕と左足の骨が折れている。身体中も打ち身の跡があり、肋骨も二、三本折れていた。
「こりゃあ、大変だ!」
桓鮮は驚き、すぐに助け起こしてやると、持っていた水をゆっくりと飲ませてやった。
『こりゃあ…弎坐さんか老師に見せないと死ぬな!?』
桓鮮はすぐにそう想い、虎の子の伝書鳩を飛ばした。
『やれやれ…使い切らなくて良かった♪』
彼はそう想っていた。
しばらくすると、気絶していた男が息を吹き返す。すると支えられているのに気づいて、助けを求めようとして左腕で桓鮮を掴もうとした。
とにかく必死だったのだろう。けれども彼の腕は、掴む前にダランと無造作に落ちた。捻挫しているらしく彼は呻き苦しむ。
「どうした?何があった!」
桓鮮がそう訊ねると、彼はハッとしたように助けを求めた。
「私は諸葛家の料理人です。太子・孫登様と共に江夏に行くつもりでしたが、急遽太子は前線に赴く事になり、非戦闘員の私と御者を江東に帰らせる事にしました。けれども峠道に差し掛かると再び山賊に襲われ、御者は馬車共々連れて行かれ、用の無い私は馬車から放り出されたのです!その時に手と足を骨折してしまい、助けを呼ぼうとここまで必死に這って来ました。どうか御者を助けて下さい。彼は大事な友なのです!後、太子様が前線に行かれた事を一刻も早く主人に伝えて下さい…」
料理人はそこまで言うと、倒れ込んでしまった。桓鮮はようやく一連の動きが繋がったと、自分の推測の正しさを知った。
彼も長年、戦場や敵地を渡り歩いているので、応急処置くらいなら出来た。間謀には間謀なりの秘伝の薬草があるのだ。
桓鮮はそれを必要なところに塗ってやり、骨折した腕と足には手頃な倒木を拾って来て添え木にし、布で縛り固定してやった。
動くと折れたあばら骨が胸を痛めるので、これも布で上半身をきつく縛る。彼は変装するために幾重にも衣を着込んでいるので、それを裂き活用する事が出来たのだ。
『どうせ助けは早くて明け方になる…』
桓鮮はそれが判っていたので、この料理人と夜を過ごす事にした。山賊に捕まっている御者も心配だが、この男をこのまま放り出す訳にも行かない。
彼が離れた際に獣に襲われないとも限らないからだ。それに目を離した隙に死なれでもしたら、さすがに寝覚めが悪い。
そもそも彼には、敵地で人を助けようなんて気は更々無かった。己が生還する事。それが間謀の掟なのだ。
他人の命に構う者は死ぬ。それが仲間内での誓いだった。
そこに変化が表れたのは、管邈隊長襲撃事件である。あの田穂副長が一石を投じたのだ。
知らぬ事とは謂え、隊長の命を救うために荊州を治める太子・ 劉禅君を彼は拐う。
人には限ず死なせたく無い人が居る。それが田穂副長には隊長の管邈だったという訳だ。
そして人質を取られ、無理強いさせられたにも拘らず、劉禅君は懸命にその命を救ったのだ。
『人の命に軽い重いなど無い!』
それが若君の信念だった。
桓鮮はそれを目の当たりにして、その考えが根本から覆ってしまったのである。
彼はいつの間にか若君を手伝って意のままに従っていた。そういう過去の経験が彼の心を突き動かす。だから助けた。
そう言っても過言では無かったのである。
それに顔を知らない者よりは二言、三言すでに言葉を交した者にその情は向く。これは自然な事であり、抗う事は出来ないだろう。
それに拐って行ったからにはその理由がある筈だ。そう簡単に命は取るまい。それが桓鮮の経験に基づく判断と謂える。
そしてこの男は知らない事だが、喩え連絡などしなくても、太子の孫登が殺される事は万が一にも無い。
なぜならその場にはあの劉禅君が居るからだ。そういった安心感が桓鮮にそういった判断をさせたのである。
そしてこの判断は正解だった。この料理人は桓鮮の直向きな手当てと判断により、結果その命を拾う事に成ったのである。
傷口の化膿から男は気絶したまま高熱を発し、時折うなされるように言葉を呟く。
けれども夜の帳が明け、陽が登って来るまでの間、桓鮮は男を守り動く事は無かった。
夜が明ける頃、桓鮮の配下の者たちが一斉に集って来た。ひとりまたひとりと、その数は続々と増える。そして最後に医療用の馬車を飛ばして弎坐が到着した。
「へぇ~こりゃあ、なかなかの処置だ♪君も伊達に若の手当てを眺めていた訳じゃ無かったんだな!この人は君のお陰で助かるよ♪じゃあ患者は確かに預かった。護衛を少し付けて貰えるかな?」
彼はそう言った。
「勿論です♪半数は馬車を守って江陵に戻っておれ!オレっちは御者を助けて江東まで送って来る。半数は続け♪」
「「ハハァ…」」
「必ず助けるからね♪任せてくれ!」
弎坐は力強くそう言うと馬車に乗り込む。
「勿論信じてます!頼みます♪」
そう言って桓鮮は患者の馬車を送り出すと、一気に山上の山賊の根城に向かった。
「お頭♪見つかりましたぜ!」
桓鮮は山賊の根城を包囲すると、御者の捕えられている場所をすぐに探させた。
けれどもその居場所は意外にもあっさりと見つかる。配下の掛け声に呼応するように半数を救出に割き、残る半数は自ら率いて殲滅に向かった。
「多少乱暴でも構わん♪引導を渡してやれ!但し、殺すなよ♪気絶させたら縛り上げておけ!中央広場にまとめるんだ♪」
「ガッテンです♪例の奴ですな!久し振りだぁ♪愉しみです!」
仲間たちはその号令を合図に、見つけた狼藉者たちを手当たり次第に欧りつけ、蹴り倒す。
幾ら歴戦の山賊連中でも所詮は弱い者いじめを生業としているのだ。どんなに乱暴者でも、素人と玄人の差は歴然だった。
山賊は次から次へと面白いように倒れて行く。最後に山賊の頭が頑強な鉞をガンガン振り回して向かって来たが、桓鮮の手刀であっさりと大の字に倒れた。
それこそお昼前には全員が縛り上げられ、広場に集められたのだ。山賊たちは突如現われた黒装束の連中に有無を言わせずボコボコにされたので戦々恐々としている。
特にその彼我の実力差を思い知らされ、ちびっている者さえ居た。
「さてと…」
桓鮮は両手をポンポンと小気味良い音を立てながら泥を払うと腰に手を当てて言った。
「おい!火鉢を持って来い♪」
「「へ~い!!」」
黒装束は規律が取れており、すぐに火鉢を持って来た。頭目は何を思ったのか、そこに首領の鉞をくべて、赤身懸かるまで焼き尽くす。
見ている者たちは何をするのか察しがつき、時と共に縮み上がる。すると案の定、頭目はその鉞をいとも軽々と持ち上げて叫んだ。
「さて、これから悪業の引導を渡してやるから覚悟せぇ~♪誰から始める?やっぱりここは首領のアンタかねぇ!背中に鉞の焼印を押してあげるよ♪」
そう言って、二人掛かりで肩を掴まれた首領は、余りの恐怖に耐え切れずに「止めてくれ~嫌だぁ~」とその場で叫び、泡を吹くと気絶してしまった。
「何だ?やれやれ…威勢の良い割には情け無いなぁ…却って箔が着くと想うがねぇ~♪じゃあ、替わりにやりたい人!遠慮無く手を上げてみようか?」
黒装束の頭目は、嬉しそうに辺りを見渡したので、皆が目を合わせない様にとその目を避ける。桓鮮は然も面白くなさそうに、溜め息を漏らすと言った。
「どうかね?君たちのやって来たのはこういう事だ!自分より弱いカモには恐怖を与え、その命すら奪う。それがどんなに酷い事か、これで少しは凝りたろう?生憎とこのオレっちはそんな輩が大嫌いでね!死なない程度にボコらせて、その痛みを体験して貰ったという訳だ♪何だ?コイツまだ気絶してんのか!おい叩き起こせ♪」
それを合図に、桶いっぱいの水をぶっかけられた山賊の首領は一気に目覚めた。
すると目の前にはいつの間にか麦わら帽子を被った橙色の案山子が覗き込んでおり、その裂けそうな口でニヤリと笑ったので、恐怖で息を飲む。
周りの連中も、その早替わりに驚き、目が点となる。まるで人外の者でも見るような恐怖に顔が歪んだ。
「アンタ…まさか山高のとんがり帽子!?」
首領がそう叫ぶと皆、思い当たる節があるのか一斉に青覚める。
「うん?そうだけど…それがどうかしたのかい♪」とこの時とばかりに、桓鮮は口をさらに広げて「ケッケッケ♪」と笑う。
すると皆、余りの恐怖に呆気たまま、動きたくても動けなくなってしまった。
実のところ、山高のとんがり帽子とは、元々は豊作を呼ぶ豊穣の神様として、民の間では伝承になっていた。
ところが人の弱みにつけ込んだり、悪事の心がある者は、その裁きの刃で首を切られる。鎌鼬が吹く日は首筋に気をつけろと、そんな虞にもつかない恐ろしい噂が真しやかに広まっていた。
そして悪業の報いはその裂けた口のように災害をもたらすとも…。
桓鮮は少年時代、その伝承に憧れを抱いた。彼には山高のとんがり帽子が恰好良く想えて、将来自分はきっとその伝承の主に成ると心に誓ったのである。
当初は子供の可愛らしい憧れに過ぎなかったが、戦乱が続く中で民が苦しむのを目の当たりにした彼は弱きを助け、強きを挫く正義の使徒として、"山高のとんがり帽子”に成る事を選んだのだ。
だから最早それは単なる伝承では無くて、途中から実体を伴う本当の救世主として、民に崇められる存在に成ったのである。
ところがそれは裏を返せば、悪しき心を持つ者にとっては只事じゃ無い。いつ寝首を掻かれるか判らないから、山賊連中などは戦々恐々としていたのだ。
だから桓鮮は時として短期決戦に臨む際に、この伝承を利用して相手の心を打ち砕くのである。そのために神の儀式を模倣するような、芝居掛かったやり方を好むのだ。
彼が裂けた口を広げてケッケッケと笑いながら鉞を構えた時に、皆の目にはそれが悪事を刈り取る鎌に見えたのである。
もう誰一人として抗う者は居なかった。そんな訳で桓鮮が、「心から悔い改めるなら許してやろう♪」と提案すると、皆一斉に平伏しながら、「二度と悪事は働きません!」と誓ったのである。
桓鮮の目論見はズバリ当たったと謂えるだろう。彼は敢えて釘を刺す。
「オレっちは記憶が良い♪全員の顔は覚えたからね!今度裁きの儀式で出会ったら、その首は貰うから覚悟するんだな♪」
そう言って裂けた口で再びケッケッケと笑うと最後に救済案を示した。
「ひとつ良い事を教えよう♪真面目に人生をやり直すつもりなら、荊州を訪ねると良い。きっと働き口を世話してくれる♪その方が夜露を凌げ、ずっと良いと想うがね?まぁ君たちの人生だから、選択権は君たちにある。自由に決めると良い♪但し、二度とお痛は無しだ!オレッちの要求はそれだけだ♪じゃあ、解散!解いてやれ♪」
山高のとんがり帽子は一転して拘束を解いてやったので、山賊の首領以下、皆が呆けている。
「へっ!もう行っても良ろしいので?」
恐る恐る訊ねる首領に、桓鮮は二ヘラと笑って、とっとと行ねと言わんばかりに手を振った。
「こりゃあ、どうも失礼致しましたぁ~!!」
それを合図に、山賊は首領を先頭に皆が泡を食って逃げ出した。しかしながらそれぞれの脳裏には、口が裂けた山高のとんがり帽子がケッケッケと笑う不気味な笑い顔が張り付いたように抜ける事は無かったのである。
この先、ここいらでは悪事を働く者は消え、旅人が襲われる事は二度と無かったという事だ。
「有り難う御座いました♪この御恩は一生忘れません!」
御者は馬車も戻って来たのでホッとしている。そして馬車から叩き落とされた料理人の事を心配そうに訊ねたので、桓鮮は答えた。
「あぁ…彼なら既に助けた。でもかなり酷い状態でな、荊州の医療班に委ねてある。大丈夫!しばらく時は懸かるだろうが、神医と呼ばれた華侘先生がきっと治して下さるだろう♪」
桓鮮はそう言って御者を安心させてやった。本来はその弟子の弎坐に委ねた訳だが、生憎と名が通っていない者の名を言っても安心出来まい。
これはある意味、桓鮮の優しさというべきだろう。こうして事態は決着した。
桓鮮は一部の者を引き連れて、御者を江東まで安全に送り届けると、その瞬間、煙の如く掻き消すように居なくなった。
それはまるで刹那に通り過ぎたつむじ風のようであった。山高のとんがり帽子の伝説はまたひとつその色を添える事に成ったのである。
【次回】帰郷